2021年2月17日 (水)

追憶の東京・異国の時を旅する」アンナ・シャーマン

アンナ・シャーマン 著
早川書房(368p)2020.10.15
2,420円

著者は2001年に来日して仕事の傍ら日本語を学んでいた。本書は10年程の東京生活を基に書かれたエッセイである。原書は「The Bells of old Tokyo : Travels in Japanese Time」と題されているように、「鐘」と「時」をキーワードにして寺社や歴史施設を訪ね、関係者との対話を通して歴史を学んでいる。その異文化を知ろうとする努力に驚かされるだけでなく、日本語が未熟だった時も辞書を片手に積極的に日本人に話しかけていく、その姿勢は素晴らしい。ただ、それも女性であることの有利さと思うのは男のひがみだろうか。

「東京はひとつの壮大な時計」という言葉で本書は始まる。都内のほとんどの区では夕方5時になると防災無線のスピーカーの点検を兼ねて音楽やチャイムが流れて来る。著者が住んでいた所では「夕焼け小焼け」のメロディ。或る日の夕方に違う音を聞き、それが芝の増上寺の鐘の音と知って、吉村弘の「大江戸、時の鐘・音歩記」(2002年)を読み、彼女の異国の「時」の旅が幕を開ける。本書では日本人だけでなく、西欧人が日本文化について語っている書物や文章が数多く引用されているのも著者の視野の広さなのだろう。

江戸期には、時を知らせる鐘は日本橋、上野寛永寺、江戸城の鬼門である北東にある観音を祀る浅草寺の三カ所で始まり、その後、芝、本所、四谷、赤坂、市ヶ谷、目白に増えて行った。こうした都内の「時の鐘」の所在地を訪ね、寺社やその地域を体感しながらの散策記録であるとともに、時間・時代の旅である。本書の旅の歴史事象のキーワードは、江戸にはじまり、明治維新、関東大震災、東京大空襲、終戦と占領期、1970年前後の闘争と混乱等の事象を節目として描き、その節目こそが日本の転換期であり、文化の転換点だったと見ている。

「時の鐘」発祥の一つ日本橋石町(今の室町)にあった「時の鐘」は現在小伝馬町十思公園の中の鐘楼に置かれている。そこは牢屋敷が有ったところであり、処刑された人々を弔うために作られた大安楽寺の僧侶からその歴史を聞き、浅草の弁財天の祠と隣り合う時の鐘を訪ね弁財天のような女性がお参りしている姿に驚き、上野の精養軒と隣接した鐘楼では、現在の「時の鐘」の撞き手を訪問して話を聞く。この旅の記録を読み進んで行くと、身近な事柄でも我ながら知らないことが多いことを痛感するばかり。

著者は現在の上野について「喪失感」という言葉で言い表している。この地では、江戸城開城後、彰義隊が寛永寺に立てこもって戦ったものの新政府西郷軍の圧倒的な勝利で終わった。寛永寺の境内は焼き尽くされ、明治新政府はその広大な土地を日本の近代化のショーケースのように、電灯をつけ、動物園や競馬場を作り、路面電車を開通させていった。そうした歴史から、失われたものの大きさを想い、「変化」ではなく「喪失感」と表現しているのだ。

また、日比谷にあった鹿鳴館は明治維新で「外国人(西洋人)に笑われない様に」という意識から背伸びをして作った文明開化の象徴であるが、フランス人作家のピェール・ロティは「鹿鳴館は美しいものではない。フランスのどこかの温泉町の娯楽場(カジノ)に似ている」と語っていたと紹介している。また三島由紀夫が彼の小説「鹿鳴館」で日本人のアイデンティテーの喪失と無意味な妥協の象徴として鹿鳴館を捉えていることに共鳴している著者がいる。

忘れてはいけないという観点で、本所横川の「時の鐘」は今や記念碑があるだけであるが、その地域には関東大震災と東京大空襲の慰霊のモニュメントを訪れている。この地で関東大震災では3万人が死亡し、1945年3月10日の東京大空襲では一日で10万人が死亡しているのに、長崎の平和記念資料館や広島の原爆死没者追悼平和祈念館のようなものが無い。唯一あるものは、タクシーの運転手すら知らない個人の寄付で作られた「大空襲戦災資料センター」だけであることに疑問を呈しているとともに、著者は広島や長崎を訪れることに躊躇している自分を見つけている。それは、日本人の敵であった米英人である自分を意識しているのだ。

「時の鐘」がある市ヶ谷を訪ねるために地図を調べていると、鐘があった亀岡八幡宮の北西に大きな敷地があることに気付く。この土地が防衛省の土地で有る事を知り、そこを舞台にした歴史を辿って見せる。その土地は、戦時中は帝国陸軍の参謀本部が置かれていた。終戦後、連合国は見せしめの様に、その建物を極東軍事裁判所として戦犯を裁いている。古い秩序の終わりを国民に告げる象徴的な舞台であった。

そして、著者の時間の旅は戦後も続き、1960年代の安保闘争、ベトナム反戦運動、成田闘争、70年安保、そして市ヶ谷の地で起きた三島事件を俯瞰して見せる。学生運動も三島事件も、政治に対する失望感の結果としているが、その根源を「議論は戦後日本の価値観とその価値観を定めたインテリ層に疑問を呈するものだった。・・・A級戦犯として起訴を免れて公務復帰した岸信介が首相では平和憲法にどれだけの価値が有るのか」という視点を提示している。そして、明治以降太陽暦に変わっても出生・死亡・結婚の登録は和暦で行われている日本の時間感覚の特徴を、「第二次大戦開戦、無条件降伏、東西冷戦という歴史の中で『昭和はいつも昭和だった』」と指摘する著者の言葉は重い。

こうした、時間感覚の違いを次の様に表現している。「欧米人は、時間は前に進むものだと思っている。・・終わりに向かって進んで行く抽象的なもの。でも日本では時間や年は動物になぞらえて表されていることを忘れてはいけない」。確かに、一日の時間表現の「丑三つ時」などは今となっては落語か講談でしか使わないものの、「俺は亥年生まれ」などの十二支表現や年賀状では十二支は日常の物だ。そこで、ネズミが一番になった話や、ネコがなぜ入っていないのかといった逸話は欧米人にとっては興味深いものだというのも良く判る。そして60年間で一巡する円のように時間は推移する。

自然の中で生きてきた日本人にとって時間は自らが操作するものではなかった。それが象徴的に表れたものとして「サマータイム」を取り上げている。戦後、占領軍は日本の文化風土に関係なく、ランド・マークとしての建物にはアニー・パイル劇場(宝塚劇場)、ナイル・キニックス・スタジアム(神宮競技場)などの名前を付けた。また、クイズ、レジャー、オッケーなどという新しい言葉が日本人に受け入れられていった。著者からすると婦人参政権や華族制度廃止などの大改革が受け入れられたにも関わらず、全く受け入れられなかったものがある。それは「デイライトセイビング・タイム」、日本語風に言えば「サマータイム」である。占領終了と共に日本は「サマータイム」をあっさり捨て去った。日本の「時」の特性が一番大きく出た事象かも知れない。

各章の最後に「大坊珈琲店」という小文が添えられている。「大坊珈琲店」とは南青山に実在した喫茶店で著者が東京在住中に「ゆっくりと流れる時間を楽しんだ場所」でありマスターと覚えたての日本語と身振り手振りで会話していた思い出が紹介されている。

日本の喫茶店文化を「東京の学生の生活の一部」と言っているように思い出の場所であるとともに、思い出の時間ということだろう。著者にとっては「なにかが上手くいかない時に足を運ぶ場所」になったという。そして、3.11の対応は時間ごとの変化の中でどうすべきかを悩んでいる著者が書かれている。英国大使館は気を付けるようにとの指示だけだったが、四日後に香港に向けて日本を離れた。そして「逃げた」と思われてしまう危惧が書かれている。ここでも、「時」が語られている。

本書を読んでいて、夕方の5時にチャイムが聞こえてきた。私は世田谷に住んでいるが、世田谷区は著者が書いている「夕焼け小焼け」ではなく、小学校等で使われている例の聴き慣れた「キン・コン・カン・コン」というチャイムである。区のホームページを見てみるとそのチャイムは「ウェストミンスター寺院の鐘」とのこと。

何故か?「夕焼け小焼け」の方が良い様な気がする。そう思いながら窓の外の夕景の富士を眺めている。そして、明日は小伝馬町に「時の鐘」を見に行こうと思った。そんな旅心をかき立てられた一冊である。(内池正名)

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「石を放つとき」ローレンス・ブロック

ローレンス・ブロック 著
二見書房(504p)2020.11.26
2,750円

20代から30代にかけて、ハードボイルド小説にはまったことがある。1970年代、映画で『ロング・グッドバイ』とか『チャイナタウン』とか新しいタイプのハードボイルドが公開されて、そこからハンフリー・ボガートなんかの古典を見るようになった。その流れで、当然のことながら映画から小説へと関心が広がってゆく。ハメットやチャンドラーを読みながら、同時にネオ・ハードボイルドと呼ばれた1970~80年代の新しいハードボイルドにも惹かれた。

ハメット、チャンドラーのタフなヒーロー像に比べると、ネオ・ハードボイルドの主人公はヴェトナム戦争のトラウマを抱えていたり、ヘビー・スモーカーで肺がんの恐怖におののいたり、心に傷を負った主人公が多かった。そんなネオ・ハードボイルドの探偵たちのなかで、いちばん共感でき、その後何十年にもわたってつきあうことになったのがローレンス・ブロックのマット・スカダー・シリーズ。元刑事でアルコール依存の無免許探偵だ。

ニューヨークの安ホテルをねぐらに、夜な夜ななじみのバーで酒を飲みながらツテを頼りの怪しげな依頼に応える。ジャズと映画が好きで、何作かの例外を除いて暴力に訴えることもしない。ネオ・ハードボイルドの一方の人気者、マッチョで美食家の探偵スペンサーに比べると、どちらかというと地味で、ぱっとしない。誰もが認めるスカダーものの最高作『八百万の死にざま』は映画化されたけど、こちらも華の少ないジェフ・ブリッジス(好きな役者だけど)がスカダーを演じていた。

このシリーズで何より魅力的なのはスカダーが歩き回るマンハッタンの街の描写と、そこで対面する相手との会話の妙。もっともストーリー的には大した謎も複雑なプロットもなく、ミステリーとして見れば物足りない。というよりニューヨークを舞台にした、例えばアーウィン・ショーみたいな都会小説のミステリー版と考えるほうがいいのかもしれない。

このスカダー・シリーズ、2006年の『すべては死にゆく』までは途切れずに新作が出たのだが、それ以後はぐっと時間があくようになった。2015年に『償いの報酬』、それから5年ぶりに出たのが本書『石を放つとき(原題:A Time to Scatter Stones)』。表題作は160ページほどの中編で、ほかにアメリカで『夜と音楽と』のタイトルで刊行された11篇のスカダーもの短篇が収められている。

ハメットやチャンドラーの探偵はいつまでもタフで歳をとらないけれど、ネオ・ハードボイルドの探偵は作者とともに歳をとり、環境も変わってゆく。スカダーもアルコール依存を克服し、元高級娼婦のエレインと暮らすようになり、パソコン探索が得意な若いアフリカ系ストリート・キッズの助手もできた。そんなふうに、なにがしか作者の生活感覚が投影されているのがネオ・ハードボイルドの魅力でもある。

『石を放つとき』のマット・スカダーは、すっかり年老いている。『すべては死にゆく』でも老いは忍び寄っていたが、今回の小説でのスカダーは数ブロックも歩けば膝に痛みが出る、まぎれもない老人だ。足で歩き人と会うことが武器である探偵稼業など務まりそうもない。そんな年老いた男が、なんとか事件を解決するのが本作。

スカダーのパートナーのエレインは、売春婦をしていたことのある女性の集まり「タルト」に参加している。そこで知り合った若いエレンが、かつての客にストーカーのようにつきまとわれているとスカダーに相談するところから話が動き出す。

……と、ストーリーを追っても仕方がない。小生この久しぶりのスカダーものを、昔読んだやり方で読んでみた。というのは、舞台になった都市(この場合はニューヨーク)の地図を手元に用意して、街路の名前や公園、建物など固有名詞が出てきたらひとつひとつ確認していくこと。最初は小説を読むリズムが寸断されて面倒なのだが、やがて主人公はいまこの街路を左に曲がったんだな、とか映像が脳内に立ちあがってくる。昔スカダーものを読んだとき、ニューヨークには旅行者として短期間行っただけの経験で映像も断片的だったけど、その後一年間暮らすことになったので、たいていの場所はおよそ見当がつく。しかもスカダーが歩き回るのは主にマンハッタンのミッドタウンとダウンタウンで、そこは小生がよく行っていた場所でもあり、どんぴしゃりで風景が分かるシーンもある。

スカダーとエレインが住むアパートメントは西57丁目の9番街と10番街の間。セントラルパークの南西角にあるコロンバス・サークルから更に南西へ400メートルほど行ったところにある。繁華街に近いけど閑静な一帯。

ストーカー男をつきとめるため行動を開始したスカダーは、まず地下鉄でダウンタウンへ行く。ローワー・イーストサイドの警察装備品店で警棒を買おうとするが、市警の身分証を持たないスカダーは芝居の小道具を求める客に間違えられ、バルサ材の警棒を勧められて失敗。「銃の展示即売会に行けば、AR15を持ち帰り、何十人もの小学生を手当たり次第に撃ち殺すこともできる。……しかし、ニューヨークに住んでいるかぎり、ニューヨーク市警の身分証明書を見せることができなければ、木の棒を手に入れることは許されない」

仕方なくバワリーに向かったスカダーは、キッチン用品卸売店で代用品として肉たたき棒を買う。「その界隈は昔は簡易宿泊所と酒場ばかりだった」とスカダーはかつての悪臭と騒音を回想するが、その後ジェントリフィケーションと呼ばれる再開発で高級化し、小生が滞在したころにはバワリーはシックなホテルや新しい美術館ができてお洒落なスポットに変わりつつあった。次にスカダーはブロードウェイ18丁目に向かい、スポーツ用品店でバックパックを買う。腹が減ったのでダイナーを探すが「現在、絶滅危惧種になりつつある」ので見つからず、仕方なくタイ料理店でパッタイを食べる……と、そんな具合。

本筋とはあまり関係ないこういうところが楽しいのだ、スカダーものは。そして肝心の本筋は、大した謎も二転三転する展開もなく、あっさり解決してしまう。最後にスカダーとエレイン、エレンの長い会話があり(おまけのようなオチもあり)、このシリーズのもうひとつの楽しみ、ユーモアあふれる心地よい会話を読む者に堪能させて終わる。ローレンス・ブロックのミステリーは、ハードボイルドというジャンル・フィクションの決めごとをきちんと守りつつ、同時にいつもその枠を少しはみだして風俗小説(無論いい意味での)としての魅力をそなえているのがいい。

蛇足。ハードボイルドを読むといつも思い出す言葉がある。斎藤美奈子さんの、「ハードボイルドは男のハーレクインロマンスだ」というもの。男にとってはなかなか痛い真を穿っていて、うまいこと言うなあ、と感心してしまった。以来、この手の小説は小生のなかでギルティ・プレジャー、なにがしか後ろめたさを伴った愉しみと化している。(山崎幸雄)

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2021年1月17日 (日)

「金閣を焼かなければならぬ」内海 健

内海 健 著
河出書房新社(228p)2020.06.20
2,640円

タイトルの「金閣を焼かなければならぬ」とは、小説『金閣寺』のなかで、主人公溝口が苦悩と彷徨の果てに「突然私にうかんで来た想念」として三島由紀夫が書き記した言葉だ。本書には「林養賢と三島由紀夫」とサブタイトルがつけられている。林養賢は1950年に金閣に火を放った、この寺で修行する21歳の青年僧。三島は、事件に想を得てその6年後に『金閣寺』を発表した。

精神科医である著者は後書きで、医者になったあと『金閣寺』を読み返して「犯人は未発の分裂症であり、それ以外にはありえぬと直感した」と書く。後にこの事件を調べはじめて、判決が確定し服役した後に養賢が分裂病を発症したことを知る。以来、「この二人の男のことについて書き残さねば」と思い、それから二十数年後に本書が刊行された。

内海は『「分裂病」の消滅』『さまよえる自己』などの著書をもつ精神科の研究者で臨床医。現在は東京芸術大学の教授・保健管理センター長を務めている。だからこれは精神科医の目でもって林養賢が起こした事件と三島の小説を解読した、なんともスリリングな本になっている。なお分裂病は現在では統合失調症と呼ばれるが、内海は、分裂病と呼ばれた当時のこの病をとりまく雰囲気を肌で知ってもらうために、あえて分裂病の名を採用したと書いている。

本書の前半では、林養賢の内面と行動が追跡される。事件を起こすまで、養賢には犯行を予兆させるような言動はまったく見られなかった。が、関係者の証言によると、養賢はその1年ほど前から憂鬱にとらわれていた。知的青年が憂鬱にとらわれるのは近代社会で一般的な現象だが、症状が現れる前の分裂病の前駆期に見られることもあるという。また同時に周囲から性格が変わったように見られ、大学の成績が急降下したのも分裂症の前兆であり、これらのことから内海はこの時期の養賢が前駆期にあったのは間違いないと判断している。

分裂病の前駆期にある者がたどる一般的な経過は、「内包された狂気」が社会や他者といったフレームにぶつかって幻覚や妄想といった「症状」を呈し、そこではじめて分裂病と診断される。ところが、稀に特殊な状況や偶然の重なりによっていくつものフレームをすりぬけ、病気が顕在化する前に「狂気のポテンシャルは極大にまで充満し、不意にカタストロフへとなだれ込む」ことがある。その典型が自殺や殺人だが、そうした行為には動機がない。「徹底的に『無動機』である」と内海は記す。養賢もそうだった。

犯行後、養賢は放火した理由を問われて「無意味にやりました」と答えている。だが人は、ある行為にいたった原因や理由が明らかにされなければ心理的に納得しがたい(という病をもつ)。事件の因果関係を明らかにする起訴状は「美に対する嫉妬、美しい金閣と共に死にたかった」と養賢の陳述を記している。もっとも彼は、その動機も「本当といえば本当、本当でないといえば本当でない」と述べているのだが。

分裂病前駆期の養賢が示した「狂気のポテンシャル」について、内海はさらに「超越論的他者」「存在の励起」といった言葉を使って密かな病の進行を解読しているが、そこに分け入るとややこしくなるので、ここでは触れない。結論として内海は、日常的な意味の連鎖から切り離された養賢が、己のなかの自分ではない何者かから「何かをなさねばならぬ」という督促を受けて焦燥し、「動機や理由によって回収できないところに迷い出てしまった」結果が金閣への放火だったと書く。

一方、公判で明らかにされた「美に対する嫉妬」という言葉に恐らくインスパイアされたのが三島由紀夫だった。本書の後半では、小説『金閣寺』とそれを書いた三島の精神のあり方が解読される。

内海は、三島に生涯にわたって憑りついた宿痾は「離隔」だったと言う。平たく言えば現実感の希薄さ、日常的な現実に対し生きているリアリティを感じられないということだろう。多彩な現実を経験する前に言語表現を学び早熟な文学少年として出発した三島にとってリアリティは言語空間のなかにのみあり、現実は色褪せたものとしか映らなかった。

内海によれば、『金閣寺』は現実に対し「離隔」を感じて生きざるをえない主人公溝口が金閣放火という犯罪に至る道行を描いた、意識空間のなかの小説である。金閣はその「離隔」を象徴するものとして現れる。

三島は執筆に当たって事件の記録を丹念に調べ、起こった出来事は忠実に踏襲しているが、事を起こした養賢本人には思い入れや関心をほとんどもっていない。とはいえ、養賢も三島と共通する「離隔」を現実に対し感じていたから、「彼らが邂逅するポイントがあるとすれば、まずはそこになる」。その一点で二人は接近したのだが、養賢の内面に無関心だった三島の手になる主人公溝口の「離隔」は、現実の犯罪者・養賢のそれでなく作者・三島のものとなっている。

養賢の金閣放火が動機なき狂気の激発だったように、小説『金閣寺』においても動機は書かれていない。書かれているとすれば、貧困や怨恨といった対人的社会的なものでなく、意識内部で完結した動機である。三島を苦しめてきた「離隔」とは、内海によれば「ナルシシズム的宇宙に内包されている現実感の希薄さであり、その世界の外への通路が閉塞していることである」。その内的宇宙を内海は球体に見立て、「ナルシシズムの球体」と呼ぶ。「金閣はこの球体そのものである。その伽藍の中に溝口=三島は捉え込まれている」。その閉塞を突破するためには、「金閣を焼かなければならない」。

実際にはジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』やカフカの『審判』を引きながら、もっと精密な議論が展開されているけれど、大筋を取り出すとそういうことになる。そして内海はこう結論づける。「養賢が兇行のあと、うわごとのようにその行為を名指した『美への嫉妬』、三島はこの事後の表象から入り、兇行の真理に裏側から到達した」。「自分自身のナルシシズム的世界の究極を志向することにより、対極にいる養賢に、行為の一点で邂逅し、真実を穿ったのである」

小生は世に数多ある三島論や『金閣寺』論を読んだことがないので、内海のこの解読がこれまでの三島理解の中でどんな場所を占め、どのように評価されるのか、まったく分からない。でも内海の論が、連綿と積み重ねられた文学世界の三島評価でなく、その外の世界から来た視点と方法で書かれていることは確かだろう。といって小生、精神医学についても素人なので、その世界からの評価も分からないのだが。

内海は、分裂病という病に接するときは「メタフィジカルな感性とでもいうべきものが要請される」と書いている。常識的な意味での了解が及ばないところから患者に接しなければならないのだから、その言葉は理解できる。その「メタフィジカルな感性」は、分裂病を理解する鍵として「超越論的他者」「存在の励起」といった言葉を使っていることからもうかがえる。しかも、こうした言葉が単に学術的な概念でなく、深い専門知と長い経験が縒りあわさったものとして出されていることで、読む者に深い納得をもたらす。内海が「三島の妖刀のごとき筆の恐ろしさ」と書く、そのまごうかたなき傑作(本書に触発され40年ぶりに読み返した)の秘密を垣間見たと実感できる年末年始の読書だった。(山崎幸雄)

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「日本のテレビ・ドキュメンタリー」丹羽美之

丹羽美之 著
東京大学出版会(288p)2020.06.19
3,300円

著者の丹羽美之は1974年生まれ。NHKに入り、ディレクターなどを経験し、現在は東京大学情報学環(文理融合の情報学)准教授。その世代の著者が日本のテレビの黎明期から60年間の歩みの中で制作されたテレビ・ドキュメンタリー番組と制作者の言葉を通して、番組で戦後日本の復興と近代化をどう記録してきたのかを明らかにし、加えてテレビ・ドキュメンタリーが新聞、雑誌、映画やラジオといった既存のメデイアとは違った形で独自の映像ジャーナリズムを切り開いていった状況を描いた一冊である。

本書の構成は、第一章では本書の原点ともなった、NHKアーカイブスなど、テレビ・アーカイブスの現状とその課題を語っている。第二章以降は、1957年にスタートしたテレビ・ドキュメンタリーの草分けであるNHKの「日本の素顔」とディレクターの吉田直哉、1962年日本テレビの「ノンフィクション劇場」を制作した牛山純一といった先駆者たちに始まり、TBSの萩本晴彦や村木良彦、東京12チャンネルの田原総一朗を中心とした1960年代後半から1970年代にかけて制作された実験的な番組に焦点を当ててその制作姿勢と時代を描いている。一方ローカル局のRKB毎日放送の木村栄文、山口放送の磯部恭子など幅広い作品を取り上げ、1990年代以降はフジテレビの「NONFIX」で活躍した是枝裕和や森達也などプロダクションやフリーランスによる番組制作方法の変化について考察している。そして、最後の章では、東日本大震災と原発事故でのテレビの役割について述べている。

こうした60年間に亘るテレビ・ドキュメンタリー番組を俯瞰しての著者の考察は具体的、且つ網羅的であり、これからの多様な議論のベースとしての起爆剤的価値が大きいと感じられるだけに、今後この領域での活発な議論が期待される。

著者はテレビ番組が人々の生活や文化に影響を及ぼしてきたにもかかわらず、今まで研究対象としてあまり取り上げられなかった理由を、制作側が「テレビ番組は一回放送すれば終わり」と考えていたことに加えて、過去の番組の保持が十分でなく、且つ、公開されていないことに起因すると指摘している。NHKアーカイブスが2003年にテレビ開局50年を記念してオープンし100万本の番組、800万項目のニュースを保存したものの、一部の番組を除いて非公開だった。ただ、学術研究に限り試行的に「アーカイブスを用いたテレビ・ドキュメンタリー史研究」が2009年から2011年にNHKと東大で共同研究が行われたことを契機として、著作権を含めた諸権利対応とともに、これらのライブラリーが単なる「保存庫」から「創造・発信源」に変化することがテレビ・アーカイブスの未来を作っていくとの著者の思いは強い。

本書では「日本の素顔」を社会派ドキュメンタリーの出発点として取り上げているが、私はこの番組を見ていたこともあって、この章は興味深く読んだ。制作者吉田直哉は1954年にNHKに入局。ラジオを3年間担当後「日本の素顔」のスタートともにテレビに移っている。「この番組は記録映画との訣別を目指してラジオの延長線上にデレビドキュメンタリーを構想した」という言葉が紹介されているように、吉田は劇場用記録映画とは結論を先取りした完了形の「説得映画」と定義し、一方、テレビ・ドキュメンタリーは「現在進行形」の思考過程を提示するという考え方に基づき、新たなドキュメンタリーの可能性を追求し多くの名作を残した。その「日本の素顔」の鋭い社会批判は戦後日本に残る課題を病理として描き出してきたが、経済成長とともに近代化・産業化がもたらす負の側面も次第に明らかになり、「日本の素顔」が担っていた近代啓蒙的な姿勢は敬遠されるようになったと著者は評価している。

次に1962年に日本テレビでスタートした「ノンフィクション劇場」を取り上げている。この番組を率いた牛山純一は日本テレビの一期生として入社して、報道部、政治担当記者を経て、1959年の「皇太子ご成婚」中継の責任者となった。牛山は他局が多用したヘリコプターによる空撮やフィルムインサートの映像を一切使わず、視聴者が一番見たいのは花嫁の表情と考えて、アップを多用した生中継で美智子妃の顔を追い続けた。この中継映像は他局のディレクター達からも高く評価されたと言う。牛山のこだわりは、制作者の署名性だった。「日本の素顔」は客観性を追求したが、「ノンフィクション劇場」は主観的、文学的なドキュメンタリーを目指した。それはタイトルの「ノンフィクション」と「劇場」という矛盾した言葉を組み合わせたところに牛山の意図が見えているというのもうなずける指摘だ。

しかし、1965年に牛山の転機が訪れる。「ベトナム海兵大隊戦記」という三回連続放送予定の番組が一回目の放送後に政府・自民党からの批判を受けて以降の放送は中止されるという騒動があった。当時はテレビ番組に対する、政治介入やスポンサー圧力による中止、自主規制が頻発していた。西側メディアとして初めて北ベトナムを取材したTBSの「ハノイ・田英夫の証言」(1967年)は放送後、偏向番組として政府から非難され、田英夫はニュースキャスターを追われたという記述に、田英夫追放劇のドタバタを思い出しながら読み進んだ。

こうした時代を振り返ってみるにつけ、現在のテレビが自由闊達な現状批判や大胆なチャレンジ精神を失ったのではないかという著者の指摘は重く感じる。

RKB毎日放送の木村栄文が制作した「苦海浄土(1970年)」でのドキュメンタリーにおける「演技」を取り上げている。「苦海浄土」は石牟礼道子による同名の公害問題告発本を映像化したものだが、木村はこのドキュメンタリーにあえて俳優の北林谷栄を起用した。石牟礼の想念の化身として盲目の旅芸人に扮した北林が患者たちや海を訪ね歩く。北林を本物の旅芸人と信じ込んだ患者は取材者やテレビカメラに対する態度と違って、自然な表情を見せて映像は作られていく。この挑戦は賛否両論を巻き起こし、ドキュメンタリーの意味が問われる作品になった。

最後に本書の中で東日本大震災についての報道や関連番組からテレビの役割を問い直している点に目を向けてみたい。震災発生直後から報道の中でテレビの速報性や同時性は十分に発揮され津波や原発事故の決定的瞬間をとらえた映像が大きなインパクトを持って提供された。著者はまた、震災後に多くのドキュメンタリーが作られ、持続的な調査報道に大きな力を発揮したと評価している。2011年12月31日に放送された福島中央テレビの「原発水素爆発・わたしたちはどう伝えたのかⅡ」という番組は、自らの震災報道に関する検証をした番組である。この福島中央テレビは福島第一原発の爆発映像を無人の情報カメラで捉えた唯一の局だった。その中に印象深いデータが紹介されている。爆発映像を見た福島中央テレビ幹部スタッフは爆発の4分後にローカル放送に放映、キー局である日本テレビは1時間14分後、政府が正式に第一原発の爆発を認めたのは5時間後のことだった。この時間差の中にテレビが持っている可能性とともに、メディアに携わる人達の報道姿勢が問われることを示していると思う。

1970年生まれの著者はテレビ・ドキュメンタリーを研究するために殆どの映像はアーカイブスを使って研究をした。また、それが可能になった最初の世代なのかもしれない。私を含め、団塊の世代はテレビと同時代的にテレビと接してきた。1953年2月にNHKが開局して日本のテレビ放送は開始されたが、当時近所の酒屋が店の奥の座敷にテレビを置いて近所の子供達や酒を飲んでいるオジサン達が一緒にテレビで野球中継などを見ていたことを思い出す。しかし、時を置かずに我が家の茶の間にもテレビが登場し食事をしながら一家でテレビを見る時代になった。例えば、日曜日の午後9時からの「事件記者」、9時半からは「日本の素顔」を見るというのが我が家のルーティンだった。

しかし、本書を読みながら、登場しているディレクター達の名前や業績は知識としてあるものの、1960年代後半からのテレビ・ドキュメンタリー番組のほとんどを視聴していない。高校生、大学生になってからは映画や音楽(ジャズ)にのめり込みテレビからは遠ざかっていたし、社会人になると仕事に追われ休日に家族との食事中にニュース番組や歌番組を見ていた程度。テレビの普及ともに成長した世代と言いながら、その黎明期だけが生活時間の中にテレビ番組があったと思う。著者の言う、テレビの歩みと戦後日本社会論という壮大なシナリオの中で、混迷と混乱の学生時代の日々、高度成長期の社会人としての多忙な日々を思い起こすと、その時代を描いたドキュメンタリー番組を客観的に視聴できる自信はない。(内池正名

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2020年12月18日 (金)

「日本習合論」内田 樹

内田 樹 著
ミシマ社(296p)2020.09.19
1,980円

「習合」という言葉を日常的に使う人はそう居ないだろう。私も「神仏習合」という熟語が頭の片隅にあるというぐらいなもの。タイトルを見て、どんな内容なのかと訝りながら本を開いた。著者の内田は「習合」と言う言葉を宗教の教義の折衷という意味に限定せず、異文化との混合、ハイブリッド、折り合いといったより広い意味で捉えて、「習合」をキーワードに多様な切り口から日本文化を語っている。

日本は地政学的には辺境国家で「異文化の習合」から得られた成功体験を生存戦略として選択してきたことを考えると、日本の雑種文化というのは必然と言っていい。加藤周一の「日本文化を世界に冠たる純粋種の文化と言いたてるのは英仏の純粋文化に対する劣等感のあらわれ」と言う言葉を紹介しながら、内田は「雑種文化で上等」という前向きの雑種文化論から出発して、神仏習合を語り、農業・教育・労働・日本の民主主義へと話を展開している。

内田は自称少数派であるが、少数派であることに悩んでいるわけではない。少数派だと不安になる人が居るが、内田の言葉を借りれば「孤立する力が足りない」とバッサリ切り捨てている。考えてみれば、異文化の人々とは会ってすぐに理解と共感が生まれることはまず無い。一人一人は所詮少数派だから、意見が異なるにしても少なくとも敵対していないことを相互確認する力が最低限必要ということだろう。そのように、「理解と共感」の上に人間関係を築くことは重要だが、過剰な価値を置くべきでないというのが内田の生き方である。

言葉を変えれば「習合」とは「異物との共生」であり、「習合的な集まり」とは一つの仕事をすることが第一で、そこには親密も共感も求めないという特性が彼にとっては心地よい集団という事の様だ。社会集団が寛容で効率的であるためにこうした「習合的」なあり方は良く出来たシステムであるとしている。

日本列島の住民は古代から異動と共生で上手くやって来た。その例として黒沢の「七人の侍」のストーリーを挙げているのも世代感としては良く判る。こうした雑種文化は他言語との混合を楽しむ文化としても根付いて来た。旧制高校の学生たちが造語した「バックシャン」は英語とドイツ語の、「ゲルピン」はドイツ語と英語の合成語だ。加えて母国語と外来語の合成としては団塊の世代が思い出すのは「内ゲバ」や「ドタキャン」などと枚挙にいとまはない。また、国歌の君が代も古今和歌集の詠み人知らずの長寿祝歌にイギリス人の軍楽隊教官のジョン・フェントンが旋律を付け、ドイツ人音楽家のフランツ・エッケメルトが手を入れているという「習合」の極め付きといえる。

本書の大きなテーマの一つが「神仏習合」である。「神仏習合」とは六世紀の仏教伝来とともに神仏の共生が始まり、神社の中に寺院が、寺院の中に神社が有るといった形が1300年続いて来たことをいう。しかし、慶応4年の神仏分離令によってこの共生は途絶して「神仏分離」が行われる。神宮寺の中では僧侶と神官が一緒に活動していたが、それが否定された。神仏習合の時代は、寺院と神社を統括する職分は別当と呼ばれた僧侶が任ぜられていたが、政令でこの別当職を廃し、神社の神官たちを政府の神祇官の所属にすることを命じた。この結果、神社で御経を唱える社僧たちは、還俗帰農するか、神官に職替するか迫られた。

ただ、政府は「分離」は決めたが「廃仏」を決めたわけではない。しかし、旧水戸藩を始めとして、鹿児島、宮崎、土佐、松本など国学が盛んだった地域では廃仏の運動が盛んだった。加えて、民俗信仰への抑圧は続き、京都五山の送り火、盂蘭盆会、盆踊りなどが禁止された。しかし、この間、組織的な抵抗を示したのは浄土真宗だけで、民衆の抵抗も見られなかった。これは何故かとの答えを内田は、人々は「天皇神」が他の土俗神に対して、その優位性の確認を求めたものと受け取ったと見ている。戦後は神社の国家管理がなくなったこともあり、いずれまた日本では「神仏習合」が行われるといっているのだが、我が身を振り返ると初詣、酉の市等では神社に参り、菩提寺の代々の墓参りにも行く。生活の中では「神仏習合」そのものである。

内田のもう一つの大きな指摘は日本における民主主義の定着の歴史である。帝国憲法下で「天皇神」という認識が人々にあったにも関わらず、福沢諭吉が明治5年に書いた「学問のすすめ」の中で「日本国中の人民に生まれながら、その身に向きたる位などと申すはまずなき姿にて・・・」と語られていることを取り上げて、デモクラシーの萌芽としている。その後、自由民権運動が盛んになるとともに、美濃部達吉の「天皇機関説」は学界では定説になっていた。しかし、軍が天皇の直轄機関として突出し権限を集約していく中でエリートに支えられていた大正デモクラシーは命脈を断たれたという。

こうした戦時中の20年間を経て、終戦から戦後の転換点としての日本国憲法の制定自体の問題点に関する疑義を紹介している。それは、日本国憲法制定の前文として昭和天皇の「上諭」が存在している。そこには「朕は日本国民の総意に基づいて、新日本建設の礎が定まるに至ったことを深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た、帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」というもの。

終戦時枢密顧問官だったあの美濃部達吉はこの件について、次の様な疑義を述べたと言う。ポツダム宣言受諾時点で無効になっている帝国憲法に基づいて第七十三条の改憲規定では改憲出来ないこと、新憲法の趣旨に合わない為に廃止させられる枢密院が新憲法の当否を論じるのは不合理であること、「日本国民が制定する」民主的憲法が勅命により天皇の裁可で公布されるのは虚構である、というものだった。敗戦時の混乱のなかで苦肉の天皇「上諭」だったのだろうが、法学者美濃部としては認めがたい論理だったのだろう。

明治の「神仏分離」と戦中・戦後の憲法改正などを通して、天皇制との多様な折り合いの中で日本人は生きてきたことが良く判る。それだけに、後付けで歴史と文化を語る限界もあるという事だろう。特に、戦中から戦後への連続性を語っている人間(架橋)として吉本隆明、江藤淳、伊丹十三の三人を挙げているのが面白い。

戦前・戦中・戦後の時代を生きてきた人達にこそ体験感覚を聞きたいところである。個人的に言えば、私の父は大正9年生まれ、平成21年に逝去した、まさに戦前・戦中・戦後を生きてきた人間だ。昭和17年に大学を卒業し就職、18年に召集、終戦とともにポツダム中尉で退役、職場復帰している。父は生きてきた時代について語る事はほとんどなかった。否定も、肯定・言い訳も聞いたことは無い。ただ「学生時代の友は三割が戦死した。死んでいった彼らの為にも、しっかりと生きなければならない」と言っていたことを思い出す。そこには理屈ではなく、生き方として信念の発露だったのだろう。息子の私には「判断や考え方」に口を出すことは無く、「やるんなら、死んだつもりでやれ」という一言だった。その自由さが父にとっての大切なことだったのだろうと今更ながらに思い返される。本書の全ての論に賛同する訳ではないが、幅広い議論の中で納得と、反論の混じり合う読書であった。父に読ませて感想を聞きたいと思った。(内池正名)

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「『線』の思考」原 武史


原武史 著
新潮社(256p)2020.10.15
1800円+税

「線」の思考とは何だろう? と疑問を出しておきながら、さっそく答えを言ってしまえば、ここでいう「線」とは交通路、具体的には鉄道のことを指す。たとえばある特定の地点は「点」であり、特定の地点(皇居とか国会議事堂とか)について考えることは「点」の思考ということになる。一方、「点」より広い地域や領域(東京とか、日本とか)は「面」であり、それらの地域や領域について考えるのが「面」の思考ということになる。でも「点」と「面」の中間には「線」がある、と著者は言う。「点」と「点」を結ぶことで「線」(街道や海上航路、近代の鉄道)が成り立つが、「線」は「点」や「面」と共通するものを含みながら、「線」独自の文化や思想を生み出すこともある。

そんな前置きを振っておいて、著者は北海道から九州まで八つの鉄道路線に乗りながら、その沿線に広がる「地域に埋もれた歴史の地下水脈」を探ろうとした。原は『大正天皇』『皇后考』などで知られる近代政治思想史の研究者であり、同時に『鉄道ひとつばなし』の著書をもつ鉄道マニアでもある。この本は、彼の本業と趣味(?)の二つの面を結びつけたもの。といっても堅苦しい研究書でなく、鉄道に関するうんちくや駅弁についても書く読みものになっているのが楽しい。

たとえば「二つの『常磐』──『ときわ』と『じょうばん』の近現代」とタイトルを打たれた章。ここでは品川からいわきまでJR常磐線に乗っている。途中下車して訪れるのは日立駅の日立鉱山跡、内郷駅の炭砿資料館、湯本駅の常磐炭鉱跡と炭住跡につくられたスパリゾートハワイアンズ(旧常磐ハワイアンセンター)など。この常磐線には「ひたち」と「ときわ」という二本の特急が走っている。「ひたち」には旧国名の常陸と、明治期にできた日立という村名(後に日立製作所が生まれる)が二重にかけられている。「ときわ」は常陸と磐城という旧国名の頭文字を組み合わせた常磐(じょうばん)の訓読みであるとともに、万葉集などに出てくる古語で永遠を意味する常磐(ときわ)でもある。水戸市一帯には古来、「常磐(ときわ)」を冠した地名がたくさんある。水戸偕楽園にある常磐神社の名は、アマテラスの血統を継ぐ天皇の地位は永遠であるとする「水戸学のイデオロギーにふさわしい」、と著者は記す。

ところで明治後期に開通した常磐線は当初、旅客輸送より貨物輸送が主な役割だった。日立鉱山の銅と常磐炭田の石炭である。どちらも常磐線開通後に本格的に開発された。そのことに触れた上で著者は、路線名と特急名についてこう述べている。「『ひたち』が常陸から日立へと変わったことで、(政治的なイデオロギーと結びつきやすい)『ときわ』から『じょうばん』へと変わった常磐同様、日本資本主義の発展を象徴する経済的な響きをもつようになったと言えようか」

もうひとつ例を挙げてみよう。「『裏』の山陽をゆく」で著者はJR山陽本線の岡山から徳山までを列車に乗っている。山陽新幹線が開通した後、山陽に限らずどの新幹線も同じだが、並行して走る在来線は乗客数が減り、ローカル線と化している。それを原は「裏」と呼ぶ。その「裏」の山陽本線に沿った内陸部では、幕末から戦前にかけて民衆のなかから新宗教が相次いで生まれた。また戦前から戦後にかけて神道系の新宗教が沿線の山を聖地とした。

まず原は熊山駅で降り、熊山遺跡へ足を運ぶ。石積みのピラミッドのようなこの奈良時代前期の仏教遺跡を、大本教の出口王仁三郎はスサノオの陵と考え聖地とした。王仁三郎は自らをスサノオになぞらえ、琵琶湖以東はアマテラスが治めるが、以西はスサノオが治めると不敬な言葉を吐いた。次に原は北長瀬駅で下車し、黒住教本部を訪れる。黒住教は幕末に生まれ、アマテラスを奉ずる神道系の宗教。さらに金光駅で降り、金光教本部へ行く。金光教も幕末に生まれた神道系の新宗教。広島で一泊した原は山陽本線を乗り継ぎ、田布施駅へ行く。ここには、もと大本の信者だった友清歓真が脱退してつくった「神道天行居(しんどうてんこうきょ)」という教団の本部神殿と日本(やまと)神社がある。この駅には、もう一つの新宗教、天照皇大神宮教の本部もある。太平洋戦争末期、天照皇大神宮教の教祖である北村サヨは、アマテラスの名を冠しながらも「天皇は生神でも現人神でもなんでもないぞ」と不敬な言葉の数々を吐いていた。

これら新宗教の教団を訪ね歩いた原は、天照皇大神宮教本部の近くで育ち、皇太子裕仁(後の昭和天皇)暗殺を試みたテロリスト難波大助の生家も訪れたうえで、「裏」の山陽には「表」の山陽にはない近現代思想史の地下水脈が流れているという。「国家や天皇に忠誠を尽くすのか。それとも反逆するのか──『裏』の山陽である山陽本線の沿線には、その答えをめぐって苦闘した人々の痕跡が、いまもなお残っているのだ」

ほかにも、小田急江ノ島線にカトリック系の教団や学校が多いのはなぜかを考えたり、JR阪和線で古代と中世、近代が交錯するありさまを見たり、房総と三浦半島の鉄道を巡りながら日蓮の足跡を訪ねたり、本書のサブタイトルになっているように「鉄道と宗教と天皇と」について思いを巡らせている。

鉄道マニアの原は、途中下車しながら電車を乗り継ぐことそれ自体を楽しんでいるようだ。また駅弁を楽しみにしている。JR阪和線の無人駅、山中渓のホームで「小鯛雀寿司」(和歌山駅の駅弁)を食しながら、「この駅弁は、個人的に宮島口の『あなごめし』と並び、西日本の駅弁の双璧だと思っている」と書く。研究者としての問題意識を披歴していたかと思うと、すぐ後でこういうマニアの顔をのぞかせるのがこの本の面白さだ。

原のそんな鉄道マニアとしての姿(というか、声)を、十数年前に直接に聞いたことがある。著者の『昭和天皇』が第12回司馬遼太郎賞を受けたときのこと。たまたまその場に居合わせた。この賞は、選考委員会が開かれ受賞者が決まって数時間後に発表の記者会見が開かれる。だから受賞者が近くにいれば会見場に駆けつけられるが、遠くにいれば電話で受賞の声を聞くことになる。この年、受賞が決まった原は秩父にいて、会見は秩父からの電話だった。なんでも受賞の知らせを聞いたのは西武鉄道の特急レッドアローに乗っている最中だったという(原には『レッドアローとスターハウス』の著書がある)。受賞の知らせが鉄道に乗っているときに届いたことで喜びが倍になったようで、そんなエピソードをまず披露した弾んだ声が会場に響いたのを覚えている。(山崎幸雄)

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2020年11月15日 (日)

「掃除婦のための手引き書」ルシア・ベルリン



ルシア・ベルリン 著
講談社(320p)2019.7.8
2,420円

先月の『苦海浄土』につづいて積読本の2冊目は、アメリカ人作家ルシア・ベルリンの短篇集。去年、タイトルに惹かれて買った。『掃除婦のための手引き書(原題:A Manual for Cleaning Woman)』。掃除婦とかマニュアルとか、小説とは縁がなさそうな言葉をタイトルに選ぶあたりに作者の、なんというか精神の傾きを感じた。2004年に亡くなっており、アメリカでも死後に評価されたらしい。短編作家で生涯に76本の小説を書き、本書ではそのうち24篇が紹介されている(訳者は岸本佐知子)。邦訳も地味ながら話題になり、版を重ねているようだ。

岸本の解説によれば、ルシアの小説はほぼすべてが実人生に材を取っている。そういうタイプの小説家の場合、その作品世界は素材にせよ舞台にせよ作者の実人生の幅のなかに収まって、限られた小宇宙をつくることが多い。でもこの本を読んで驚くのは、小説の登場人物も場所もその経験も、なんとも多彩なこと。

それは彼女が200回の引っ越しをしたと書いているように、アラスカからアイダホ、ケンタッキー、テキサス、モンタナ、アリゾナ、ニューメキシコ、ニューヨーク、カリフォルニア、コロラドなど国内と、チリ、メキシコなど海外を転々としたことによるだろう。また鉱山技師の娘として労働者と暮らしたかと思うと、チリでは上流階級の一員として裕福な生活を送り、成人してからは3度結婚して3度離婚し、教師、掃除婦、電話交換手、事務員、看護師などの仕事をしながら4人の子供を育て、アルコール依存症になり、晩年は大学で創作を教えたという経歴にもよるだろう。

そんな彼女の短篇群をどんなふうに語ればいいのか、よく分からない。いくつかの作品を取り上げ、物語を紹介して感想を述べても、あまりに多彩な彼女の小説世界の全体に触れられないように思う。そこで「実人生に材を取った」短篇群から、彼女の人生を引用によって再構成することでその魅力の一端を伝えてみたい。そのため、すべての小説に登場する作者その人らしい主人公を、ある一篇でそう名づけられているように「ルル」と呼ぶことにする。もちろん小説の主人公を作者その人と同一視してはならないのは承知している。でも「ルル」はルシア・ベルリンと同一人物でないにしても、ルシアの影であることは間違いない。

少女時代。両親は裕福な家の出だったが、大恐慌で没落した。ルルは住んでいた鉱山町と母親をこう描く。「ママ、あなたはどこにいても、誰にでも、何にでも、醜さと悪を見いだした。……この鉱山町をあなたはどこよりも憎んだ、なぜなら『町』とも呼べない小さな町だったから。『小さな町のクリシェよ』教室一つだけの学校、ソーダファウンテン、郵便局、刑務所が一つずつ。売春宿が一つ、教会も一つ。雑貨屋の片隅の貸本コーナーが図書館がわり」

小学生のルルは脊椎湾曲症で、「鉄のごつい矯正具を背中にはめていた」(フリーダ・カーロの自画像のような)。「中世の拷問道具のようなものに」つながれる病院の診察で、同級生のボーイフレンド、ウィリーがくれたハートのネックレスにまつわる美しい思い出がある。「お医者さんは、ウィリーにもらったハート形の銀が写ったわたしのレントゲン写真を一枚くれた。Sの字に曲がった背骨、おかしな位置にずれた心臓、そしてちょうど真ん中にウィリーの心臓(ハート)。ウィリーはそれを、鉱物検査事務所の奥の小さな窓に飾ってくれた」

チリでの高校時代。たくさんのメイドがいる豪邸に住み、シャネルに身をつつみ、ホテルでのディナーや舞踏会の日々。ルルは共産党員のアメリカ人教師に誘われ貧民層へのボランティア活動に参加しはじめる。「ゴミ捨て場に行った日は風が吹いていた。砂がきらきらたなびいて、おかゆの上に降った。ゴミ山から立ちあがる人影は土埃をまとって、銀色の亡霊のようだった。だれも靴をはいておらず、足はぬかるんだ丘の上を音もなく動きまわった。……湯気をたてる汚物の山の向こうに街が見え、はるか頭上には白いアンデス山脈があった」。この鮮烈なイメージ!

アメリカに戻ったルルは大学在学中に最初の結婚をする。2人の子供を産み、離婚。2人目の夫はジャズ・ピアニストで、一家はニューヨークへ出た。「二人でニューヨークで必死に働いた。ジュード(夫)は練習し、ジャムに参加し、ブロンクスの結婚式で弾き、ジャージーのストリップ小屋で弾き、やっとユニオンに加入した。わたしは子供服を縫い、ブルーミングデールスに置いてもらうまでになった。わたしたちは幸せだった。あのころのニューヨークは夢のようだった。アレン・ギンズバーグやエド・ドーンがYMCAで朗読をした。大吹雪のなか、MoMAにマーク・ロスコの展覧会を観にいった。天窓の雪ごしに射しこむ濃密な光のなか、絵が生き物のように息づいていた。ビル・エヴァンスやスコット・ラファロを生で聴いた。ジョン・コルトレーンのソプラノ・サックス。オーネット・コールマンのファイブ・スポットでの初演奏」。1960年代だろう。うーむ、ジャズファンなら涎が出る体験。

やがてルルは夫の友人と駈け落ち。2人の子供を産むが離婚。そしてアルコール依存症。「深くて暗い魂の夜の底、酒屋もバーも閉まっている。彼女はマットレスの下に手を入れた。ウォッカの一パイント瓶は空だった。ベッドから出て、立ちあがる。体がひどく震えて、床にへたりこんだ。過呼吸が始まった。このまま酒を飲まなければ、譫妄が始まるか、でなければ心臓発作だ」「考えちゃだめ。今の自分のありさまについて考えるな、考えたら死んでしまう、恥の発作で」

依存症に悩みつつ、ルルは働きながら4人の子供を育てた。掃除婦をしながら、こんなマニュアルを書きつける。「(掃除婦たちへのアドバイス:奥様がくれるものは、何でももらってありがとうございますと言うこと。バスに置いてくるか、道端に捨てるかすればいい)」「(掃除婦たちへ:原則、友だちの家では働かないこと。遅かれ早かれ、知りすぎたせいで憎まれる。でなければいろいろ知りすぎて、こっちが向こうを嫌になる)」「(掃除婦たちへ:猫のこと。飼い猫とはけっして馴れあわないこと。モップや雑巾にじゃれつかせてはだめ、奥様に嫉妬されるから。だからといって、椅子からじゃけんに追い払ってもいけない。反対に、犬とはつとめて仲良くすること)」。こういうひねりの利いたユーモアが、ルシアのどの短篇にもある。あるいはまた、モップでキッチンを掃除しながら、家の主人である医者とこんな会話もある。「ドクターが訊く。きみ、なんでそんな職業を選んだの? 『そうですね、たぶん罪悪感か怒りじゃないでしょうか』わたしは棒読みで答える」。

メキシコに暮らす妹が肺がんになったと知らせてきた。余命は半年か一年。ルルはメキシコシティに飛んだ。その短篇の冒頭。「ため息も、心臓の鼓動も、陣痛も、オーガズムも、隣り合わせた時計の振り子がじきに同調するように、同じ長さに収斂する。一本の樹にとまったホタルは全体が一つになって明滅する。太陽は昇ってまた沈む。月は満ちそして欠け、朝刊は毎朝六時三十五分きっかりにポーチに投げこまれる」。物語の最初からぐいっと心臓を掴まれる。ルシアの短篇の書き出しはなんとも印象的だ。「六時三十五分きっかり」と細部にこだわって時刻を定めることで、それまでの具体的でもあり意識の内側のことでもある時間の流れがぴたりと静止する。そしてこうつづく。「人が死ぬと時間が止まる。もちろん死者にとっての時間は(たぶん)止まるが、残された者の時間は暴れ馬になる。死はあまりにも突然やって来る」

1990年代、アルコール依存症を克服したルルはサンフランシスコ郡刑務所で囚人たちに創作を教えることになった。そのことを題材にした一篇で、ある囚人の書くものが仲間内で才能があると誉められたことについて、ルルはこう答える。「『オーケイ、白状する。教師をやってる人間なら、誰でも経験あることだと思う。ただ頭がいいとか才能だけじゃない。魂の気高さなのよ。それがある人は、やると心に決めたことはきっと見事にやってみせる』」

この一節を読んだとき、「魂の気高さ」はルシア・ベルリンその人のことだな、と思った。生涯背負うことになった脊椎湾曲症と、その後遺症。没落してこの世を呪いつづけた母親との難しい母娘関係。3度の結婚と離婚。掃除婦などブルーカラーとして働きながらの4人の子育て。アルコール依存症。たいていの人間なら押しつぶされてしまう、そんな日々を生きながら創作への意欲を失わず、ぽつりぽつりと短篇を発表しつづけた。自らの絶望的な状況を、母親譲りの辛辣な眼とひねくれたユーモアで見つめながら、ほぼ無名のまま文章を書くことを放棄しなかった。晩年を語った数少ない短篇には、山間の町で、死んだ妹を思い出しながら、ルシアには珍しい穏やかな風景が広がっている。

「つい二、三日前、ブリザードの後にもあなたはやって来た。地面はまだ雪と氷に覆われていたけれど、ひょっこり一日だけ暖かな日があった。リスやカササギがおしゃべりし、スズメとフィンチが裸の木の枝で歌った。わたしは家じゅうのドアと窓を開けはなった。背中に太陽を受けながら、キッチンの食卓で紅茶を飲んだ」。ルシアの晩年にこんな時間が訪れたことをじっくり味わいたい。(山崎幸雄)

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「肉とスッポン」平松洋子

平松洋子 著
文藝春秋社(266p)2020.07.16
1,650円

食に関して多くの著作を残してきた平松洋子の一冊。タイトル通り、肉を食べる楽しさを語り尽くしているのだが、本人は「制御しがたい悦び。・・・いま確かに猛々しい生き物と親しく結び合っている名状しがたいナマの感覚」と書いている程の自称肉好きである。そして「美味い肉は作られる」というのが結論だ。

元来、人間は狩猟と採集で獲得したものを食べて、自然と一体化して生きてきた。天武天皇の肉食禁止令や、仏教の殺生戒の教えによって日本ではおおびらに獣肉を食べられなかった時代が長い。しかしそれでも「薬食い」と称して人々は肉食を続け、馬肉は「さくら肉」、猪は「山くじら・ぼたん」、鹿肉は「もみじ」など隠語で語られるのも庶民の知恵というか反抗心の表れと平松は指摘する。しかし、我が国の牧畜の仕組みは明治期に作り上げられたことを考えれば、長い間、庶民の肉食は野生種を狩りで捕獲するという。自然との共生が保たれていたことに他ならない。しかし、こうした共存の仕組みが長い時間の中で生活様式とともに変化した結果、現代では新たな課題が提起されている。「人間の食料が畜産で使われる飼料として奪われている」「動物の保護」「肉食による生活習慣病の多発」といった多様な議論の根源は、我々が動物との共存時代とはかけ離れてしまっているところに存在しているということなのだろう。

著者はこうした、日本の肉食文化の歴史を踏まえながら、狩猟、牧畜、屠畜、解体といった活動の知恵などを探るために全国の現場を訪れて、それらに携わっている人達から話を聞いている。羊、猪、鹿、鳩、鴨、牛、馬、スッポン、鯨といった生き物たちと向き合っている人達の仕事からは、伝統的な技術承継とともに日々の進化でもあることも語られている。そして、各々の肉を美味い料理にして提供する店にも足を運び、素材の活用の技を紹介している。日本の伝統食にこだわらず、世界の料理の知恵を含めて現代の日本人の食肉文化を俯瞰して捉えている。

本書で取り上げている野生種は猪、鹿、鴨、鯨であるが、各々の捕獲から消費までの環境の違いとともに、仕事・事業としての成り立ちも様々であることが興味深い。

島根県邑智郡美郷町では、猪の被害に苦しんでいた農家がプロの狩猟家に頼らずに自ら狩猟免許をとって、役場と連携して駆除捕獲と同時にそれを資源として活用しているケース。捕獲した猪は「おおち山くじら」というブランデイングをして「夏イノシシ」の淡泊な味を売り物にするとともに、婦人会は猪のなめし革を活用して、クラフト製品を作り、加工食品を含めての肉の販売も積極的である。自治体と住民の一体型の形態はユニークである。

また、石川県加賀市の鴨のケースは伝統の承継に立脚したアプローチである。この地では昭和期には鴨は魚屋で吊るされて売っていたというし、鴨のつがいをお歳暮や結婚式の引き出物にしていたというから、伝統的な食文化として定着していたことが判る。当地の片野鴨池にシベリアから飛来する鴨を「坂網猟」という、日没直後の池から飛び立った鴨をY型の網を宙に投げ上げて捕獲する猟が行われている。この伝統の技術を継承する組合を設立し捕獲量の管理することで持続性が担保されている。

猪、鴨に加えて鹿といった野生種の美味い肉の確保の手順は共通しているようだ。例えば、箱わなで捕獲したイノシシは、ストレスを与えない様に素早くとどめを差し、喉の左側を突いて血液を排出させ、内臓を取り出すことで体内ガスの発生を抑える。こうして一時間以内に解体を終える。屠畜から始まる、こうした素早い作業が鍵である。

一方、飼育して美味い肉を作る努力も紹介されている。北海道の羊飼育は軍服の原料として羊毛を利用するため明治期に函館で始まり、大戦後は1950年代に羊飼育のピークを迎えたものの、1962年に羊肉が自由化され国内飼育はビジネスチャンスを失った。現在の羊肉の自給率は0.5%という。

こうした状況で北海道白糠の「茶路めん羊牧場」が紹介されている。帯広畜産大学で牧畜を学んだ青年が1987年にスタートさせた牧場で現在800頭が飼育されている。飼料には北海道産を使い、取引先の用途によって性別・月齢などによる肉の特性を考慮して屠畜し出荷している。羊は牛や豚と異なり公的な等級や格付がないので、生産者のこうした知見が必要とされるとともに、生産者毎の肉の美味さが消費者から問われることになる。

北海道襟裳岬の短角牛の牧畜は海と陸の連携で成り立っている。明治期に南部牛(短角牛)が襟裳岬に導入されたものの、大戦の影響もあり草原も荒れ、コンブ漁にも大きな影響が出ていた。その襟裳岬の草原や森林の再生事業が1953年に始まったが、豊かさを失っていた隣接する海の再生でもあった。この結果、1965年頃から成果を上げ始めた。著者は半コンブ漁・半牧畜の三代目が経営する「高橋ファーム」を訪ねている。コンブ漁で忙しい夏場には牛は放牧しては掛からず、冬場は里に連れて来て世話をするといったサイクルである。黒毛和牛は脂肪の甘さと肉の柔らかさを売りにしているが、短角牛は放牧されて育った赤身の肉が特徴である。この短角牛の国内の牛の飼育頭数の1%でしかないが、この1%こそ多様性の意義と語っているのも印象的である。

こうした、日本のソウルミートを利用した料理についても詳しく語られているのだが、具体的な店の名前とともにレシピなども紹介されているので、食べに行ってみようと思わせるガイドブック的な要素もある。一例として「パッソ・ア・パッソ」というレストランのシェフは鳩を解体すると肉の状態から屠畜される前の2-3日間の気温などを知ることが出来ると言う。肉を捌きながら、料理するときの熱の伝わり方や肉の水分をどう抜くのかが判るという。そうした季節感の理解を含めて「肉にも旬がある」という指摘になるのだろう。

鳩の胸肉は肉の中に脂が入る肉質ではないので、外から強火で熱が入ると短時間でウェルダンになってしまうという特性がある。また、馬刺しでは、真っ白なサシが入っているのにしつこさを感じないのは馬肉は脂肪の融点が低いからと言われている。こうした、肉質の違い、脂肪の質の違いは当然調理に差が出ることになるのだろうし、その違いを楽しめる料理を作ると言うのが文化としての肉食の歴史と知恵だと思う。

スペインでイベリコ豚の生ハムを切り分けて皿に出されてすぐ食べようとして怒られたとの話も聞いたことが有る。イベリコ豚の脂肪は室温でとけるので、脂肪が溶けだしてから食べるのが一番美味いというもの。ここまでくると、美味いものを食べたいと言う欲の素直な現れという事だろう。

こうした、各種の肉に関する繊細な感覚は我々日本人の一般的な感覚領域にはないのではないか。我々のタンパク源の主力が魚介であった歴史が長く、現在も肉に比較すれば、非常に多くの種類の魚介を多様な手法で口にしている。私は、本書で取り上げられている獣や鳥の肉は全て一度は食べたことが有る。しかし、日常的に食べるわけではなく、特別な食材だ。ただ、本書を読みながら短角牛のすね肉を手に入れてビーフシチューを作ってみようという気持ちになった。時間を掛けて煮込むと美味そうである。内池正名)

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2020年10月17日 (土)

「なぜ、生きているのかと考えてみるのが 今かもしれない」辻 仁成

辻 仁成 著
あさ出版(288p)2020.08.26
1,430円

本書は「ロックダウンしたパリから贈る日々のこと」とあるように、パリ在住の著者が2020年2月1日から6月18日までのコロナ禍の体験をネットにアップしていた文章をまとめたもの。私はこの本を手にする迄、「辻仁成」という人物を知らなかった。プロフィールを読んで1997年の芥川賞を受賞していることを知り、16才の息子と二人きりでパリで生活しているということなど、何やらいろいろな人生を辿った人だということは想像に難くなかったが、テーブルの上に置いておいた本書を見て、家人が「中山美穂の亭主だった人」と教えてくれた。

このコロナという未体験の状況下で、どう考え・どう生活するのかを迷う事も多いものの、終息が見えない中ではその正解は見出しにくいし、世代の違い、文化の違いの中でこの感染症への考え方の違いもあるだろう。そう考えると、家族と共に住み慣れた日本に居る私と違って、著者の置かれた状況は異なった文化、ロックダウンという制約、父親と息子の二人きりの生活といった条件はメンタルにも大きな影響を与えることは容易に想像がつく。それだけに本書から正解を得ようとは思わず、辻仁成の一個人の体験として読んだ。そして自分を振り返って、今をどう生きるかについて考える刺激には事欠かない読書であった。

コロナ禍の半年で、家で考える時間が多く、物事の整理の時間が確保出来たことなど、自粛期間の時間は有効に活用出来たと私は思うのだが、逆に引きこもりストレスが溜まったと言う人も沢山いる。平時の日常生活においても人により疲れ方が違ったり、ストレスの個人差が有る。そうした個人差や環境の差が極端に振れてしまうのが、ロックダウンや自粛の時代なのだろう。辻は「価値観の変化、異常事態をどう受け止めるのか、絶望から希望を取り戻す方法、親子で力を合わせて頑張った日々、これらを書き留めてきた。書くことで希望を手に入れようとしていたような気がする」と記している。

3月17日から5月11日までのパリのロックダウン期間中の体験を読むと、武漢の「都市封鎖」と東京の緊急事態宣言下の「自粛要請」の間の様に思える。パリのロックダウンは外出制限であり、外出禁止ではない。食品・薬品の買い物は出来るし、自宅から1km以内で1時間以内の運動や犬の散歩などは許されている。ただ、外出理由を書いた書面を持っている必要があり、これに違反すると罰金が科せられる。警察は通行人を呼び留めて書面を確認し、自宅からの距離を調べ取り締まる。10日間で26万人が検挙されたとのこと。日本の「自粛・お願い」に比較すると大きな差がある。ソーシャルディスタンス感覚(パリでは1m、イギリスでは2m)や外出時のマスクの徹底度合いは文化の差が大きそうである。ただ、辻が外出する際のスタイルはマスク、メガネ、ハンチング、サージカル手袋と聞くとその徹底ぶりにいささか驚くのであるが、その姿ではパリであろうが日本であろうが違和感を持たれるのではないか。

そして「Stay Home」による人間関係のストレスでDVが一週間で30%増えたことが象徴する様に、多くの人は逃げ場のない人間関係に追い詰められた。一方、異文化に住む辻自身の考え方が語られている。一言で言えば「冷静と情熱の間」が丁度良いというもの。辻は「僕は誰からも負けたことは無い、いやもしかしたら、負けた事に気付かないので結局は負けた事にならない・・」という生き方を示しつつ、自分は攻撃を受けやすい人間として自らをサボテンに例えている。

「全身トゲをまとって人を近づけない。しかし、たまに花を咲かせると誰かが声を掛けてくれる」

こんな自身の分析であるが、本書を読む限りでは、もう少し攻撃的な要素もありそうに思えたのだ。こう言いながらも、辻のパリに於ける近所との付き合いはなかなかポジティブである。多くのエピソードを含めて、散歩途中の近所との会話やカフェ、食料品店などでのやり取りはパリの地区の風土もあるのだろうが、辻の性格だからこそ出来る付き合い方の様に思える。

辻が「心の体操」と言っている一つが「感謝を忘れない」というものだが、日本での医療従事者やその家族に対する偏見と差別のニュースに怒りつつ、パリで有名な毎晩八時になると家の窓を開けて拍手をして医療従事者に対して感謝の気持ちを表わす行動に参加してきたという。5月11日のロックダウンが解除された夜、辻が窓を開けて拍手をすると誰も居ないことに気付く。それでも拍手をし続けると一人二人と隣人が拍手を始めて以前と同じ様子になったという。

辻の息子と二人のステイホームというのも厳しい時間だったようだ。シングルの親は働きながら家事・育児の全てをこなさなければならない。その大変さは想像するに余りあるが、父親が子育てをするとなると大変なことだろう。それも、フランスという外国である。

辻は「親の権利を手渡された時」という言い方をしているので、自分の意志で親権を取ったのではないようだ。 しかし、子育ては単に意地だけでできることではない。我が息子と二人三脚という意味を見つけることが重要だったと言っている。自宅に居て、限られた時間だけ外に出て買い物をして帰ってくるというロックダウンの生活の中で、洗濯、食事作りなど全てを行うことにフラストレーションを感じつつも、特に食事作りには情熱を捧げていることが良く判る。加えて息子に包丁の使い方や火の扱い方などを教え、単に美味いものを食べる楽しみの共有だけでなく、生きるための教育になったとことが良く判る。そして、食べ物に対する感謝の気持ちが息子に育まれたことを喜んでいる。この意味ではコロナのロックダウンを有効活用したということなのだろう。

友人が「国民だから国のルールには従う。でも、心が折れてまで生き残りたくない」と言ったことに対して「もし一人だったらそう考えていたかも知れない。でも息子が居るから・・・」と、時としてストレスの対象になる息子の存在が、救いになったと語っているのも印象深い。

長い歴史の中で人間は集合体として智慧を磨き、仕組みを作り上げてきたが、それらへの構造変化も起こるだろう。加えて、文明によってもたらされた幸福感や達成感などの価値観の変化も確実に起こっている。それらは経済的側面だけでなく、政治的側面へも必ず影響を及ぼす。

辻は渡仏して18年、初めてひっそりとした姿のパリに接し、沈みゆく夕日を見ながら「老境に入った自分を感じた」と感慨している。私を含め団塊の世代であれば日々考えることなのだが、50代で「老境」は早すぎる。こうした気持ちから自分を取り戻す手段として辻は歌を歌うという。何であれ気分を切り替えるスイッチを持っていることは重要だ。

人間が持ち込むストレスとは、我慢、頭を下げる、自分の人格が否定されるといったことが原因である。だから彼はそうした社会・集団には近づかず孤独で良いという。しかし、現代では人と交わらず生きて行くことは不可能だ。必ずストレスが発生する。それだけに「会話」「言葉」の大切さに気付くことになる。同じ「ことば」でも使い方ひとつで「武器」にもなれば「支援」にもなる。その伝える力の多くは論理だけでない、表情や仕草も必要だ。 

孫がこの春、大学に入学した。ずっとオンライン授業が続いているという。「勉強はどうにか進むけど、友達は出来ない」という言葉が切ない。若い人達がこの事態をどう乗り越えて希望に繋げていくのか正念場だ。彼らには「どう生きるか」を考えてもらいたい。一方、本書は、私を始めとした団塊の世代が「なぜ生きているのか」を問い掛けているようだ。(内池正名

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「苦海浄土 全三部」石牟礼道子


石牟礼道子 著
藤原書店(1144p)2016.09.10
4,620円

山田風太郎晩年のエッセイに『あと千回の晩飯』がある。いろいろな徴候から、晩飯を食うのもあと千回くらいなものだろう、という書き出しだった。このとき風太郎72歳。亡くなったときは80歳を超えていたから実際にはその倍以上の晩飯を食ったことになるが、僕自身も70歳をすぎて病気し、あと何回という思いがよく分かるようになった。本を読んでも、映画を見ても、あと何冊、あと何本という気持ちが湧いてくる。一冊も、一本も無駄にできないような気がしてくる。そんな心境になってくると、いつか読もうと書棚に積んである何十冊もの本が気にかかりはじめた。これらの本を、ついに読まずに終わるのか。

そんな積読本のなかで、いちばんオーラを発して手に取ってほしいと訴えていたのが石牟礼道子『苦海浄土 全三部』だ。漢和辞典のように厚いこの本の第一部『苦海浄土』が刊行されたのが1969年。その後、第二部『神々の村』が井上光晴編集の『辺境』に書き継がれたが雑誌の休刊とともに中断。第三部『天の魚』が先に刊行され、全三部が完結したのは石牟礼道子全集が出版された2004年のことだった。単行本として全三部を一冊にまとめた本書は2016年に刊行されている。第一部の出版から50年近く、著者が地方誌『熊本風土記』に書き始めてから60年近くの歳月がたっている。

第一部が刊行された当時は公害を告発するノンフィクションに分類され、桑原史成の写真をカバーや本文あしらった造本もその方向で設計されている。僕もそのようなものとして読んだ。また第一回大宅壮一ノンフィクション賞に内定してもいる(辞退)。その後、彼女の仕事の全貌が明らかになるにつれノンフィクションの枠に留まらないその広さ深さが理解され、現在では戦後日本文学を代表する作品のひとつと評価されている。池澤夏樹が個人編集した世界文学全集(河出書房新社)では日本語の作品として『苦海浄土』ただ一冊が選ばれている。

そんな大きな存在に今さら言うべきこともない。でもせっかく1100ページを読みとおしたのだから、きれぎれの感想でもつけ加えておこう。

『苦海浄土』が文学として評価されるようになったのは、『チェルノブイリの祈り』のスベトラーナ・アレクシエービッチやボブ・ディランがノーベル文学賞を受けたように、世界的に文学の概念が広く考えられるようになった流れと無関係ではないだろう。でも三部作を読んで感じたのは、これは日本の近代文学、たとえば漱石や谷崎や三島とはまったく別の場所から出てきたものだな、ということだった。

まずは三部作の印象を一言ずつ。第一部はひたすら重く、深く考えさせられるのだが、なんとも美しい。途中中断した第二部は、掲載誌の休刊という外側の条件だけによるものでなく、苦渋に満ちている。それに対して第三部は、力強い。

第一部「苦海浄土」を読み始めて、50年前にもそうだったように、石牟礼道子が水俣病の患者やその親や爺さま婆さまの話に耳を傾け、彼ら彼女らになりきって語る、そのカタリの美しさに惹きこまれた。たとえば漁師の妻で患者であるゆき女のカタリ。

「海のうえはほんによかった。じいちゃん(亭主)が艫櫓(ともろ)ば漕いで、うちが脇櫓ば漕いで。いまごろはいつもイカ籠やタコ壺やら揚げに行きよった。ボラもなあ、あやつたちもあの魚どもも、タコどもももぞか(可愛い)とばい。四月から十月にかけて、シシ島の沖は凪でなあ──。/うちは三つ子のころから舟の上で育ったっだけん、ここらはわが庭のごたるとばい。それにあんた、エベスさまは女ごを乗せとる舟にゃ情けの深かちゅうでしょ。ほんによか風のふいてきたばいあんた、思うとこさん連れてゆかるるよ。ほらもうじき」

水俣の海では夫婦が夫婦舟で漁をする。青い海と空の下に浮かぶ小舟に乗って寄り添う二人の至福の風景。しかしそこで採る魚はチッソ工場が海に流した廃液の有機水銀で汚染されていた。苦海が即ち浄土であるような夫婦の愛情。こんなカタリが三部作を通して、さまざまに語られる。その純度の高さにうたれる。

石牟礼道子が患者になりかわって語る、そのきっかけとなった出来事が記されている。彼女がはじめて水俣市立病院を訪れたときのこと。「肘も関節も枯れきった木」のような腕と足で床にころがり、目も見えず言葉も発せず、しかし意識はあって自らの姿に怒り恥じている老患者、釜鶴松の姿を目の当たりにした彼女はこう書く。「この日はことにわたくしは自分が人間であることの嫌悪感に、耐えがたかった。釜鶴松のかなしげな山羊のような、魚のような瞳と流木じみた姿態と、決して往生できない魂魄は、この日から全部わたくしの中に移り住んだ」

そこから彼女は、ゆき女や江津野の爺さまや九平少年や、患者と患者の親、爺さま、婆さま、そして死者に憑依して病気のこと自らのことを語る。その文体から受ける印象はノンフィクションというより、たとえば琵琶法師が琵琶にあわせて語った物語が文字化された『平家物語』に近い。などと訳知り顔で言わずとも石牟礼は自ら、これは浄瑠璃のごときものと書いている。

その一方、当初奇病といわれた水俣病の原因が特定されるまでや、患者の要望に対するチッソ企業の木で鼻を括った回答については、科学的あるいは法律的文章がまるごと引用されている。客観性を装っているだけに、たとえば1959年に結ばれた「契約書」の「乙(患者互助会)は将来水俣病が甲(チッソ)の工場排水に起因する事が決定した場合においても、新たな補償金の要求は一切行わないものとする」といった文面から浮かび上がる鉄面皮と傲岸が際立つ。

水俣市はチッソとともに発展してきた。チッソに勤める者は「会社ゆき」として尊敬され、市民の上層・中層を占めている。行政にも影響力をもっている。そんな地域共同体のなかで水俣病患者の補償を求める行動は会社をつぶすものとして村八分され、奇病は貧しさから腐った魚を食べたせいと差別され、孤立してゆく。それだけに石牟礼の描く、主に零細漁民たちからなる患者になりかわってのカタリが胸をうつ。

第二部でもこの美しいカタリは随所に顔を出すけれど、そこに何本もの亀裂が入ってくる。第一部で夫婦舟を語った患者のゆき女は、夫から捨てられている。市役所に、患者と思しい者から同じ患者の不正受給を訴える密告が届く。そうしたことどもを石牟礼は静かに記す。さらに、患者互助会が二つのグループに分裂する。補償と救済を国の中央公害審査会に一任する一任派と、裁判で争おうとする訴訟派と。

石牟礼は訴訟派に寄り添って、訴訟派の患者がチッソ株主総会に一株株主として出席し、社長と直に話をしたいという行動に同行する。患者のその動きは、裁判になれば社長が出てくる、偉い人と直に話せば分かってくれるはずだという期待と裏腹に、代理人と代理人によるやりとりがつづく法廷に不満を募らせた結果だったようだ。患者たちが白い巡礼着に身をつつみ、鈴をならし、御詠歌を歌い、黒地に「怨」を染め抜いた旗を立てて株主総会に出席し社長と対峙する場面が第二部のクライマックスとなる。

第三部では、一任派でも訴訟派でもなく、新たに水俣病と認定された新認定患者が主役となる。裁判ではなく会社との自主交渉を求める新認定患者たちは、水俣の工場や東京駅近くのチッソ本社内に座り込む直接行動に出た。そのリーダーで、父親も自らも患者である川本輝夫は、水俣近在に潜んでいた患者を掘り起こし、説得して仲間をつくり、座り込みを提起してゆく。石牟礼はその行動に同行した。「自ら(地べたに座る)非人(かんじん)となり、故郷やこの国への疫病神となって」社長にカミソリの刃をつきつけて血書を迫る、石牟礼の描写する川本は、あたかも神話のなかの荒ぶる神のようだ。彼らの直接行動は、学生運動が高揚し挫折してゆく1970年前後という時代背景もあったにせよ、それ以上に、会社や国の「偉い人」の誠意を信じた一任派や裁判という形式に飽き足らなさを募らせた訴訟派の無念と怒りをも背負って、その底から噴き出した自然としてあったろう。

石牟礼は、地域から孤立した初期の患者たちに寄り添い、裁判でたたかうことを選んだグループに寄り添い、さらに直接行動を選んだ尖鋭なグループにも寄り添った。それは患者たちを支援する市民団体のなかで、いろいろな軋轢を生じさせたのではないかと想像する。また、患者を支援する団体のなかで政党や新左翼の政治的な動きもあったろう。

そうした政治的季節のなかで書かれたものは、その時代の価値観のなかでいっとき輝くにしても、時代が変われば往々にして古び、忘れさられてゆく。でも『苦海浄土』三部作が今にいたるまで新鮮な生命力を保ち、いよいよその輝きを増しているのは、石牟礼が時代の価値観に目もくれず、ひたすら患者を見つめ、彼らの声に無条件で耳を傾けつづけたからだろう。

第二部に印象的な場面がある。訴訟派と行動を共にしていた石牟礼が、余命いくばくもない一任派のリーダー、山本亦由を病院に見舞う。

「この人(山本亦由)の全身像を心の中心に据えながら、動き出した事態の中で、見かけ上は、路線のちがう方向へ、心ならずもついてゆかざるをえなかった。/『小父さん』/かろうじてわたしはそう言った。妻女に助けられて顔をあげ、その人は苦悶の表情のまま、かすかにうなずき、じっと私を見た。それがお別れだった。/一人の人間に原罪があるとすれば、運動などというものは、なんと抱ききれぬほどの劫罪を生んでゆくことか。人の心の珠玉のようなものをも、みすみす踏みくだかずにはいないという意味で、そのことに打たれ続けることなしに、事柄の進行の中に身を置くことなど、出来なかった」

チッソ本社内に座り込む自主交渉派といても、裁判でたたかう訴訟派といても、石牟礼の心には一任派のリーダーである山本亦由の存在がその「中心」にいた。それは、初期の水俣病患者が差別と偏見にもがき苦しんでいた時期に、山本がどんなふうに患者たちの面倒を見ていたかを石牟礼は傍らでつぶさに見ていたからだろう。ある女性患者は半狂乱で「小父さん、世論に殺されるばい」と山本宅に飛び込んできた。水俣病を発症した自分の娘だけでなく、ゆき女はじめ、目にあまる患者たちを親切に看病してまわった。一任派の患者たちは、地域共同体の地縁血縁に十重二十重に絡めとられて悩み苦しんだあげく国の斡旋案にハンを押した人々だった。そんな、地域共同体の底にいる人々とそのリーダーの姿が石牟礼のなかには常にある。

『苦海浄土』三部作は、そんなふうにフィクションでありルポルタージュであり、カタリであり歴史の原史料でもあるような多面体として存在している。そのスタイルと中身について常に自覚的だった石牟礼道子は、この作品の成立にかかわるふたつの印象的な言葉を記している。

「私の故郷にいまだに立ち迷っている死霊や生霊の言葉を階級の原語と心得ている私は、私のアニミズムとプレアニミズムを調合して、近代への呪術師とならねばならぬ」(第一部)

「私が描きたかったのは、海浜の民の生き方の純度と馥郁たる魂の香りである」(全集版あとがき)

「近代への呪術師」であろうとしたからこそ、『苦海浄土』三部作はこの国の近代が生みだしたものに根底的な疑問をつきつけることができた。都市や企業や法などといいうものと無縁に生きた「海浜の民」のカタリがあるからこそ、この作品は不変の生命をもつことができた。1世紀をこえる歴史をもつこの国の近代文学のなかで、こういう場所から生まれたものはたぶん他にないと思う。(山崎幸雄)

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