2004.08.15

終戦記念日に寄せてーー(完)

(前回よりつづく)
私たちがのったのは、荷物船の船底でした。中は暗く、中央に細い通路があり、両側は押し入れと同じ上・下段に分かれて長く続いている。この中で何日いるのか、やっと背中から下ろした子供は怯えて泣くこともないのです。

翌日、長男の様子がおかしいのです。すぐ薬を持って医務室にかけ込みました。2つあるベッドは空いていました。病人はいないのでしょうか。その後、コモに巻かれて水葬になった人達もいました。長男は肺炎でした。お願いして娘も医務室に入れていただき、肺炎のおかげ(?)で親子3人ベッドで寝られました。

何日かの後、舞鶴港外から私たち3人だけ先に小型船に乗せられて港に着いた時には、腰がぬけてしまい、立てませんでした。親子ともどもタンカで国立舞鶴病院へ。1ヶ月の入院となりました。腰ぬけは直ぐになおり、病院ではお手伝いを申し出て入院患者の食膳係りなどをやらせていただき、健康な皆さんと一緒に働けて久しぶりに明るい気分になったのです。

そのうち実家の父がお金を持って見舞いに来てくれ、なつかしく抱き合って泣きました。お金をいただき、うれしくて売店でいろいろ買ったのです。娘がミカンを皮ごとかぶりついたのは忘れません。

皆さんのお陰で無事退院となりましたが、それから汽車に乗れるか心配でした。汽車は乗車口はもちろん、窓も鈴なり、誰かが私たちを窓から押込んでくれたのです。前の座席の男性からは大切なおにぎりをいただき、ありがとうございました。親切な中国人や日本人の皆様のおかげで、なつかしい両親の待つ実家に帰れたのです。ありがとうございました。

「百聞一見にしかず」55年も前(注 現在からは59年前)の記憶の一部です。(貞)おわり

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2004.08.14

終戦記念日に寄せてーー(3)

(前回よりつづく)
やっと昭和22年1月、待ちに待った引き揚げの通知が来ました。
これからが本当の一大事です。まず気力、体力、運、バカ力等々です。

わが家では1歳と2歳の子供をおんぶしなければなりません。着られるだけ着、着せられるだけ着せるで動きはにぶり、私は自作の大きなカバンの1つにはおむつ、下着、もう1つにはクスリ、ビスケット等子供用ばかりです。これを両肩にかけると普通のドアから出るだけで大変です。ほかに布団袋大のリュック2個、大きい、重い。

夫と集合場所までころがしながら行ったと思います。散々待たされてから、トラックでやっと大連埠頭に着くと夜でした。1月の埠頭は海風の吹きさらし。ここで夜中じゅう立ちつくすのです。夫の背中で娘は「お家に帰ってストーブにあたりたいよー」と、何度となく泣くのでした。お家はもうないのです。

長い時間立ちつくした後、「検査」という所まであと30人位になった時、私は列から離れて「検査」という所を見に行ったのです。そこは、駅の改札口ふうで、たった1ヶ所に数人のロシア兵らしき大男が日本人の大切な荷物をひっくり返し、自分達の気に入った品を取り上げる所でした。お茶のカンから粉ミルクのカンまでぶちまけるのです。身体検査で持ち金は取り上げられます。それを見て、ムラムラと私の腹の虫があばれ出しました。

大切なリュックを捨てる決心をしました。少し離れた所に地下倉庫に通じる細い階段があったのです。幸い暗いし、他人のことなど気にする人は後ろにいた男性だけ。「銃殺されるからやめろ」と心配してくれましたが、自分の物を捨てるのだ、と私は夢中でリュックを突き落としたのです。リュックはズシーン、ズシーンと鈍い音を残して真っ暗な地下に落ちていきました。

前にいる夫も知りません。生まれて初めての度胸だめし。

身体検査で背中のお金も取られましたが、そのあと捨てたリュックをこわごわ夫と拾って来ました。
そして、やっと乗船となるのです。(貞)つづく

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2004.08.13

終戦記念日に寄せてーー(2)

(前回よりつづく)
「座して食えば野も山も」のことわざ通りの生活が始まります。

値段の跳ね上がった食料品を買うために、持っている物は何でも安くどんどん売るのでした。どうせ持ち帰れないのと、いつ引き揚げの順が来るかわからないので、大変なのでした。私は大きなリュックというより、ふとん袋大のを2個作り、持ち帰りたい品をギューギューつめ込み床下に隠し、時々、出したり入れたり。

毎日の暮らしはこんなのんきなことではないのです。夜は足袋を3足も重ねて履いて寝るのです。「ロシア兵が来た!」というと娘を抱いて山に逃げるのです。憐組ではわが家だけ子供がいるので、いつも皆さんと別の所に隠れました。娘は夜中に起こしても泣くことはなかったのです。

昼間も何かと怖い日々なのでした。昭和21年1月8日、長男誕生。また一大事です。「夜間外出禁止令」の夜中に産まれることになりました。夫が産婆さんの家に行く道で撃たれるかもしれない。産婆さんに断られるかもしれません。産婆さんは危険をかえりみず来てくれたので、本当にありがとう。夜中の明るさにロシア兵2人が銃を持ってドカドカ目の前に入り込んで来たのですが、現場の様子で出て行きましたが、怖かったこと。

次の日からは、当然寝てなどいられません。前の生活プラス赤ん坊となります。親はつらい…。

街の公園では「物賃は上がる、わしや下がる」の遺言を残す人(注 首吊り自殺)。毎日の食事がおからの水どきスープだけの人。布団も売ってムシロにくるまって寝る人。わが家は夫が依託販売をしていたので1日2食、小豆入りコーリヤン飯。来客の時は水でうすめてコーリヤンがゆ。子供は白米のおかゆにキナ粉かけ。たまにお魚を焼く、その匂いのために引き揚げが後になったとか。本来、引き揚げ順は病人、子供、老人なのに、今さらしかたない。

ここまでは今まで何不自由なく暮らしていたと思われる日本人たちの生活のほんの一部です。権力をかさに威張り、いじめを当然のようにして暮らしていた職業の日本人の人たちは恐ろしい目にあわされたのです。地獄行き。
いじめてはいけません。(貞)つづく

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2004.08.10

終戦記念日に寄せてーー(1)

また、8月15日の終戦記念日がやって来る。

いつも違和感を覚えるのだが、「終戦」とか「原爆」といったフツーの名詞に「記念日」という言葉を付けるのはいかがなものか。どうしても付けたいなら、せめて「敗戦記念日」とか「被爆記念日」にすべきではないだろうか。

話は変わるが、最近、小泉とか、安倍とか、岡田とか、戦争を知らない「戦争好きな」政治家が増えてきているのは、困ったものだ。

終戦記念日に寄せて、母(2002年12月死去、享年85歳)の生前に書いて貰った「大連からの引き揚げ体験」を、今日から4回に分けて掲載させていただく。戦争というものが一般の庶民にどんな事態をもたらすのか、その一端でもご理解願えれば幸いです。(仮名遣いや一部の注を除き、原文のママ)

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昭和20年8月15日 終戦の日
あの日、外地の人達の人生は変わったのです。

私は(大連の)桃源台という所で、山も海も近く別荘地のように静かで便利な家に1歳4カ月になった娘と2人で住んでいたのです。

夫は汽車で数時間の田舎町で軍納缶詰工場長でした。日本人は夫ひとりだけで、ほかは全員中国人でした。工場の広さは、どこまでかわからない広さです。缶詰は肉もジャムもキログラム大でバケツのように大きいのです。漬物はプールのような中に投げ入れる感じでした。通りには背中に焼印を付けた豚がブーラ、ブーラと歩いて、のーんびりだったのです。

あの日娘をおんぶして夫の所に遊びに行ったのです。しばらくして終戦を知らされたのです。

早く大連に帰らないと危険と、いわれるまま汽車に乗りましたが、乗客は1人もいませんでした。私と娘が乗るのを見てか、窓からポンポン石が投げ込まれるのでした。危ないので座席の下にもぐって発車を待ったのです。どうやって家にたどりついたか…。

工場の人に、夫は夜送って行く、と言われましたが、12時を過ぎても帰らないのでした。私にとって一大事。1歳4カ月の娘とお腹に5ヶ月の子供がいたのです。決心するしかないのでした。午前3時頃、ガタガタ、トラックの音、そして親切な中国人2人に送られて夫は荷物まで積んで帰って来たのです。ああ、一難去った。(貞)つづく

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