2020年6月17日 (水)

「カブラの冬」藤原辰史

藤原辰史 著
人文書院(156p)2011.1.20
1,650円

「第一次世界大戦期ドイツの飢餓と民衆」とサブタイトルを打たれたこの本は、「レクチャー 第一次世界大戦を考える」というシリーズの一冊。京都大学人文科学研究所の共同研究を基に刊行された十数冊のうちの一冊だ。「カブラ(蕪)の冬」とは、日本ではあまり知られていないが、第一次世界大戦中のドイツで飢餓によって76万人の餓死者が出た事態を指す。1916~17年の冬、食糧が尽きて飢饉となったドイツでは、ふだん飼料として使われることが多かったカブラ(ルタバガ)を食べるしかなく、多くの国民が飢えや栄養失調で死んだ。

ルタバガという野菜には馴染みがない。外見は聖護院かぶらに似ているが、カブとは別種のアブラナ科の野菜。明治期に日本にも移入され北海道で栽培されたが、食用としては広まらなかった。筆者も食べたことはなく、ある人によると「加熱すると甘くなり、食感はジャガイモかカボチャ、香りはキャベツみたい」という。日本で食糧不足に陥った第二次大戦中に米の代用食として食べられたイモ類や穀類のようなものだったのだろう。

この本を読んでみようと思ったのは、著者の藤原辰史という名前にこのところ出会うことが多かったから。食の思想史、農業史の研究者として『給食の歴史』『戦争と農業』『ナチスのキッチン』など次々に本を出している。現在の新型コロナウイルスに関しても、「パンデミックを生きる指針」という文章を発表している(https://www.iwanamishinsho80.com/)。

20世紀初頭、第二帝政下のドイツは工業、科学、軍事が発展してイギリスなど列強に伍し、その秩序に挑戦するほどの経済力を備えるようになっていた。そんな「近現代史上稀に見る先進工業国の飢饉」で、なぜ76万人もの死者を出すに至ったのか。そしてその飢餓体験が、後のナチス台頭とどう関係してくるのか。そんな視点から藤原は「カブラの冬」を読み解いていく。

第一次世界大戦を戦うドイツが飢饉に陥ったのには、大きく二つの理由がある。ひとつは、交戦国であるイギリスが海上封鎖を発動して、ドイツがアメリカやカナダから輸入していた食糧を止めてしまったこと。海上封鎖は1909年に国際法上合法と認められた戦時措置で、敵国の港湾封鎖を宣言した国は封鎖線を越えようとする船舶をどの国籍の船でも拿捕し、戦時禁制品を没収することができる。当時、イギリスは世界最大の海軍力を誇っていたから、「直接の戦闘を避け、遠隔操作で相手国の弱体化を図る」ことに、その意図があった。

もうひとつの理由は、ドイツが食糧輸入大国であったこと。開戦直前のドイツはカロリーベースで全食糧の5分の1を輸入に頼っていた。輸入していた主な食糧は小麦、大麦(飼料)、濃厚飼料(牛乳、バター用)、野菜、鶏卵、肉、コーヒーなど。自給できていたのはライ麦、ジャガイモ程度だった。輸入相手国は小麦の場合、アメリカ、ロシア、アルゼンチン、カナダの順になっている。このうちロシアは交戦国になり、海上封鎖によってアメリカ、カナダ、アルゼンチンからの輸入が激減した。「交通はドイツにとってのアキレス腱」なのだった。

ドイツがイギリス海峡と周辺水域の敵国艦船すべてを攻撃する報復に出たのは半年もたってからだった。その背景には、この戦争は短期で勝てるというドイツの目算があった。ドイツが戦争を始めるとすれば、ロシアとフランスに対する二正面作戦となる。そこで参謀総長のモルトケは、まずフランスを急襲して叩き、転じてロシアを撃つという作戦を立てた。ところがパリ目指してベルギーに侵攻したドイツ軍は激しい抵抗に遭い、「マルヌの戦い」で連合国軍に敗北してしまう。以後、戦線は膠着し、西部戦線は膨大な物資と人員を要する長期の塹壕戦となってゆく。

銃後の日常生活への影響は、開戦の年から既に現れている。インフレと食糧価格の高騰が家計を直撃した。パンや小麦が配給制になり、闇経済も生まれた。やがて配給のパンにジャガイモが混ぜられるようになり、2年後にはパンでなくルタバガが配給されるようになる。

そんな食糧危機のなかで、「豚殺し」と呼ばれる事態が起きた。ドイツ全土で豚が「ドイツの敵」として大量に虐殺されたのである。豚はドイツの食卓に欠かせないものだが、こういう理屈だった。家畜の飼料消費は人間の2倍以上であり、家畜頭数を減らすことで、大量の飼料(ジャガイモなど)を人間に回すことができる、と。標的はとりわけ飼料消費量の多い豚だった。その結果、前年に2500万頭いた豚は翌年には1600万頭まで減った。屠殺があまりに急で、腸詰や燻製にする作業が間に合わず、多くは肥料にされたり、そのまま腐敗してしまった。しかし、そのことで人間に回るはずのジャガイモの在庫量は、屠殺の後でも増えることはなかったという。

そんなエセ科学的精神主義のひと幕の後に、「カブラの冬」がやってきた。1916年は凶作だった。前年に5400万トンの収穫があったジャガイモは2500万トンに激減。秋には食糧危機が深刻化し、飢饉といえる状況に陥った。都市下層民の主食は、パンからルタバガになった。飼料だったルタバガを少しでも美味しく食べるため、「ルタバガスープ、ルタバガ炒め、ルタバガスフレ、ルタバガサラダ、酢漬けルタバガ、煮込みルタバガ団子、ロールキャベツのルタバガ詰め」などのレシピが配られた。豚肉の代わりに、カラス、スズメを食べることも推奨された。

「カブラの冬」の最大の犠牲者は子供と女性だった。飢餓に打ちのめされたドイツ人の憎悪は、敵国だけでなく国内の敵であるユダヤ人と社会主義者に向けられた。その記憶が十数年後、大恐慌の不況のなかで蘇る。「飢餓の反省を最も厳しく、しかも強烈な憎悪とともに内面化したのがナチズム」なのだった。

『我が闘争』に続いて出版されるはずだった『第二の書』のなかでヒトラーは、かつての敵の兵士となら和解できるが、裏切り者とはできない、と述べている。第一次世界大戦のとき、戦闘では勝っていたのに国際的なネットワークを有するユダヤ人と社会主義者、国内の裏切り者が共謀して革命を起こしたためにドイツは敗北した、というわけだ。「背後からの一突き伝説」と呼ばれる。ワイマール共和国時代のナチスの選挙ポスターには、子供や家族のイラストとともに、「飢餓と絶望に対抗せよ! ヒトラーを選べ」「僕たちを飢えさせないで! 飢餓と寒さに対する闘争に身を捧げよ」といったキャッチが印刷されている。「世界恐慌期の日々のパンへの不安がナチ党を政権の座に押し上げる。15年ほど前の飢餓を体験した民衆にとって、飢餓からの解放というスローガンは、それぞれの体験の度合いに応じて、重みを持って受けとめられたに違いない」

最後に藤原は、「20世紀的な暴力感覚」について触れている。ナチスによる空前絶後の暴力の象徴として、アウシュビッツが挙げられる。でも藤原は、フォード工場のような大量生産システムでユダヤ人を虐殺したのと同質な暴力感覚を、イギリスによる海上封鎖にも見ている。敵国の国民を飢えさせることを目的とし、実際76万人の餓死者を出した海上封鎖は、「良心の呵責を感じずに相手国の住民を攻撃でき」、「敵を遠隔操作で消し去る暴力感覚」においてアウシュビッツに先んじ、アウシュビッツと同じものである、と。その暴力感覚は、その後も広島長崎から枯葉剤、クラスター爆弾、ドローン攻撃といった形で現在までを貫いている。「第一次世界大戦以降の時代を生きる人間たちの精神の、おそるべき基調」だと藤原は言う。

ところで、生きるか死ぬかという飢餓の集団体験は現在の日本人にはほぼない。でも「新型コロナウイルス以後」の世界で経済のグローバリズムは停滞あるいは後退するだろうから、食糧だけでなくいろんな物資の実質的「海上封鎖」が起きる可能性は高い。実際、ロシアやカザフスタンが小麦に、インドやベトナムが米に輸出規制をかけはじめた。この国でも食糧の自給率向上が目指されて久しいけれど、実質的な成果が上がっているとは言えない。でもこれからの世界は、地球規模でも一国内でも否応なく食糧やエネルギーのローカル化、地産地消の動きが強まっていくだろう。グローバリズムの弊害が露わになったいま、そのこと自体は悪いことではないと思う。その一方、自国さえうまくいけばよしという自国ファーストの姿勢は新たな分断をつくりだす。第一次世界大戦と大恐慌後の世界はブロック経済化し、ブロック間の競争と対立が第二次世界大戦を生む原因のひとつになった。そんな歴史も踏まえながら、これからの世界がさらに対立と分断を深めていくのか、それを修復する動きが生まれてくるのかに目をこらしたい。(山崎幸雄)

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「漱石と鉄道」牧村健一郎

牧村健一郎 著
朝日新聞出版(328p)2020.04.10
1,870円

私は夏目漱石も好きだし、鉄道も好きだ。だからと言って、その二つを関連付けて考えることはほとんどなかった。あったとしても、松山の軽便鉄道ぐらいなものだろう。しかし、著者は漱石の作品や日記などに鉄道に関する描写が多いことに注目している。例えば、「三四郎」は若者が九州から状況してくる東海道線の中の描写から始まり、「坊ちゃん」は新橋ステーションで主人公が下女の清と別れて四国に旅立つ場面から始まるように、出だしの情景やエンディングで大きな役割を果たしている。社会インフラとして定着して行った鉄道の歴史を詳しく紹介しながら、漱石の作品、日記、書簡などに表現されている鉄道の旅を当時の時刻表や旅行案内などを引用して、具体的に旅を再現して見せる。ちょうど、旅する漱石の向かいの座席に座って同行している気分を味わっているような一冊。

漱石の人生を振り返って見ると、1867年(慶応3年)生れ、大学予備門予科から帝国大学英文科に入学し、1893年(明治26年)に卒業。高等師範、愛媛県松山中学、熊本第五高等学校等で教鞭をとり、1900年(明治33年)文部省より英語教育法研究のため英国出張を命ぜられる。1903年(明治36年)帰国、帝国大学と第一高等学校で教鞭をとるも1907年(明治40年)すべての教職を離れ、朝日新聞に小説記者として就職している。1916年(大正5年)49才で死去。こうしてみると、まさに文明開化を経て、日清・日露の戦いを通して日本が世界に躍り出て行った時代であり、技術的にも政治的にも欧米各国に追いつき、追い越せの時代である。漱石自身も常に先端的な学校制度での教育を受けてきた訳だし、英国留学のチャンスを手にしたということからも、「開化の子」と言われてもおかしくない。

社会変革の象徴としての鉄道は漱石にどんな影響を与え、また、実際に漱石は鉄道をどう利用したのかを解明し、歴史の一コマも見つけようというのが本書の試みである。東海道線や甲武鉄道(中央線)など全国の鉄道、漱石留学先のロンドンの地下鉄、この時代の軍事的にも重要インフラであったシベリア鉄道や南満州鉄道等の進化を漱石の文章と共に俯瞰している。同時代に生きた「漱石と鉄道」という壮大なテーマのもとにページは進んで行く。

本書では、数多くのエピソードが取り上げられているのだが、その一つが「坊ちゃん」の主人公は如何なるルートで四国に行ったのか、というもの。新橋駅で下女の清と別れて、四国の松山とおぼしき地に向かったのだが、小説では新橋駅以降の旅程は省略されていて、いきなり愛媛県三津浜の港に上陸する。「坊ちゃん」が書かれたのは明治39年だが、東京市電の記述内容などから小説の舞台は明治30年頃、漱石が松山中学に赴任したのが明治28年であることを考えると、自らの松山行の体験を書いていると結論付けている。ルートについて荒正人の説に代表される定説は、新橋から神戸経由広島まで列車で行き、宇品港から短距離連絡船で三津浜港に至ったというもの。

しかし、著者は、漱石の知人あての書簡で「7日11時新橋発、9日午後2時当地着」と書いていることと、「坊ちゃん」の中で描かれている三津浜到着の様子からルートの特定について新たな説を提示している。

「ぷうといって、汽船が止まると、艀(はしけ)が岸を離れて、漕ぎ寄せてきた。・・・事務員に聞いてみるとおれは此処へ降りるのだそうだ」

艀がくるとすると乗って来た船は大型船であることが判る。事務員(船員)との会話から察するにこの船はさらに遠くへ行くと思われる。こうした推理から、神戸まで列車で行き、大阪商船が運行していた大型客船による神戸発、三津浜経由宮崎行か宇和島行に乗ったのではないかとの思いに至る。 

私は、このような分析をしながらの読書はしないのだが、著者の分析が正しそうに思えるのも漱石が小説を書くにあたって単なる想像でなく、時刻表を基にして表現していたという著者の仮説に説得力はあるし、漱石がまめに日記をつけていたこともあり、自らの旅の記憶や記録から小説に仕上げているという事が言えるのだろう。

もう一つの興味をもったテーマが「すれ違う漱石と伊藤博文」というものだ。漱石は明治42年9月2日から満州を旅している。当時南満州鉄道総裁だった中村是公は漱石の学生時代の下宿仲間であり、その誘いもあっての邂逅の旅行だった。一か月に及ぶ満州の旅を終えた漱石は10月13日に韓国に入り、ソウル9:00発の直行急行に乗り釜山に18:30に着く。日記には「すぐ船に乗る。・・10月14日8時下関着。」とあるから、釜山20:00発、翌7:30下関港着の連絡船が該当する。その後、下関から広島に入り、「昨晩(10月14日)広島発午後9時30分発の寝台で寝る。夜明方神戸着。大阪にて下車」後、大阪朝日本社を訪ねている。「TRAIN SERVICE 時刻表(明治43年)」から、広島発21:34発の寝台急行が神戸着6:22、大坂着7:22なのでこの列車と特定できる。

一方、伊藤博文は新聞記事から動き方が判る。「十四日午後五時二十三分、大磯通過の急行列車を特に停め・・・満州行きの途に就く」(東京朝日)。時刻表には新橋15:40発の下関行急行が有る。この列車は大船発16:57、国府津着17:36だから、大磯17:23とはピッタリである。それにしても、大政治家とはいえ、急行列車を特別に停めさせるというのも時代である。そしてこの急行は翌15日の6:20大阪、7:17神戸に到着し下関に向かう。

「つまり、二人を乗せた列車は明治42年10月15日朝7:00頃、東海道線の阪神間で轟音とともにすれ違い(既に東海道線は複線化されている)、そして東西に別れていった。」

数日後、漱石は伊藤が暗殺されたとの報を聞く。二週間前に自身が訪れたハルピン駅で中村是公と並んでいた伊藤博文が殺された事実は漱石に深い思いを抱かせたと思うが、漱石は阪神間で伊藤とすれ違ったことは知らない。

この他、楽しい検証も紹介されている。大正元年、病気も進んでいた漱石は妻鏡子を同行して長野に講演に行っている。日記には軽井沢駅のホームを「逍遥」したと書かれている。信越線は明治26年に碓氷峠越えをアプト式機関車の導入で開通し軽井沢では機関車の付け替えもあり停車時間が長かった。明治30年頃には軽井沢駅では立ち食いの駅そばが商売を始めており、著者は「この逍遥の間、妻の鏡子を車内に残して、漱石は一人蕎麦を食っていたのではないか」と想像は膨らむばかりである。

一方、漱石は鉄道について、かなり否定的な物言いをしているという著者の指摘は新鮮であった。「草枕」の中の、「何百という人間を同じ箱に詰めて、轟と通る・・・・汽車ほど個性を軽蔑したものはない。文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によって、この個性を踏みつけようとする。・・・・あぶない。気を付けねばあぶないと思う」というもの。近代化の象徴ともいえる鉄道を警戒しつつ、その利便性は充分に活用したという著者の指摘は正しいのだろう。

しかし、漱石は鉄道に止まらず、先端技術の進歩とともに近代化がもたらす本質的な負の部分をも引き受けて、抱え込まなければならなかった姿が病気と闘い続けた彼の人生そのものである。ナイーブであるだけにストレスは高まり精神をすり減らし、胃潰瘍も重症化していったに違いない。それにしても、明治という変革期を49才で駆け抜けた漱石の残したものがいかに多いかを再認識させられた一冊である。著者は「漱石」以上に「鉄道」が好きだと断言できる。(内池正名)

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2020年5月16日 (土)

「その犬の名を誰も知らない」嘉悦 洋著、北村泰一監修


嘉悦 洋 著、監修 北村泰一
小学館集英社プロダクション(344p)2020.02.20
1,650円

監修の北村泰一は1956年の南極観測第一次越冬隊員。当時25歳の京都大学大学院生でオーロラ観測を主任務にするとともに、犬ゾリの担当をした。昭和基地に15頭のカラフト犬を残し無念の帰国を余儀なくされたが、再度第三次越冬隊員として南極に行き「タロとジロ」に再会した人物である。現在89歳となる北村は第一次越冬隊の最後の生存者である。著者の嘉悦洋は西日本新聞社で社会部や科学分野の記者経験を持ちメディアの業界で生きてきた。

2018年に北村が健在であることを知り、「何故犬たちを置き去りにしたのか」「どのような思いで第三次越冬隊に志願したのか」「タロとジロ以外の犬はどうなったのか」「タロとジロは何故生き延びられたのか」等について北村自身への取材が実現した。この対話の中で、北村からタロとジロ以外の第三の犬が昭和基地に生存して居たという話を聞き、その犬を突き止めることに著者の視点は移っていったという。本書は60年という時間を戻し、南極体験を振り返りながら、第三の犬を解明のための北村と嘉悦の共同作業の記録である。

1956年末の南極観測船宗谷の出港のニュースは小学校3年生だった私も良く覚えている。国の期待を背負い、敗戦国として新たな発展を世界に示すイベントでもあった。南極と言う言葉の持つ挑戦の意味は同年5月の日本隊によるマナスル初登頂とともに子供心を揺さぶるには十分であった。しかし、第二次越冬隊の断念により、15頭のカラフト犬を昭和基地に置いて帰国せざるを得なかった事態に、国内で轟轟たる非難の声が上がったのを思い出す。メス犬のシロ子と8頭の仔犬たちを全て救出してきたという話もかき消してしまう程のバッシングだった。

だからこそ、その一年後に北村が昭和基地でタロとジロの生存を確認出来たときには皆が驚きとともに歓喜したということが強烈な記憶として残っている。逆に言うとそれしか記憶がないと言ってもいいのかもしれない。それだけに、懐かしい記憶を蘇らせてくれるとともに、カラフト犬の性質や南極越冬隊の活動を詳細に理解した上で謎解きに挑戦する楽しさを味わえる一冊である。

本書の前半は、日本の南極観測参加が認められ、その準備活動から北村の第一次越冬体験が書かれている。雪上車だけでなく、犬ゾリを利用すると言う決定に基づき、北海道内から20数頭のカラフト犬のオスの成犬が訓練の為に集められた。そして、タロとジロと名付けられた生後3ヶ月の仔犬も南極で犬ゾリ犬として育成させたいとの思いで選抜されている。この若さが謎解きの一つのヒントになる。

国内で訓練を重ねてはいるものの、未知の南極大陸で遭遇する困難な状況に対応しながら、越冬中に四度の犬ソリによる内陸調査が実施されたがタロとジロはまだまだ二軍であった。内陸調査は往復435km27日間という行程と聞くと、隊員と犬たちの一蓮托生の観測だったことが良く判る。一年間の越冬活動を経て、第二次越冬隊の到着を待つことになる。

第二次越冬隊を乗せた宗谷は1958年の初め、ブリザードの影響を受けて氷原に閉じ込められたまま流され140kmに迫っていた昭和基地から遠のくばかりであった。こうした状況下で、まず北村を始めとする第一次隊員が宗谷に収容されることになり、オスの成犬は首輪を穴一つきつく締めて首抜けをしない様に繋いだうえで、第二次先遣隊3名の隊員に引き継ついだ。

その間、宗谷の救援に駆けつけた米国のバートン・アイランド号の艦長から、氷状の悪化から、至急外海に離脱すべしとの勧告を受ける。第二次先遣隊の三人も昭和基地を撤収し、その後も天候は回復しないまま第二次越冬は断念したことから、15頭のオスのカラフト犬は昭和基地に残されることになった。

帰国した隊員たちを迎えたのは第一次越冬の成功よりも、カラフト犬を残して帰国したことへの激しいバッシングだった。犬ゾリ係でもあった北村は犬たちの首抜けを避けるために首輪をきつく締め第二次隊に引き継いだことに、カラフト犬が生き残るチャンスを奪ってしまったと激しく後悔したという。そして、もう一度南極に行き雪に埋もれた15頭を見つけてやる事をけじめとして第三次越冬隊への志願をするという流れは、もはや研究者という立場を越えて、彼を突き動かしていたと言える。

こうして、北村は第三次越冬隊員として参加し、宗谷からヘリコプターで昭和基地に向かった第一便の隊員から、動き回る二つの黒い点を発見したと報告を受けて昭和基地に向かう。そして、タロとジロとの歓喜の再会を果たす。一方、北村たちは雪の下に埋もれているカラフト犬たちを捜索し、ひと月近く経ったときやっと、一頭の首輪を見つけ、それを中心に探索し一頭の遺体を見つける。犬たちは4m程離して繋がれていたが、彼らは小さな群(2-3頭)をつくるように首輪や遺体が残されていた。結果遺体発見7頭、不明6頭、生存2頭と判明した。これで、北村の犬たちに対する落としどころを見つけられたと言える。

そして、主題の第三の犬の解明になる。北村が超高層地球物理学の研究に追われ、南極に係わることが少なくなっていた1982年に第九次隊員と話す機会を持った。そこで、1968年に昭和基地で一頭のカラフト犬の遺骸が発見されていたという事実を知らされる。この年は第四次越冬隊員で行方不明となった福島紳隊員の遺体が発見された年である。「第九次観測隊夏隊報告」には福島隊員の遺体発見の報告は詳細にあるが、カラフト犬遺体発見の記述は一切ない。また、当時の新聞を中心としたメディアの報道にもこの犬の遺体発見は無かった。その犬は不明6頭の内の誰なのかを解明することは遅々として進まなかったものの、嘉悦という協力者を得て真相解明を再開させる。

膨大な公式記録を読み解きながら、第八次越冬隊報告の中に「今年の夏は昭和基地の気温が極めて高く、融雪現象が激しかった。そのため第一次隊が残したカラフト犬の遺骸すら発見されている」という唯一の記載を見つける。そして、各地に散らばる第九次隊員への聞き取りを続け、「発見場所はカラフト犬の係留地近く」「大きくはない体格」「少なくとも黒色でない体毛」といった断片的な情報を得ながら、6頭の中から第三の犬の候補を4頭に絞り込んで行った。

タロ・ジロが食べ物をどこで得ていたのかについては、首輪が抜けなかった5頭の遺体は全てきれいに残っていたこともあり、一時期流布された共食説は否定された。北村が考えたのは、昭和基地の近くの海水域の氷原につくられた食糧貯蔵庫である。そこは一度海水が流入した事故が有り、海水に浸かってしまった肉類は残置されていた。また、犬ゾリで内陸探査の際に一定距離に作っていた食糧デポがある。これらを犬たちは理解していたはずだ。しかし、タロ・ジロという幼く経験の浅く、方向感覚の未熟な犬だけでは、それらを利用するには限界が有る。そのためには保護本能とリーダーシップを持ったベテラン犬の力が必要だったと考え、北村と嘉悦は第三の犬はリキというリーダー犬であるという結論にたどり着く。

首輪を抜け、鎖の束縛から逃れ自由になったタロ・ジロ以外の成犬は基地から逃れたいと考えて北海道を目指したのかもしれない。しかし、タロとジロは幼い時に南極に来たため昭和基地こそがかれらの故郷だったので動かなかった。一方リキは、タロとジロが彼を頼ったこともあり、彼らとの共同戦線を張ったのではないか。そして、食糧のある場所にも十分訓練された能力を駆使して到達していたに違いない。加えて、リキが昭和基地に踏みとどまったのは人間が戻ってくるのを待っていたのではないか。犬には死の概念がないため、人を待ち続けることが苦痛でないという。しかし、第三次越冬隊が昭和基地に到着する前にリキは息絶えた。当時のカラフト犬の寿命は7~8歳と言われていたが、昭和基地に置き去りにされた時点で7歳だったリキとしては最後まで力をふり絞った結果だったのだろう。

次の北村の言葉が切ない心境を表している。

「北村は小さく息を吐き、『タロとジロに再会したあの時に、リキはすぐそばに埋もれていたんですね。待ち続けていたのに・・・』といって私をみつめた」

犬ゾリを引くと言う集団行動の訓練の重要性、リーダー犬の不可欠さ、極限環境でも小さなグループで生き延びる努力をすることなどは人間の世界とよく似ている。個々の特性を生かしながら協力する姿はプロジェクトのあり方とそっくりだ。

北村は南極で活躍したすべての犬たちが頑張り死んでいったことを知ってもらいたいとの思いを語っているが、それは人間と犬たちの信頼関係の証でもある。使役犬としての犬たちの忠実さはまさに相互の信頼関係と人間の愛情で成り立っていると思う。そして、その関係の延長に家族の一員としての犬たちが居る。人間と犬との深い世界は極限で良く判る。内池正名)

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「疫病と世界史(上・下)」ウィリアム・H・マクニール 「疫病と世界史(上・下)」ウィリアム・H・マクニール


ウィリアム・H・マクニール 著
中公文庫(上280p・下304p)2007.12.20
各1,320円

新型コロナウイルスで「ステイ・ホーム」を強いられている。報道やウェブで日々の感染者数に一喜一憂したりする。でもこういう機会だから、コロナウイルスと感染症がどういうものかを勉強してみたい。というわけでたどりついたのが1976年に書かれた本書。20年ほど前にベストセラーとなったジャレッド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』のタネ本と言われている。

『銃・病原菌・鉄』では、スペイン人植民者が持ち込んだ疫病によってメキシコや南米の先住民人口が激減し、アステカ文明やインカ文明が滅んだ例が取り上げられていた。この『疫病と世界史』はもっと長い時間軸を取って先史時代から現代まで、疫病が世界史にどんな影響を与えたかが俯瞰されている。マクニールによると、彼がこの本を書く以前、歴史家にとって疫病は本格的な興味の対象でなく、もっぱら好事家が取り扱う分野だったという。だからこの本は、歴史家が初めて本格的に疫病という視点から世界史をながめたオリジナルな仕事と言えるだろう。

といって全体を紹介する余裕も力もないので、先史時代、中世ヨーロッパの黒死病、近代について、興味あるところをスケッチしてみたい。

何百万年も前、人類の祖先が熱帯雨林で暮らしていた間は、人類と人類(宿主)に寄生する寄生体との関係は安定していた。ところが人類が森からサバンナに進出し、道具や武器、言葉を獲得して動物を狩るようになり、食物連鎖の頂点に立ったことで生態のバランスが狂いはじめた。人類はサバンナの草食獣との接触によって新しい寄生体に侵されることになる。また連鎖の頂点に立ったことで人類の数が増えることになり、寄生体が宿主から宿主へ移動する機会も増えた。人口増加した人類は寄生体の側から言えば絶好のエサ場となったわけだ。「そこで、ある決定的な限界を突破すると、感染症は奔流のように過剰感染となって爆発する」。

時代が下って農耕が生まれると、寄生体にとって更に好都合なことが起きた。焼畑農業で生まれた空地は蚊の繁殖場所となり、マラリアが猛威をふるいだした。メソポタミア、エジプト、インダス河流域で灌漑農業が始まると水辺で働く農民に吸虫類が寄生し、住血吸虫症を引き起こす。家畜やイヌを飼うことで、ペスト、黄熱病、狂犬病、インフルエンザなどの感染症が動物からヒトへと移った。

やがて都市が生まれ人口密度がある限界を超えると、バクテリアとウイルスは中間宿主に頼らなくともヒトの間で生存が可能になる。「だから、中間宿主なしに直接ヒトからヒトへ移動する、感染性のバクテリアないしウイルス疾患は、とりわけ文明特有の病気なのである」。はしか、おたふく風邪、百日咳、天然痘などが次々に感染爆発し、やがて人々に免疫が生じて、抗体を持たない子供だけが罹る小児病や、ある地域だけに残る風土病となる。そんなふうに新しい病気が発生し、何度かの波があり、沈静化するまでには120~150年かかるという。

次に中世ヨーロッパの黒死病。著者は「ひとつの仮説」として、こう述べる。13世紀半ば、モンゴル軍が雲南省とビルマを掠奪した折にペスト菌を持ち帰り、モンゴル高原に繁殖するネズミの間で繁殖することになった。ペスト菌はやがて中国にも侵入する。一方、北アジアには東西を結ぶ隊商路があり、ペスト菌は隊商が運ぶ食料を食うネズミと、ネズミにたかるノミとともに西へ西へと旅してクリミア半島に到達する。そこから船に乗って地中海や北ヨーロッパの港町へと広がり、内陸へのびる放射状の道路を伝って、ヨーロッパと中東のほとんどの地域がペスト菌で汚染された。

隔離検疫という考えが生まれたのは14世紀イタリアだった。ペストの疑いのある港から来た船は40日間、陸上との交渉を絶つべし、と定められたのだ(検疫quarantineの語源はベネツィア方言の「40日」)。ペストの襲来は17世紀まで繰り返され、そのたびに症状が変わって激甚化したり弱まったりした。14世紀半ばの襲来では、4年間でヨーロッパ総人口の三分の一が死んだという。

ペストによる人口減は深刻だった。14世紀、農耕など単純労働に従事する労働力が少なくなって、それまでの社会経済秩序がヨーロッパ各地でさまざまに変化することになった。東ヨーロッパではユダヤ人によって市場主導型の農業が発達した。また労働力不足と市場経済が実質賃金の上昇をもたらした地域もあった。そこでは労働者は毛織物の服を購入でき(この時期、ヨーロッパは寒冷化していた)、貧民でも完全に肌を覆う衣服を着られるようになった。そのことで皮膚から皮膚へ感染するハンセン病やフランベジアの流行は下火になったが、一方、シラミと南京虫が媒介する発疹チフスが蔓延するようになった。

ペストは人々の心にもさまざまな影響を及ぼした。悪疫が引き起こした憎悪と恐怖は、異様な鞭打ち苦行者の集団を生みだした。彼らは互いに血みどろになるまで打ち合い、ペストをばらまいたと見なされたユダヤ人を襲撃することで神の怒りをやわらげようとした。鞭打ち苦行者は教会と国家の権威を認めず、彼らの祭祀は集団自殺の観を呈したという。説明のつかない突然の死を前に人々は従来の神学を信じられなくなり、神との霊的合一をめざす神秘主義が流行した。こうした反教権主義はやがて宗教改革を生む一因ともなった。

一方、イタリアの諸都市は隔離検疫や行動規制を取り入れ、食糧の供給を確保してペストに素早く対処することができた。その活力がやがてルネサンスを生みだす基盤ともなる。「一言にして言えば、ヨーロッパは新しい時代に入っていったのだった」。

19世紀末、コッホによってコレラ菌が発見された。以後、近代医学は次々に病原菌を発見し、予防と治療を効果的に行えるようになった。その結果、マラリア、高熱病、発疹チフス、結核といった感染症を世界的にかなりの程度抑え込めるようになった。1970年代、WHOは天然痘の根絶に成功し、人類と感染症の戦いは人類の勝利に終わるかに見えた。が、感染症を引き起こす微生物が反撃を開始した。その最初の一撃がエイズだった。「自然界の複雑に絡み合った生態的関係に、人類がなんらかの新しい手段を考え出して改変の手を加えるときには、必ずそうなると決まっているのだが、1880年代以来医学研究が達成した微細な寄生生物の制御ということは、予期せざる無数の副産物と新しい危機」を生むことになった。

例えば「病原生物が突然変異を起こす可能性」。変異を繰り返すインフルエンザが典型的だ。また例えば、「正体不明の寄生生物が、馴れ親しんできた生態系地位を離れ、……密集する人類を襲い……高致死性の病気に見舞わせる」可能性。いまパンデミックとなって世界を震撼させている新型コロナウイルスがこれに当たる。

本書はこう結ばれている。「人類の出現以前から存在した感染症は人類と同じだけ生き続けるに違いない。そしてその間、これまでもずっとそうであったように、人類の歴史の基本的なパラメーターであり、決定要因であり続けるだろう」。

つまり僕たちがステイ・ホームしている日々は、人間と感染症との未来永劫終わることのない戦いの、ある一コマだということだ。異常な日々でなく、世界史のなかに置いてみれば、過去にあり未来にもあるうる、ありふれた一日なのかもしれない。それ以前の、ウイルスの恐怖を知らなかった日々は、むしろ幸運な谷間の例外に属していたことになる。

数世紀に及ぶ中世ヨーロッパのペストは、市場経済や宗教改革やルネサンスを生む一因となったように、社会を変え人々の心をも変えた。とすれば、もし新型コロナウイルスが制御できずこれから数年、いや数十年にわたって間歇的に世界を襲うとするなら、「コロナウイルス以後」の世界はどういうものになるのだろうか。

グローバリズムの結果としてある貧富の格差拡大は、さらに激しくなるのか。人々の不安と恐怖が生みだす強権的な国家が地球を覆うことになるのか。この数カ月、各国でアマゾンの需要が増えネットフリックスの会員が増加したように、GAFA+Nの独占的な支配がいよいよ強化されるのだろうか。

そんな構造的な変化に目をこらしながら、僕たちが日々のなかで気をつけなければいけないのは、現代的「鞭打ち苦行者」にならないことだろう。「鞭打ち苦行」を生んだ基盤は、今の僕たちが感じているのと同じ不安と恐怖。それが合理的な説明のつかなかった当時、理由もなく自分を鞭打ち、ユダヤ人襲撃のように他人への敵意にたやすく転化した。

それは自分にも起こりうる。散歩していて、向こうからマスクをせずジョギングする人が来る。荒い息をしている。すれ違うまでのわずかな間に、どうするかを決めなければならない。できるだけ脇へ避け、目を合わせずに距離を取ろうとするか。相手の目を見て、抗議の意味をこめ無言でにらむか。そのとき、心のなかには小さな敵意が芽生えている。

心のなかに不安と恐怖があり、目の前に混乱する現実がある。その現実を前にして、「鞭打ち苦行者」のように人は自罰感情あるいは他罰感情に捉われやすくなる。自罰感情は、混乱する現実から目をそらし自分の巣に閉じこもろうとする。でもそれは逃げているのだからどこかに無理が生じ心身の不調を引き起こしやすい。他罰感情は、自分から見て悪しき行いをなす人間を名指し、罰しようとする。小さな敵意が積み重なり、集団になり、それが「正義」を背負ったりすると、他者に対する断罪となる。

現にウイルス感染が少ない県の行楽地では、他県ナンバーの車を見張ったり傷つけたりする自警団的な動きが生まれている。「自粛」に反して営業している店に警告して回る自粛警察も生まれている。SNSには、他者の行いや意見を非難する匿名の悪口雑言があふれている。いやあな気分だ。

そんな自罰感情にも他罰感情にも振り回されず、自分で判断し、自らの行動を決めるにはどうしたらいいのか。答えは出ないけど、少なくとも本書のように感染症について長い時間軸のなかで考えてみることは何がしかの余裕をもたらす。と、ここまで書いてきて、ふたつの言葉を思い出した。自罰にも他罰にも陥らないために、それを書き記しておこう。

ひとつは他者への態度で、封鎖された武漢から発信された作家・方方の日記の一節。「一つの国が文明国家であるかどうかの基準は、高層ビルが多いとか、クルマが疾走しているとか、武器が進んでいるとか、軍隊が強いとか、科学技術が発達しているとか、芸術が多彩とか、さらに、派手なイベントができるとか、花火が豪華絢爛とか、おカネの力で世界を豪遊し、世界中のものを買いあさるとか、決してそうしたことがすべてではない。基準はただ一つしかない、それは弱者に接する態度である」(DIAMOND online、2020年3月6日)。

もうひとつは自分への態度で、鴨長明『方丈記』の一節を蜂飼耳の現代語訳で。「もし、念仏をするのが面倒になり、読経に気持ちが向かないときは、思いのままに休み、なまける。それを禁ずる人もいないし、誰かに対して恥ずかしいと思うこともない。無言の行をするわけではないが、一人で過ごしているから、何かを言ってしまうという失敗も生じない。戒律を絶対に守ろうというのではなくても、破らせる環境ではないから、破る結果になりようがない」(山崎幸雄)

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2020年4月18日 (土)

「鶴見俊輔伝」黒川 創

黒川 創 著
新潮社(568p)2018.11.30
3,190円

最初に買った鶴見俊輔の本は『限界芸術論』だった。1973年のことで、当時僕は週刊誌記者として芸能担当をしていた。この本は漫才や流行歌、雑誌や広告など後にサブカルチャーと言われるものを論じて、自分の興味とも仕事とも重なるところがありそうなので買い求めたと記憶している。

もちろん鶴見俊輔の名前はそれ以前から知っていた。雑誌『思想の科学』の中心メンバーとして、そして活発な市民運動を繰り広げていたべ平連(ベトナムに平和を! 市民連合)の創設メンバーとして。でもそれ以上に鶴見俊輔の名前を強烈に意識したのは、吉本隆明対談集『どこに思想の根拠をおくか』に収められた、書名と同タイトルの対談だった。ここでは60年安保反対運動に際しての二人の思想と行動をめぐって、互いに共鳴しながらも立場の違う両者ががしがし噛みあう、いま読んでもスリリングなものだった。学生時代に読んで傍線を引いた部分を引用してみよう。

「吉本 いや、ぼくはそうは思わないですね。あいまいさは残らないのだということが一つの原理としてくみ込まれていなければ、それは思想じゃない。……僕は思想というものは、極端にいえば原理的にあいまいな部分が残らないように世界を包括していれば、潜在的には世界の現実的基盤をちゃんと獲得しているのだというふうに思うんですよ。……

 鶴見 私は思想として原理的に定立するのは、あくまでも思想のわくぐみの次元のこととして考えるんです。それを現実とからめて考えるときには、かならず適用の形態で、こういうふうにも適用できる、別のふうにも適用できると、あいまいさが思想の条件として出てくる根拠があって、……思想が状況とかかわる場合には、どうしてもあいまいさは排除できないと考えるのです。

 吉本 そこが私とちがうところだ。

 鶴見 そうですね。いつもそれを感じています」

これを読んだときは20歳前後だったから吉本隆明の原理的で直線的な言葉に惹かれたけれど、一方で鶴見俊輔の言う「あいまいさ」も心に残った。その後、鶴見の著作を読むようになって、これもありうる、あれもありうるという「あいまいさ」が彼の幅広い関心やさまざまな活動の底に常にあり、それが論ずる対象や他者に対する寛容な眼差しを支えていたことに気づいた。

『鶴見俊輔伝』は、子供のころから鶴見の周辺にいて晩年まで近くで接した著者による伝記。『思想の科学』編集委員を務め、鶴見との共著もあり、私生活も知りつくした著者でなければ書けないものになっている。それを全体として評価する力は当方にないので、へえ、そうなんだ、と思えた個所を拾ってみる。

鶴見「俊輔」という名は、初代総理大臣・伊藤博文が若年に名乗った「伊藤俊輔」から来ている。鶴見は祖父が台湾総督府長官、満鉄総裁などを務めた後藤新平、父が作家で政治家の鶴見祐輔という名門に生まれた。後に鶴見は父を「一番病の優等生」だったと批判しているが、父は総理大臣になる野心を持って息子に「俊輔」と名づけた。母は夫・祐輔のそんな野心を空しく感ずる人で、息子・俊輔に「厳しいしつけと過剰な愛情」で臨んだ。俊輔はそんな両親の期待を裏切るように中学時代に不良になり、年上の女給と関係を持ったり、自殺未遂を起こして学校を退学した。

3枚の写真が収められている。一枚は小学校時代だろうか、有名家庭のお坊ちゃんとして雑誌に登場したもの。洋館のある庭で、半ズボンにネクタイ姿でサッカーボールを持ち、いかにも戦前の上流階級の雰囲気を感じさせる。あとの二枚は十代で両親や家族と一緒に写っている。こちらになると俊輔は身体も首も斜めに構え、横目でカメラを睨む。不敵な面構えの不良少年。だが父と母への複雑な思いから「自罰的な意識」が鬱を引き起こし、それは後々まで尾を引いた。60年安保後に鬱を発症したときは、「鶴見俊輔」という名前を書けなくなったという。「鶴見」も「俊輔」も、彼にとってそれほどまでに過重なストレスを感じさせるものだったのだろう。

第二次大戦中、鶴見は海軍軍属となり通訳としてジャカルタで働いていた。このとき彼は、黒川が「この自問は、戦後を生きていく上で、終わらずに続くものとなった」と書く出来事に遭遇している。あるとき、インド人捕虜がジャカルタに連れてこられた。捕虜を持て余した軍は鶴見の隣室の軍属に殺害を命じる。殺害後、その軍属は「毒薬を飲ませたが、死なない」「ピストルを続けざまに撃つと、土のなかのうめき声が途絶えた」と鶴見に話す。鶴見はその記憶を忘れることができない。「捕虜殺害の命令は、偶然にも、自分の同僚に下った。だが、その命令が自分に下っていたらどうしたか? 自殺しただろう、と考えることはできる。だが、……逃れられずに、やはり自分も捕虜を殺したかもしれない。だとすると、戦場で一度は人を殺した者として、自分は、その後をどうやって生きることになっただろうか?」。内心でそんな疑問にさいなまれながら、この時期に鶴見は日本軍やドイツ軍の士官用慰安所をつくる仕事にも従事している。

こうした体験から鶴見は、「なぜ悪が存在しているのかという問いは、なぜ不完全なものが存在しているのかという問いと同じである」というタゴールに触発されて「悪の問題」を考えはじめる。自分を含めた人間の「悪」「不完全さ」「どうしようもなさ」。そういう人間への認識が、鶴見が書くもの、しゃべる言葉の背後にはいつもあるように思う。先の「あいまいさ」もそれにつながるだろう。「自分の体験について繰り返し考え、その体験についての態度を決めるというなかで、体験の記憶の仕方、これの保持の仕方が、そのまま理論になっているような思想の方法があると思うようになった」(鶴見)。そうした認識の延長線上に戦後の「転向」共同研究や、べ平連の結成、ベトナム戦争での米国脱走兵の援助、さらには日本軍の従軍慰安婦に謝罪し償い金を渡す「アジア女性基金」の呼びかけ人を引き受けたことなどがあるのだろう。

「アジア女性基金」を巡っては、こんな発言もしている。それがまた、いかにも鶴見らしい。「慰安所は、日本国家による日本をふくめたアジアの女性に対する凌辱の場でした」と語った後、彼はこう続けている。「私は不良少年だったから、戦中に軍の慰安所に行って女性と寝ることは一切しなかった。……だけど、十八歳ぐらいのものすごいまじめな人間が、戦地から日本に帰れないことがわかり、現地で四十歳の慰安婦を抱いて、わずか一時間でも慰めてもらう、そのことにすごく感謝している。……この一時間のもっている意味は大きい。私はそれを愛だと思う」。この発言(1997年)は当時も物議をかもした。どう見ても「政治的に正しい」言葉とは思えない。でもそれをあえて言ってしまうのが、戦中の体験を考えぬくことから戦後の自分の方法を見いだした鶴見の、いかにも鶴見らしいところだ。黒川は、こう評している。

「自分と同世代の死地に赴いた少年兵士たち、彼らに代わって、世話になった慰安婦の女性たちに、いま、お礼を述べておく──。これは、まちがった振るまいであるのかもしれない。だが、それを承知で、このとき鶴見が言い残しておきたかったものは、そういった気持ちだったのではないかと、私は感じている」

鶴見はたくさんの著作を残したが、ある時期から「伝記」に力を注ぐようになった。「黒岩涙香」『高野長英』『太夫才蔵伝』『柳宗悦』『夢野久作』などがそれに当たるだろう。僕は「黒岩涙香」しか読んでないのだが、個人の事績を時系列でたどる堅実な伝記というより、人間を「地理と社会史のなかに一個の現象として」(『戦時期日本の精神史』)捉え、人物と時代との関わり、それが孕む問題を自由に考えるといった方法を取っているように思える。『鶴見俊輔伝』で黒川創は、鶴見のこの方法を踏襲している。それが黒川の鶴見俊輔へのなによりのオマージュになっている。(山崎幸雄)

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「お殿様の人事異動」安藤優一郎

安藤優一郎 著
日本経済新聞出版部(240p)2020
.02.11
935円

戦国の時代から豊臣秀吉の天下統一、徳川幕府への権力移行の中で国替と呼ばれる大名の異動(転勤)が数多く行われて来た。それは、戦いの結果としての「論功行賞」が基本的原理だが、徳川幕府も安定期になると、そうした戦いの論理だけではない国替も起こって来た。本書は国替や幕藩体制における昇進などを具体的に検証しながら、国替というその膨大なプロジェクトの実態も明らかにしながら、もはや士族というよりも役人となっていった大名や旗本たちが己の昇進に邁進する日々の活動についても描いている。振り返って見ると、NHKの大河ドラマの多くは戦国から江戸期をテーマとしていることから見ても、この時代が多くのエピソードを生みつつ、近代の歴史観の土台になっていたからこそ、現代においても心惹かれる時代という事だろう。

本書では、色々な観点から国替、昇進といったまさにタイトルにある「お殿様の人事異動」が描かれている。

冒頭は会津藩を中心とした国替の歴史とその実態を代表的なケースとして取り上げている。秀吉の小田原攻め(1590)による北条氏の滅亡とともに、北条氏と同盟関係にあった伊達政宗の減封処分として会津が没収された。その後には、近江日野出身の蒲生氏郷が42万石の大名として転封した。豊臣秀吉によるこの国替えの意図は、北の伊達を牽制するとともに、関東に入封した徳川家康に対しての牽制も狙ったものと言われている。蒲生氏郷はその後、信夫(福島)なども所領として増加して92万石の大名となっていく。

蒲生家としては順調な時代であるのだが、その氏郷も1594年に病死した。嫡男の秀行が後を継いだものの、若年で伊達の抑えにならないと判断され、1598年に上杉景勝が越後から会津に転封し、秀行は12万石に大減封されたうえ宇都宮に入る。しかし、戦国時代という乱世の象徴のように、関ケ原の戦いの結果1600年には上杉は会津から米沢に転封、再び蒲生秀行が会津に戻ると言う目まぐるしさである。

このように、関ケ原の戦いから、徳川幕府開府による国替が全国規模で行われたが、改易によりすべての領地を没収された大名は88家、416万石あり、減封された大名は5家、没収石高208万石と言われている。混乱しなければおかしいといえる大変革であったと思わざるを得ない時代である。

次に、国替や役職昇進に関する原則が説明されている。国替の第一の目的は当初は関ケ原の戦いを始めとする戦いの論功行賞としての国替えであったが、そうした時代のあとは幕府が権力を守るため関東・東海・上方に徳川一族(親藩、譜代)を配置することとなった。第二の目的は懲罰による、改易(取り潰し)や減封のために行われる国替である。幕府の許可なく城の普請工事を行うという武家諸法度違反で減封された例や城主の行状を処分するための転封もあったようで、この点になると幕府によって公平な運用がされていたのかどうかは疑問の余地はありそうである。第三点は四代家綱の時代になると幕府の安定の為に改易や転封を実施することは少なくなり、各大名が幕府の要職に就くことで転封するケースが多くなったと指摘している。その幕府の構造は、老中(4~5名)が3万石以上の譜代から、若年寄(4~5名)が3万石以下の譜代から構成されている。加えて京都所司代(1名)、大坂城代(1名)、寺社奉行(4-5名)、奏者番(20~30名)などで構成されている。まさに狭き門であり、140家といわれる譜代大名としても老中、若年寄に名を連ねるためには将軍、御三家のみならず大奥まで巻き込んだ栄達の根回しが行われたと言う。

具体的な国替のプロセスを三国間の国替のケース(三方領地替)を取り上げて説明している。その詳細を読むにつけても、転封を命じられてから五か月に及ぶ段取りは幕府の権力誇示ともいえる手順であり、藩主や領民にとって難儀な事柄であったことが良く判る。同じ石高の藩と言っても実態としては年貢徴収率が異なっており新旧藩主間のトラブルの元だったというし、藩が御用商人から借りていた御用金の返済トラブルや領民からみて未納年貢米の取り扱いに関する不満から百姓一揆が発生するなどいろいろな問題が取り上げられている。藩士にとっても、住んでいた屋敷は藩から下賜されたもので、いわば社宅。従って、国替えとともに家居、建具、雨戸、畳、竃、井戸、土蔵、物置、梯子、庭木、庭石に至るまで次の藩の藩士に引き継いでいく必要が有る。加えて、新領地への距離によって引っ越しのコストは膨大なものになっていた。藩士の転居費用は藩が負担したものの、家族の引っ越し費用は各自負担というのも家臣からすると大変な費用であったと思われる。

こうした国替の究極の形は、大政奉還によって徳川家に発生する。これは将軍家800万石から一気に駿河府中の一大名70万石に減封された。この結果、徳川家家臣は旗本・御家人で3万人を超えていたが、家臣を抱える限界から5,000人は徳川を離れて新政府に仕え、4,500名は農業・商業に転じ、20,000人は徳川の家臣に残ることを希望した。しかし、徳川に残った人達も4年後の廃藩置県で士族としての職を失っていくことになる。

本書が示している多くの視点の中で、個人的には会津藩に関する国替の歴史的経緯、国替えによる家臣の負担、減封による家臣団の人員圧縮などについて興味深く読んだ。というのも、蒲生氏郷の家臣として近江日野から「内池」が会津に入ったという家譜が残っていることから、どのような経緯で現在の福島に根付いたのかを確認したいという思いもある。本書に有る様に蒲生家は1598年には信夫郡(現福島市)も所領に加えて92万石になった後、12万石に大減封されて宇都宮に移った。再度会津にもどった1621年ごろまでは蒲生家に従い、以降は家臣団を離れて故郷の近江日野に戻って商人として生活を始めた。その後、1750年頃に土地感のあった信夫郡(現福島市)に入り商売を始め、本拠地として現在に至る。何故、蒲生家の家臣団を離れたのか、具体的に何年かは不明だが、伊予松山まで蒲生家とともに士族として命運を共にしたのかもしれなかったと思うと、歴史の偶然に翻弄された先祖達が苦労したであろうと思いを馳せるばかりである。そうした歴史を多少なりとも辿れるというのは幸せなことだ。

まだ私が現役時代、お客様であった滋賀県に本社のある近江兄弟社にご挨拶に伺い名刺を交換した時、先方が名前を見て、「近江のご出身ですか?」と問われたことがあり大変驚いたことが有る。社会人として名刺を出して近江の出身と言われたことは初めてだった。私の知る限り現在の近江日野には内池姓の方は居られない。ただ近江鉄道日野駅の近くに「内池」という交差点があり、今となっては出身地のしるしとして残っている唯一のものかもしれない。そんなことを思い出される、楽しい読書だった。(内池正名)

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2020年3月15日 (日)

「生命式」村田沙耶香

村田沙耶香 著
河出書房新社(272p)2019.10.20
1,815円

芥川賞や直木賞の受賞作を読む習慣をなくしてしまって久しい。でも数年前に、何のはずみだったか村田沙耶香『コンビニ人間』を読んで面白かった。世の中の「正常」に違和感を覚える主人公が、その違和を逆転させコンビニというマニュアル世界の歯車になることに喜びを見いだしてゆく倒錯が、軽やかな文章で描かれていた。

『生命式』は、そんな彼女の最新の短篇集。12の短篇小説が収められている。読後の印象は、村田沙耶香というのは、とんでもない作家だな。何度も笑うしかなく、しかも恐ろしい。これらの短篇に比べれば、『コンビニ人間』は口当たりのいい、とてもまろやかな小説だった。

たとえば本のタイトルとなった「生命式」。冒頭の一文はこうだ。

「会議室でご飯を食べていると、ふいに後輩の女の子が箸を止めて顔を上げた。
『そういえば、総務にいた中尾さん、亡くなったみたいですね』」

村田沙耶香の小説は、たいていごく当たり前の日常風景から始まる。その夜の式に呼ばれている主人公たち女性社員は、中尾さんについてひとしきりおしゃべりした後、ある先輩がこう切り出す。

「『中尾さん、美味しいかなあ』
『ちょっと固そうじゃない? 細いし、筋肉質だし』
『私、前に中尾さんくらいの体型の男の人食べたことあるけど、けっこう美味しかったよ。少し筋張ってるけど、舌触りはまろやかっていうか』」

いきなりの不条理の世界。事務職の女の子たちのどこにでもありそうな会話にいきなり挟まれる、「中尾さん、美味しいかなあ」。そのあまりの落差。これは、なんなんだ? 

やがてその理由が説明される。世界の人口が急激に減って、人類は滅びるかもしれないという不安感から「増える」ことが正義になり、セックスというより「受精」という妊娠を目的とした交尾が奨励されるようになった。人が死ぬと「生命式」が行われ、そこでは死んだ人間を食べながら男女がお相手を探し、相手が見つかったら二人でどこかで(しばしば人の目のある路上で)受精を行うことが当たり前になった。もっとも、と主人公は考える。「死者を皆で食べて弔うという部族はずっと昔からいたようなので、突然人間のなかに生まれた習性というわけではないのかもしれなかった」。

もっともらしい理由づけは、この小説の面白さとあまり関係ない。読み進むうえで、読者が納得してくれればそれでいいというだけのもの。それより、思わず笑ってしまうのはこんな描写だ。

「中尾さんの家は世田谷の高級住宅地だった。ちょうど夕食時で、あちこちから食事の匂いが漂ってきている。その中の一つが、中尾さんを茹でる匂いなのかもしれなかった」

誰もが記憶にあるだろう夕餉の風景のなかに、さりげなく差し挟まれる「中尾さんを茹でる匂い」。こういうあたりが村田沙耶香の真骨頂かもしれない。しばらく後で、今度は主人公の同僚の山本が亡くなり、その生命式で、主人公と山本の母親との間でこんな会話が交わされる。故人は、式のレシピを残していた。

「『業者に頼むとほら、どうしても味噌のお鍋になっちゃうでしょ。あの子はそれじゃいやだったみたいで、団子にしてみぞれ鍋にしてほしいみたいなんです』
『あの子って食いしん坊だったでしょ。自分が食べられるときも注文が多くて、鍋だけじゃないんですよ。カシューナッツ炒めとか、角煮とか……』
『え、鍋だけじゃないんですか?』
『そうなんですよ。なるべく遺志を尊重してやりたいんですけど、もう、困っちゃって』」

それに続く食事のシーンでは、「じゅわっと、中から肉汁がしみ出す」とか、「人肉には赤ワインかと思ってたけど、これは白も合いそうだなあ」なんてセリフも飛び出す。そして式に参加した人間は、母親に「ごちそうさまでした」「受精してきます」と感謝して立ち去ってゆく。

式の後、海辺で会った見知らぬ男性に向かって、主人公はこうつぶやく。

「『世界はこんなにどんどん変わって、何が正しいのかわからなくて、その中で、こんなふうに、世界を信じて私たちは山本を食べている。そんな自分たちを、おかしいって思いますか?』
『いえ、思いません。だって、正常は発狂の一種でしょう? この世で唯一の、許される発狂を正常って呼ぶんだって、僕は思います』」

長々と引用してしまったけれど、この作家の「とんでもなさ」が少しは伝わったろうか。「正常」と呼ばれるものは「この世で唯一の、許される発狂」にすぎないという感性は、この短篇集のそこここから匂ってくる。

人毛を使ったセーターや人間の皮膚を素材にしたベールが最高級品になった時代の結婚話である「素敵な素材」。ポチと呼ばれるおじさんに首輪をして飼う小学生二人の物語「ポチ」。オフィス街のわずかな土に生えるタンポポやヨモギを摘んで調理し、自分が野生動物であることを発見してゆく「街を食べる」。「委員長」「姫」「アホカ」と、つきあう仲間によっていくつものキャラを使いわける女性を描いた「孵化」。どれも、「正常」と呼ばれるものに違和を持ち、そこからこぼれ落ちるものを見据えて、それに忠実に、誠実に従ってゆく。

僕がこの小説を読んで思い出したのは、高校時代に読んだ星新一の短篇群だった。50年以上前に読んだきりなので間違っているかもしれないが、星新一の短篇にも、正常と異常をひっくり返して僕たちの常識を揺さぶるものが多かった。ただ、星の小説は知的な遊戯といった余裕が感じられたのに比べ、村田のそれは知的なというより時代への肉体的な拒否反応が、もっと切羽詰まったかたちで噴き出しているように思う。それが、生きづらさを感じている女性たちの、さらには男たちの共感を呼ぶんだろう。彼女の小説が30カ国で翻訳されるという事実は、村田沙耶香の描くものが現在の世界の先端で共感をもって受けとめられていることを示しているんじゃないか。

ほかに僕が好きだったのは「パズル」という一篇。人間の皮膚からその内臓を感じてしまう、内臓感覚ともいうべきものが強烈だ。

「生命体とは何と美しいのだろう。顕微鏡で貴重な細胞でも覗くように、早苗はじっと彼らの皮膚や筋肉を目で追った。/中身が僅かに透けた皮膚の中には、蠢く内臓がぎっしりと詰め込まれている。筋肉が根のように張り巡らされ、首に浮き出た血管には血液が循環し続けている」

人間を内臓のかたまりとして見てしまう主人公には、人の呼吸は内臓の匂いを発散させるものにほかならない。満員電車のなかで、彼女はこう感じる。

「早苗は、身体の力を抜いて体温の渦に寄りかかった。さまざまな口から放出された溜息が溶けあった空気につかるように、目を閉じてその湿度を肌で味わい、その中を漂う。乗客が吐き出す二酸化炭素にまみれていると幸福だった」

満員電車でぎゅう詰めになっていることへの肉体的な拒絶反応が、『コンビニ人間』と同じように逆転して過剰適応し、ぴったり身体を接している乗客の吐く息にまみれて「幸福」を感ずる。この倒錯と過剰適応はいかにも若い世代の感受性を感じさせる。日常の風景から、そういう感覚を掬いあげてみせる。この世代の小説はあまり読んでないけど、素晴らしくオリジナルな作家だと思う。(山崎幸雄)

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「僕が出会った人」山崎幸雄

山崎幸雄 著
ブック・ナビ (301p)2020.02.10
非売品

本書は、著者が記者・編集者として活動し書き綴ってきた文章から「出会った人」をテーマに選択して一冊にしたものだ。著者は1970年に朝日新聞に入社して、37年間は1/3が雑誌記者、1/3が雑誌編集者、1/3が単行本編集者という経歴と自ら語っているが、「アサヒカメラ」「週刊朝日」「朝日ジャーナル」の記者、編集者として一線を歩み、退職後はフリーランスのライター、編集者、校閲者として活動してきたから、職歴からすれば文章を書くというのは仕事そのものだったと思う。

本書を作ろうとしたきっかけとは、昨年(2019年)の一月に悪性リンパ腫と診断され、1クール3週間(1週目は抗がん剤の点滴、2週目は感染症リスクを抑えるため自宅で静養、3週目は徐々に体調が戻ってくるというサイクル)の抗がん剤治療を開始した。これを8クール実施したと言うから、その期間は体力的だけでなく、メンタルにも厳しかったであろうことは私も同世代であるだけに容易に想像がつく。がんの治療技術は進歩して寛解確率が高まって来たとはいえ、死に至る確率がゼロではないというプレッシャーは厳然と存在していたはずだが、その間に没頭できる対象を見つけたという事のようだ。そして、同時期に後輩のお別れ会に出席した時にその後輩が書いた記事を綴じ込んだ小冊子が遺稿として配られたこと等から、自らの遺稿集を作ろうと思い立ったという。

そして、「遺稿集」作成にとりかかり、原稿を読み返し、選び、構成、校閲、本文を組み、ゲラを作り、装丁を考えるといった、一連の工程を一人で実行している。門外漢の私にはそれらの工程を楽しむという感覚は十分理解できない所もあるが、「抗ガン剤治療とはまた別の自己治療」だったという感想を述べているように、その時間は充実した素晴らしい時間だったのだろうと思う。

本書は「僕が出会った人」というタイトルの通り、著者が第一線で活躍していた期間に出会った人を中心に、司馬遼太郎に代表される「街道をゆく」に関連する人々や木村伊兵衛を始めとする写真家達、そして、映画監督、作家、俳優、歌手といった多くの人達との出会い、対話を書き綴っている。当時の週刊朝日やアサヒカメラなどに書かれた文章が多いが、一部は企業の広報雑誌、自身のブログやブック・ナビという書評サイトに掲載された文章も加えられていて、多様なメディアで表現活動をしてきたことが良く判る。

司馬遼太郎の取材旅行に同行していた経験を通して、司馬遼太郎の「街道をゆく」は1971年から1996年という長期に亘り週刊朝日で発表されて来たが、歴代担当記者の一人として司馬遼太郎との取材旅行で国内外を共に歩き、語り、飲みということだから、その時間を通してお互いが見えてくるということだろう。人は言葉にしなくても、日々の生活の中の行動でその人の姿を見ることが出来る。「司馬遼太郎とは」と大上段に構えて語る必要もなく、「余談の余談」に表現された日々の体験談からは「司馬遼太郎」だけでなく「山崎幸雄」の双方が私たちに見えてくる。

そして、細かな機微が書かれていることを読むにつけ、司馬遼太郎との取材旅行の何年も後に「余談の余談」を書くことが出来るということに驚かされる。多分、職業柄から丹念な取材メモや記録が残っているということなのだろう。そうした、詳細な記述がされている本書を読んでいると、その時代の私をその状況に置いて、時代を振り返ってみるという読み方になってしまうのだ。

著者の仕事歴からすると司馬遼太郎や木村伊兵衛といった人達が登場するのは想像がつくが、ジャズ評論家の平岡正明についても週刊朝日や朝日ジャーナルで出会いのチャンスがあったというのは羨ましい限りである。また、週刊朝日の「人物スポット」(1973年)というコラムには多様な人々が登場する。1973年といえばまだ入社して3年目だと思うが、若手記者がこうした人々とのインタビューを行い、コラムを書いていたというのも、広範な分野カバレージは著者の視野の広さということなのだろう。例えば、萩原健一、阿久悠、藤圭子、三国連太郎、白川和子、深作欣二といった人々と対話をしている。

同年代の私がIT業界に身を置き、学生時代からの趣味・志向とは無縁の仕事に24時間追い回され、ストレス解消のための逃げ場としてのみ映画や音楽が存在していたのとは大違いである。従って、多くの魅力的な人々との出会いを示されると、羨ましさを感じるのだが、冷静に考えれば趣味と仕事の違いは想像以上に大きいはずで、羨ましさというのは読み手側の勝手な感覚であろう。別の言い方をすれば、著者は自らチャンスを具体化して良い仕事をしてきたという事だし、それも実力と納得するばかりである。

本書に描かれている何人かの人達は、私自身としても記憶を刻んでいる人もいる。その内の一人が「人物スポット」で取り上げられている萩原健一である。インタビューが行われた1973年といえば彼は歌手から俳優へシフトしていたこともあり、歌手としての時代を「テンプターズでは実力より先にスターになった。譜面も読めずに歌をうたっていたという、うしろめたさもあったし」と語っている。その言葉を読んで、萩原健一に関する記憶が思い起こさられた。それは、私がまだ学生の頃、彼がザ・テンプターズのリードボーカルとして「エメラルドの伝説」(1968年) をレコーディングした際に、この曲の作曲家である村井邦彦氏に誘われてビクターのレコーディング・スタジオに行っていた。

そのレコーディングはかなり苦労の連続で、演奏も唄もなかなか上手くいかず何十というtakeを録音していたことを思い出す。しかし、レコードがリリースされるとその楽曲は大ヒットした。レコーディングを見聞きしていたこともあり、私はレコード化されるという意味は、それ自体が創作活動であるというのを痛感した覚えが有る。そう考えると、萩原健一が全く音楽を離れて俳優として生きることにハンドルを切ったのは、自身の才能に関する冷静な判断として納得できるというものだ。

こうして、「著者」と「出会った人」と「私」が時間を巻き戻して存在出来る楽しさを味わいながらの読書であった。

本書を当初の狙いの「遺稿集」としてではなく、著者自らの手から受け取れたことは本当に嬉しかった。こうした本に接し、私も働いていた頃の原稿を整理してみようと思いながら本を閉じた。(内池正名)

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2020年2月17日 (月)

「『笑い』の解剖 」中島隆信

中島隆信 著
慶應義塾大学出版会(212p)2019.09.06
1,980円

慶応大学商学部の現役の教授の著者が何故、人間の笑いに関する考察に挑戦したのかは不思議に思った。というのも、本書はエッセイではなく、しっかりと「笑い」のメカニズムを分析して仮説をたて、その仮説で「笑い」を読み解いていくという研究である。

そもそも、著者が「笑い」の研究にのめり込んだきっかけは、大学の授業中に学生をリラックスさせるために何回か笑わせようとしたものの、なかなか狙い通りに笑ってくれなかったという。一方、外部の講演で同様の試みをすると、はるかに受けが良く、笑ってもらえた。その違いから、「人は何故笑うのか」を考えてみようと思い立った様だ。疑問を感じたらまず考えてみるという、学者特有の生真面目さが本書を成り立たせているようだ。

かく言う私は、子供の頃から杉浦茂のまんがに染まり、ダジャレ、落語、演芸までくだらないと思いながらも「笑う快感」は人一倍強いと思っている。人間、笑えなくなったら御仕舞だとも思う。しかし、笑いという生理現象を科学的に考えてみようとしたことはなく、本書を目にしたときに読書意欲は高まり、「笑い」を通して、自分を客観的に考えてみようという思いがあった。

人が笑うまでのステップを「笑いの4段階説」という考え方を提示している。これが本書の根幹である。なかなか説得力のある説明で、論理フローチャートも図示されているという丁寧さだ。「笑いの4段階説」を簡単に説明すると以下の通りである。

第一ステップは「不自然さを認知すること」と定義している。人は「日常的な自然」の状況では脳に余計な負担を掛けないために、深く考えずに行動し日々過ごしている。一方、不自然な状況に直面すると、自身に危険が及ぼすかどうかの判断を始める。この「自然」から「不自然」への切替えが笑いのスタートとなる。

第二ステップは、目の前の「不自然さをもたらす相手に親しみを持てるかどうか」。第三のステップは「不自然さに対する当事者性が低いこと」としている。

この三つのステップを説明するために著者はこんな例を挙げている。まず、町中で人がよろめいて突然倒れたという状況を想定する。この状況は「不自然」なので第一ステップはクリアーする。しかし、倒れた人が、警官に追いかけられていた万引き犯だとすると、万引き犯に「親しみは持てない」ので第二ステップをクリアーできない。

次に、倒れた人が自分の父親だとすると「親しみ」があるので第二ステップはクリアーするが、「当事者性が強い」のでケガはないかと心配するのが先で、笑うことは無い。最後に、着ぐるみのゆるキャラが倒れたらどうなるのか。「親しみ」はあるのでこれも第二ステップをクリアーするし、中に入っている人とは当事者性は低いので、笑いに繋がっていく。

第四ステップは「不自然さから心の解放が出来ること」としている。「不自然」から始まった「親しみ」「非当事者性」という状況を精算してチャラにするという「心の解放」によって脳の負担が減る事が「快楽」であることから、笑いが生まれると言う考え方だ。

人間は脳を進化させ、道具を発明し、言語を作り、社会を構成して行った。その代償として抱え込んだのが外的・内的のストレスである。こうした蓄積するストレスを解放してチャラにすることが笑いであり、そのプロセスが「4段階説」であるという。ここまで、読み進んでいくと、自分もいっぱしの笑いの研究家のような気分になってくる。

加えて、過去の笑いに関する研究が紹介されている。プラトンやアリストテレスが提唱した、笑いとは対象を見下し優越感が出来た時の行動で、人の失敗を笑うといったことなどを説明した「優越理論」や、社会生活で鬱積した心的エネルギーが臨界点に達した時に放出される笑いとしての下ネタのような性的ジョークや、からかい(攻撃的ジョーク)などの「解放理論」。「西洋人らしく見える人が流暢な大阪弁を話す」など予想と現実の不一致から起きる笑いを説明する「不一致理論」などが紹介されている。しかし、これらの理論の限界は、笑いの内容に原因を求めているため、全ての笑いを説明出来てはいないとする著者の意見は納得できる。

こうした、過去の論説を踏まえて、「経済学者が解く50の疑問」とサブタイトルがついているように、笑いに関する多岐に渡る論点が提示され、説明されていく。

例えば男女の笑いに違いはあるのかという疑問に対して、売れている芸人は圧倒的に男が多いことを考えると「笑わせる側が男」で「笑う側が女」という仮説が成り立つ。心理学のテーマとして「自分のユーモアを笑ってもらう事」と「相手のユーモアを笑う事」のどちらを選ぶかと聞くと、男は前者を選び、女は後者を選ぶ傾向が強いと言う。これは人の生理と整合的で女性ホルモンの「エストロゲン」は共感力を高めて気持ちを安定させる働きを持っているため「4段階説」の第二、第四ステップにおいて女性がクリアーし易くしている。

こうした笑いについての男女差に関して、美形の女芸人が少ないという現実を考察している。容姿端麗な女芸人が笑いに繋がる不自然なことをしてもおそらくは女性の客は妬みを持つだけで、親しみは生まれないし、男は容姿端麗な女がそういうのなら、と納得してしまい不自然と受け止めない、としている。どちらも笑いに到達しない。

一方、マツコデラックスの笑いについては「生物学的には男であり声、体形や仕草は決して女っぽくないが化粧や服装は女らしさを見せている。このハイブリッドさを強調することで巧みにセクハラを回避して、性別に関係なくゲストをからかったりイジッたりすることが出来る」という様に解説して見せる。

「くすぐられて笑う」状況を分析していて面白い。「くすぐられる」という状況は日常的には不自然なので第一ステップをクリアーする。そこで、くすぐる人間が赤の他人だったら、不快だし、電車の中なら痴漢行為である。親しい人であることを前提に第二ステップから第三ステップに進んで行く。ここで問題になるのは「非当事者性」である。友人とプロレスごっこの最中に「くすぐられる」と親しい関係であり「くすぐったい」と感じる程度の距離感である。これは笑いに繋がっていく。しかし、恋人同志が夜景を見ながら腰に手を回し「気持ち良さ」を感じた場合は二人の距離感は近く当事者性もあるので笑うことはない。逆に、その状況で女性が「くすぐったさ」を感じたとしたら、相手に親しさは持っているものの、まだ当事者性を満たすには距離感があるということなので、男は少なからず落胆すべきだろうと指摘している。なるほど、冷静な判断だと言わざるを得ない。

このほか、AIは人を笑わせられるか、落語と漫才の違い、落語の真打制度と大学教授会構造の類似性、メディアの変化と「志村けん」の笑いの関係、自虐芸の難しさ(ヒロシです)、なぜオバさんは綾小路きみまろが好きなのか、笑いと健康、といった問題が真面目に語られているのである。

人にとって「笑い」とは、「不自然さ」の内容がイヤな思い出だったとしたら、これにいつまでも囚われることなく、チャラにする効果が「笑い」であり、心の浄化作用として考えられる。ただ、医学分野での笑いの生物学的メカニズムの解明はほとんどなされていないという。もっとも、「笑い」は病気ではないので、構造が判ったところで「で、何が?」といった感覚だろうという著者の思いは笑い好きとしては少し辛い感覚が残る。

「笑い」という行動の意味を知る事もなかなか楽しいものである。ただ、「笑い」を仕事としている人達にとっては、そのメカニズムを知る事で計算された結果として表現する笑いはギクシャクしそうな気もする。計算が成り立つというのは「落語」のような「芸」と「笑い」が組み合わされた技の場合だろう。

ということで、私はこれから上野の鈴本で一笑いしてこようと思うのです。〈内池正名〉

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2020年1月15日 (水)

「クモのイト」中田兼介

田兼介 著
ミシマ社(200p)2019.09.26
3,200円

「クモのイト」という言葉から「蜘蛛の糸」と考えるのが普通だと思うが、本書タイトルの「クモのイト」とは「糸」と「意図」という二つの意味を持たせている。「蜘蛛の意図」となると、なにやら論理を超えた物語の感じさえ帯びてくるのが「クモ」の「蜘蛛」たる所以かもしれない。

8本足の節足動物で網を張って捕食するといったインパクトの強い生物であり、家の守り神として考えられてきた文化もあって、その根底には身近な生き物という感覚があるのも事実だが、いかに身近であっても「クモ」が大好きという人にはめったに出会うことが無いという著者の指摘も納得できる。例えば、生後半年の赤ん坊でも、クモの絵を見せると瞳孔が開くストレス反応が起きるという研究が紹介されていて、そもそも人間とクモの相性の悪さは根源的なもののようだ。

著者がクモに興味を持って研究を始めた理由を「賢さ」と「複雑さ」と言っているが、それだけに、読み進んで行くとまさにクモの意図を解き明かす事例が数多く紹介されている。第一章のクモと人間の関係に始まり、クモの網に関する考察、繁殖・生存戦略、クモの個性、その未来について等が語られていてクモへの興味を呼び覚ますには十分な一冊である。

人間がクモを利用してきた歴史のうち、「糸」を利用してきた歴史が永いのは想像がつく。昔からニューギニアではクモに網を張らせて魚を獲っていたり、18世紀のフランスでは手袋や靴下をクモの糸で編んでいたとか、19世紀のロンドンでは「クモの糸で服をつくる」という挑戦がされたり、20世紀末にはクモの遺伝子を他の動物に移植して、大腸菌や酵母などを利用して人工のクモの糸の製品が研究されてきた。しかし、あまり成功したと言う話も聞いたことが無いというのが実感である。

一方、クモの糸そのものを利用するのではなく、クモが正確に網を張る能力があることを活用して、精神安定剤や覚醒剤などの薬物を与え、クモがつくる網の変化を調べて薬物の効能実証研究をしているという。また、1973年には三匹のクモが宇宙に飛び立ち、無重力状態でクモはどんな網を張るのかという研究がなされている。地球上ではクモは一見円形でも、詳細に見るとエサが沢山獲れるように下方の目を細かくすることで落下してくるエサを捕獲し易くしている。こうした地球上では非対称の網を作るクモも無重力空間では一日目は戸惑っていたが二日目からは円い対称形の網を張ったという結果だけを聞くと、そうだろうなと納得してしまうのだが、それよりも、早期の宇宙生物実験にクモが選ばれたのは、クモはハエを一匹食べるだけで、ほぼ一か月絶食状態で生き続けられるという点にもあったようだと知ると、一日に三食も食べる生活をする人間の不便さ・非効率さが痛感されるというものだ。

クモの究極の食の特性として共食いが特徴的と言われる。その効率性を求める生態には驚くばかりである。クモは、子作りのたびに交接するのではなく、メスにはオスの精子を受け取り、貯めておく袋を持ち、産卵の準備が整ったところでメスは保存した精子を使うという。従って、クモはオスとメスが一緒に暮らす必要もないので、オスはもたもたとメスの近くに居るとメスに食われてしまう。栄養バランス的には同じ種類のクモの身体は自分とよく似た成分で出来ているので食物としては大変効率的である。

また、クモの子供が世の中に出てきたときには母グモは死んでしまっているのが普通で、一人で生きて行かなければならないのだが、その子育ての究極の姿として「母親食い」だったり、「栄養卵」といって子を残すためでなく、子のエサにするための卵を産んでおくといった独特な戦略こそ確実性を確保する戦略なのだろう。

クモの最大の特徴の「糸」と「網」は重要な点だけに、本書では多くが語られている。糸を紡ぐことのできる昆虫はカイコはじめ沢山いるが、何種類もの糸を目的に応じて作ることのできる生物はクモが最強。クモは捕食のため網を作り、捕まえたエサを糸で巻き上げ、産卵した卵を包み、移動の命綱にする。バルーニングといわれる、糸を使って風に乗り遠くに飛んでいくという独特な移動能力を持っている。

網を構成するたて糸と横糸は各々異なった性質を持っている。たて糸は同じ太さなら鋼鉄と同じ強さだし弾力性もある。このためたて糸はエサの動きを止める役割を持ち、横糸は糸の周りにネバネバとした物質が一定の間隔で集まり粘球となっていて、エサを絡めとる役割を持っている。そんな違いが有るのかとつくづく感心してしまうのだが、網に関するもう一つの驚きは、クモは毎日網を張り直すという生態。もったいないように思うのだが、糸はタンパク質で出来ているので、回収して食べて消化することが出来る。従って、分解してできたアミノ酸は新しい糸をつくる原料となり、そのリサイクル効率は90%と言われている。こうした点を含め、クモを理解するためのキーワードとして「効率」という言葉が思い浮かぶとともに著者のいう「賢さ」なのだろう。

どんな生物にも個性があるという研究が進んでいて、クモの中にも攻撃的だったり、のんびり屋だったりという個性差がある様だ。特に、集団で生活するクモの種類では、個性・個体差が大きくなるという。自分の集団の中の役割を見出して、振る舞い方を違えて行き、その役割に集中するためであり、個体差・個性は分業に効果的であり、分業によって個性の違いが大きくなるということのようだ。こうした集団社会を支えるため常に周りの個体とコミュニケーションをとらなければならないという意味で、クモに限らず、すべての生物でそのために脳は進化し、特に人間の脳は究極に進化したとも言われている。我々の脳は他者とのコミュニケーションのために使われなければいけないのだと思い知らされるが、自分の知力の使い方はそうしたバランス感覚はあまりない。

生態系バランスの観点いえば、生きるための捕食について不穏な未来が紹介されている。それは、今世界中に48,000種類のクモがいて、哺乳類の6,000種と比較してもその多さは圧倒的で有る。加えて、そのクモたちが一年間に食べる虫や生き物の量は全人類の体重に匹敵するという。これは陸上の生態系では最も量が多いと聞くと、生物のバランスの微妙さに圧倒される。

考えてみれば、今までクモをメジャーな生き物として感じたことは無かったと思う。世界各地ではクモを主人公とする神話も多い。その意味では文化的には身近であるのは事実だが、クモ達の「意図」や「戦略」の中に、我々人間を理解するためのヒントが多く隠されているというのも本書からの収穫である。

読み終えて、中島みゆきの「糸」を思い出した。「縦の糸はあなた、横の糸は私」という歌詞を深読みしてしまう。「縦の糸はあなた」とは「男は力で働く縦糸」、「横の糸はわたし」とは「女はエサを絡めとる横糸」と聞こえてしまうのだ。ところで、君は奥さんに絡めとられましたか? (内池正名)

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