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2005.02.22

堀江貴文と日枝久

このところホリエモンことライブドアの堀江貴文社長が、すっかり悪者になっている。ということは、ライブドア 対フジテレビの戦いだから、フジの日枝久会長が正義ということになるのだろうか?

日枝の経歴を見てみると、必ずしもそうとは言えない。

1980年、フジサンケイ・グループの創業者・鹿内信孝の息子・春雄の副社長時代に、43歳の若さで編成局長に就任。「オレたちひょうきん族」「笑っていいとも!」など、いわゆる軽チャー路線を定着させた。

88年には51歳で社長に就任。私淑する鹿内春雄議長が急逝すると、春雄の後がまに座った鹿内家の女婿・宏明を追い落とすクーデターの主役を演じている。

創業者に忠誠を尽くすように見せかけて、その実、下克上でグループの実権を握ることに成功したのである。こうしてみると、堀江貴文も日枝久も、どっちもどっちとしか思えない。ある意味、亡者同士の戦いでしかない(ん?鹿内?)。(健)


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2005.02.16

インテリケンちゃんの100字雑学

ホリエモンもいろいろやるなあ。

「ライブドア、ニッポン放送の株式の35%を取得」というニュースが流れる数日前に、ライブドアと幻冬舎の子会社・幻冬舎ルネッサンスが、インターネットと出版事業を融合した新たな業態の合弁会社「ライブドアパブリッシング」を設立するという発表があった。

新会社は今後、ライブドアの「livedoor Blog」をはじめ、インターネットコミュニティーのコンテンツを出版物にしていくというのだ。

そうかそうか、これからは「livedoor Blog」の時代か、とお調子者の私は考えた。

先日、Yahoo!のブログで「インテリケンちゃんの電脳生活」を立ち上げたばかりにもかかわらず、早速ライブドアに入会し、「インテリケンちゃんの100字雑学」というブログを立ち上げた。

雑学については、これまで「インテリケンちゃんの雑学大辞典」で挫折している。このときは途中からコラム風に切り替えたのが災いして続かなくなってしまったのだ。だから「100字雑学」が続くという保証はどこにもない!

それでも1日3本書けば一年で1000本を超えるわけだし、書籍化も夢ではない、などと甘い、甘~い考えを抱いている自分が怖い。遊びだから、ま、いいか。(健)

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2005.02.09

インテリケンちゃんの電脳生活

ブログが登場してから、それほど日がたっていないというのに、ネット上にあっという間に広まってしまった。ホームページの普及に要した時間と比べると、そのスピードには驚くばかりである。

今では、「輝く!日本ブログ大賞2005」などというイベントも開催中だ。このイベントには、ココログ、ブログ人、ウェブリブログ、livedoor Blog、gooブログ、エキサイトブログ、JUGEM、ヤプログ!、はてなダイアリー、楽天広場など、主だったところはすべて参加している。

これらのサイトの中では、ビジネスブログのポータルを立ち上げるなど、エキサイトがブログにかなり力を入れているようにみえる。

こうした中、1月31日、あのYahoo!が、ついにというか、とうとうというか、β版ブログを公開した。まあ、とにかく試してみようということで、早速入会し、「インテリケンちゃんの電脳生活」を立ち上げた。

当ブログでさえアップアップなのに、そんなに手を広げてどうする、という声が聞こえてきそうだが、そのとおりなので反論はしない。

ただ、ブログは単に日記帳的に使うだけが能ではないと常々考えていたので、ここではいろいろ実験をしてみようと思う。そこでとりあえず、これまでの電脳生活を集大成したサイトマップのようなものを制作し、大胆にも「団塊ナビ」と名づけてみた。

これまでの集大成が、結果として「団塊の世代のポータルサイト」になっていけばいいと考えたからである。皆様のご意見や、ご要望などをいただければ幸いである。(健)

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2005.02.08

安心のファシズムーー支配されたがる人びと

斉藤貴男「安心のファシズム−−支配されたがる人びと」(岩波新書)

遅ればせながら斎藤貴男「安心のファシズム」を読んだ。内容については、すでに昨年の10月、友人の(雄)氏が、「ケータイと監視カメラの未来」で取り上げているので、ここで詳しくは触れない。

ただ、ちょっと面白いなと思ったのは、「自己責任」のテーマの中で、「成人病」が「生活習慣病」に名前が変わって以来、医療費の自己負担が増大したという以下の記述である。

<九〇年代半ばになると、福祉や教育、健康の領域でも「自己責任」が登場した。公共サービスにばかり頼らず、国民一人ひとりが自らの責任において自らや家族を扶(たす)けるべしというのである>

<糖尿病など従来は「成人病」(adult disease)と呼ばれていた疾病が、九六年に厚生大臣の諮問機関である厚生衛生審議会成人病難病対策部会の提言で、患者本人の責任を前面に押し出した「生活習慣病」(lifestyle related disease)と言い改められ、以来、医療費の自己負担分が増加してきたことも記憶に新しい>

従来、加齢が原因とされてきたガン・心臓病・脳卒中などのいわゆる「成人病」は、ある日突然、誤った食事の取り方、運動不足、心身休息の不十分など、日常生活の悪習慣が原因の「生活習慣病」だということになってしまったのである。

「生活習慣が悪い」と言われれば、誰しも思い当たるところがあり、表立って反論はしにくい。だけど一律に、「生活習慣が悪い」、つまり発病は「自己責任」だから、医療費も自分で負担してね、というのはいかがなものか。

これは、国による「福祉切り捨て」を隠蔽するための屁理屈ではないかという気がしてならない。なにせこの提言が出された時の厚生大臣は、弱者切り捨て、弱肉強食を推進するあの小泉純一郎だからだ。

なんだかんだ屁理屈をつけては、福祉や弱者を切り捨てていく彼の手法は、すでにこの頃から発揮されていたというわけだ。「郵政民営化」など誰も望んでいないのに、ひとり闇雲に推し進めようとしているのも、絶対に何か裏があると考えた方がいい。

よく調べてみると、小泉内閣の下では、医療や年金だけでなく、雇用保険なんかも結構「改悪」されているからね。それでも人々は声を挙げない。

<騙されつつ、しかし多くの人々は自らの置かれた立場にどこか感づいている。積もり積もった不満や不安を、だからといって権力を有する元凶にぶつければ報復が怖い。より立場の弱い人々に八つ当たりし、あるいは差別の牙を剥いて、内心の安定を図るようになっていく>

一連のイラク人質事件の被害者やその家族に対する異常なまでのバッシングは記憶に新しい。“支配されたがる人びと”による“安心のファシズム”とやらが深く静かに進行しているということなのだろうか。(健)

安心のファシズム―支配されたがる人びと (岩波新書)

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2005.02.07

フィクションとノンフィクションの境界線

ノンフィクションとは、関係者の証言を丹念に検証して、真実を浮かび上がらせていくという手法だ。だけど、いつも一つの疑念が頭を離れなかった。関係者が意識的に虚偽の証言をしたり、誤った記憶に基づいて証言をしたら、果たして真実に近づくことができるのだろうか。

前回取り上げた「テレビの嘘を見破る」の中で、興味深いケースが紹介されていた。

1988年に福田克彦が発表した「草とり草紙」というドキュメンタリーで、三里塚の農地に一人暮らしをする86歳の農婦・染谷かつさんに三年がかりで密着取材したものだ。

福田は染谷さんが、家出した夫が一年後に死んだときのの想い出を、長い取材の間に三度も語っていて、語られるたびに内容が違うことに気が付いていたにもかかわず、いっさい手を加えず三つともそのまま採用した。

このシーンを見た上野千鶴子は次のように書いている。

<染谷さんは、六十年つれそった夫の死を、こんなふうに“物語”にしたてあげている。これは真情の吐露だろうか、それとも隠蔽だろうか。そのどちらでもない。当事者にとってリアリティーというものが、そんなふうにつくられるという事実を、ありのままに示して、福田さんのフィルムは、このシーンを三回くり返す。彼はドキュメンタリーが「事実についての記録」ではなくて、「事実についての当事者の物語(注:原文は傍点あり)の記録」だということを示すことで、ドキュメンタリーの方法それ自体を“脱構築”してみせるのだ>(朝日新聞 '89.11.26)

こうした手法は、ドキュメンタリーという映像表現でこそ可能だったのかもしれないが、ノンフィクションという活字表現では今回のケースはどのように処理できただろうか。(健)

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2005.02.02

テレビの嘘を見破る

今野 勉「テレビの嘘を見破る」(新潮新書)

NHKの番組改変や、テレビ東京の実験ねつ造など、テレビ番組の質が問われている。テレビ的真実とは何か? こんなときこそ、今野勉「テレビの嘘を見破る」の一読をお勧めする。

テレビというのは、制作にあたって日程や、制作費などさまざまな制約があり、常に「やらせ」と紙一重の演出や編集があるのが普通だ。しかし、放映されたものすべてが真実だと思い込んでいる人が少なからずいることも確かだ。

例えば、本書の冒頭で紹介されている「AIGスター生命」のCMのケースはどうだろう。

【水辺で遊ぶ親子のゾウ。突然足元が崩れて子ゾウは水中へ転落。お母さんゾウが鼻で子ゾウを岸に引っ張り上げ、二頭のゾウは何事も無かったかのように帰っていく。そして、「何が起こるかわからない世の中だから」というテロップが重なる】

この映像を見てなんの疑問も抱かない人もいるし、どうやって撮影したのだろうと興味を持つ人もいる。朝日新聞の「はてなTV」には、視聴者から多くの疑問が寄せられ、次のような回答が掲載されている。

<水に落ちるシーンは、カメラが偶然とらえたものです。雨期のあとで地面がゆるんでいて、くずれて転落しました。引っ張り上げられるのは偶然に落ちたゾウではなく別のゾウで、調教師の指示に従った2頭のゾウの「演技」だそうです。ちなみに、この2頭は本当の親子ではありません>(朝日新聞’03.11.25「はてなTV」)

このシーンは、別にドキュメンタリーではないし、誰に迷惑がかかるわけでもないので、何処からも抗議はきていないようだ。しかし、「感動的ないいシーンだ」「こんなシーンがよく撮れたものだ」と感心している人も多いに違いない。

CMや映画などは、初めから作り物という前提があるケースは問題が無いとしても、これがドキュメンタリーと称して、意図的に「感動的なシーン」が創られているとしたらどうだろう。事実を歪めて伝えてしまうこともあるかもしれない。

本書では、撮影上のさまざまな工夫や演出の例を挙げながら、「ドキュメンタリーとフィクションの境界線」を検証していく。そして、筆者は「ドキュメンタリーの演出は、倫理の問題でもなければ、許容の問題でもないのだ」として、最後に「伝えたいことがあれば、そのために考えられるありとあらゆる最善の方法を考える、というのが作り手の原点です」という結論にたどり着く。

もちろん明らかな「やらせ」や「ねつ造」は問題外だが、真面目なドキュメンタリー作品でも、多くの問題を抱えていることが見て取れて興味深い。(健)

テレビの嘘を見破る (新潮新書)


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