2021年11月17日 (水)

「タコの才能」キャサリン・ハーモン・カレッジ

キャサリン・ハーモン・カレッジ 著
太田出版(284p)2014.04.17
2,530円

タコは、日本では馴染み深い食べ物だ。刺し身や酢の物、おでん、たこ焼きなどがすぐに思い浮かぶ。馴染み深いとは言っても、その生態や習性はそれほど知られているわけではない。せいぜい分かっているのは、イカなどと同様に「頭足類」と呼ばれ、マンガなどで頭として描かれているのは胴体であり、実際の頭は足(腕)の付根の眼や口が集まっている部分である、ということぐらいだ。本書を一読すれば、タコの生態や能力だけでなく、生物学からロボット工学まで、最先端の研究の現場を垣間見ることができる。

著者のキャサリンは生物学者ではない。ミズーリ大学ジャーナリスト学科で修士号を取得したあと、雑誌の編集者を務めるかたわら、ネイチャー誌などに寄稿し、最新の科学ニュースから料理にいたるまで幅広い執筆活動を続けていて、書籍としては本書がデビュー作となる。ジャーナリストらしく好奇心が旺盛で、各地の漁港や研究機関、はては料理店まで取材して、タコが人を惹きつけてやまない理由を探ろうとしたのがこの本だ。

「タコはつかみどころがない。腕は八本、心臓は三つ、皮膚は変幻自在に変えられ、知性の宿るまなざしには妙に愛嬌があるけれど、エイリアンにしか見えない。それでも、人間はタコを取りつづけ、もう何千年も前からタコのとりこになっている。世界各地で、タコを題材にした天地創造の物語や、芸術、もちろん料理も生み出されてきた。これだけ大昔から魅了され、何百万ドルもの資金を投じて研究してきたにもかかわらず、このぬるぬるした生きものの実態ははっきりつかめていない」と著者はいう。

「タコにくわしくなりたければ、まずは海に行くべきだろう」というわけで、著者がまず最初に訪れたのはスペインのヴィゴという街だ。スペインのガリシア州北西部にあり、世界各地を相手にタコの搬入・加工・輸出入を専門にしている。ここで、専門家にタコの生態について教えを乞い、ついでに、“プルポ・ア・フェイラ(タコのガルシア風)”という料理の味見をしようというわけだ。海洋研究所などを訪れたあと、旧広場の一角にある小さなレストランで、お目当ての“プルポ・ア・フェイラ”に舌つづみをうつ。そして、翌日は早朝の五時からタコ漁の漁船に乗り込んで、船員たちが海の怪物と格闘する姿を目の当たりにする。乱獲を防ぐために、一キロにも満たない小さなタコは、規則で海に戻すことになっているという。

タコの種類は多い。スーパーなどでは「マダコ」と表示されているのをよく見かけるが、「これは“何でもあり”という意味らしい」。「タコは気が遠くなるほど多種多様だ。・・・現在名前がついているだけでも三百種ほどのタコがいるが、未知の種がそれ以上に存在するのではないかと考えられている」。本書では、めぼしいとものとして、神秘的な中深海のタコ「アオイガイ」、カルフォルニアのマダコ族の一種「オクトプス・ビアクロイデス」、北大西洋の「オオメンダコ」のほか「ミズダコ」「ヒョウモンダコ」「ムラサキダコ」などを挙げている。名前を聞いたことがあるのは「ミズダコ」ぐらいだ。「ヒョウモンダコ」には致死性の毒があるらしい。

ここで、タコの体の構造についての記述をいくつか紹介しておこう。
タコには八本の腕(足)がある。どれも同じように見えるかもしれないが、実は用途によって使い分けているらしい。海底をうろつくときには、前の腕であちこち触って餌を探しながら、後ろの腕で歩くことが多いという。しかも、タコの腕の中央には、神経束もしくは神経節が通っている。ヘブライ大学の研究チームは、使用頻度の高い“腕を伸ばす”という単純な動作が、腕そのものの神経系でコントロールされていることを突き止めた。さらに、脳を通さなくても、腕同士で連絡を取り合えるようだ。ロボット研究者や軍は、こうした能力に着目し研究資金をつぎ込んでいる。タコの腕は自立しているばかりか、簡単に取り替え可能だ。新たに尻尾を生やせるトカゲと同じように、神経も含めて再生できる。こちらも再生医療の研究に役立ちそうだ。

腕だけでなく吸盤もまた多くの能力を秘めているようだ。伸びたり、曲げたりできるうえに吸盤自体に味覚まで備わっている。吸盤をひとつひとつ動かしたり、回したりすることが可能で、折りたたんでものをつまむこともできる。これらの能力は、いくつかの研究チームで実証済みで、ロボット工学に応用する試みも始まっている。

他の生物との連想から頭と間違えられやすい部分は、“外套膜”と呼ばれる胴体だ。外套部の内部には三つの心臓をはじめ消化器などの臓器がある。「(心臓が)三つといっても、外套膜にある本来の心臓が大部分の働きをこなし、あとのふたつはあくまでも補助的なポンプで、エラに血液を送っている」。酸素を運ぶ物質が人間などと異なり、鉄ではなく銅を含むタンパク質であるため、解剖をすると青い血が出る。

タコの能力で傑出しているのは「擬態能力」であろう。天敵からの防御や、餌を捕るときに有効な能力だ。サンゴや岩や海藻だけでなく、ヒラメやウミヘビに変身したりもする。この件に関して、著者はいくつもの研究所で、何人もの研究者に取材を試みるが、解明は一筋縄ではいかないようだ。研究者たちは、外見上の形の変化だけでなく、擬態のスピードの早さにも注目している。タコの色素胞や神経伝達物質の解明が進めば、軍事や医療への応用も期待されている。アメリカの海軍研究所は、体色変化という暗号の解読に、複数年にわたり巨額の助成金を提供しているという。

タコの特徴をひとまとめにすると以下のように言えるかもしれない。
「肉食で、餌を探しに出かける。巣穴をこしらえたり、模様替えをしたりする。道具を使う。空間認識力があって道に迷わない。遊びをする。人の顔を見分けられる。つまり・・・タコはとても賢いんだ」。著者が取材で出会った、シアトル水族館で四十年あまりもタコを研究してきた生物学者R.アンダーソンの言葉だ。「この世で一番賢い無脊椎動物だ」とも言う(ちなみに地球上の生物の95%以上は無脊椎動物だ)。

著者は、取材の合間にニューヨークのとある韓国料理店を訪れ、“タコの踊り食い”に挑戦して、改めてタコの神経系統の複雑さや生命力の強さに感嘆している。

タコは美味しい。個人的には、タコの知能が高いことがあまりに世間に知れ渡ってしまうと、クジラのように「知能の高い生物を食べるのはケシカラン」みたいな風潮になるのではないかと危惧している。ちなみに、国内で流通しているタコは、国産だけではなく近年ではモロッコ、モーリタニア、セネガルなど北アフリカ沿岸諸国からの輸入ものが増えているそうだ。(野口健二)

| | コメント (0)

「国語辞典を食べ歩く」サンキュータツオ

サンキュータツオ 著
女子栄養大学出版部(336p)2021.07.07
1,870円

著者は「米粒写経」という漫才コンビを組んでいる芸人であると同時に、一橋大学や早稲田大学で非常勤講師をしている「文体論」や「表現論」を専門領域とする文学者でもある。芸人が学者でも、学者が芸人でも構わないのだが、どんな人なのかスッとイメージできない人物であるのは事実。

本書は「食」に関する言葉について、出版各社から発行されているハンディーな国語辞典の中でどう表現されているか、そしてどんな違いがあるのかを明らかにして各辞典の持っている個性を語り尽くしている。

そもそも、何種類もの国語辞典を自宅に持っている人はそう居ないし、各事典の語釈の違いをわざわざ比較したことのある人も少ないと思う。団塊の世代の私は、学生時代は岩波の国語辞典を持っているだけで、必要が有れば父親の広辞苑を借りていた。今は、たまたま縁が有り岩波国語辞典の第二版(1971)と第七版新版(2011)の二冊を現在書架に収めているものの、この二冊の辞典で言葉を調べることはまずない。

本書で比較対象としているのは、三省堂の三省堂国語辞典(初版1960~最新7版)、岩波書店の岩波国語辞典(初版1963~最新8版)、三省堂の新明解国語辞典(初版1972~最新8版)、大修館書店の明鏡国語辞典(初版2002~最新3版)の4つの辞典。辞書好きの著者が「食」をキーワードにして各々の個性を次の様に紹介している。 

三省堂国語辞典(以下三国)は「生活に密着した新語・俗語などにも積極的。簡潔に『要するに何なのか』を伝える」。岩波国語辞典(以下岩国)は「主観的な記述を控えた語釈が売り。ジャンクフードや流行ものには慎重で歴史好き」。新明解国語辞典(以下新解)は「ワイルドで親切な個性派。ビビッドな表現が魅力」。大修館明鏡国語辞典(以下明鏡)は「雑学にも強いスマートな食通。食べ物の種類や製法については抜群に詳しい」。

こうした編者の想いが記載表現の違いとして継続されていくとともに、最新版だけでなく同じ事典の版毎の語釈・表現の変化も、時代の変化を反映させていくという意味で比較しているのも面白い。

各章はジャンル別に分れていて、「人気メニュー」、「和食」、「おやつ・ケーキ」、「調理器具」、「麺類」、「食材」、「食べる言葉」などその範囲は広い。

冒頭にとりあげられているのは「ハンバーグ」である。注目すべきは形の表現だ。三国は「小判型」、新解は「平たく丸い形」、明鏡は「楕円形」としている。こう示されてみると多様な表現が使われているのが良く判る。著者は「小判型」という言葉がハンバーグを見事に表現していると高評価だが、「小判」という言葉が現代では日常語でなくなりつつあるのではないかと思うと、この形容で良いのかといささか心配になる。一方、岩国はハンバーグの形には触れず、他の辞典では「焼く」と記載している調理法について、唯一「フライバンで焼いた」という条件を付けていて、より明確な表現と高評価。

「ナポリタン」については、三国の第六版(2007)と第七版(2014)でその表現に大きな変化があったことを指摘している。六版では「ナポリふう。トマトを使うのが特色。」。それが七版では「ゆでたスパゲッティーにトマトケチャップ・ハム・ピーマン・玉ねぎなどを入れ、やきそばのようにいためて・・・・日本生れの洋食。ナポ(俗)」と変化している。第六版での「言葉の意味を定義する」と言う姿勢よりも、七版では「ナポリタン」を食べて、その特徴を記述するという、三国の足で稼ぐ語釈の特徴が発揮されたとしている。この変わり身の早さは驚くばかりだか、「ナポリふう」という言葉に対する曖昧さが有ったのかもしれないとの指摘には納得。

世の中の食べ物にもトレンドが有ることから、どのレベルで辞典の新版に取り込むかの姿勢には違いが明確になっているのも面白い。著者が独断で選んだ料理12品(カルパッチョ、トムヤムクン、ガレット等)が各辞典でどう取り上げられているのかを調べている。12品全品を掲載しているのが三国で「よく街に出て、いろいろ食べている」という評価、一番少ない3品しか掲載されていないのは岩国で「ほとんど外出せず、多分和食しか食べていない」と厳しい評価がされている。

献立という言葉も特徴が良く出ている。グルメな明鏡は献立を「食卓に出す料理の種類・組み合わせ・順序などの計画・またはそれを書き出したもの」と記している。一方、歴史好きな岩国は「献とは『人に酒を勧めること』、一献を添えて出す膳の数を言い、一献ごとに料理があらたまった、・・コース料理の順番を総じて『献立』という」としている。各々の辞書を個別に読んでいるだけであれば、成程と思って終わってしまうところだが、こうして比較することで、重点の置き方や分析方法の違いなども面白さとなって沸き上がってくるのも不思議である。

ちなみに、三国は1960年に初版が発行、4つの辞典の中では一番古く「初代の編者の一人である見坊豪紀は、従来の辞書作りに疑問を感じ実際に自分で街に出て人々の生活の中で交わされる会話の言葉を集め記述した。生涯で145万もの用例カードを残した。この現場主義は今も生きている」と紹介している。

また新解は1972年が初版。その主幹の山田忠雄は「先行数冊を机上に広げて、適宜に取捨選択して一書を成すはパッチワークの最たるもの。・・・辞書を引くからには意味だけではなくニュアンスもくみ取るべき」という姿勢である。

岩国の初版(1963)の序文も私は調べてみたが、全ての辞典の初版において、先行辞書が持っていた弱点や問題を指摘したうえで、新たな発想で辞書を作ると言う意気込みが強く語られている。これらが各辞典の特徴となり、版を重ねて歴史を積み上げながらも特徴を崩すことなく変化して来た事が良く判る。

現在、小型の国語辞典で売上の第一位は新解の様だが、赤瀬川源平が1996年に出した「新解さんの謎」の大ヒットが影響していることは間違いない。この本のおかげで「新明解=変な語釈」という指摘の中、食に関する「かも、肉はうまい」といった主観的表現も注目されて、「美味=新明解」というイメージが定着したと著者は考えている。そして、「岩国は主観的な記述を控えた語釈が売りだが、最新版では、この鴨について異例の『肉は美味』という主観的記述をしている。この4文字に新明解の山田への敬意とも思われる行間がある」と記している。岩国ファンの私としては、少し気になったので手許にある第二版(1971)で「鴨」を引いてみると既に「肉は美味」と書かれている。新明解の初版は1972年だから「新明解の山田への敬意」という言い方は違うんじゃないかと思ったりしながら、国語辞典をこんな風に使ったのは初めてで、新たな辞書の使い方を楽しんでみた。

まだまだ、「食べる動詞」の「すする」と「たぐる」の説明表現の違いや、三国の初版から最新版までの「ラーメン」の記述の変化など、すべてのページが楽しい読書であった。

それにしても、薄い紙に細かい字で滲みなく印刷し、膨大な頁を製本するという工芸品の様な辞典がずっと残ってほしいと思うのも単なるノスタルジーなのかもしれない。ちょっと確認したいことが有ると、スマホで検索している自分がいるのも現実なのだから。内池正名)

 







| | コメント (0)

2021年10月17日 (日)

「ヌシ: 神か妖怪か」伊藤龍平

伊藤龍平 著
笠間書院(270p)2021.08.12
1,760円

「ヌシ」と聞くと、なにやら沼などに棲む大きな怪物的な生き物を思い起こす。そして、「あの女子社員は職場のヌシ」などと身近な言葉として使っているのだが、面と向かって「ヌシとは何か」と質問されると曖昧に「ヌシ(主)」と言う言葉を使っている自分に気付くことになる。一方、民俗学の事典類でもヌシについて項目を立てて説明しているものは皆無に近いとか、「水の神」「龍」「河童」など個別の文献や、地域毎のヌシ伝承に関する文献はあるものの、日本の「ヌシ」伝承を総括的に取り上げたものはないという。それだけに、ありそうでなかった「ヌシ」全体を俯瞰した初めての一冊という著者の言葉にも気持ちが入っている。

ヌシの定義として、特定の場所で長く生息・君臨し、巨大化して強力な霊力を持っているものとしている。ヌシとなるのは年を経た蛇や魚・亀などの水棲生物、龍や河童・狒々などの伝承生物などが多いのだが、時として人の姿に変貌したヌシもいれば、鐘などの器物に由来したヌシもいる。なかなか広範な存在である。

そして、ヌシの棲む場所が人の生活圏と重なる時に緊張が生まれる。ヌシの多くは水域をそのテリトリーにしているし、人もまた生きて行くためには水が必要不可欠であり無縁でいることは難しい。われわれの先祖はヌシとつかず離れずの日々を過ごしてきたのだろう。

ヌシという存在は日本特有のものであり、世界的には一つの場所に棲み続ける巨大生物や水の神などの伝承は有るものの、それらを「ヌシ」として総括する概念や言葉はないという。従って、本書では地域名が明らかになっている日本各地の民俗伝承を中心に分析しており、巻末の全国に及ぶ都道府県別ヌシ索引を見ればそのヌシ伝承の豊富さに驚かされる。それだけに、著者は読者に対して、全国各地にいるヌシを身近に感じてほしいという期待を強く語っている。

ヌシを考えるテーマの一つとして「自然と人の共生」のヒントが伝承の中にあると著者はいう。人とヌシとは常に平和的な関係を保っていたわけではない。時としてヌシと戦い、ヌシとの対立を事前に避け、ヌシの尋常でない能力に耐えるなどの生活をしてきた。それは、温暖化が進み自然現象の変化と風水害などの被害を目の当たりにすることが多くなっていることを考えると、「ヌシ=自然の象徴」という見方にも合点がいく。

ヌシ伝説を理解するもう一つのテーマが領地占領・征服を正当化するためのものという考え方だ。大和朝廷に恭順せず征伐の対象になった古代の豪族たちは「土蜘蛛」と呼ばれており、時代が下るにつけてその言葉から妖怪化していったともいわれている。一方、時代が下ると実在の人物が伝承の主人公になることで歴史としての意味も出て来る。8世紀に坂上田村麻呂が木曽に棲んでいた大蛇を追い武蔵国で退治し、征夷大将軍として蝦夷征伐を行うが、征伐とは言い方を変えれば侵略である。それを正当化するためのオオタキマル(大滝丸)という鬼を成敗するという話が作られたが、その鬼は征服された豪族の暗喩である。ここでもヌシは土着の人々であることを指摘している。

人々がヌシとどう付き合ってきたかという視点も面白い。人はヌシと色々な係わり方をしてきているのだが、その中でも、ヌシと約束を交わすと言う関係の伝承は考えさせられる点が多い。群馬県利根郡の伝承では、川の観音様を毎日掃除していた男がある日、釣りをしていると滝つぼから乙姫が現れて毎日の掃除のお礼として、お膳やお椀が足りない時が有ったらその個数を紙に書いておいておけば岩の上に置いておくと言ってくれた。以後、男は自分の必要な時や村人に頼まれた時に御膳やお椀を都合してきた。ただ、ある村人が一つ返すべきお椀を忘れてしまったことがあった。そうするとそれ以降お膳やお椀は貸してもらえなくなったという。この伝承のポイントはヌシとの契約・約束を結んだのも、それを破ったのも共同体(村)の一個人、その一個人の振る舞いが共同体全体に影響を及ぼす。自分の為だけでなく、仲間の為にも約束は守れという日本人の集団行動の基礎的レッスンのようである。

一方、ヌシが人に対してとる多様な行動の中に「人をさらう」といった行動がある。ヌシが見染めた娘との異種婚姻譚として多く見られるが、ヌシは例外なく面食いなので若くてかわいい娘がその対象であるとともに、結婚してヌシの世界に入った娘が不幸になったという伝承は無いようだ。ただ、多くは結婚前にヌシの正体がバレて破談になったりしている。 

山形県置賜の伝承では、手打沼のヌシ(大蛇)に見染められ、親の反対にも関わらず嫁ぐことになった娘が、父親の前に水中から美しい花嫁衣裳を着て現れた。娘はにっこり笑い花婿(ヌシ)に手を取られて、再び水底に消えて行った。その時父親は「沼の中にもきっと竜宮城があるだべ・・・そうに違いねえ」と娘を思いやる気持ちを呟く。娘が選んだ運命の相手がたまたま人間でなかったという状況でも、娘を思いやる親心は変わらないとい切なさを表している。こんな伝承を読むと、昨今世情を騒がせている結婚話等が思い出されてしまうのだが。ヌシ同志の付き合い方や人がヌシになる伝承等、興味深い話が多数紹介されている。 

本書の締めくくりとして現代のヌシについて語られている。その一つが未確認動物として我々の前に表れているヌシ達である。釧路湖のクッシーや「釣りキチ三平」の巨大魚タキタロウを始めとして、特に1970年代にその名をあげたのがツチノコである。伝承としての「山の神 ツチノコ」は1972年田辺聖子の小説で世間の注目を浴び、ヌシから未確認動物に変わり、今や各地で捕獲懸賞金がついている状態である。

また、戦後の特撮映画にも多くのヌシが登場している。まずは、水爆実験の結果、太古の恐竜が目覚め人間社会に鉄槌を下すというゴジラがその代表である。またテレビのウルトラQにも、トンネル工事で目覚めたゴメスや火星から来た「ナメゴン」などいとまがない。これらは全て、科学技術の進展に伴う、人間の振る舞いに対する警鐘として捉えられている。また、宮崎駿監督の映画、戦国時代を舞台とした「もののけ姫」や昭和20年代を描いた「となりのととろ」で語られている自然や里山と人間の関係の中にヌシを描いていることに著者は注目している。

それにしても、われわれは何と多くのヌシに囲まれて生きてきたのかと痛感する。ヌシ伝承は自然が人間より優位である状況や拮抗している時に生まれる。そう考えると、自然を破壊し消費してきた現代はヌシが生き辛くなってしまった時代ということか。

われわれが大いなる自然に向き合ったとき、ヌシは良き隣人として現れるに違いないと著者は言う。ヌシは我々の心の中に居る。私は遠野市観光協会発行の「カッパ捕獲許可証」を保持している。今朝、机の引き出しから引っ張り出して確認してみたら許可期間がとっくに過ぎていて効力を失っていた。これでは、河童に出逢っても捕獲は出来ないので、飯でも一緒に食べて「また会おう」と言って別れるしかない。そんな事を考えるヒントをもらった読書だった。( 内池正名)

| | コメント (0)

「世界史を大きく動かした植物」稲垣栄洋

稲垣栄洋 著
PHP研究所(224p)2018.06.18
1,540円

『世界史を大きく動かした植物』というタイトルに惹かれてこの本を手にとった。腰巻きに踊る「植物という視点から読み解く新しい世界史」「一粒の小麦から文明が生まれ、茶の魔力がアヘン戦争を起こした」という惹句も、なにやら魅力的だ。植物が人類の進化に大きくかかわってきたであろうことは容易に理解できる。頭の中では、以前読んだ『銃・病原菌・鉄』(本書の参考文献のひとつでもある)の植物版というイメージで読み始めた。

本書は植物学者である著者が、世界史を大きく動かしたであろうと考える植物をいくつかピックアップして、それぞれについて解説をしている。コムギ、イネ、コショウ、トウガラシ、ジャガイモ、トマト、ワタ、チャ、サトウキビ、ダイズ、タマネギ、チューリップ、トウモロコシ、サクラの14点がそれだ。

植物ごとに章立てをしていて、記述内容には濃淡があり、ここでは比較的世界史寄りの記述が多い植物を中心に紹介してみたい。

コムギの章には、「植物の種子は保存できる・・・保存できるということは、分け与えることもできる。つまり、種子は単なる食糧にとどまらない。それは財産であり、分配できる富でもある」という記述がある。実は「植物は富を生み出し、人々は富を生みだす植物に翻弄された」(はじめに)というのが、本書の大きなテーマの一つでもある。

例えば、コショウである。コショウは今でこそ多くの香辛料や調味料の陰に隠れて目立たない存在だが、「その昔、コショウは金と同じ価値を持っていたと言われている」。なぜか? 古来、ヨーロッパでは家畜の肉が貴重な食糧であったが、肉は腐りやすいので保存できない。ところが、香辛料があれば良質な状態で保存できる。「香辛料は『いつでも美味しい肉を食べる』という贅沢な食生活を実現してくれる魔法の薬だったのである」

コショウの原産地は南インドであり、ヨーロッパの人々にとっては手に入りにくい高級品であった。陸路をはるばる運ぶしかなく、どうしても高価になる。インドから海路で直接ヨーロッパに持ち込むことができれば、莫大な利益が得られる。そこで、スペインやポルトガルの船団が地中海の外側に船を繰り出し、これが「大航海時代」の始まりとなった。植物が世界を「大きく動かした」ことになる。

コショウを求めてインドを目指したコロンブスは、1492年アメリカ大陸に到達した。そこで出会ったのはコショウならぬトウガラシであった。トウガラシは辛味が強くヨーロッパ人には受け入れられなかったが、ポルトガルの交易ルートによって、アフリカやアジアに伝へられていった。インドやタイ、中国などに無理なく受け入れられたのは、「栄養価が高く、発汗を促すトウガラシは、特に暑い地域での体力維持に適していた」からだという。

半世紀後、トウガラシは日本にも伝わり、中国経由だったことから「唐辛子」と名付けられた。一方、韓国には日本から伝わったことから、韓国の古い書物には「倭芥子」と記されている。日本ではそれほど広まらなかったが、韓国ではトウガラシの食文化が花開いて現在にいたる。

ジャガイモの原産地は、南米のアンデス山地である。コロンブスが新大陸を発見して以降、16世紀にヨーロッパに持ち込まれた。もともとヨーロッパには「芋」はなく、ジャガイモの芽や葉などに毒が含まれていて、めまいや嘔吐など中毒症状を起こすことなどから、当初は「悪魔の植物」と呼ばれていた。主にドイツで普及して、今ではヨーロッパ料理に欠かせない存在になった。豊富にとれたジャガイモは、保存が効き、冬の間の家畜(主にブタ)のエサにも利用されて、多くのブタを一年中飼育できるようになって、ヨーロッパに肉食を広める要因になった。

アイルランドでは18世紀には主食となるほどに普及したが、1840年代にジャガイモの疫病が流行し、大飢饉が発生した。当時イギリスの対応は冷たく、100万人にも及ぶ多くの人々が、故郷を捨て新天地のアメリカを目指すことになる。イギリスとアイルランドの確執は、このときから始まったのかもしれない。「このとき移住した大勢のアイルランド人たちが、大量の労働者として、アメリカ合衆国の工業化や近代化を支えたのである」

ワタは「世界史を大きく動かした植物」の中でも出色の存在であろう。ワタの主要な原産地はインドである。「17世紀になって、イギリス東インド会社がインド貿易を始めると、品質の良いインドの綿布がイギリスで大流行することになる」。18世紀後半には蒸気機関の出現により、手間のかかる機織りの作業が機械化され、大工場での大量生産が可能になった。これが「産業革命」である。

「産業革命」はいいことばかりではない。材料となる大量の綿花が必要になり、19世紀には、もはやインドだけでは足りなくなり、イギリスは新たなワタの供給地をアメリカに求めた。アメリカにはワタを栽培するのに必要な広大な土地はあったが、十分な労働力はなかった。そこで、アフリカから多くの黒人奴隷がアメリカに連れて行かれたのである。アメリカから綿花がイギリスに運ばれ、イギリスから綿製品や工業製品がアフリカに運ばれ、アフリカからは大勢の黒人奴隷たちがアメリカに連れて行かれた。「このようにして常に船に荷物をいっぱいにするための貿易は、三角形のルートで船が動くことから三角貿易と呼ばれている」。そして奴隷制などをきっかけとして1861年南北戦争が勃発する。

ワタと並んでチャもまた世界史に大きく影響を与えた植物の一つだ。チャは中国南部が原産の植物だ。仏教寺院で盛んに利用され、宋代には日本からの留学僧たちによって抹茶が日本に伝えられた。一方、ヨーロッパには長い海路でも傷みにくい紅茶が出荷されるようになった。はじめにオランダへ、次いでイギリスへと伝わった。アメリカ大陸にはすでにオランダから紅茶が伝わっていたが、その後イギリスの植民地に変わったことで、イギリスとアメリカの間にチャを巡る騒動が勃発する。1773年の「ボストン茶会事件」がそれだ。そして1775年には独立戦争に発展する。

イギリスで紅茶が普及すればするほど、大量のチャを清国から輸入しなければならず、代わりに大量の銀が流出していく。この貿易赤字を解消するため、「イギリスは、インドで生産したアヘンを清国に売り、自国で生産した綿製品をインドに売ることで、チャの購入で流出した銀を回収するという三角貿易を作りだしたのである」。そして、1840年にはイギリスと清国都の間でアヘン戦争が勃発する。この間、1823年にはイギリスの探検家がインドのアッサム地方で中国とは別種のチャの木を発見する。こうして、インドはチャによって経済を復興していく。

世界三大飲料として紅茶、コーヒー、ココアが挙げられるが、いずれもカフェイン含んでいる。「植物が持つカフェインという毒は、古今東西、人間を魅了してきた。そして、カフェインを含むチャもまた、人間の歴史を大きく動かしてきたのである」

植物は本来、昆虫や鳥、動物などを介して種子を広く散布してきたが、本書を読むと、人類もまた植物を世界中に広めることに大きく貢献してきたことがよくわかる。著者は「人類は長い歴史の中で、自分たちの欲望に任せて、植物を思うがままに利用してきた。そして、物言わぬ植物は、そんな人間の欲望に付き従ってきた。・・・はたして、植物たちは人間の歴史に翻弄されてきた被害者なのだろうか? 私は、そうは思わない」(おわりに)と述べている。著者は、実は、植物こそが人間を利用してきたのではないかと言いたかったのかもしれない。

全体的には、雑学的な要素も多く、面白く読めた。ただ、個別の植物ごとに章分けしたことで、植物の特性に関する記述が中心で、肝心の「世界史を大きく動かした」という視点が希薄な章が散見された点が少々残念な気がした。

なお、21年9月に新たにコーヒーの章を追加、タイトルも『世界史を変えた植物』と改題して文庫化(PHP文庫)されている。(野口健二)

| | コメント (0)

2021年9月18日 (土)

「Louis Armstrongー生誕120年 没50年に捧ぐ」外山喜雄・恵子

外山喜雄・恵子 著
冬青社(255p)2021.07.01
1,980円

「ジヤズの王様」と呼ばれてきたルイ・アームストロング(サッチモ)は1901年8月4日にニューオルリンズで生まれ、1971年7月6日ニューヨークで死去した。本書はその69年の人生を辿る「サッチモの解説本」であるとともに、著者の外山喜雄・恵子夫妻自身のジャズ人生の記録である。

サッチモの人生はジャズの歴史の原点であったし、アメリカの人種差別の歴史そのものであったと言える。それを象徴するようなエピソードが紹介されている。

「シカゴなどで人気を博していたサッチモが1931年にニューオリンズに里帰りして開催されたコンサートはラジオ実況されていたが、白人アナウンサーは困惑し、迷った挙句に『皆さん、私はニガーの紹介は出来ません』とサッチモの紹介を拒否した」

70年後の2001年、そのニューオリンズの空港が「ルイ・アームストロング・ニューオリンズ国際空港」と改名された。多様性を許容する方向に確実に進んだものの、まだまだ人種差別の壁は厚いのは周知の通りであるが、こうした時代背景を頭に置いて、サッチモの人生とジャズを考えてみようという一冊である。

著者の外山喜雄・恵子夫妻は早稲田大学のニューオルリンズジャズクラブで同時期に活動し、趣味としてのジャズに没頭していた。卒業後会社勤めをしたものの、一年で退職し、結婚とともに二人でニューオリンズにジャズの武者修行に出ると言う決断をしている。ほぼ同世代(私が4年下)の私から見てもいささか無謀と言わざるを得ないが、そうしたジャズ好きが高じてプロの道を歩み、現在も活躍している二人を見ていると、そのブレない人生を突き進むエネルギーは素晴らしいことだ。加えて、サッチモの映像や音源を集め、国内外の関係者との対話等も積み上げて、客観的にサッチモを描いている点も本書の特徴である。

本書は第一章から第五章に分かれ、サッチモのジャズ人生、演奏と歌唱、レコード、映像の記録、とともに外山夫妻のジャズ演奏歴や日本ルイ・アームストロング協会の活動などを紹介している。

外山は120年のジャズの歴史を、デキシー、スイング、ビーバップ、モダンジャズそしてフュージョンといった変化の流れとして捉えている。その「変化」を外山は「進歩」という言葉で表現している点が興味深い。「進歩」というと優劣が有る様に聞こえてしまうので違和感を覚えるが、このあたりの感覚はもう少し著者の思いを聞いてみたいところである。そうは言っても、ニューオリンズとサッチモを抜きにジャズの歴史を語ることは出来ないという考えを「ジャズを言語に例えると、ABCはニューオリンズの街とサッチモが作った」と説明し、マイルス・デビスの「もしルイがいなかったら、私は何も出来なかったと思うね。ラッパを吹いたら必ずルイがやった何かが出て来る。そんな具合なのさ」という言葉を紹介している。しかし、そうした外山の想いと異なる人達が居るのも事実で「若いジャズプレーヤー達にあこがれのジャズマンを尋ねると、マイルス、コルトレーン、パーカー、・・ロリンズ、ベイシー、エリントン・・ちょっと待った。一番大切な誰かを忘れていないだろうかと叫びたくなる」と外山の気持ちを素直に表現している。

サッチモの歌(Vocal)についても多くを語っている。「ハロードーリー」1964や「この素晴らしき世界What’s a Wonderful World1967が代表曲だが、特にレコード会社の反対の中、ボブ・シールがプロデュースした「この素晴らしき世界」は発売後すぐにイギリスのヒットチャートで一位になったものの、反戦的なこの歌はアメリカではすぐにはヒットしなかった。後にボブ・シールは「60年代後半のアメリカはケネディ暗殺、ベトナム戦争、人種間の争いなど、いたるところで混乱していた・・・・人々がお互いに愛と思いやりを持てば世界はワンダフルワールドになる。それは世界で彼サッチモにしか出来ないことだと思った」と語っている。そして、1967年のテキサス州の米軍基地で明日にでもベトナムに出兵する迷彩服の兵士たちに向かって、ルイ・アームストロング オールスターズが「この素晴らしき世界」を演奏する映像には当時のアメリカの苦悩が集約されているようだ。しかし、サッチモの死後16年目の1987年に公開された映画「グッドモーニング ベトナム」の主題歌として使われたことにより大ヒットとなった。外山の言葉を借りれば「早すぎた遺言状」ということかもしれない。

1971年のサッチモの葬儀の様子を丁寧に描写している。その時、夫妻は5年間のジャズ武者修行でニューオリンズに滞在しており、まさにその場に立ち会っている。ニューオリンズで行われたサッチモの葬儀は伝統的な黒人の葬儀として行われた。ジャズは宗教とともにありと言われる様に、多くのブラスバンドが集まり讃美歌を演奏し、「黒い大群衆」は行進をした。天に召されることへの祝福とともに、人種差別のもとでの「生の悩みや苦しみ」からの解放を祝っての行進である。人々が持つプラカードに書かれていた「サッチモの精神は永遠に(Satchmo’s Spirit Lives On Forever)」という言葉が外山のジャズ人生の根底に流れているのもそうした体験によるところも大きいのだろう。

ルイ・アームストロング秘話と題して、多くのエピソードが紹介されている。1956年のバーンスタイン指揮のニューヨークフィルとの共演、美空ひばりとの交流、1932年の初めてのヨーロッパツアーの時、イギリスのジョージ五世からトランペットをプレゼントされた話、スキャットの誕生秘話、ローマ法王との会話など一つ一つ面白く読める。

そして、サッチモとディズニーと外山を繋ぐエピソードが大きな鍵だと思う。サッチモは数多くのディズニーの名曲を歌い吹いているが、1960年からロスのディズニーランドの「Dixieland at Disneyland」というイベントに出演しており、「サッチモはジャズの王様であるとともに、ウォルト・ディズニーの魔法の王国の王様になった」と評価されていた。一方、外山は1983年から23年間にわたって東京ディズニーランドのレギュラーバンドだったが、「ステージは演技にはじまる」というショービジネスの考え方が徹底されたという。そしてサッチモを始めとした多くのジャズミュージシャンの演奏映像を見直して、「演技」と「演奏」の連携を再認識し、それによりサッチモの世界をより理解が進んだとのこと。エンターテイメントの本質を示された思いだ。

外山夫妻が1998年に日本ルイ・アームストロング協会を立上げて、サッチモの音楽や映像を楽しむだけでなく、その精神を伝えて行く活動を目指した。その一つが「銃に代えて楽器を」の実現だろう。貧しいニューオリンズの子供達に楽器を送ることに始まり、2005年のハリケーンカトリーナで被害を受けたニューオリンズのミュージシャン救援の募金活動を行っているのもサッチモだったらという思考の為せる業なのではないか。そして2021年の東日本大震災で被災した子供達・学生にニューオリンズのライブハウスを運営する団体から楽器が贈られたのも、外山夫妻が核になって実現できたことは間違いない。そんなサッチモ漬けの二人を現在に導いて来たサッチモという存在の大きさにまた一つ気付かされる一冊である。(内池正名

| | コメント (0)

2021年8月17日 (火)

「納豆の食文化誌」横山 智

横山 智 著
農文協(301p)2021.06.23
2,970円

納豆は子供の頃から我が家の食卓に欠かせないものだった。季節野菜のぬか漬けとともに食卓でしっかり立ち位置を確保していた。父は福島、母は新潟出身で東日本食文化の典型的な家庭だったと思う。本書で日本の糸引き納豆の歴史の大きな転換点として、稲わらのつとに入って売られていた時代から、戦後1950年代に経木で三角形に包まれた形になり、そして発砲スチロール製の小分けされた商品へと変化してきたことを挙げているのだが、そうだったと納得しながら、納豆のパッケージの転換期を体験してきた私は、「団塊の世代」ならぬ「納豆世代」とでもいえるのかもしれない。そんな個人的な納豆観を頭の片隅に置いて夏の読書を楽しんだ。

本書の冒頭で、植物学者の中尾佐助の「納豆はいわば、大豆と植物とそれに付く菌の三種の植物複合文化」という言葉が紹介されている様に、日本の稲わら文化と納豆づくりの歴史にはじまり、東南アジア各国で作られている納豆を紹介している。特に、著者が東南アジア各地を辿り、街の市場を訪れ納豆を探し、納豆生産者を訪問して製造工程や原材料を教えてもらいながら、各地での地域固有の食べ物を実食するという、まさに足と舌で辿る調査の集大成といえる。

醗酵という複雑な化学プロセスが科学的に解明される以前から、人類は日常的に菌や酵素を利用してきた。失敗も繰り返したと思うが、代々の知恵を受け継いで醗酵食品を作って来た歴史が有る。醤油・みそ・鼓などの麹による醗酵調味料は古くからの文献に載っているが、稲わらの枯草菌醗酵による納豆づくりが始まったかについては文献からの確定は難しい様だ。ただ、室町中期の「精進魚類物語」という御伽草子が紹介されていて、豆太郎を大将とする精進物と鮭大介を大将とする魚鳥物との合戦という怪作である。この御伽草子の中で、豆太郎がわらの中で昼寝をしている絵があるというから、この時代以前から稲わらで納豆を作る文化は確立していたということが判る。

稲作文化と納豆の関係についての考察も興味深い。日本では稲の収穫後のわらは、家畜の飼料にしたり、畑に鋤込んで肥料にしたり、燃料にするなどして土に戻すという循環に稲霊があるとされてきた。こうした稲作文化においてハレの食べ物として納豆が位置付けられており、恵比寿講や彼岸などに神仏への供物として使われるとともに、東北・北関東などでは正月用の納豆を「納豆年越し」「納豆正月」などと名付けて自家製納豆を作っていたという習慣を初めて知った。納豆は東日本の食べ物という先入観が有る中で、飛び地的に京都の一部で正月納豆の風習が有ったという著者の指摘は好奇心をそそられる。なぜ、京都で?との疑問は残るが、その理由は明らかにされていない。

醗酵の研究が進んだのは19世紀中頃にパスツールが酵母の作用としてアルコール発酵の原理を解明し、その半世紀後の1905年に日本の醗酵の権威で後に醸造研究所設立に貢献した澤村眞が稲わら納豆から枯草菌の一種として納豆菌を特定したうえで、純粋培養に成功した。しかし、納豆の製造の多くは小規模の製造者によって稲わらを用いて作られていたのが実態。そして、1950年代に稲わらを使った納豆づくりは消滅した。これは納豆菌の培養が可能となったこととともに、戦後のサルモネラ菌による納豆中毒の発生が契機となって、納豆生産が許可制になったことで衛生管理が進んだ結果である。以降、日本の納豆は工業化されて安全と安定生産を手に入れた代わりに、食文化の多様性を失ったという著者の指摘は重く感じられる。

一方、東南アジアの多くの地域で作られている納豆について、タイ系、ミャンマー系、チベット系、ネパール系など大きく四つに分けて詳細に語っている。日本以外の納豆に関する状況はまったく知らなかったので、大変興味深く読み進んだ。そこから見えてくるのは、一つは大豆を醗酵させるための菌の供給方法の違いであり、もう一点は日本のように御飯のおかずとして納豆を食べているのは例外で、ほとんどの地域では調味料として料理に使われているという点である。

まず、菌の多様な供給方法について、日本は稲わらの枯草菌を使っているが、アジアの各国では地域に自生する植物の葉を使って大豆を煮てその葉っぱで包んだり、竹籠の内側に葉っぱを引き詰めて煮豆を入れて醗酵させ納豆を作っている。例えば、タイでは「シダ」が多く使われ、インドでは「イチジクの葉」、ミャンマーでは「パンノキ」、その他各地ではバナナ、ビワ、チーク、笹などが使われているという。特筆すべき点として生産者は「味」によって使用する植物を選んでいて、香りが良いとして多く使われているのが「シダ」であり、強い粘りを求めるときは「いちじく」を使うといった好みが出ているという。この様に、アジア各国で見られる色々な植物の葉っぱを使って納豆の味を楽しむという選択肢が、何故日本の納豆に無かったのだろうかと思う。

こうして作られた納豆を潰してセンベイ状や碁石状、そして厚焼きクッキーのように成型したうえで天日乾燥して調味料としての納豆は作られる。これらは、いずれも炒め物、煮物、麺、スープなどに加えられて使われているのだが、地域独自に進化したアジアの納豆は糸を引かない枯草菌が選ばれていった。加えて、想像もつかないラオスのピーナッツ納豆や乳製品との混合などが有る事を知り、こうした多様性のある納豆について好奇心がそそられる点が多い。

東南アジアの特徴的な調味料としての納豆が食文化として形作られていることから、著者は「うま味文化圏」の一角に位置づけることを提案している。今までのアジア圏の「うま味文化圏」は、日本を含む東アジアの味噌、醤油に代表される大豆醗酵調味料が定着している「穀醤卓越地帯」と魚醤や塩辛などの魚介類醗酵調味料が強い「魚醤卓越地帯」に二分して考えられている。しかし、この二つの領域の境界にまたがる「納豆」調味料を加えて「三種類のうま味文化圏」という提案だ。

現在も東南アジア各国では、手間暇かけて手作業で少量の納豆を作っている。近年は輸送手段の発達に加えて、海岸地帯で作られている魚醤が内陸地域でも簡単に手に入る様になるとともに「味王」や「味の素」といった工業製品化された調味料との競争にもさらされているのが実態とのこと。工業化された日本の納豆生産でも納豆製造業者数は減り続けている。しかし、現代でも稲わらを利用した納豆生産に挑戦している企業も紹介されている。

現代の私たちが各国の多様な食文化を楽しめるのも、製造や物流の近代化のおかげ。一方、大量生産や厳しい品質管理にそぐわないことで失われていく食文化もある。なかなか難しい時代に生きていることを認識させられた一冊だった。内池正名)

| | コメント (0)

「ノマド」ジェシカ・ブルーダー

ジェシカ・ブルーダー 著
春秋社(372p)2018.10.20
2,640円

ノマド(Nomad)とは、一カ所に定住せず遊動生活を営む人々のことを指す。といっても時代と地域が異なればそのありようはさまざまで、遊牧民もノマドだし、流浪の民も、放浪者も、狩猟採集民もノマドと呼ばれる。本書『ノマド(原題:Nomadland)』でそう呼ばれるのは、現代のアメリカで住まいを持たず各地を移動しながら季節労働に従事する車上生活者。今年のアカデミー賞作品賞を受賞した映画『ノマドランド』の原作でもある。ジャーナリストの著者ジェシカ・ブルーダーは3年間、2万4000キロを彼らと旅して本書を著した。邦訳は3年前に出ているけれど、今年、映画が公開され5刷が出たから、このテーマに関心を持つ人がそれなりにいるということだろう。

本書には数多くのノマドが登場する。なかで主役といっていいのがリンダ・メイ。著者が会ったとき64歳。ジープ・グランドチェロキーを運転し、住まいである全長3メートルの小型トレーラーを牽引している。彼女はいま、夏季限定のスタッフとして時給9ドル35セントで働くために、カリフォルニア州サン・バーナーディーノ山地のキャンプ場に向かっている。

リンダは高校を中退したが、高卒認定資格を取りカレッジで建築技術の資格も取得した。これまでに経験した職業はトラック運転手、ホステス、施工管理の現場監督、フローリング店経営、保険会社役員、建築検査官、国税庁の電話相談員、介護職員、犬のブリーダーなどなど。その間、2人の娘を独力で育てあげてもいる。路上に出るまで、リンダは娘の狭い賃貸アパートに身を寄せていた。娘夫婦、3人のティーンエイジャーの孫たちと、計6人。リンダは家族に気をつかい、玄関脇のソファーで寝るしかなかった。2人の孫は病気がちで、生活はぎりぎり。そこへ大黒柱の娘婿まで病気になり、仕事を辞めざるをえなかった。リンダが娘の家を出ようと決心したのは、こんな理由からだった。リンダの公的年金は年524ドル。オークションで1400ドルの小型トレーラーを手に入れ、彼女はノマドになった。

キャンプ場へ出発する前日、著者はリンダに「わくわくしている?」と尋ねた。「『もちろんよ。これまで車もなければお金もない、ソファーの上にいるだけの生活だったんだから』。……以前はあたりまえだった自由をあまりに長いあいだ失っていたせいで、路上に出ることで得られる新たな経験や未来への可能性への期待が、いやが上にも高まっていた」

キャンプ場では、ノマドの友人シルビアン(詩人でもある)と組んで主に清掃の仕事に従事する。2人の分担は18カ所の屋外トイレと88カ所の使用後のキャンプサイト。利用客のチェックインや使用料の徴収もやる。仕事が終わる夜間も、客が深夜にやってきたり、騒音の苦情に対処したりする。

リンダが車上生活を始めたのは2010年。アメリカで「ワーキャンパー(ワーク+キャンパー)」と呼ばれる車上生活者が急増したのは2008年のリーマンショック後だった。住宅バブルが崩壊し、持ち家の価値が暴落した。仕事を失ったり、住宅ローンを払えなくなった人たちは否応なく路上へ押し出された。「ワーキャンパーは、これまでずっとあたりまえだと思っていた中流階級の安楽な暮らしから、はるか隔たったところに落ちこんでしまった人たちだ。……高・中所得者層から低所得者層に移行する高齢者の人口は近年急激に増加していて、私が取材したワーキャンパーの多くはその一員だった」

ワーキャンパーが金を稼ぐ季節労働は主に野菜・果実の収穫やキャンプ場の管理人だが、それをうまく利用している企業もある。例えばアマゾン・ドット・コム。アマゾンは宅配便が飛躍的に増えるクリスマスセール前後の3、4カ月、従来型の派遣社員とは別にノマドによる労働チームを倉庫に投入する。その季節になるとノマドたちの車が倉庫周辺のRVパーク(キャンピングカー駐車場。電気・上下水道を使えて使用料は月500ドル前後)にひしめくようにやってくる。勤務はシフト制で、最低でも10時間は働く。その間ずっとコンクリートの硬い床を歩き、何百回も屈んだり背伸びしたり階段を上ったりしながら、商品のバーコードをスキャンし、仕分けし、箱詰めする。リンダとシルビアンもカリフォルニアのアマゾン倉庫で知り合った。そのときリンダは時間外手当のつく夜勤を希望し、15分の休憩2回と30分の食事休憩をはさんで夕方6時から朝4時半まで働いた。

リンダやシルビアンらノマドたちには、先に触れたようにリーマンショック前後の不況で職や家を失って路上に押し出された人たちが多い。でも、彼らを激変した経済の犠牲者という視点のみでは考えられない、と著者は言う。実際、リンダもソファーの上に押し込められた生活から、路上での新しい生活にわくわくしていた。現代アメリカのノマド的生き方を指南するボブ・ウェルズは、自らのサイトでこう言っている。「普通の暮らしを捨てて車上生活を始めれば、ぼくたちをはじき出す現在の社会システムに異を唱える“良心的兵役拒否者”になれる。ぼくたちは生まれ変わって、自由と冒険の人生を生き直せるんだ」

ボブの「安あがりRV生活」というサイトや「車上生活者の会:愛車に住もう」のサイトにはたくさんの実例が寄せられ、それらに学んだり勇気づけられたりしてノマドとしての生き方を選ぶ人々が生まれる。リンダもそのひとりだった。そうしたサイトは実用的であるだけでなく、社会からはじき出されたノマドたちが互いに知り合い、連帯する場を目指している。「車上生活に乗り出したとき、リンダは経済的に生き残ることだけを目標にしたのではなかった。充実と自由を求めて生き方を大胆に変えようとしている人たちの、より大きなコミュニティの一員になれたらとも夢見ていたのだ」

実際、ボブ・ウェルズの呼びかけで各地に散るノマドが年に一度だけ集まる集会がある。毎年1月、アリゾナ州の砂漠の町で開かれるRTR(ラバートランプ集会)。人里離れた辺境の地に、この季節になると数万人のノマドがキャンピングカーや改造バスや箱型トラックや、なかには乗用車(プリウスに住んでいる!)を駆って集まってくる。ノマドにはいろんなトライブ(仲間)があって、トライブごとに2週間無料で滞在できるRVパークに車を停め、車の前にカーペットを広げてコンロやチェアを取り出す。ステルス・パーキング術(町なかで、いかに見とがめられず安全に駐車するか)などたくさんのセミナーが開かれ、フリーマーケットや交換会、合同食事会もある。アマゾン倉庫で働いていたリンダもやってきた。

こういう現代のノマドの生き方を見ていると、アメリカの伝統なんだなあという気もする。19世紀から20世紀の大不況時代に各地を放浪したホーボーも、渡り鳥労働者でありながら自由の体現者でもあった。そのなかからウディ・ガスリーのような詩人・音楽家が生まれた。ボブ・ディランの「風に吹かれて」も、ケルアックの『路上』も、その流れの上に成り立っている。映画でも『イージーライダー』のような「ロードムーヴィー」が生まれた。女2人が車でメキシコを目指す『テルマ&ルイーズ』(1991)は21世紀のノマドを予見しているようでもある。

著者はノマドについて、こう言っている。「人間というものは人生最大の試練のときでさえ、もがき苦しみながらも同時に陽気でいることができる、ということだ。彼らが現実から目を背けているという意味ではない。それは、逆境に直面した人間が発揮する驚くべき能力──適応し、意味づけ、団結する能力──の証明だと思う。……ノマドの人びとは、無力な犠牲者でもなければお気楽な冒険者でもなかった。真実は、それよりはるかに微妙なところに隠されていた」

著者は、自らもキャンピングカーを手に入れてこの取材を続けた。最後はやはりリンダとのエピソードで締めくくられる。リンダには夢があった。「アースシップ」をつくることだ。アースシップは、古タイヤや空き缶空き瓶など廃棄物を建築材料に、ソーラーパネルや雨水の利用で電力と水を自給自足できる家のこと。実際、ニューメキシコ州には数十軒のアースシップが建っている。リンダは季節労働でかせいだ金で、アリゾナ州チワワ砂漠の西端に5エーカー(約2ha)の土地を2500ドルで手に入れた。ところが、アマゾンの仕事が入って見にいけない。そこで著者がリンダに代わって現地に行き、その土地を探してパソコンでリンダに中継する。「あなたの映像、ぶつ切れだわ」「ちょっと待って、それが道路なの?」。乾いた赤茶色の土と、谷の向こうの山のシルエット。「ほんとうにいい景色ね、そう思わない?」。パソコンを介した著者とリンダの会話に、取材者と取材される者という関係を超えた共感が流れて思わず引き込まれた。

映画『ノマドランド』はコロナ禍と個人的事情があって見にいけなかった。若い中国系の女性監督がリンダたちをどう映像化しているのか、近くDVDが出るのを楽しみにしている。(山崎幸雄)

| | コメント (0)

2021年7月19日 (月)

「侯孝賢と私の台湾ニューシネマ」朱天文


朱天文 著
竹書房(288p)2021.04.08
2,750円

「台湾ニューシネマ」と言っても、ある年齢以上のコアな映画ファンでなければピンとこないかもしれない。台湾ニューシネマとは1980年代、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)、エドワード・ヤンといった当時30代の若手監督がつくった新しい映画群のこと。それまで娯楽映画しかなかった台湾映画に、現代史を素材にしたり台湾社会に深く切りこんだ作品をもたらした。なかでも、大陸から渡ってきた蒋介石政権による台湾人虐殺を主題にした『悲情城市』(侯孝賢監督)がヴェネツィア映画祭グランプリを獲得したことで世界的に知られるようになった。

著者の朱天文(チュー・ティエンウェン)は作家で脚本家。彼女の小説『小畢的故事』が映画化されたことをきっかけに侯孝賢と知り合い、以後、侯監督の18作品で脚本を担当することになった。この本は著者と侯孝賢の出会いに始まり、何本もの傑作を共につくりあげる過程で、その時々に台湾メディアに発表したエッセイを集めたもの。二人を中心とする仲間の同志的結びつきや作品の背景について、当事者によって語られることで台湾ニューシネマがどのように生まれたか、その実相がよく分かる。

実は小生、朱天文さん(個人的な記憶については「さん」づけで呼びたい)に一度だけ会ったことがある。1993年の台北。当時所属していた新聞社の出版部門で侯孝賢についてのムックをつくる企画が通り、3週間ほど台湾に滞在していたときのことだ。用件は原稿執筆の依頼と写真撮影。

6月の台北は、むっとする暑さだった。太陽が照りつける昼下がり、指定された店に行くとそこは無人の酒場。重い扉を開け中に入ると窓のない室内は天井からの灯りだけで暗く冷房がきき、いきなり深海にもぐりこんだ気分になった。長い髪を無造作に束ね、くすんだオレンジのワンピースを着た朱さんがスポットライトのなかで微笑んでいた。そのころ30代半ばだったろうか。小生が侯孝賢監督と同い年と知ると、「お兄さんですね」と座をほぐしてくれた。二重瞼の瞳で相手をまっすぐ見つめ侯監督について語る朱さんの口調は、終始穏やか。同行した写真家・平地勲が撮影しムックに掲載した彼女のポートレートは、飾り気のない、知的で美しいひとの魅力を存分に伝えている。

と、これは個人的な思い出。本書に戻ろう。朱天文は侯孝賢が本来持っている資質について、こう語っている。

「たとえ強力な本能はあったにしても、侯孝賢は芸術的な気質をまったく持たない人でした。彼を野生の動物、あるいはどこか天然未開の地に住む人にたとえてもいいかもしれません」。あるいは、こうも言う。「強烈に、生い茂った草の匂いがする」

そんな侯孝賢が巨匠と呼ばれるに至るまでには、何人もの優れた映画人との出会いがあった。朱天文は、そんな人たちの横顔をスケッチしている。例えば台湾ニューシネマの産みの親とも言うべき中影公司(台湾の大手映画製作会社)社長の明驥(ミン・ジー)。1980年に社長となった明は、積極的に若い人材を集めた。後に『悲情城市』を朱とともに書く脚本家・呉念真(ウー・ニエンチェン)。プロデューサーの小野(シャオイエ)。明は二人に現場を任せ、彼らが参画したオムニバス映画『少年』(原作は朱天文『小畢的故事』)で朱は侯孝賢と出会い、共に脚本を書いている。

それまで侯孝賢は、3本の「商業的な文芸ラブストーリー」を監督していた。小生、そのうちの一本『むこうの川岸には草が青々』を見たことがある。学校を舞台に子供が生き生きと動き回るあたりに後の侯孝賢らしさを感じさせるものの、全体としては青春もののコメディ。そんな商業映画出身で、朱曰く芸術的な気質のない侯が「ニューウェーブの旗手」となるまでには、さらにいくつもの出会いがある。

最大の出会いは、よく知られているようにエドワード・ヤンだろう。ヤンはアメリカで映画を学んで台湾に戻ってきた。朱が評するに、ヤンの映画は「精密、正確で、様式において絶対的な完璧さ」を求めている。「のびのびと豪放磊落で、いつも未完成のような」侯孝賢とは対照的。侯がヤンから大きな刺激を受けたのは間違いない。

また侯孝賢映画の編集を担当することになる寥慶松(リャオ・チンソン)の存在も大きい。小生が編集したムックでも寥慶松にインタビューしている。そのなかで、侯より一世代上に当たる彼は侯孝賢にゴダールを見せたと語っている。侯孝賢にとってのゴダールは、そのスタイルに影響を受けたというより、「映画をより自由に考えることを可能にしてくれる」契機だった。そこから二人は「論理的には整合性のない繋ぎでも、感情的なものが持続していればいい」、「感情を編集する」スタイルをつくりあげていった。本書で朱天文は同じことを「テンションをつなぐ」と表現している。画面に映っているものでなく、その底辺にある「画面の息遣い」をつないでいくのだ、と。

画面に映っているものでなく「息遣い」を撮ろうとする侯孝賢の撮影現場(『好男好女』)を、朱天文はこんなふうに描写している。

「シーン割台本は施工のための青写真に過ぎない。撮影現場では侯孝賢が出演者にシチュエーションと雰囲気を提供する。あらゆるセリフ、ディテール、互いのやりとり、すべては(役者の)二人が“面白がって”創りあげたものだ。リハーサルでの動きの確認もなく、じかに動いたその一度で撮影をする。現場で侯孝賢は出演者に対してほぼ二つのことしかやらない。注意深く観察して撮影現場の状況を調整していき、また見て、調整。たいてい彼は演技を指導せず、出演者にセリフの暗記を強いることもない」

「彼が撮影ですることは、監督というよりは“採集家”に近いのではないか。……彼は観察をしながら探し、待ち続けているだけにすぎず、対象が突然語りかけてきたら、それを即座に捉えて蒐集箱に収めるかのようだ」

朱天文とともに侯孝賢がつくりあげてきた映画群は、そんな“採集家”としてのスタイルを純化する過程だったとも言えよう。見えない気配を掬いあげる“採集”と編集は、もちろんうまくいくときもあれば思い通りにいかないときもある。画面に底流する息遣いを見事に捉えてその頂点に位置する作品が『悲情城市』であることは衆目の一致するところだろう。小生の好みで言えば、さらに『風櫃の少年』『恋恋風塵』『憂鬱な楽園』あたりを付け加えたい気がする。小生は古い映画ファンなので、長回しで少ないカット数、説明や物語の排除といった侯孝賢のスタイルが純化される途上で、商業映画時代の物語作家としての才能とうまくバランスが取れていた時代の作品(『風櫃の少年』から『悲情城市』あたりまで)がいちばん好きだ。『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン』のようにスタイルの純化された姿を見たいと思う一方で、『恋恋風塵』みたいな甘やかな映画ももう一度見たいと思う。

本書に収録された侯孝賢と朱天文の対話でも、朱は侯のスタイルが「行き着いた」ことについて語っている。

「あなたも『珈琲時光』でやはり行き着いた感じです。……さて、あなたの次の一歩はどうですか?」

侯もそのことを意識しているのか、改めてジャンル映画に挑戦してみたい、と語っている(それが最新作『黒衣の刺客』であることをわれわれは知っている)。朱は、「その考えには懐疑的です」と前置きして、こう言う。

「私たちは……興行的に成功する能力がまったくないのです。今日のあなたがあるのは、あなたには物を見る眼力があって、それは濾過する網のように、あらゆる物事がそこを通り、あなたの好むものだけが取り込まれていく。……あなたが不要とするものは、得てして説明であったり、ドラマ的なものだったりするでしょう。だから、私は非常に困難だと思うのです」

と言いながらも、朱天文はやはり侯孝賢の永遠の伴走者。「懐疑的」で「困難」と言いつつもジャンル(武侠)映画『黒衣の刺客』の脚本を手掛けている。作品としては面白くカンヌ映画祭で賞も取ったけど、興行的成功はやはり得られなかったようだ。

本書は脚本家としての朱天文のエッセイ集だが、彼女にはもうひとつ、というより本来の作家としての姿がある。彼女の小説はいくつか翻訳されているが、「新しい台湾の文学」シリーズの一冊である『荒人手記』(国書刊行会)を読むと、同性愛者の「おれ」を語り手に虚無感あふれた内的告白が延々と続く。侯孝賢映画とはまったくの別世界で、そうか朱天文はこういう作家だったのかと驚く。(山崎幸雄)

| | コメント (0)

「ふたつのドイツ国鉄」鴋澤 歩

鴋澤 歩 著
NTT出版(270p)2021.03.25
2,860円

海外に旅して感じることは、空港の入出国は標準化されているので戸惑う事はないが、鉄道などの公共交通機関を利用しようとするといろいろ苦労することがある。国によって発券や乗降方式などが違ったり、説明表記や職員などが現地語しか話さなかったりすることもあり、個人で鉄道の旅をするのはなかなか大変である。それだけに、鉄道の旅の楽しさは格別である。いままで仕事や旅行でヨーロッパも何度も訪れているが、何故かドイツには行ったことが無かった。そんなこともあり、書店で目にしたタイトルに惹かれた。

1945年のナチスドイツの終焉とともにドイツは東西に分断された。インフラとして残された鉄道の運営組織、運行状況、経営や技術を支えた人材等についてドイツ再統一までの期間を俯瞰することで近現代ドイツ史を考えてみるという一冊。

本書では時代区分を、1945年から米英仏ソ四か国による占領期、1949年の東西ドイツ建国からの1950年代、1961年のベルリンの壁建設から1970年代、そして1989年のベルリンの壁の崩壊からの両国鉄の再統合までの四つの時代に分けて描いている。この間の西ドイツ国鉄(DB)と東ドイツ国鉄(DR)に分れて運営された鉄道を比較していくことで、異なる政治・経済システムの下で、同一産業のパフォーマンスを分析するという本書の狙いは新鮮であるとともに、なかなか挑戦的である。ただ、鉄道好きなので、鉄道用語などは戸惑うことなく理解できたが、駅名や鉄道人たちの名前など数多くのドイツ語固有名詞が登場するのには辟易とする部分があったことは否定できない。

戦後ドイツの鉄道の特異性が顕著に現れたのはベルリンであった。東ドイツの中の大都市ベルリンは東西に分断占領され、西側から見ると飛び地として西ベルリンが存在していた。この異様な占領形態は多くの事件やドラマを生み出す舞台としては申し分ないものだった。本書の冒頭で、この点を開高健の「夏の闇」(1972年)から引用して説明している。それは、日本人男女がヨーロッパのとある鉄道に乗った時の会話。

「・・・しばらくすると女が『東にはいったわ』といった。またしばらくすると、『西に入ったわ』・・・」

東とは東ベルリン、西とは西ベルリンを指している。この様に、分断されたベルリンでは東西ベルリンを繋ぐ複数の鉄道路線が有ったが、その一つ「Sバーン」と言われる市街鉄道は西ベルリンから東ベルリンを通過して西ベルリンに入っていく路線で、分断ドイツの象徴のような鉄道である。

このSバーンは東ドイツ国鉄(DR)が西ベルリン内も含めて運営管理していたが、西ベルリン地域の運行を担った職員は西ベルリン居住者を多数雇用していた。こうした分断されたベルリンの鉄道運営の不合理性から、年を追うごとにその内在する問題は大きくなっていたようだ。賃金の支払い通貨の問題や、西側の職能別給与体系に対し東側は勤務年数だけを評価基準としていたなどのギャップが指摘されている。あえて東ドイツ国鉄がこうした問題を抱えながらもSバーンを運営していたものの、乗客数の減少や政治的効果が薄れてきたことなどが蓄積して限界に向かって行く姿は象徴的である。

本書に詳細に記述されている両国鉄の歴史のうち、興味深い点を以下に取り上げてみる。

旧ドイツ国鉄は米英仏ソ四か国の占領地域ごとに鉄道管理体が作られた。翌年には米英の地域の鉄道は統合に至ったが、なぜかフランスは米英とは歩調を合わせず、西側三カ国の占領地域の鉄道運営統合はこの時点では果たせなかった。この西側の足並みの乱れは何故なのか気になるところである。ドイツに対する欧州諸国の考え方の乱れは、「危険な統一ドイツの復活」を危惧するとか、「ドイツとオーストリア」のドイツ語圏の合邦を望む両国の希望を封殺してきた歴史を含めて、この問題は欧州の課題として永く議論されて来たことが思い出される。ただ、最終的には1946年の米ソのドイツ占領政策の決裂でドイツ統一はなくなり、西側三カ国の足並みはそろうことになる。そして、1948年6月18日にソ連占領軍は西ベルリン及びドイツ西部との通行を遮断するとともに、西ベルリンへの東ベルリンからの電気・ガス供給を止めた。いわゆる「ベルリン封鎖」である。この西ベルリンを人質にとったソ連の戦略に対してアメリカは大規模な空輸を行い1949年末までの一年強の間、毎日数千トン規模の物資を輸送し続けた。ベルリンという一都市を舞台に米ソの意地が激突した形だ。

両国ドイツが成立(1949年)すると、旧ドイツ国鉄は西ドイツ国鉄(DB)と東ドイツ国鉄(DR)が組織化された。

西ドイツはDBを国有化され、30,000kmの立て直しとともに、西ドイツ経済復興の担い手となった。それは西ドイツが資本と労働力を投入し続けることで経済成長するという西側共通の戦略に加え、近隣欧州諸国を市場とする輸出主導型で成長した中での物流の担い手であった。1950年代半ばからSLからディーゼル、電気機関車への転換が進むとともに、西欧各国(EEC・EC)との枠組に参加することで連携運行や列車の高速化が進んだ。しかし、1960年代後半には西ドイツ国内の輸送シェアはトラック輸送や航空機に奪われて赤字が続き、組織再編と合理化で82,000人を削減、6,500kmの不採算路線の廃止、システム化による業務合理化と自動化促進が本格化する。こうした施策の推進の一環としてDBは1972年に総裁として初めて民間ビジネス界からの人材(ドイツIBM社長)を登用している。

一方、東ドイツ国鉄(DR)は16,000kmの路線でスタートした。DRの管理者・職員は元ナチと係わりが無く、労働者階級出身であることが望まれていた。すなわち人材面では戦前の旧ライヒスバーンとの断絶を目指した。この結果、旧ライヒスバーンの鉄道人としての有能な人材の多くは西側のDBに採用されている。人を通じての断絶と連続の違いがここでも大きく表れている。DRでは1960年代に入っても、戦前からのSLが主力で100台が稼働していた。ディーゼル機関車の国産化が図られたが、2000馬力以上の機関車はソ連からの輸入機に限られていて、自国の車両研究や近代化には制約があったことを見ても、東欧のソ連支配の構図を知ることができる。

1985年ソ連書記長に就任したゴルバチョフは体制内改革を目指して「ペレストロイカ(経済改革)」と「グラスノスチ(情報公開)」を唱えて、米との融和ムードが高まるとともに、ハンガリーを筆頭に東欧諸国は抑圧されていた民主の動きが再燃していった。こうした流れの中で11月9日にベルリンの壁は崩壊し、Sバーンを始めとした東西境界駅構内でも分断の遮断機を上げて人々は通過して行った。翌年1990年10月に両ドイツの再統合、そしてその3年後DBとDRの両国鉄は再統合を果たして、現在の「DB-AG」が誕生することになる。

こうした歴史を読んでいると、著者が指摘しているように両ドイツ国鉄(DB・DR)ともに戦前の旧ドイツ国鉄から引き継いだものもあれば、捨てた物もある。ただ、戦後の両国鉄は「新生」と呼べるような改革的な施策は無かったし、東西ドイツともに国家が鉄道セクターに積極的な資源投入をしたようには見えない。島国の日本ではとても想像できない、国家分断と鉄道の歴史であるが、同時に物流システムとしての鉄道の位置付けの変化は世界共通の課題であった。日本の国鉄も苦労しながら分社化と民営化を果たしてきた。ただ、ドイツ国鉄に比較すると、鉄道システムが自国内で完結できるという単純さはラッキーだったといえる。それにしても、今度ドイツに行ってみようと言う気持ちが強くなった一冊である。(内池正名)

| | コメント (0)

2021年6月18日 (金)

「こころの散歩」五木寛之


五木寛之 著
新潮社(235p)2021.03.26
1,705円

近所の本屋で新刊の棚を見ていたら、五木寛之の名前が眼に入った。考えてみると何十年も彼の文章に触れていない気がする。大学進学の前後に「さらばモスクワ愚連隊」や「青年は荒野をめざす」を読んでいたことを思い出しながら「こころの散歩」と題された本書を手に取った。「週刊新潮」に掲載されているコラム「生き抜くヒント!」をまとめた一冊。五木は昭和7年生まれで米寿になるのだが、この「週刊新潮」だけでなく「日刊ゲンダイ」でも半世紀近くコラムを書き続けていると聞くとそのエネルギーに驚くばかりである。彼はこれらの文章をエッセイではなく「雑文」と称しながらも、こうした「雑文」を書くのが好きだと言っている。しかし、好きなだけで書き続けることは出来ないわけで、体力・気力ともに満たされた老境だろうと想像される。

30才台から夜中に原稿を書き、明け方に風呂に入って寝るという生活スタイルを続けてきたという五木も、コロナ禍の最近は、夜の11時ぐらいになると欠伸が出るようになり仮眠のつもりで横になったところ、そのまま朝まで寝てしまったことがあったという。それ以後は明るい陽射しの差し込む机の上で原稿を書くという生活スタイルに変化したと言っている。作家は本来自由業であることを考えると、日々拘束されている通常のサラリーマンの退職後の生活パターンの変化とは異なり、自らの心身の状況で生活パターンが決まるという意味では、年とともに変化し続けるのだろう。こうした、現在の自身の生き方や考え方を書き綴りながら、多様な思い出を語り、昭和と令和を行ったり来たりする本書は、私のような団塊の世代には実感とともにその時代観を感じられて面白いのだが、特に若い世代の読者にどんな刺激を与えられるかは興味のあるところ。

私たちが使い慣れていた言葉でも、今となっては死語になってしまった言葉は多い。男女二人連れが居たので「アベック」と言ったら、連れの若者から笑われたというエピソードにしても、こうした世代間ギャップは、文化の変化とともに必然的に起こるものだし、だからこそ、「トランジスターグラマー」「がいとう(外套)」「チャック」「社会の窓」などの言葉を思い出して私たちの世代は面白がる。こうした時代を共有出来るのも、著者の世代の活躍を同じ時間軸で見てきた団塊の世代の特権なのだと思うのだ。

こうした、消えて行く言葉とともに、「春歌」もまた消えて行くと書いている。自身の父親たちの「偎歌」や九州の炭鉱地帯の「春歌」を紹介しているが、伏字が多いのも仕方ないこと。男なら、誰でも若い時に「春歌」の一つや二つは歌っていた。私も記憶の奥にある「春歌」という引き出しを久しぶりに開けてみて、「おっぴょ」という「春歌」を仲間とゲラゲラ笑いながら歌っていた時代を思い出した。「一ひねりした歌詞のユーモア」と「成長期の自分」があっての「春歌」なのだと思う。それだけに、「春歌」とは過ぎ去った記憶に止めることに意味が有るのだと納得する。70代の爺さんが口ずさんでも面白くもなんともない。

昭和20年代の国民の「笑い」の中核だった三木鶏郎に対する五木の思いはいささか複雑だ。NHKラジオの「日曜娯楽版」は三木がプロデューサー、作詞・作曲、コント作家として取り仕切り、永六輔や野坂昭如などの若手が集って制作されていた。しかし、彼らの「冗談」と「批判精神」は、1954年(昭和29年)の造船疑獄事件を番組内で風刺したことにより政府からの批判を受け、番組の改編に繋がった。五木はこの騒動についてのタイトルを「冗談が死んだ日」と題しているのも象徴的。

また別のコラムでは、次の時代の転換点として五木が出演していた番組、「遠くへ行きたい」について語っている。この番組は、1970年に当時の東京放送のディレクターが独立して作ったテレビマンユニオンによって制作された。テレビマンユニオンは1967年の田秀夫のベトナム戦争報道に対する政府からの圧力などが原因で報道局の萩元晴彦、村木良彦、今野勉などが東京放送を退社して立ち上げた会社だ。この「遠くに行きたい」に永六輔、伊丹十三、野坂昭如などが交代で出演し、各地を紀行するドキュメンタリー。五木は6本ほど出演していたという。この「遠くに行きたい」を支えたメンバーを見ると、あの「話の特集」の編集者グループであることに気付く。

その「話の特集」を通じての野坂昭如への思いは深い。「野坂がいることで、私は仕事を続けることが出来たと改めて思う・・・・彼と反対の方向に歩いて行けばいいと自分に言い聞かせていたからである」と語っている。また、酔った野坂が五木を前にして「野坂と五木の間には、深くて暗い河が有る」と「黒の舟唄」の節回しで歌っていた思い出を語っている。それほど異なった性格の二人が反対の方向に歩いても、違いを違いとして評価し合ってお互いの才能を伸ばしていったという羨ましい関係であることが良く判る。そして、昭和の歌について、本書でも幾つかの文章が書かれて五木が係わった歌手や番組の思い出は面白い。

老いの問題への考察は、今の私の課題でもあり面白く読んだ。老いること自体が問題なのではなく、老いた後の生き方が難しい。五木はそれを「世間とどう折り合うか」という言い方をしている。「孤独」こそ、「老い」「死」「死後」といった人生の後半のテーマの底流であると言っている。生活の中の「孤独」感とは、「和して同せず」が孤独であり、つまり二人でいても孤独はあり、大勢で居ても孤独はある。確かに、「皆と一緒に一人でいる」という孤独感覚は良く判る。人のために活動することもあれば、人を頼ることもある。声を掛けたり掛けられたりしながら、「仲間」と「孤独」の間を行き来しながら自由を楽しんでいる。換言すると「楽しさ」の共有を相手に強要しないという意味での孤独なのだろう。そんな思いに至った。

そうした、人生の後半を語りながら、私たちが親から相続してきたものについて書いている。考え方や生き方といった形のない「こころの遺産」や、思い出の「物」もある。老人が身の回りに古いものを置きたがるのは、それがノスタルジーの引き金になるからという五木の言葉に対して、納得と反論が頭に浮かんだ。

生き様については父から受け継いでいるものもあるが、敢えて父の期待に反したところもある。また、私は「もの」にそう執着しない方だが、大学卒業時に「お前に金を掛ける最後だ」と言われながら父に買ってもらった機械式腕時計は今も現役。そして、母の形見の帯留めを作り直したピンバッチ。その二つを身近に置いている。それが両親のノスタルジーだとも思わないが、二人に見張られている感は否めない。

本書を読み進んで行くと、週刊誌のコラムとして毎週読んで行くのとは違った読み方になることに気づく。それは各コラムを時系列に並べるのではなく、ある種のカデゴリーに区分して章立てとすることで、五木の意図はより明確になって行く。本書で言えば「夜に口笛を吹く」「ノスタルジーの力」「こころの深呼吸」といった章立てでまとめられている。

五木の最初の小説である「さらばモスクワ愚連隊」はジャズ、社会主義国家の若者、日本の政治といった興味深い要素が全て入っている作品であったが、当時の私は小説のストーリーにのめり込むことは無かった。それほど、殺伐とした学生生活だったし、全力で生きていた時代だったと私は勝手に納得している。そして、半世紀が経って、本書を読みながら、あの時代を懐かしむことはあっても、今ならこうするのにといった反省は浮かんでこないという、楽しい時間旅行であった。加えて、これから迎える後期高齢者の一つの姿を五木に見せてもらったという読書だった。(内池正名 )

| | コメント (0)

«「東京裏返し」吉見俊哉