フィクションとノンフィクションの境界線
ノンフィクションとは、関係者の証言を丹念に検証して、真実を浮かび上がらせていくという手法だ。だけど、いつも一つの疑念が頭を離れなかった。関係者が意識的に虚偽の証言をしたり、誤った記憶に基づいて証言をしたら、果たして真実に近づくことができるのだろうか。
前回取り上げた「テレビの嘘を見破る」の中で、興味深いケースが紹介されていた。
1988年に福田克彦が発表した「草とり草紙」というドキュメンタリーで、三里塚の農地に一人暮らしをする86歳の農婦・染谷かつさんに三年がかりで密着取材したものだ。
福田は染谷さんが、家出した夫が一年後に死んだときのの想い出を、長い取材の間に三度も語っていて、語られるたびに内容が違うことに気が付いていたにもかかわず、いっさい手を加えず三つともそのまま採用した。
このシーンを見た上野千鶴子は次のように書いている。
<染谷さんは、六十年つれそった夫の死を、こんなふうに“物語”にしたてあげている。これは真情の吐露だろうか、それとも隠蔽だろうか。そのどちらでもない。当事者にとってリアリティーというものが、そんなふうにつくられるという事実を、ありのままに示して、福田さんのフィルムは、このシーンを三回くり返す。彼はドキュメンタリーが「事実についての記録」ではなくて、「事実についての当事者の物語(注:原文は傍点あり)の記録」だということを示すことで、ドキュメンタリーの方法それ自体を“脱構築”してみせるのだ>(朝日新聞 '89.11.26)
こうした手法は、ドキュメンタリーという映像表現でこそ可能だったのかもしれないが、ノンフィクションという活字表現では今回のケースはどのように処理できただろうか。(健)
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