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2004.08.25

週刊誌の周辺

久しぶりに週刊誌というものを購入した。週刊現代の「ナベツネが泣いた夜」という見出しに惹かれたからだ。「噂の真相」休刊以来、ニュースの裏側がなかなか伝わってこない。既成のメディアは、発表記事だけで、調査報道が少ないからだ。プロ野球の今後はどうなる? ナベツネはなぜオーナーを辞任したのか? う~ん、わからん。これって、ちょっとやばいんじゃないか。ニュースの裏側を伝えるメディアがないと、情報操作(=大本営発表)が容易になるからだ。

ひところ、マンガ週刊誌も含めて週5,6冊の週刊誌を購入していた時期があったが、今はまったく買わない。周囲を見回しても、最近は電車の中で読んでいる人をほとんど見かけないから、きっと売れていないのだろう。

衣食の業界で価格破壊が起こってから、本の値段が相対的に高く感じる。今回にしても、特別価格かなにか知らんが一冊340円。高い! 松屋あたりで昼飯が食べられてしまう。これじゃ、売れないよなあ・・・。書籍にしても、自分では買わずに図書館に注文して、借りて読むという人が増えていると聞く。出版業界受難の時代は当分続きそうだ。

数日前の朝日の記事によると、総合週刊誌の部数に異変が起きているらしい。11年間、年間1位を維持してきた「週刊ポスト」の地位に黄信号がともっているというのだ。

今年1~6月の推定平均実売部数は、約58万7000部の「週刊文春」が首位。2位は「週刊ポスト」の約55万6000部。3位は約55万1000部の「週刊新潮」で、「週刊現代」は約53万1000部の4位。ヘアヌードが売りのポスト、現代がちょっと苦しい。「サラリーマンの平均小遣い3万8,300円」時代に(ホントかな?)、酒代を確保するためにヌードは切り捨てられたといったところか。(健)

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2004.08.21

続・QRコード

qr.gif

QRコードには大いに関心がある。自分の携帯にはカメラは付いているが、バーコード読み取りには対応していない。QRコードのためだけに携帯を買い換えるつもりはない。だけど、QRコードを体験してみたい。

中にはそんな奇特な人がいるかもしれない。そんな人には、フリーのQRコードエディタのダウンロードをお勧めする。このエディタが前回紹介したソフトより優れているのは、QRコードを制作できるだけでなく、Webサイトも含めてパソコン上のQRコードを読み取れる点にある。

例えば、カメラつき携帯をお持ちの方は、ポスターなりパンフレットなり、興味を持ったバーコードをとりあえず撮影しておき、パソコンに保存する。先ほどのQRコードエディタを立ち上げて、[ファイル]メニューより[スクリーン画像読み取り]を選択すればOKだ。

トップに掲載したQRコードは、前回の900字ほどのコラムを収納している。ぜひお試しあれ。ちなみに、筆者の携帯はカメラ付きではない(大人だから・・・)(健)

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2004.08.19

QRコード

booknavi.jpg

以前、テレビCMで、ポスターに印刷されたバーコードを携帯で読み取るシーンを見て、へ~と思った。ここでいうバーコードとは、従来のものより数十倍から数百倍の情報量を扱うことができるQRコード(二次元バーコード)のこと。どのぐらいすごいかというと、数字だけなら最大7,089文字、英数字で同4,296文字、漢字、全角カナでも同1,817文字まで収納できるという。

QRコードは、1994年にデンソー(開発部門は現在デンソーウェーブとして独立)が開発したもの。この手のものは、読み取り器の普及がネックになりがちだが、デンソーウェーブがQRコードの仕様を公開し、無料で誰でも利用できるようにしていることもあって、現在、NTTドコモ、au、ボーダフォンの3社が読み取り対応の携帯電話を発売している。

利用方法としては、例えば、バンダイネットワークスとサミーネットワークスでは昨秋、携帯電話向け着信メロディ配信サイトのキャンペーンとして、QRコード付きのポスターを街中に掲示した。携帯でQRコードを撮影すると、URLが表示され、手軽にキャンペーンサイトにアクセスできるというわけだ。

しかも、フリーソフト「easyQR」をダウンロードすれば、だれでも簡単に自分好みのバーコードを制作できる。こりゃ一気にブレークだな、と思っていたら、名刺制作やら、スタンプ制作などのビジネスもすでに進行中だ。

ブログの世界でも、NTTレゾナントの「goo BLOG」や、ライブドアの「livedoor Blog」などは、すでにQRコードに対応しているが、残念ながら我がココログは未対応らしいので、参考までに当サイトのURLを収納したQRコードを掲載しておく。ちなみに、筆者の携帯はQRコードには対応していない(大人だから・・・)(健)


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2004.08.16

私生活の「真実」

高橋源一郎『私生活』(集英社インターナショナル)の帯に、こうあった。「これを書いている間、二度結婚し、二度離婚した。死ぬかと思った。 高橋源一郎」。

このタイトル、このキャッチ・コピー。作家の私生活のスキャンダルに対する読者の好奇心を呼び起こし、それによって本を手に取らそうとするミエミエの本づくり。

その誘いにうかうかと乗ってレジへ本を差し出してしまった以上、著者や編集者が意図するように読んでみようじゃありませんか。

といっって、週刊誌や『噂の真相』(だったか?)で報じられたような「事実」が書かれているわけでないことは、レジへ行く前にぱらぱらと本をめくったときから分かっている。もとは、月刊『PLAYBOY』に「真夜中だからお茶会にしよう」というタイトルで連載された、私生活を題材にしたエッセーだ。

まず作家は、序文「作家の『私生活』」や、章の頭につけられたコメント「××に引っ越した理由」で、ある程度の「事実」を明らかにして読者の好奇心に応えつつ(ここまでは教えてあげるけどね)、実は作家の書くものは虚実皮膜の間にあって、「ほんとう」なんかどこにもないんだよと煙幕を張っている。

作者は永井荷風の『断腸亭日乗』を引き合いに出しているが、作家の書くものが、それがどんな「事実」であれ「日記」であれ、フィクションと考えるほうがいいことは言うまでもない。でも、その一方で、僕の読者としての経験からいえば、作家という生き物はあきれるくらい「真実」しか書けない(「事実」ではない)悲しい性をもった動物でもあるんだなあ。

で、僕のアンテナがぴくりとしたのは、「桜色の女」というエッセーでしたね。

「桜色の女」は、マキというキャバクラの女と箱根の旅館へ行った、というお話。このエッセーは、それまでとはがらりと変わって、いかにも小説めいた文体で書かれている。情痴小説とでも言ったらいいのか。これは読者サービスのためのフィクションなんですよ、という信号を全身から発している。

でも、これはお話ですよという信号の背後から、作家が女に出会い、惚れて、のめり込んでいく瞬間の感情が否応なく顔を出している、と感じられる。

このエッセーには「真実」の核があるな、と僕は感じた。僕は週刊誌も『噂の真相』も読んでないから、よく知らないが、「事実」のレベルでいえば、「二度目の離婚」の引き金となった出来事なんだろうか。(雄)

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2004.08.15

終戦記念日に寄せてーー(完)

(前回よりつづく)
私たちがのったのは、荷物船の船底でした。中は暗く、中央に細い通路があり、両側は押し入れと同じ上・下段に分かれて長く続いている。この中で何日いるのか、やっと背中から下ろした子供は怯えて泣くこともないのです。

翌日、長男の様子がおかしいのです。すぐ薬を持って医務室にかけ込みました。2つあるベッドは空いていました。病人はいないのでしょうか。その後、コモに巻かれて水葬になった人達もいました。長男は肺炎でした。お願いして娘も医務室に入れていただき、肺炎のおかげ(?)で親子3人ベッドで寝られました。

何日かの後、舞鶴港外から私たち3人だけ先に小型船に乗せられて港に着いた時には、腰がぬけてしまい、立てませんでした。親子ともどもタンカで国立舞鶴病院へ。1ヶ月の入院となりました。腰ぬけは直ぐになおり、病院ではお手伝いを申し出て入院患者の食膳係りなどをやらせていただき、健康な皆さんと一緒に働けて久しぶりに明るい気分になったのです。

そのうち実家の父がお金を持って見舞いに来てくれ、なつかしく抱き合って泣きました。お金をいただき、うれしくて売店でいろいろ買ったのです。娘がミカンを皮ごとかぶりついたのは忘れません。

皆さんのお陰で無事退院となりましたが、それから汽車に乗れるか心配でした。汽車は乗車口はもちろん、窓も鈴なり、誰かが私たちを窓から押込んでくれたのです。前の座席の男性からは大切なおにぎりをいただき、ありがとうございました。親切な中国人や日本人の皆様のおかげで、なつかしい両親の待つ実家に帰れたのです。ありがとうございました。

「百聞一見にしかず」55年も前(注 現在からは59年前)の記憶の一部です。(貞)おわり

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2004.08.14

終戦記念日に寄せてーー(3)

(前回よりつづく)
やっと昭和22年1月、待ちに待った引き揚げの通知が来ました。
これからが本当の一大事です。まず気力、体力、運、バカ力等々です。

わが家では1歳と2歳の子供をおんぶしなければなりません。着られるだけ着、着せられるだけ着せるで動きはにぶり、私は自作の大きなカバンの1つにはおむつ、下着、もう1つにはクスリ、ビスケット等子供用ばかりです。これを両肩にかけると普通のドアから出るだけで大変です。ほかに布団袋大のリュック2個、大きい、重い。

夫と集合場所までころがしながら行ったと思います。散々待たされてから、トラックでやっと大連埠頭に着くと夜でした。1月の埠頭は海風の吹きさらし。ここで夜中じゅう立ちつくすのです。夫の背中で娘は「お家に帰ってストーブにあたりたいよー」と、何度となく泣くのでした。お家はもうないのです。

長い時間立ちつくした後、「検査」という所まであと30人位になった時、私は列から離れて「検査」という所を見に行ったのです。そこは、駅の改札口ふうで、たった1ヶ所に数人のロシア兵らしき大男が日本人の大切な荷物をひっくり返し、自分達の気に入った品を取り上げる所でした。お茶のカンから粉ミルクのカンまでぶちまけるのです。身体検査で持ち金は取り上げられます。それを見て、ムラムラと私の腹の虫があばれ出しました。

大切なリュックを捨てる決心をしました。少し離れた所に地下倉庫に通じる細い階段があったのです。幸い暗いし、他人のことなど気にする人は後ろにいた男性だけ。「銃殺されるからやめろ」と心配してくれましたが、自分の物を捨てるのだ、と私は夢中でリュックを突き落としたのです。リュックはズシーン、ズシーンと鈍い音を残して真っ暗な地下に落ちていきました。

前にいる夫も知りません。生まれて初めての度胸だめし。

身体検査で背中のお金も取られましたが、そのあと捨てたリュックをこわごわ夫と拾って来ました。
そして、やっと乗船となるのです。(貞)つづく

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2004.08.13

終戦記念日に寄せてーー(2)

(前回よりつづく)
「座して食えば野も山も」のことわざ通りの生活が始まります。

値段の跳ね上がった食料品を買うために、持っている物は何でも安くどんどん売るのでした。どうせ持ち帰れないのと、いつ引き揚げの順が来るかわからないので、大変なのでした。私は大きなリュックというより、ふとん袋大のを2個作り、持ち帰りたい品をギューギューつめ込み床下に隠し、時々、出したり入れたり。

毎日の暮らしはこんなのんきなことではないのです。夜は足袋を3足も重ねて履いて寝るのです。「ロシア兵が来た!」というと娘を抱いて山に逃げるのです。憐組ではわが家だけ子供がいるので、いつも皆さんと別の所に隠れました。娘は夜中に起こしても泣くことはなかったのです。

昼間も何かと怖い日々なのでした。昭和21年1月8日、長男誕生。また一大事です。「夜間外出禁止令」の夜中に産まれることになりました。夫が産婆さんの家に行く道で撃たれるかもしれない。産婆さんに断られるかもしれません。産婆さんは危険をかえりみず来てくれたので、本当にありがとう。夜中の明るさにロシア兵2人が銃を持ってドカドカ目の前に入り込んで来たのですが、現場の様子で出て行きましたが、怖かったこと。

次の日からは、当然寝てなどいられません。前の生活プラス赤ん坊となります。親はつらい…。

街の公園では「物賃は上がる、わしや下がる」の遺言を残す人(注 首吊り自殺)。毎日の食事がおからの水どきスープだけの人。布団も売ってムシロにくるまって寝る人。わが家は夫が依託販売をしていたので1日2食、小豆入りコーリヤン飯。来客の時は水でうすめてコーリヤンがゆ。子供は白米のおかゆにキナ粉かけ。たまにお魚を焼く、その匂いのために引き揚げが後になったとか。本来、引き揚げ順は病人、子供、老人なのに、今さらしかたない。

ここまでは今まで何不自由なく暮らしていたと思われる日本人たちの生活のほんの一部です。権力をかさに威張り、いじめを当然のようにして暮らしていた職業の日本人の人たちは恐ろしい目にあわされたのです。地獄行き。
いじめてはいけません。(貞)つづく

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2004.08.10

終戦記念日に寄せてーー(1)

また、8月15日の終戦記念日がやって来る。

いつも違和感を覚えるのだが、「終戦」とか「原爆」といったフツーの名詞に「記念日」という言葉を付けるのはいかがなものか。どうしても付けたいなら、せめて「敗戦記念日」とか「被爆記念日」にすべきではないだろうか。

話は変わるが、最近、小泉とか、安倍とか、岡田とか、戦争を知らない「戦争好きな」政治家が増えてきているのは、困ったものだ。

終戦記念日に寄せて、母(2002年12月死去、享年85歳)の生前に書いて貰った「大連からの引き揚げ体験」を、今日から4回に分けて掲載させていただく。戦争というものが一般の庶民にどんな事態をもたらすのか、その一端でもご理解願えれば幸いです。(仮名遣いや一部の注を除き、原文のママ)

ーーーーーーーーー
昭和20年8月15日 終戦の日
あの日、外地の人達の人生は変わったのです。

私は(大連の)桃源台という所で、山も海も近く別荘地のように静かで便利な家に1歳4カ月になった娘と2人で住んでいたのです。

夫は汽車で数時間の田舎町で軍納缶詰工場長でした。日本人は夫ひとりだけで、ほかは全員中国人でした。工場の広さは、どこまでかわからない広さです。缶詰は肉もジャムもキログラム大でバケツのように大きいのです。漬物はプールのような中に投げ入れる感じでした。通りには背中に焼印を付けた豚がブーラ、ブーラと歩いて、のーんびりだったのです。

あの日娘をおんぶして夫の所に遊びに行ったのです。しばらくして終戦を知らされたのです。

早く大連に帰らないと危険と、いわれるまま汽車に乗りましたが、乗客は1人もいませんでした。私と娘が乗るのを見てか、窓からポンポン石が投げ込まれるのでした。危ないので座席の下にもぐって発車を待ったのです。どうやって家にたどりついたか…。

工場の人に、夫は夜送って行く、と言われましたが、12時を過ぎても帰らないのでした。私にとって一大事。1歳4カ月の娘とお腹に5ヶ月の子供がいたのです。決心するしかないのでした。午前3時頃、ガタガタ、トラックの音、そして親切な中国人2人に送られて夫は荷物まで積んで帰って来たのです。ああ、一難去った。(貞)つづく

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Re:ブログの可能性

友人のブログからトラックバックがきた。題して「ブログの可能性」(トラックバック参照)。

8年前、インターネットに参入したとき、もちろんブログなどはなかった。それでも、インターネットに大きな可能性を感じたものだ。ネットの原点は「情報の共有」にあるけれど、ホームページの登場によって、個人が比較的気軽に「情報の発信」ができるようになったからだ。それまで「情報の発信」は、ある程度の資金や、組織がなければなかなか困難だった。

あれから8年。ネット界の流れは速い。「ブログ」の登場で、ネット界の動きは、さらに加速されるに違いない。経験者なら分かると思うけれど、ホームページを維持・管理、更新していくのは、結構手間暇がかかるのだ。途中で挫折してしまう人も少なくない。ブログは、そんなホームページの短所を、軽々と超えてしまったかのようにみえる。友人の言う「一人新聞」や「一人雑誌」的な役割は、ホームページよりブログの方が、はるかに向いていると思う。

友人曰く。

「そんな『一人新聞』や『一人雑誌』がテーマに応じてネットワークを組むことで、時にはマス・メディア以上の力を発揮することができるかもしれない。情報流通のスピードに関しては、ネットは十分にテレビに対抗できる同時性を持っていると思う」

ブログを始めて一カ月半の間に、アクセス数的には3つほどの山があった。ひとつは「読売不買運動のすすめ」、ふたつ目は「野中広務 差別と権力」、みっつ目が現在の「中国人サポーター」である。それぞれ、数日にわたって一日100~200のアクセスがあった。

別に受けを狙ったわけではなく、たまたま関心があることを書いただけだ。思うに、ブログに関心があるような人々は、新聞やテレビなど既製のメディアの、いわゆる「客観報道」に飽き飽きしているのではないか。だから、多様な見解を求めてブログサーフィンをしているのだと思う。

ただ、そうなると当方はちょっと冷や汗ものだ。酔った勢いでエイヤッと書いたものが多く、それほどたくさんの読者を想定していなかったからだ。自戒、自戒。

友人、さらに曰く。

「主張のはっきりした『一人新聞』『一人雑誌』がゆるやかにネットワークを組むことで、『客観報道』ではない個性あるジャーナリズムをつくれるかもしれない」

同感である。(健)

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2004.08.07

巨人分割論

スーパースター・長嶋茂雄がいなければ、プロ野球はここまで落ちぶれることはなかっただろう、と僕は思う(ちなみに、僕は、彼の大ファンだ。超!超!)。彼の存在が、プロ野球のすべてのマイナス要因を覆い隠してしまったように思う(同じように、若貴兄弟がいなければ、大相撲はここまで落ちぶれることはなかっただろう。ちなみに、僕は、彼らの大ファンではない)。

長嶋茂雄が脳梗塞で倒れてもなお、スポーツ界は彼に頼ろうとする。中畑ヘッドコーチ率いるチームを、あらゆるメディアが「長嶋ジャパン」と表現しているが、大いに違和感がある。他のスポーツなら、「星野ジャパン」とか「野村ジャパン」という選択肢もあったのかもしれないが、野球界ではそれは許されない。それが、一番の問題なのだ。そういう体質が、改革を遅らせているのだと思う。

朝日新聞は社説で巨人分割論を提案した(もちろんパロディだが)。「無理に1リーグにしなくても、巨人を二つに分けたら、1チーム減るパ・リーグの穴は埋められる。いっそ、そんなアイデアはどうだろう」。 賛成だ。もともと巨人には、清原、工藤、小久保、ローズなど、パリーグ系のスター選手も多い。巨人セ、巨人パに分ければ、セは収入が減らないし、パは収入が増える。いいじゃないか。テレビも、結構潤うだろう。

深く考えずに、そうしよう、そうしよう、とりあえず、来年はそうしよう(真面目な人には、怒られるかもしれないけれど・・・)(健)

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2004.08.04

中国人サポーターの誤算

会場が重慶から済南に移っても、観客のブーイングはやまなかった。サッカーの「アジアカップ中国2004」での話である。バーレーンとの試合は、ヨルダン戦に続いて、連日の死闘を日本が4-3で制した。もともとFIFAランクは日本24位、バーレーン51位だから、遠藤が退場になって一人減にならなければ、もっと楽に勝てたような気もする。

決勝は中国戦で、本来の意味でのアウェーということになるが、日本代表は、ここ4戦でアウェーの雰囲気に慣れてしまったから、何の問題もない。中国のFIFAランクは64位だから、実力どおりの試合運びをすればいいだけだ。

日本代表は、中国人サポーターによって大いに鍛えられて、ずいぶん勝負強くなった。中国人サポーターに育てられたと言っても過言ではない。言い換えれば、中国人サポーターは、本来、自国戦で大きな武器になるはずの「アウェー」という特権を、自ら放棄してしまったことになる。ま、決勝で日本が勝てばの話だが、中国人サポーターの大いなる誤算であろう。

もちろん、「昔のことを忘れない」ということは悪いことではない。今回のことがなければ、日本軍による「重慶大爆撃」という事実が広く知れ渡らなかったことも確かだ。ただ、何事もやり過ぎはよくないということか・・・(健)

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2004.08.03

聖徳太子はいなかった

谷沢永一「聖徳太子はいなかった」(新潮社)

久しぶりにトンデモ本っぽい本を買った。まあ、著者は名のある人だが、だからといってトンデモ本でないという保証はない。果たして、実際はどうだったのか・・・

う〜ん、微妙。著者は最終章で「聖徳太子はいなかった。聖徳太子は幻である。聖徳太子は夢であった。聖徳太子は蜃気楼である。聖徳太子は、古代日本における憧れの心情にもとづく理想の人間像を、文字のうえに結晶させたところの、誠に発する虚構(フィクション)である」と言い切っている。

だが、この結論に至るまでの過程がもうひとつすっきりしない。難解な部分もあるし、なんだかモヤモヤしていて「よ〜し、あい分かった」という訳にはいかない。持って回った言い回しで、どうして突然「聖徳太子はいなかった」と言い切れるのか明確でない。

著者は「あとがき」で、「さて、筆をとってみると、あまりにもわかりきったことなので、座興にもならないと反省することしきりであった。いずれにせよ、つまりは老人の寝言にすぎない」とも書いている。こちらの方が当たっている。

だけど、「聖徳太子がいなかったことは、とっくに学界の常識になっている」ってホントかな? そういえば、聖徳太子が唐突にお札から姿を消したことがあるけれど、ひょっとして、我々のあずかり知らぬところで「実在しない人物を、いつまでもお札にしておくのはいかがなものか」なんて議論があったのかもしれない(ない!ない!)。(健)

聖徳太子はいなかった (新潮新書)


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