2020年11月15日 (日)

「掃除婦のための手引き書」ルシア・ベルリン



ルシア・ベルリン 著
講談社(320p)2019.7.8
2,420円

先月の『苦海浄土』につづいて積読本の2冊目は、アメリカ人作家ルシア・ベルリンの短篇集。去年、タイトルに惹かれて買った。『掃除婦のための手引き書(原題:A Manual for Cleaning Woman)』。掃除婦とかマニュアルとか、小説とは縁がなさそうな言葉をタイトルに選ぶあたりに作者の、なんというか精神の傾きを感じた。2004年に亡くなっており、アメリカでも死後に評価されたらしい。短編作家で生涯に76本の小説を書き、本書ではそのうち24篇が紹介されている(訳者は岸本佐知子)。邦訳も地味ながら話題になり、版を重ねているようだ。

岸本の解説によれば、ルシアの小説はほぼすべてが実人生に材を取っている。そういうタイプの小説家の場合、その作品世界は素材にせよ舞台にせよ作者の実人生の幅のなかに収まって、限られた小宇宙をつくることが多い。でもこの本を読んで驚くのは、小説の登場人物も場所もその経験も、なんとも多彩なこと。

それは彼女が200回の引っ越しをしたと書いているように、アラスカからアイダホ、ケンタッキー、テキサス、モンタナ、アリゾナ、ニューメキシコ、ニューヨーク、カリフォルニア、コロラドなど国内と、チリ、メキシコなど海外を転々としたことによるだろう。また鉱山技師の娘として労働者と暮らしたかと思うと、チリでは上流階級の一員として裕福な生活を送り、成人してからは3度結婚して3度離婚し、教師、掃除婦、電話交換手、事務員、看護師などの仕事をしながら4人の子供を育て、アルコール依存症になり、晩年は大学で創作を教えたという経歴にもよるだろう。

そんな彼女の短篇群をどんなふうに語ればいいのか、よく分からない。いくつかの作品を取り上げ、物語を紹介して感想を述べても、あまりに多彩な彼女の小説世界の全体に触れられないように思う。そこで「実人生に材を取った」短篇群から、彼女の人生を引用によって再構成することでその魅力の一端を伝えてみたい。そのため、すべての小説に登場する作者その人らしい主人公を、ある一篇でそう名づけられているように「ルル」と呼ぶことにする。もちろん小説の主人公を作者その人と同一視してはならないのは承知している。でも「ルル」はルシア・ベルリンと同一人物でないにしても、ルシアの影であることは間違いない。

少女時代。両親は裕福な家の出だったが、大恐慌で没落した。ルルは住んでいた鉱山町と母親をこう描く。「ママ、あなたはどこにいても、誰にでも、何にでも、醜さと悪を見いだした。……この鉱山町をあなたはどこよりも憎んだ、なぜなら『町』とも呼べない小さな町だったから。『小さな町のクリシェよ』教室一つだけの学校、ソーダファウンテン、郵便局、刑務所が一つずつ。売春宿が一つ、教会も一つ。雑貨屋の片隅の貸本コーナーが図書館がわり」

小学生のルルは脊椎湾曲症で、「鉄のごつい矯正具を背中にはめていた」(フリーダ・カーロの自画像のような)。「中世の拷問道具のようなものに」つながれる病院の診察で、同級生のボーイフレンド、ウィリーがくれたハートのネックレスにまつわる美しい思い出がある。「お医者さんは、ウィリーにもらったハート形の銀が写ったわたしのレントゲン写真を一枚くれた。Sの字に曲がった背骨、おかしな位置にずれた心臓、そしてちょうど真ん中にウィリーの心臓(ハート)。ウィリーはそれを、鉱物検査事務所の奥の小さな窓に飾ってくれた」

チリでの高校時代。たくさんのメイドがいる豪邸に住み、シャネルに身をつつみ、ホテルでのディナーや舞踏会の日々。ルルは共産党員のアメリカ人教師に誘われ貧民層へのボランティア活動に参加しはじめる。「ゴミ捨て場に行った日は風が吹いていた。砂がきらきらたなびいて、おかゆの上に降った。ゴミ山から立ちあがる人影は土埃をまとって、銀色の亡霊のようだった。だれも靴をはいておらず、足はぬかるんだ丘の上を音もなく動きまわった。……湯気をたてる汚物の山の向こうに街が見え、はるか頭上には白いアンデス山脈があった」。この鮮烈なイメージ!

アメリカに戻ったルルは大学在学中に最初の結婚をする。2人の子供を産み、離婚。2人目の夫はジャズ・ピアニストで、一家はニューヨークへ出た。「二人でニューヨークで必死に働いた。ジュード(夫)は練習し、ジャムに参加し、ブロンクスの結婚式で弾き、ジャージーのストリップ小屋で弾き、やっとユニオンに加入した。わたしは子供服を縫い、ブルーミングデールスに置いてもらうまでになった。わたしたちは幸せだった。あのころのニューヨークは夢のようだった。アレン・ギンズバーグやエド・ドーンがYMCAで朗読をした。大吹雪のなか、MoMAにマーク・ロスコの展覧会を観にいった。天窓の雪ごしに射しこむ濃密な光のなか、絵が生き物のように息づいていた。ビル・エヴァンスやスコット・ラファロを生で聴いた。ジョン・コルトレーンのソプラノ・サックス。オーネット・コールマンのファイブ・スポットでの初演奏」。1960年代だろう。うーむ、ジャズファンなら涎が出る体験。

やがてルルは夫の友人と駈け落ち。2人の子供を産むが離婚。そしてアルコール依存症。「深くて暗い魂の夜の底、酒屋もバーも閉まっている。彼女はマットレスの下に手を入れた。ウォッカの一パイント瓶は空だった。ベッドから出て、立ちあがる。体がひどく震えて、床にへたりこんだ。過呼吸が始まった。このまま酒を飲まなければ、譫妄が始まるか、でなければ心臓発作だ」「考えちゃだめ。今の自分のありさまについて考えるな、考えたら死んでしまう、恥の発作で」

依存症に悩みつつ、ルルは働きながら4人の子供を育てた。掃除婦をしながら、こんなマニュアルを書きつける。「(掃除婦たちへのアドバイス:奥様がくれるものは、何でももらってありがとうございますと言うこと。バスに置いてくるか、道端に捨てるかすればいい)」「(掃除婦たちへ:原則、友だちの家では働かないこと。遅かれ早かれ、知りすぎたせいで憎まれる。でなければいろいろ知りすぎて、こっちが向こうを嫌になる)」「(掃除婦たちへ:猫のこと。飼い猫とはけっして馴れあわないこと。モップや雑巾にじゃれつかせてはだめ、奥様に嫉妬されるから。だからといって、椅子からじゃけんに追い払ってもいけない。反対に、犬とはつとめて仲良くすること)」。こういうひねりの利いたユーモアが、ルシアのどの短篇にもある。あるいはまた、モップでキッチンを掃除しながら、家の主人である医者とこんな会話もある。「ドクターが訊く。きみ、なんでそんな職業を選んだの? 『そうですね、たぶん罪悪感か怒りじゃないでしょうか』わたしは棒読みで答える」。

メキシコに暮らす妹が肺がんになったと知らせてきた。余命は半年か一年。ルルはメキシコシティに飛んだ。その短篇の冒頭。「ため息も、心臓の鼓動も、陣痛も、オーガズムも、隣り合わせた時計の振り子がじきに同調するように、同じ長さに収斂する。一本の樹にとまったホタルは全体が一つになって明滅する。太陽は昇ってまた沈む。月は満ちそして欠け、朝刊は毎朝六時三十五分きっかりにポーチに投げこまれる」。物語の最初からぐいっと心臓を掴まれる。ルシアの短篇の書き出しはなんとも印象的だ。「六時三十五分きっかり」と細部にこだわって時刻を定めることで、それまでの具体的でもあり意識の内側のことでもある時間の流れがぴたりと静止する。そしてこうつづく。「人が死ぬと時間が止まる。もちろん死者にとっての時間は(たぶん)止まるが、残された者の時間は暴れ馬になる。死はあまりにも突然やって来る」

1990年代、アルコール依存症を克服したルルはサンフランシスコ郡刑務所で囚人たちに創作を教えることになった。そのことを題材にした一篇で、ある囚人の書くものが仲間内で才能があると誉められたことについて、ルルはこう答える。「『オーケイ、白状する。教師をやってる人間なら、誰でも経験あることだと思う。ただ頭がいいとか才能だけじゃない。魂の気高さなのよ。それがある人は、やると心に決めたことはきっと見事にやってみせる』」

この一節を読んだとき、「魂の気高さ」はルシア・ベルリンその人のことだな、と思った。生涯背負うことになった脊椎湾曲症と、その後遺症。没落してこの世を呪いつづけた母親との難しい母娘関係。3度の結婚と離婚。掃除婦などブルーカラーとして働きながらの4人の子育て。アルコール依存症。たいていの人間なら押しつぶされてしまう、そんな日々を生きながら創作への意欲を失わず、ぽつりぽつりと短篇を発表しつづけた。自らの絶望的な状況を、母親譲りの辛辣な眼とひねくれたユーモアで見つめながら、ほぼ無名のまま文章を書くことを放棄しなかった。晩年を語った数少ない短篇には、山間の町で、死んだ妹を思い出しながら、ルシアには珍しい穏やかな風景が広がっている。

「つい二、三日前、ブリザードの後にもあなたはやって来た。地面はまだ雪と氷に覆われていたけれど、ひょっこり一日だけ暖かな日があった。リスやカササギがおしゃべりし、スズメとフィンチが裸の木の枝で歌った。わたしは家じゅうのドアと窓を開けはなった。背中に太陽を受けながら、キッチンの食卓で紅茶を飲んだ」。ルシアの晩年にこんな時間が訪れたことをじっくり味わいたい。(山崎幸雄)

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「肉とスッポン」平松洋子

平松洋子 著
文藝春秋社(266p)2020.07.16
1,650円

食に関して多くの著作を残してきた平松洋子の一冊。タイトル通り、肉を食べる楽しさを語り尽くしているのだが、本人は「制御しがたい悦び。・・・いま確かに猛々しい生き物と親しく結び合っている名状しがたいナマの感覚」と書いている程の自称肉好きである。そして「美味い肉は作られる」というのが結論だ。

元来、人間は狩猟と採集で獲得したものを食べて、自然と一体化して生きてきた。天武天皇の肉食禁止令や、仏教の殺生戒の教えによって日本ではおおびらに獣肉を食べられなかった時代が長い。しかしそれでも「薬食い」と称して人々は肉食を続け、馬肉は「さくら肉」、猪は「山くじら・ぼたん」、鹿肉は「もみじ」など隠語で語られるのも庶民の知恵というか反抗心の表れと平松は指摘する。しかし、我が国の牧畜の仕組みは明治期に作り上げられたことを考えれば、長い間、庶民の肉食は野生種を狩りで捕獲するという。自然との共生が保たれていたことに他ならない。しかし、こうした共存の仕組みが長い時間の中で生活様式とともに変化した結果、現代では新たな課題が提起されている。「人間の食料が畜産で使われる飼料として奪われている」「動物の保護」「肉食による生活習慣病の多発」といった多様な議論の根源は、我々が動物との共存時代とはかけ離れてしまっているところに存在しているということなのだろう。

著者はこうした、日本の肉食文化の歴史を踏まえながら、狩猟、牧畜、屠畜、解体といった活動の知恵などを探るために全国の現場を訪れて、それらに携わっている人達から話を聞いている。羊、猪、鹿、鳩、鴨、牛、馬、スッポン、鯨といった生き物たちと向き合っている人達の仕事からは、伝統的な技術承継とともに日々の進化でもあることも語られている。そして、各々の肉を美味い料理にして提供する店にも足を運び、素材の活用の技を紹介している。日本の伝統食にこだわらず、世界の料理の知恵を含めて現代の日本人の食肉文化を俯瞰して捉えている。

本書で取り上げている野生種は猪、鹿、鴨、鯨であるが、各々の捕獲から消費までの環境の違いとともに、仕事・事業としての成り立ちも様々であることが興味深い。

島根県邑智郡美郷町では、猪の被害に苦しんでいた農家がプロの狩猟家に頼らずに自ら狩猟免許をとって、役場と連携して駆除捕獲と同時にそれを資源として活用しているケース。捕獲した猪は「おおち山くじら」というブランデイングをして「夏イノシシ」の淡泊な味を売り物にするとともに、婦人会は猪のなめし革を活用して、クラフト製品を作り、加工食品を含めての肉の販売も積極的である。自治体と住民の一体型の形態はユニークである。

また、石川県加賀市の鴨のケースは伝統の承継に立脚したアプローチである。この地では昭和期には鴨は魚屋で吊るされて売っていたというし、鴨のつがいをお歳暮や結婚式の引き出物にしていたというから、伝統的な食文化として定着していたことが判る。当地の片野鴨池にシベリアから飛来する鴨を「坂網猟」という、日没直後の池から飛び立った鴨をY型の網を宙に投げ上げて捕獲する猟が行われている。この伝統の技術を継承する組合を設立し捕獲量の管理することで持続性が担保されている。

猪、鴨に加えて鹿といった野生種の美味い肉の確保の手順は共通しているようだ。例えば、箱わなで捕獲したイノシシは、ストレスを与えない様に素早くとどめを差し、喉の左側を突いて血液を排出させ、内臓を取り出すことで体内ガスの発生を抑える。こうして一時間以内に解体を終える。屠畜から始まる、こうした素早い作業が鍵である。

一方、飼育して美味い肉を作る努力も紹介されている。北海道の羊飼育は軍服の原料として羊毛を利用するため明治期に函館で始まり、大戦後は1950年代に羊飼育のピークを迎えたものの、1962年に羊肉が自由化され国内飼育はビジネスチャンスを失った。現在の羊肉の自給率は0.5%という。

こうした状況で北海道白糠の「茶路めん羊牧場」が紹介されている。帯広畜産大学で牧畜を学んだ青年が1987年にスタートさせた牧場で現在800頭が飼育されている。飼料には北海道産を使い、取引先の用途によって性別・月齢などによる肉の特性を考慮して屠畜し出荷している。羊は牛や豚と異なり公的な等級や格付がないので、生産者のこうした知見が必要とされるとともに、生産者毎の肉の美味さが消費者から問われることになる。

北海道襟裳岬の短角牛の牧畜は海と陸の連携で成り立っている。明治期に南部牛(短角牛)が襟裳岬に導入されたものの、大戦の影響もあり草原も荒れ、コンブ漁にも大きな影響が出ていた。その襟裳岬の草原や森林の再生事業が1953年に始まったが、豊かさを失っていた隣接する海の再生でもあった。この結果、1965年頃から成果を上げ始めた。著者は半コンブ漁・半牧畜の三代目が経営する「高橋ファーム」を訪ねている。コンブ漁で忙しい夏場には牛は放牧しては掛からず、冬場は里に連れて来て世話をするといったサイクルである。黒毛和牛は脂肪の甘さと肉の柔らかさを売りにしているが、短角牛は放牧されて育った赤身の肉が特徴である。この短角牛の国内の牛の飼育頭数の1%でしかないが、この1%こそ多様性の意義と語っているのも印象的である。

こうした、日本のソウルミートを利用した料理についても詳しく語られているのだが、具体的な店の名前とともにレシピなども紹介されているので、食べに行ってみようと思わせるガイドブック的な要素もある。一例として「パッソ・ア・パッソ」というレストランのシェフは鳩を解体すると肉の状態から屠畜される前の2-3日間の気温などを知ることが出来ると言う。肉を捌きながら、料理するときの熱の伝わり方や肉の水分をどう抜くのかが判るという。そうした季節感の理解を含めて「肉にも旬がある」という指摘になるのだろう。

鳩の胸肉は肉の中に脂が入る肉質ではないので、外から強火で熱が入ると短時間でウェルダンになってしまうという特性がある。また、馬刺しでは、真っ白なサシが入っているのにしつこさを感じないのは馬肉は脂肪の融点が低いからと言われている。こうした、肉質の違い、脂肪の質の違いは当然調理に差が出ることになるのだろうし、その違いを楽しめる料理を作ると言うのが文化としての肉食の歴史と知恵だと思う。

スペインでイベリコ豚の生ハムを切り分けて皿に出されてすぐ食べようとして怒られたとの話も聞いたことが有る。イベリコ豚の脂肪は室温でとけるので、脂肪が溶けだしてから食べるのが一番美味いというもの。ここまでくると、美味いものを食べたいと言う欲の素直な現れという事だろう。

こうした、各種の肉に関する繊細な感覚は我々日本人の一般的な感覚領域にはないのではないか。我々のタンパク源の主力が魚介であった歴史が長く、現在も肉に比較すれば、非常に多くの種類の魚介を多様な手法で口にしている。私は、本書で取り上げられている獣や鳥の肉は全て一度は食べたことが有る。しかし、日常的に食べるわけではなく、特別な食材だ。ただ、本書を読みながら短角牛のすね肉を手に入れてビーフシチューを作ってみようという気持ちになった。時間を掛けて煮込むと美味そうである。内池正名)

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2020年10月17日 (土)

「なぜ、生きているのかと考えてみるのが 今かもしれない」辻 仁成

辻 仁成 著
あさ出版(288p)2020.08.26
1,430円

本書は「ロックダウンしたパリから贈る日々のこと」とあるように、パリ在住の著者が2020年2月1日から6月18日までのコロナ禍の体験をネットにアップしていた文章をまとめたもの。私はこの本を手にする迄、「辻仁成」という人物を知らなかった。プロフィールを読んで1997年の芥川賞を受賞していることを知り、16才の息子と二人きりでパリで生活しているということなど、何やらいろいろな人生を辿った人だということは想像に難くなかったが、テーブルの上に置いておいた本書を見て、家人が「中山美穂の亭主だった人」と教えてくれた。

このコロナという未体験の状況下で、どう考え・どう生活するのかを迷う事も多いものの、終息が見えない中ではその正解は見出しにくいし、世代の違い、文化の違いの中でこの感染症への考え方の違いもあるだろう。そう考えると、家族と共に住み慣れた日本に居る私と違って、著者の置かれた状況は異なった文化、ロックダウンという制約、父親と息子の二人きりの生活といった条件はメンタルにも大きな影響を与えることは容易に想像がつく。それだけに本書から正解を得ようとは思わず、辻仁成の一個人の体験として読んだ。そして自分を振り返って、今をどう生きるかについて考える刺激には事欠かない読書であった。

コロナ禍の半年で、家で考える時間が多く、物事の整理の時間が確保出来たことなど、自粛期間の時間は有効に活用出来たと私は思うのだが、逆に引きこもりストレスが溜まったと言う人も沢山いる。平時の日常生活においても人により疲れ方が違ったり、ストレスの個人差が有る。そうした個人差や環境の差が極端に振れてしまうのが、ロックダウンや自粛の時代なのだろう。辻は「価値観の変化、異常事態をどう受け止めるのか、絶望から希望を取り戻す方法、親子で力を合わせて頑張った日々、これらを書き留めてきた。書くことで希望を手に入れようとしていたような気がする」と記している。

3月17日から5月11日までのパリのロックダウン期間中の体験を読むと、武漢の「都市封鎖」と東京の緊急事態宣言下の「自粛要請」の間の様に思える。パリのロックダウンは外出制限であり、外出禁止ではない。食品・薬品の買い物は出来るし、自宅から1km以内で1時間以内の運動や犬の散歩などは許されている。ただ、外出理由を書いた書面を持っている必要があり、これに違反すると罰金が科せられる。警察は通行人を呼び留めて書面を確認し、自宅からの距離を調べ取り締まる。10日間で26万人が検挙されたとのこと。日本の「自粛・お願い」に比較すると大きな差がある。ソーシャルディスタンス感覚(パリでは1m、イギリスでは2m)や外出時のマスクの徹底度合いは文化の差が大きそうである。ただ、辻が外出する際のスタイルはマスク、メガネ、ハンチング、サージカル手袋と聞くとその徹底ぶりにいささか驚くのであるが、その姿ではパリであろうが日本であろうが違和感を持たれるのではないか。

そして「Stay Home」による人間関係のストレスでDVが一週間で30%増えたことが象徴する様に、多くの人は逃げ場のない人間関係に追い詰められた。一方、異文化に住む辻自身の考え方が語られている。一言で言えば「冷静と情熱の間」が丁度良いというもの。辻は「僕は誰からも負けたことは無い、いやもしかしたら、負けた事に気付かないので結局は負けた事にならない・・」という生き方を示しつつ、自分は攻撃を受けやすい人間として自らをサボテンに例えている。

「全身トゲをまとって人を近づけない。しかし、たまに花を咲かせると誰かが声を掛けてくれる」

こんな自身の分析であるが、本書を読む限りでは、もう少し攻撃的な要素もありそうに思えたのだ。こう言いながらも、辻のパリに於ける近所との付き合いはなかなかポジティブである。多くのエピソードを含めて、散歩途中の近所との会話やカフェ、食料品店などでのやり取りはパリの地区の風土もあるのだろうが、辻の性格だからこそ出来る付き合い方の様に思える。

辻が「心の体操」と言っている一つが「感謝を忘れない」というものだが、日本での医療従事者やその家族に対する偏見と差別のニュースに怒りつつ、パリで有名な毎晩八時になると家の窓を開けて拍手をして医療従事者に対して感謝の気持ちを表わす行動に参加してきたという。5月11日のロックダウンが解除された夜、辻が窓を開けて拍手をすると誰も居ないことに気付く。それでも拍手をし続けると一人二人と隣人が拍手を始めて以前と同じ様子になったという。

辻の息子と二人のステイホームというのも厳しい時間だったようだ。シングルの親は働きながら家事・育児の全てをこなさなければならない。その大変さは想像するに余りあるが、父親が子育てをするとなると大変なことだろう。それも、フランスという外国である。

辻は「親の権利を手渡された時」という言い方をしているので、自分の意志で親権を取ったのではないようだ。 しかし、子育ては単に意地だけでできることではない。我が息子と二人三脚という意味を見つけることが重要だったと言っている。自宅に居て、限られた時間だけ外に出て買い物をして帰ってくるというロックダウンの生活の中で、洗濯、食事作りなど全てを行うことにフラストレーションを感じつつも、特に食事作りには情熱を捧げていることが良く判る。加えて息子に包丁の使い方や火の扱い方などを教え、単に美味いものを食べる楽しみの共有だけでなく、生きるための教育になったとことが良く判る。そして、食べ物に対する感謝の気持ちが息子に育まれたことを喜んでいる。この意味ではコロナのロックダウンを有効活用したということなのだろう。

友人が「国民だから国のルールには従う。でも、心が折れてまで生き残りたくない」と言ったことに対して「もし一人だったらそう考えていたかも知れない。でも息子が居るから・・・」と、時としてストレスの対象になる息子の存在が、救いになったと語っているのも印象深い。

長い歴史の中で人間は集合体として智慧を磨き、仕組みを作り上げてきたが、それらへの構造変化も起こるだろう。加えて、文明によってもたらされた幸福感や達成感などの価値観の変化も確実に起こっている。それらは経済的側面だけでなく、政治的側面へも必ず影響を及ぼす。

辻は渡仏して18年、初めてひっそりとした姿のパリに接し、沈みゆく夕日を見ながら「老境に入った自分を感じた」と感慨している。私を含め団塊の世代であれば日々考えることなのだが、50代で「老境」は早すぎる。こうした気持ちから自分を取り戻す手段として辻は歌を歌うという。何であれ気分を切り替えるスイッチを持っていることは重要だ。

人間が持ち込むストレスとは、我慢、頭を下げる、自分の人格が否定されるといったことが原因である。だから彼はそうした社会・集団には近づかず孤独で良いという。しかし、現代では人と交わらず生きて行くことは不可能だ。必ずストレスが発生する。それだけに「会話」「言葉」の大切さに気付くことになる。同じ「ことば」でも使い方ひとつで「武器」にもなれば「支援」にもなる。その伝える力の多くは論理だけでない、表情や仕草も必要だ。 

孫がこの春、大学に入学した。ずっとオンライン授業が続いているという。「勉強はどうにか進むけど、友達は出来ない」という言葉が切ない。若い人達がこの事態をどう乗り越えて希望に繋げていくのか正念場だ。彼らには「どう生きるか」を考えてもらいたい。一方、本書は、私を始めとした団塊の世代が「なぜ生きているのか」を問い掛けているようだ。(内池正名

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「苦海浄土 全三部」石牟礼道子


石牟礼道子 著
藤原書店(1144p)2016.09.10
4,620円

山田風太郎晩年のエッセイに『あと千回の晩飯』がある。いろいろな徴候から、晩飯を食うのもあと千回くらいなものだろう、という書き出しだった。このとき風太郎72歳。亡くなったときは80歳を超えていたから実際にはその倍以上の晩飯を食ったことになるが、僕自身も70歳をすぎて病気し、あと何回という思いがよく分かるようになった。本を読んでも、映画を見ても、あと何冊、あと何本という気持ちが湧いてくる。一冊も、一本も無駄にできないような気がしてくる。そんな心境になってくると、いつか読もうと書棚に積んである何十冊もの本が気にかかりはじめた。これらの本を、ついに読まずに終わるのか。

そんな積読本のなかで、いちばんオーラを発して手に取ってほしいと訴えていたのが石牟礼道子『苦海浄土 全三部』だ。漢和辞典のように厚いこの本の第一部『苦海浄土』が刊行されたのが1969年。その後、第二部『神々の村』が井上光晴編集の『辺境』に書き継がれたが雑誌の休刊とともに中断。第三部『天の魚』が先に刊行され、全三部が完結したのは石牟礼道子全集が出版された2004年のことだった。単行本として全三部を一冊にまとめた本書は2016年に刊行されている。第一部の出版から50年近く、著者が地方誌『熊本風土記』に書き始めてから60年近くの歳月がたっている。

第一部が刊行された当時は公害を告発するノンフィクションに分類され、桑原史成の写真をカバーや本文あしらった造本もその方向で設計されている。僕もそのようなものとして読んだ。また第一回大宅壮一ノンフィクション賞に内定してもいる(辞退)。その後、彼女の仕事の全貌が明らかになるにつれノンフィクションの枠に留まらないその広さ深さが理解され、現在では戦後日本文学を代表する作品のひとつと評価されている。池澤夏樹が個人編集した世界文学全集(河出書房新社)では日本語の作品として『苦海浄土』ただ一冊が選ばれている。

そんな大きな存在に今さら言うべきこともない。でもせっかく1100ページを読みとおしたのだから、きれぎれの感想でもつけ加えておこう。

『苦海浄土』が文学として評価されるようになったのは、『チェルノブイリの祈り』のスベトラーナ・アレクシエービッチやボブ・ディランがノーベル文学賞を受けたように、世界的に文学の概念が広く考えられるようになった流れと無関係ではないだろう。でも三部作を読んで感じたのは、これは日本の近代文学、たとえば漱石や谷崎や三島とはまったく別の場所から出てきたものだな、ということだった。

まずは三部作の印象を一言ずつ。第一部はひたすら重く、深く考えさせられるのだが、なんとも美しい。途中中断した第二部は、掲載誌の休刊という外側の条件だけによるものでなく、苦渋に満ちている。それに対して第三部は、力強い。

第一部「苦海浄土」を読み始めて、50年前にもそうだったように、石牟礼道子が水俣病の患者やその親や爺さま婆さまの話に耳を傾け、彼ら彼女らになりきって語る、そのカタリの美しさに惹きこまれた。たとえば漁師の妻で患者であるゆき女のカタリ。

「海のうえはほんによかった。じいちゃん(亭主)が艫櫓(ともろ)ば漕いで、うちが脇櫓ば漕いで。いまごろはいつもイカ籠やタコ壺やら揚げに行きよった。ボラもなあ、あやつたちもあの魚どもも、タコどもももぞか(可愛い)とばい。四月から十月にかけて、シシ島の沖は凪でなあ──。/うちは三つ子のころから舟の上で育ったっだけん、ここらはわが庭のごたるとばい。それにあんた、エベスさまは女ごを乗せとる舟にゃ情けの深かちゅうでしょ。ほんによか風のふいてきたばいあんた、思うとこさん連れてゆかるるよ。ほらもうじき」

水俣の海では夫婦が夫婦舟で漁をする。青い海と空の下に浮かぶ小舟に乗って寄り添う二人の至福の風景。しかしそこで採る魚はチッソ工場が海に流した廃液の有機水銀で汚染されていた。苦海が即ち浄土であるような夫婦の愛情。こんなカタリが三部作を通して、さまざまに語られる。その純度の高さにうたれる。

石牟礼道子が患者になりかわって語る、そのきっかけとなった出来事が記されている。彼女がはじめて水俣市立病院を訪れたときのこと。「肘も関節も枯れきった木」のような腕と足で床にころがり、目も見えず言葉も発せず、しかし意識はあって自らの姿に怒り恥じている老患者、釜鶴松の姿を目の当たりにした彼女はこう書く。「この日はことにわたくしは自分が人間であることの嫌悪感に、耐えがたかった。釜鶴松のかなしげな山羊のような、魚のような瞳と流木じみた姿態と、決して往生できない魂魄は、この日から全部わたくしの中に移り住んだ」

そこから彼女は、ゆき女や江津野の爺さまや九平少年や、患者と患者の親、爺さま、婆さま、そして死者に憑依して病気のこと自らのことを語る。その文体から受ける印象はノンフィクションというより、たとえば琵琶法師が琵琶にあわせて語った物語が文字化された『平家物語』に近い。などと訳知り顔で言わずとも石牟礼は自ら、これは浄瑠璃のごときものと書いている。

その一方、当初奇病といわれた水俣病の原因が特定されるまでや、患者の要望に対するチッソ企業の木で鼻を括った回答については、科学的あるいは法律的文章がまるごと引用されている。客観性を装っているだけに、たとえば1959年に結ばれた「契約書」の「乙(患者互助会)は将来水俣病が甲(チッソ)の工場排水に起因する事が決定した場合においても、新たな補償金の要求は一切行わないものとする」といった文面から浮かび上がる鉄面皮と傲岸が際立つ。

水俣市はチッソとともに発展してきた。チッソに勤める者は「会社ゆき」として尊敬され、市民の上層・中層を占めている。行政にも影響力をもっている。そんな地域共同体のなかで水俣病患者の補償を求める行動は会社をつぶすものとして村八分され、奇病は貧しさから腐った魚を食べたせいと差別され、孤立してゆく。それだけに石牟礼の描く、主に零細漁民たちからなる患者になりかわってのカタリが胸をうつ。

第二部でもこの美しいカタリは随所に顔を出すけれど、そこに何本もの亀裂が入ってくる。第一部で夫婦舟を語った患者のゆき女は、夫から捨てられている。市役所に、患者と思しい者から同じ患者の不正受給を訴える密告が届く。そうしたことどもを石牟礼は静かに記す。さらに、患者互助会が二つのグループに分裂する。補償と救済を国の中央公害審査会に一任する一任派と、裁判で争おうとする訴訟派と。

石牟礼は訴訟派に寄り添って、訴訟派の患者がチッソ株主総会に一株株主として出席し、社長と直に話をしたいという行動に同行する。患者のその動きは、裁判になれば社長が出てくる、偉い人と直に話せば分かってくれるはずだという期待と裏腹に、代理人と代理人によるやりとりがつづく法廷に不満を募らせた結果だったようだ。患者たちが白い巡礼着に身をつつみ、鈴をならし、御詠歌を歌い、黒地に「怨」を染め抜いた旗を立てて株主総会に出席し社長と対峙する場面が第二部のクライマックスとなる。

第三部では、一任派でも訴訟派でもなく、新たに水俣病と認定された新認定患者が主役となる。裁判ではなく会社との自主交渉を求める新認定患者たちは、水俣の工場や東京駅近くのチッソ本社内に座り込む直接行動に出た。そのリーダーで、父親も自らも患者である川本輝夫は、水俣近在に潜んでいた患者を掘り起こし、説得して仲間をつくり、座り込みを提起してゆく。石牟礼はその行動に同行した。「自ら(地べたに座る)非人(かんじん)となり、故郷やこの国への疫病神となって」社長にカミソリの刃をつきつけて血書を迫る、石牟礼の描写する川本は、あたかも神話のなかの荒ぶる神のようだ。彼らの直接行動は、学生運動が高揚し挫折してゆく1970年前後という時代背景もあったにせよ、それ以上に、会社や国の「偉い人」の誠意を信じた一任派や裁判という形式に飽き足らなさを募らせた訴訟派の無念と怒りをも背負って、その底から噴き出した自然としてあったろう。

石牟礼は、地域から孤立した初期の患者たちに寄り添い、裁判でたたかうことを選んだグループに寄り添い、さらに直接行動を選んだ尖鋭なグループにも寄り添った。それは患者たちを支援する市民団体のなかで、いろいろな軋轢を生じさせたのではないかと想像する。また、患者を支援する団体のなかで政党や新左翼の政治的な動きもあったろう。

そうした政治的季節のなかで書かれたものは、その時代の価値観のなかでいっとき輝くにしても、時代が変われば往々にして古び、忘れさられてゆく。でも『苦海浄土』三部作が今にいたるまで新鮮な生命力を保ち、いよいよその輝きを増しているのは、石牟礼が時代の価値観に目もくれず、ひたすら患者を見つめ、彼らの声に無条件で耳を傾けつづけたからだろう。

第二部に印象的な場面がある。訴訟派と行動を共にしていた石牟礼が、余命いくばくもない一任派のリーダー、山本亦由を病院に見舞う。

「この人(山本亦由)の全身像を心の中心に据えながら、動き出した事態の中で、見かけ上は、路線のちがう方向へ、心ならずもついてゆかざるをえなかった。/『小父さん』/かろうじてわたしはそう言った。妻女に助けられて顔をあげ、その人は苦悶の表情のまま、かすかにうなずき、じっと私を見た。それがお別れだった。/一人の人間に原罪があるとすれば、運動などというものは、なんと抱ききれぬほどの劫罪を生んでゆくことか。人の心の珠玉のようなものをも、みすみす踏みくだかずにはいないという意味で、そのことに打たれ続けることなしに、事柄の進行の中に身を置くことなど、出来なかった」

チッソ本社内に座り込む自主交渉派といても、裁判でたたかう訴訟派といても、石牟礼の心には一任派のリーダーである山本亦由の存在がその「中心」にいた。それは、初期の水俣病患者が差別と偏見にもがき苦しんでいた時期に、山本がどんなふうに患者たちの面倒を見ていたかを石牟礼は傍らでつぶさに見ていたからだろう。ある女性患者は半狂乱で「小父さん、世論に殺されるばい」と山本宅に飛び込んできた。水俣病を発症した自分の娘だけでなく、ゆき女はじめ、目にあまる患者たちを親切に看病してまわった。一任派の患者たちは、地域共同体の地縁血縁に十重二十重に絡めとられて悩み苦しんだあげく国の斡旋案にハンを押した人々だった。そんな、地域共同体の底にいる人々とそのリーダーの姿が石牟礼のなかには常にある。

『苦海浄土』三部作は、そんなふうにフィクションでありルポルタージュであり、カタリであり歴史の原史料でもあるような多面体として存在している。そのスタイルと中身について常に自覚的だった石牟礼道子は、この作品の成立にかかわるふたつの印象的な言葉を記している。

「私の故郷にいまだに立ち迷っている死霊や生霊の言葉を階級の原語と心得ている私は、私のアニミズムとプレアニミズムを調合して、近代への呪術師とならねばならぬ」(第一部)

「私が描きたかったのは、海浜の民の生き方の純度と馥郁たる魂の香りである」(全集版あとがき)

「近代への呪術師」であろうとしたからこそ、『苦海浄土』三部作はこの国の近代が生みだしたものに根底的な疑問をつきつけることができた。都市や企業や法などといいうものと無縁に生きた「海浜の民」のカタリがあるからこそ、この作品は不変の生命をもつことができた。1世紀をこえる歴史をもつこの国の近代文学のなかで、こういう場所から生まれたものはたぶん他にないと思う。(山崎幸雄)

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2020年9月18日 (金)

「証言 沖縄スパイ戦史」三上智恵

三上智恵 著
集英社新書(752p)2020.02.22
1,870円

1945年4月、沖縄本島に上陸した米軍と日本軍との戦闘で、日本軍の主力部隊が南へ南へと追い詰められ、集団自決など住民を巻きこんだ凄惨な戦いが本島南部で繰り広げられたことはよく知られている。

でも、島の北部でどんな戦闘があったのかは、あまり知られていない。僕自身も知らなかった。もちろん北部にも日本軍はいたが、それだけでなく陸軍中野学校から40人以上の将校・下士官が送り込まれ、徴兵前の島の少年を組織して「秘密戦」と呼ばれるゲリラ戦を展開した。この本は、少年兵として戦った人たちなど30人以上に話を聞いてまとめた、その戦いの記録だ。そこには米軍との戦闘だけでなく、スパイの疑いをかけられて殺された住民の話など、生々しい証言がいくつも出てくる。

著者の三上はジャーナリストであると同時にドキュメンタリー映画の監督で、2018年に『沖縄スパイ戦史』(大矢英代と共同監督)を完成させた。本書の前半は、主にその映画のためのインタビューを活字化したもの。映画の完成後、それ以外の元少年兵の証言、陸軍中野学校出身の隊長の生涯、またスパイ虐殺の被害者側・加害者側双方の証言を追加取材して700ページ以上の大部な新書にまとめあげた。

「少年ゲリラ兵たちの証言」と題された第1章では21人の元少年兵の体験が語られる。1944年9月、中野学校出身の村上治夫中尉と岩波壽中尉が沖縄に降り立ち、島の中・北部で「護郷隊」と呼ばれるゲリラ軍を組織しはじめた。召集されたのは、1000人ほどの地元の15、6歳の少年たち。スパイ・テロ・ゲリラ戦・白兵戦の技術を教え込まれ、米軍が上陸した後、後方を攪乱する戦闘の前線に放り込まれた。

軍服を脱ぎ住民のふりをして米軍が占領した飛行場にもぐりこんで捕虜になり、燃料のドラム缶の数や位置を報告して、後に爆破する。松並木や橋をダイナマイトで爆破し、米軍の前進を妨害する(米軍はあっという間にブルドーザーや仮鉄橋で修復した)。夜間に停めてある戦車を爆破する(失敗)。やがて護郷隊が陣取る山に敗走する日本軍も合流し、組織としてまとまった部隊から戦闘意欲を失った敗残兵まで入り乱れての戦いになった。

「僕は監視役だから全部見えるわけだよ。……もう戦意喪失してる兵隊もいて、下士官たちが、貴様らーとぶんなぐって戦わせようとしたけど、動けないものも多かった。彼らが飯盒を並べて飯を炊こうとして煙を出すもんだから、迫撃砲がど真ん中に飛んできて、バーンと、30人全員吹っ飛んで、一瞬で手や足が木の枝にぶら下がってるわけ。もう地獄の風景。肉も骨も、恩納岳は木が生い茂ってて深いから外に飛び散らないでみんな木に引っかかるわけ。見たくなくても見てしまう。人間は首絞められて死んだ方がずっとまし。恩納岳の神様も、あれは……きつかったと思うよ。あんなの見た人はやっぱりおかしくなるよ」

こんな戦闘を経験した多くの元少年兵が、戦後はPTSDに苛まれた。その一人は「兵隊幽霊」と呼ばれ、座敷牢に閉じ込められた。また日本軍にとって軍隊内の苛めはどこまでもついてまわる組織悪だが、護郷隊も例外ではなかった。中国戦線から帰った在郷軍人が下士官として少年たちを訓練したが、その一部にはひどい苛めをしたり、飢えのなかで食料を独占したりする者がいた。彼は戦死したことになっているが、戦いの最中に後ろから撃たれたといい、「殺した人も島の人、殺された人も島の人」と元少年兵は語る。さらに、退却するときに負傷して動けない兵を殺したという話も多くの少年兵が語っている。

第2章では、護郷隊を率いた村上治夫中尉と岩波壽中尉の生涯が追跡される。ふたりとも沖縄へ来たとき23歳。村上は親分肌、岩波は沈思黙考型と対照的だが部下からの信頼は厚く、元少年兵たちから彼らの悪口はまったく聞こえてこない。そのひとり、村上治夫は大阪府出身。満洲での兵役を経て陸軍中野学校に入り、卒業直後に沖縄に派遣された。任務は護郷隊の結成・教育と住民の掌握。住民を掌握する要は、軍に協力させ、裏切り者を出さないこと。「住民を使った秘密戦を学んだ彼らが持ち込んだ構図、つまりスパイは常に周りから入り込むという恐怖を煽り、警戒させること。軍の機密を知ってしまった住民が米軍に投降すればこれも通敵=スパイ行為とみなすという価値観と密告の奨励」が村々にいきわたった。村上は第一護郷隊隊長として遊撃戦を戦ったが、途中から戦意を失った3~4000人の他部隊の兵士が陣地になだれこみ、敗残兵と住民の「始末」が村上を悩ませた。

やがて敗戦。村上が籠った山を下り米軍に投降したのはポツダム宣言受諾から5カ月後、1946年1月だった。戦後、元少年兵たちは戦死した隊員の慰霊祭を企画して村上を呼ぼうとした。村上にようやく沖縄への渡航許可が下りたのは1955年。それから2002年までの47年間、村上は一度も休むことなく沖縄に通いつづけ、元少年兵たちと戦死者を慰霊し、酒を飲み、カチャーシーを踊った。

村上と岩波が戦った「秘密戦」は沖縄だけのことではなかった。本土決戦に際しては全国に護郷隊と同じ「国土防衛隊」を組織し、陸軍中野学校の出身者を中心にゲリラ戦を展開する。そのための教育機関として中野学校に「宇治分校」がつくられた。第3章では、ここに学んだ岐阜の「国土防衛隊」の元教官と元少年兵の証言が収められている。沖縄で起きたことは、戦争がつづけば日本全国で起きるはずの事態だった。

本書の後半には、スパイ容疑で多くの住民が殺された事件と、住民を虐殺した3人の将校・下士官を巡る証言が収められている。

沖縄戦の末期、米軍は着々と北上してくる。村を逃げ日本軍とともに山へ避難していた住民のなかには、飢えて山を下りて生活しはじめる者、米軍に投降して収容所に収容される者も多かった。敗残兵が多く統制のきかない軍隊、米軍地域と日本軍地域を行き来する住民、飢餓と混乱のなかで軍民ともに疑心暗鬼にとらわれ、「スパイリスト」がつくられる。「命がけで食糧さがして、生きるために、生活するために精いっぱいなのに。早く山を下りた人はスパイなんだと、勝手に決めつけているわけさ。日本軍が、自分が生きるために」

この住民虐殺は、沖縄戦で聞き取り調査がいちばんむずかしい分野だと三上は言う。「踏み込んで言えば『手を下した日本軍』の中に、沖縄県民が含まれていることもあるからである。密告した人と、殺した人、殺された人の遺族が戦後も同じ集落に住み続けなければならない地域もあった」。それだけに証言をする人たちの口も重い。スパイリストに載せられた当時18歳の女性は、著者が四回目に会って話を聞いたとき、ようやく自分が夜、寝ているときに兵隊に踏み込まれ殺されかけたことを語った。

第5章では、住民を虐殺したことがはっきりしている3人の軍人について記述される。3人の戦後についてだけ紹介しよう。少なくとも7人の住民を殺した陸軍曹長は、復員後、遠縁の家に婿養子に入って製材所を立ち上げて成功した。家族には戦争で沖縄に行ったことを一言も言わず、70歳で亡くなった。

スパイとして本人だけでなくその家族も斬殺した海軍大尉は、記録では行方不明とも戦死とも書かれている。だが著者の調べでは、敗戦後も生き延び山に潜伏していたところを米軍に発見され収容された。けれども、その後の消息は同じ部隊の誰もが語らず、「行方不明」のまま封印されている。

スパイ殺害を自ら手帳に記録した海軍少尉は、山に籠っているところを米軍に発見され射殺された。その地区の村人は、村人と親しかった少尉ら12人を丁重に埋葬した。戦後、少尉の両親が沖縄を訪れて手厚く葬られていることに感激し、村人との交流がはじまった。両親は慰霊碑を建て、事あるごとに地区に寄付し、毎年、命日には必ず慰霊碑を訪れた。両親が亡くなってからも、少尉の妹やその子供と地区との交流は今もつづいているという。

陸軍中野学校に国内ゲリラ戦のための学校があったことからわかるように、軍は本土決戦のために「国内遊撃戦の参考」などのマニュアルを作成していた。ここでもスパイと疑われる者には「断乎たる処置」を取ると明記されている。別のマニュアルには民間人を「義勇隊」として組織することや、義勇隊が「不逞の徒」に「適切なる処置」をほどこすことも規定されている。

「もし半年でも終戦が遅れてこの教令のもとに『本土決戦』が始まっていたら、敵の攻撃による被害とは別に地域社会の中に不逞分子の処置が横行し、しかも軍人すら介入しない処刑も起きうる状況にあった。沖縄戦以上の悲劇が各地で起きていたことは明らか」と著者は記す。これは遠い歴史の彼方のことでも、沖縄という地域だけに起こった出来事でもない。日本国中どこでも起きる可能性があったし、もしかしたらこれからも起きるかもしれない。そういうものとして本書を読んだ。

三上が話を聞いた元少年兵はいま、90歳前後。戦後ずっと、仲間うち以外では口を閉ざしてきた。その重い口を開けた著者の誠実と粘りがこの貴重な記録を生み出した。(山崎幸雄)

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「太平洋戦争の収支決算報告」青山 誠

青山 誠 著
彩図社(224p)2020.07.27
2,608円

昭和20年8月15日のポツダム宣言受諾から75年。新聞やテレビで75年という数字が飛び交っている。そして今更ながら、73才である自分が終戦から2年弱で生まれたという実感とともに、その混乱の時代に働き、家庭を守り、二人の子育てをした両親の苦労に今更ながらに思いを馳せるばかり。同様の苦労は多くの戦前・戦中派の国民が体感したものだろうが、そうした自らの戦争体験を語り継げる世代は減少し、戦後育ちの国民しかいなくなる時代もそう遠くないのだろう。

15年戦争と言われる時代を俯瞰すると、昭和6年の奉天郊外で発生した「満州事変」、昭和12年の北京郊外の盧溝橋事件に端を発する「支那事変」から日中全面戦争に突入して行く。こうして欧米諸国との関係も悪化し日本の孤立化は進み、国内では仮想敵国としてアメリカの脅威を煽る中で、昭和16年に太平洋戦争が始まる。滅亡を覚悟して国力の限界をはるかに超えて投入され続けた金・物資・人命等、この戦争で途方もない消耗があった。本書のタイトルが「収支決算報告」とある通り、太平洋戦争で投下された戦費、失った物的・人的資産、そして賠償という視点でまとめられている。そこには、主義についての議論はなく純粋に数字から太平洋戦争とは何だったのかを問い掛けている。その一つとして、戦後の軍事恩給の支給対象者数の推移と支給総額を見るにつけ、国民にとっての「戦争の意味」と「国家負担額の膨大さ」という異なった視点をそこから読み取ることが出来る。

昭和15年に近衛内閣は「東亜共栄圏」と名付けた政策を打ち出し、欧米列強の植民地支配からアジアを解放するという理念のもと、アジア各国の協調を呼びかけた。一方、アジア各国への日本の資本投資額は我が国の経済力の限界もあり、石油資源国の蘭印では欧米・中国からの総投資23億ドルの中で日本の投資額は1%以下であり、中国の1/10でしかない。石油の確保の為、開戦前に必至で交渉を続けていた蘭印に対しても、経済的な手段による権益確保という戦略が取られていないという意図のちぐはぐさが見える。また、戦前の日本の石油はアメリカに80%依存していたが、そのアメリカを仮想敵国としながら昭和16年の禁輸までは備蓄用石油をアメリカから買っていたという矛盾も見えてくる。

そして、開戦時の国力を列強と比較すると、日本のポジションはアメリカとの比較でGDPベースは1/5、工業生産高は1/10であった。こうした数字を見るにつけても開戦を決定するプロセスで客観的な分析を示した官僚なり軍参謀は居なかったのか、と考えるのは当事者でない現代人の気楽さなのだろうか。

まず、本書での「戦費」の部分を概括すると、支那事変(昭和12年)から終戦(昭和20年)までの8年間で総額7559億円の軍事費が使われたという。この間、毎年GDPの25%以上、昭和20年には60%が軍事費として支出されており、GDPの1%の軍事支出で済んでいる現代と比較すると戦時の厳しさが判ってくる。この7559億円という数字を現在の貨幣価値で理解するために、大卒初任給の昭和16年(1941年)と現在を比較すると2500倍となるので、この比率で見ると太平洋戦争軍事費の7559億円は現在価値では1,889兆円となり、2019年のGDP553兆円の3.4倍となる。本書でも色々な金額が示されるのだが、消費者物価指数であったり、GDP比であったりして理解が難しいところもあったので、私は大体2500倍程度として現在価値を理解することにして読み進んだ。

各論としては軍隊編成のための人件費が語られている。当時陸軍550万人、海軍240万人という国民の10%が兵役についていたが、例えば、二等兵は月額6円の支給であった。食事や衣服は全て無償支給されていたとはいえ、当時、軍需工場に動員された女学生は月額30円を手にしていたと聞くとそのギャップに驚くばかり。兵役は義務なので、軍からの支給金額に不満で兵役を拒否することは出来ない。軍馬34万頭、軍用犬1万頭の食管理費などと比較して、馬の方が二等兵より待遇が良さそうに見えたりするのも辛い所である。

兵器については、兵力としての能力や威力を考えたことはあるがコストを考えたことは無く、新たな発見もあった。銃・戦車・航空機・戦艦といったコストが示されているのだが、零戦は開発当初は一機5万円だったが、エンジン性能や防護機能を向上につれ末期には10万円になっていたという。現在価格でみると一機1億円から2億円。この零戦を1万7千機製造している。加えて飛行場の建設、搭乗員の訓練、整備費用、燃料代などが積みあがっていくことを考えると航空戦力の確保のコストも膨大なものになることが判る。海軍でみると、昭和12年から6ヶ年計画で大和型を含めて66隻の軍艦が建造されているが、大和型でいえば単価1億4千万円(現在価値は3400億円)。高いのか安いのか判断できないが、自衛隊の最大艦「いずも」のコストを調べてみたが、大和の1/3の排水量で1200億円と言われていることを考えると、いつの時代も軍艦とは高価なものであるらしい。

開戦の重要なトリガーであった石油の視点で考えると、すべての軍事費7559億円をつぎ込んで、蘭印の石油、年間1000万キロリットル(2億7千万円)の確保を目指したと言う収支の戦いだったというなんとも虚しいバランスが明らかになる。

次のテーマである「損失」を概括すると、終戦直後の帝国議会で東久邇首相は、太平洋戦争での戦没者を軍人46万7千人、民間人24万1千人の計70万8千人と報告している。しかし、現在の戦没者の数字は昭和52年の政府報告による、軍人230万人、民間人80万人の計310万人と言われている。時間の経過で判明して行く戦没者が戦後30年間続いていたという事か。

軍備の損失については、海軍艦艇は80%を失い全滅状態。航空機は本土決戦用に5000機が温存されていたが廃棄。生産力で見ると石油精製施設の58%、火力発電所の30%、産業施設の50%を喪失している。まさに日本の全産業が壊滅状態だった。

日本は敗戦によって日清・日露の戦争で獲得したすべての植民地を失い、国土は67万5千㎢から37万8千㎢に減少した。敗戦国である日本は国・企業・個人の、台湾では、日本の資産総額は425億円(現在価値8.5兆円)。朝鮮半島では、戦後GHQ・日本銀行・大蔵省の共同チームが調査し日本の総資産は891億円(現在価値17兆円)。満州では資産総額は1465億円(現在価値で30兆円)という膨大なものである。その他南樺太、中国本土などでも膨大な日本の公私の資産が存在していた。昭和26年に講和条約が日本と連合国48ヶ国の間で調印されたことで、連合国の占領統治が終ると同時に日清・日露戦争で得たすべての植民地と日本の対外資産3794億円(現在価値75兆円)を放棄することと引き換えに連合国の多くが戦時賠償請求権を放棄した。

この講和会議に参加していない中華民国、中華人民共和国、韓国臨時政府などが個別の条約を締結して行くことになる。昭和27年に中華民国との平和条約を締結して賠償放棄。昭和40年に韓国と日韓基本条約締結し、日本が2880億円の経済協力金の提供し、韓国が賠償請求権を放棄した。昭和47年に中華人民共和国と日中平和条約締結し賠償請求権放棄に対して日本はODAで以降40年間に3兆6500億円が拠出されている。

自国民に対しての賠償は軍人恩給・戦傷者恩給の形で行われた。私は恩給を数字として捉える機会が無かったので、個々の手厚さとともに支給総額については考えさせられる点が多かった。恩給の受給対象者は830万人、昭和27年の制度創設から現在までの支給総額は50兆円を超えている。これは他国への賠償金総額よりも大きな負担であるし、現在の国民年金よりも手厚く、戦後日本に存在したことになる。そして、中国に対するODAの額も違和感は残る。何故という問いに対して著者は「昭和20年の東久邇稔彦首相の一億総懺悔発言が、手厚い軍人恩給や経済大国となった中華人民共和国にODAを与え続けると言う矛盾の原点になっていたのではないか」と述べている。

軍事費を調達するために、不足分は膨大な戦時国債によって賄われていった。国民はなけなしの金で国債や公債を買っていった。しかし、終戦後の昭和21年に財産税法が制定され国民が国内に所有していた財産全て(不動産・預金・株券・戦時国債)対して25%~90%の高率な税を課した上に、インフレが進み昭和24年の物価指数は昭和12年の約220倍となった。この二つの要素で日本国政府は債務整理を実施したことになる。要すれば、太平洋戦争に勝とうが負けようが国民はその財産を奪われたと言える。今私の手元に「大東亜戦争割引国債債権・参拾円」が一枚残っている。父が残した本に挟まっていたのだと思うが、発行日が昭和18年、償還日は昭和28年とある。ハイパーインフレの中では戦時国債も本の栞がわりに使われたと言ったところだろうか。そして振り返れば、現在のコロナとの戦いの財政資金の使い方やその決断を冷静に考える必要性もあるのだろう、というのが読後感である。「アベノマスク」を曽孫が見つけてこれは何?と思うようなものか。内池正名)

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2020年8月17日 (月)

「ウェブスター辞典あるいは英語をめぐる冒険」コーリー・スタンパー

コーリー・スタンパー 著
左右社(360p)2020.04.13
2,970円

著者のコーリー・スタンパーはアメリカの伝統的な辞書出版社であるウェブスター社で辞書編纂者として活躍してきた言語学の専門家である。本書は知ることの少ない辞書編纂者の仕事の内容を楽しさや苦労話とともに紹介しつつ、言語としての英語固有の世界を書き綴っている。その説得力の源泉は、彼女の体験からの説明と言葉に関する小ネタ(トリビア)を示すことでこの特殊な世界を感情豊かに伝えているところにある。我々の家庭には何種類かの辞書が有る。しかし、身近な辞書という書籍がどう作られているのかはあまり知られていないというのが本書を読んでも良く判るはずだ。

著者は当初医師を目指ししていたものの、進路を文学に変えて大学卒業。ウェブスター社の辞書編纂者の求人に応募したという。その求人条件とは、正式に認可された大学で学部を問わず学位を受けていること、英語が母語話者であることの二点で、スペシャリストとしての辞書編纂者として仕事を始めて、専門職としての教育や実践で遭遇した色々な課題、語釈の書き方、用例の探索、文法上の解釈議論、読者からの質問への返信対応などが詳細・厳密に語られているところが辞書編纂者らしいところ。

英語を他言語と比較しながら、その歴史や特徴が語られているのは興味深く読んだ。

15世紀まではイギリスの公文書はラテン語かフランス語で書かれていたが、16世紀にヘンリー5世が突然英語を公用語に定めたのもイギリスの国家としての自信の確立だったのだろうし、印刷機の出現が言語の標準化の推進に寄与したことも忘れてはいけない視点だ。

一方、識字率の向上とともに「正しい文法」が自国語を話す人のために作られ、コミュニケーションの質だけでなく、礼儀作法を補強するものとして存在した。しかし辞書編纂者としての著者は「文法」として成文化されてきたルールを支えているのはあくまで「理想」であって、「現実」ではないという意見。別の言い方をすれば、辞書が扱う「文法」は「正しい文法」ではなく「使われている文法」ということだ。

従って辞書編纂者は本、広告、新聞、個人の手紙など、広範囲に事例を集めてくる。黙々と資料を読み続ける姿から「8時間座って本を読むという退屈な仕事」と表現しているほど。

広範な資料からメモをとり、用紙に書き写して、語釈や引用のネタを集めて行くという辞書作成プロセスは18世紀のサミュエル・ジョンソンが「英語辞典」で初めてやり始めた手法だという。この方法は以降の全ての辞書の制作現場で採用されていった。しかし、現代はコンピューター用語、科学技術用語、医学用語など先端的領域では続々と新しい言葉が生まれ続けているし、インターネット上には語源さえ定かでない言葉があふれている。同時に、言葉は時代の変化で語源とは異なった意味で再定義されたり、使う人によって受け止め方が変わるといった状況が多くなっているだけに、こうした手法が今後とも編纂作業の中核たりうるのかはいささか疑問がある。

「American Dream」という言葉が最初に使われたという文章を紹介しながら、そこで使われている意味を聞かされると、また違った感慨がこみ上げてくる。そして著者は言語体系を川に例えて「それはひとつの流れに見えても、川は数多くの独立した流れから出来ていて、その一つでも変わったなら生態系から水流まで全体に変化が及ぶ。そして、川はどこにでも望むところに向かって流れて行く」とその壮大さを表現している。

標準と非標準という視点で、「Nuclear(核)・ニュークリア」という言葉の発音からの人物評価が紹介されている。それはジョージ.W.ブッシュ元米国大統領がこの言葉を「ヌーキャラー」と発音することで、彼は「無教養な南部の白人男」と烙印が押されたという。しかし、こうした非標準発音だけでなく、使用する言葉自体が時代と共に人種差別や性差別の波に晒されている。「Nude(肌色)」という色彩の言葉に内在している人種差別問題、「Marrige」と言う言葉の語釈として同性婚を認めつつある現代ではどう記載すべきなのか等、時代とともに言葉は意味を変えていくという特性には注意が必要なのだろう。こうした変化は英語が母国語でない日本人にとってなかなか判りづらい部分である。

外資系会社での体験で言うと、海外出張して公式の講演スピーチをするときには言語表現に気を使っていたと思う。特にインターネットの時代では、一過性の形で各国の社員がそのスピーチを聞くというだけでなく、何か月もその映像音声が社内のHPで開示され続ける。従って、色々な文化の人達がその言葉を聞いて少なくともネガティブに捉えられないようにしなければならないのだが、私には充分な英語表現力が有るわけではない。止む無く、内容を原稿にして、NYの本社でスタッフ(アメリカ人とフランス人)にこの言葉づかいから、宗教的・文化的に避けるべき言い方になっていないか見てほしいと言って渡した。翌朝、彼らからの答えは「日本人らしい英語でいいんじゃないか!」というものだった。そうか、「上手い英語」ではなく「日本人らしい英語」なのかと微妙な感覚を覚えたことが有った。

「辞書の改訂版で例文が断片的で違和感を感じるとすると、それは印刷時代の遺物である。活字印刷では一字でも増えれば頁を跨ぐことになるため、それを避けるために改訂版では新語を加えると同時に既掲載語の文例などから無理に文字を削ることがある。その結果である」という著者の指摘が目についた。

その文章を読みながら、私は50年以上前、学生時代に岩波国語辞典第二版の制作時にバイトをしたことを思い出していた。第二版が出版されたのは1971年1月で、私がバイトをしたのは1968年だが、新しく取り入れる言葉の語釈と引用について編集者のメモから原稿用紙に清書し字数を確定したり、採用候補の言葉の語釈を他社の辞書で確認したりしていた。当時は活字印刷だったので、新しい言葉の行数、字数の調整とともに既掲載の言葉の字数調整をして頁単位、折丁単位の版組影響を最適化するのが編集者の腕の見せ所であったと思う。しかし、そうした熟練の技も1970年代半から導入されて来たコンピューター写植システムでは、改ページなど気にせず注記も思いのまま増やすことが出来ることから、編纂者のスキルも変化していった。

また、このバイトの経験から、社会人になっても役に立つことがあった。それは岩波の編集部の人から岩波国語辞典の語釈の特徴として教わったのが、「この辞書は世界で初めて右と左の絶対定義をしている」というものだった。「舟を編む」でも紹介されていた様だが、それは「右 : この辞書を開いて読むとき、偶数ページのある側」というもの。編集者の得意気な顔を見ながら、学生の私は「右も左も判らずに辞書を引く人間に、奇数や偶数は判らないだろう」と思ったが口には出さずに我慢した。ただ、同時に「プロの仕事では、素人には判らないだろうがプロはここまでやるんだという、数%かの自己満足(遊び)が仕組まれている」という理解をした。「数%の遊び感覚」の必要性は、その後の私の仕事の指針の一つになった。

思えば、言語と辞書という二つの領域は私にとって多くの思い出を含んでいる領域であった。懐かしさと苦労がふと蘇ってくる読書になった。内池正名)

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「大洪水の前に」斎藤幸平

斎藤幸平 著
堀之内出版(356p)2019.04.25
3,850円

去年、斎藤幸平編『未来への大分岐』(集英社新書)を読んだ。編者とドイツの哲学者マルクス・ガブリエルら3人との対話で、グローバル化した資本主義の危機が論じられていた。NHK・Eテレがマルクス・ガブリエルの特番をつくったときも斎藤は番組に顔を見せていて、そんなことから彼のことが気になった。

でも斎藤の唯一の著書である『大洪水の前に』は、ベルリン・フンボルト大学に提出された博士論文を基に再構成された本で(博士論文の英語版で2018年ドイッチャー記念賞受賞)、書店でぱらぱら立ち読みするとえらく難しい。とても73歳のジジイのにおえる本ではないと尻込みしていたが、コロナ禍で家にいる時間が長いので思いきって挑戦することにした。買って奥付を見ると「第3刷」とある。出版の危機が言われるなか、少部数であるにせよこういう本に興味をもつ読者がちゃんといるんだと、半分引退した編集者として心強く思った。

この本には「マルクスと惑星の物質代謝」とサブタイトルがつけられている。取り上げられているのはガブリエルでなくカール・マルクス。しかも、かつてソ連で刊行された『マルクス・エンゲルス全集』には収録されず、現在刊行中の新『マルクス・エンゲルス全集』にいずれ収録される、未刊行の抜粋ノート、メモ書き、蔵書への書き込みを丹念に調べて、未完成に終わった『資本論』第2、3巻(マルクス没後、エンゲルスの編集で刊行)が本来どんな構想を持っていたかを考えるという雄大なもの。あらかじめ言ってしまえば、晩年のマルクスには現在の言葉でいうエコロジー的な視点があり、利潤追求を最優先に求める資本主義は自然と人間の関係を歪めて持続可能性を持たないシステムであるという結論になるはずではなかったか、と著者は推論している。

このエコロジー的な視点は、19世紀の言葉でいえば「物質代謝」ということになる。従来、マルクスは資源の枯渇や生態系の破壊といった環境問題に関心がなく、技術の進歩と経済の成長によってすべてが解決するという生産至上主義だという批判が根強くあった。確かに若きマルクスには、そういった19世紀の楽観的な近代主義の言葉が散見される。でも1848年にヨーロッパの革命が挫折して以降、マルクスは自然科学の研究に没頭して自然というものが持つ限界を知り、資本と自然の緊張関係のうちに資本主義の矛盾を見定めるようになった。未刊行の抜粋ノートやメモ書きからそれが見えてくる、と斎藤は言う。

「物質代謝」という言葉は19世紀初頭から生理学の用語として使われていた。あらゆる生物が外から栄養物を摂取・吸収・排泄するかたちで、外界との関わりのなかで生命を維持していることを指す。さらにこの言葉は自然科学だけでなく哲学や経済学の領域で、人間の生産・消費・廃棄といった社会的活動を分析する概念としても使われるようになった。

マルクスはこの言葉に刺激を受け、自らの経済学批判に用いるようになる。人間もほかの生物と同様に外界の自然との間で「物質代謝」を行なっているが、人間は労働というかたちで「意識的」に自然と関わる。その結果、人間と自然の「物質代謝」は労働の社会的あり方に対応して変容を迫られる。資本主義の社会は、一方で自然の力(エネルギー、食料、原料)を徹底的に開拓し利用しようとするが、他方で利潤獲得が最優先されるため、限界を超えて自然の力を利用するようになり世界的規模で「物質代謝」に矛盾と軋轢をもたらす。

マルクスは、およそそんな道筋で資本主義の矛盾を考えるようになった。もちろん斎藤によるマルクスの抜粋ノート追跡はこんな大雑把なものでなく、「素材」と「形態」、「物象化」、「商品」といった概念を駆使した細かなものだが、その過程(それこそ斎藤論文が評価された部分だろう)は省略。興味ある方は書店へどうぞ。

もうひとつ、マルクスが自然科学研究から取り入れたのが「略奪農業」という言葉。若きマルクスは農業についても技術と化学(肥料)によって農業生産を増大させられると楽観的だったが、「物質代謝」という概念でもマルクスに影響を与えた化学者リービッヒは、土地の肥沃さを維持することを考えず、利潤を得るために自然の無償の力を絞りつくす農業を「略奪農業」と批判していた。これに刺激を受けたマルクスは、土地の疲弊や自然資源の枯渇について研究するようになり、やがて「大土地所有は、社会的な物質代謝と自然的な、土地の自然諸法則に規定された物質代謝の連環のなかに修復不可能な亀裂を生じさせる諸条件を生み出す」(『資本論』)と書くにいたる。

晩年のマルクスは、土地の疲弊、森林伐採、(高く売るための)羊の奇形的飼育といったさまざまな持続可能性に関心を持っていた。また、過度な農耕と森林伐採が自然的物質代謝の攪乱を引き起こして気温が上昇し、その結果、多様な植生が失われステップが広がってゆくというフラースの著書も読んで抜粋ノートをつくっていた。斎藤は、こうしたマルクスの抜粋ノートが「もし『資本論』が完成したなら、マルクスは人間と自然の物質代謝の攪乱という問題を資本主義の根本矛盾として扱ったという推測を根拠づけてくれるように思われる」と書く。

しかしマルクス死後、その仕事を引き継いだエンゲルスは「物質代謝」という概念をマルクスのようには評価しなかった。結果、エンゲルスの手になった『資本論』第2、3巻では「そのエコロジカルな視座も完全には取り入れられることはなかった」。

では晩年のマルクスは、「物質代謝の攪乱」をどう解決しようと考えていたのか。斎藤は、マルクスのこんな一文を引用している。「歴史の教訓は、農業を別の見地から考察してもわかるように、ブルジョア的制度は合理的農業に反抗し、農業はブルジョア的制度と相容れないということであり、自らの労働する小農の手か、アソシエイトした生産者たちの管理を要するということである」。つまり持続可能な社会であるためには「アソシエイトした生産者」によって合理的、意識的に労働や生産が管理されることが必要ということだろう。

斎藤によれば、マルクスは『共産党宣言』の段階では大恐慌が労働者の蜂起を引き起こすと楽観的に考えていたが、1948年革命の失敗後は楽観論を放棄し、「労働組合などを通じて物象化(注・生産物が商品となり社会的な力を得て生産者に敵対するようになること)の力を制御し、より持続可能な生産を実現するための改良闘争が持つ戦略的重要性を強調するように転換して」いったという。

著者は最後に、宮沢賢治の次のような言葉を記している。「新たな時代のマルクスよ/これらの盲目な衝動から動く世界を/素晴らしく美しい構成に変へよ」

日本では、いまマルクスに対する関心はきわめて低い。その人物も著作も歴史上のものとして整理され棚上げされてしまっている。でも地球規模での経済の長期停滞や、1%対99%といわれる極端な格差拡大、温暖化による気候変動を背景に、ヨーロッパやアメリカではマルクスの再評価、エコ社会主義の視点から新しい読み込みが進んでいるという。そんな世界の最前線を伝えてくれる一冊だった。

カバーは、イルカやクジラが波頭から頭を出した瞬間のイラスト(装画・マツダケン)を全面に銀で箔押しした贅沢なもの。専門的な書籍を、本棚にとっておきたくなるような造本でモノとしての魅力を加え、少部数高定価で出版する。増刷していることからわかるように、こういう方向はひとつのモデルになるかも。(山崎幸雄)

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2020年7月17日 (金)

「裁判官も人である」岩瀬達也

岩瀬達也 著
講談社(330p)2020.01.31
1,870円

多様な事件の訴訟、裁判に関するニュースは毎日の様に報道されている。そうしたニュースを読みながらも、三権分立の中で、特に司法の独立性はそれなりに担保されると無意識のうちに思っている自分がいる。「裁判官、弁明せず」と言われる様に、裁判官は自らの下した判断に解説することはない。それだけに、司法の実態については自分から積極的に知ろうとしない限り時代とともに進んで行く法律解釈の変化を理解していくことは難しい。

本書では、裁判官が判決に至るプロセスを追いながら、死刑制度、原発の稼働、最高裁を頂点とする裁判所組織、人事評価や裁判官の独立性といった、現代の司法が抱えている課題を多くの視点から取り上げている。特に、「司法」は裁判所を運営する最高裁判所の司法行政部門があり、それは行政の一部であると著者は指摘する。別の言い方をすれば、「人事権と予算査定権を立法府と行政府に握られている最高裁判所は三権分立の理念を実践できていない」という主張である。それを示すために本書では日々の裁判官の仕事の中で発生する判決で、国策を否定したり、各分野の違憲判決や最高裁判例を覆さざるを得ない判断によって発生する裁判介入や人事異動、評価への影響などを描いている。

国策に対する裁判として、原発の再稼働時の判決が取り上げられている。一連の裁判は、2006年金沢地裁は北陸電力の志賀原発2号機の安全対策が不十分として原発の停止を判断したことに始まる。2011年東日本大震災による東京電力福島原発の事故の後、2014年福井地裁での樋口裁判長は大飯原発の安全技術と設備は脆弱であるとして3号機と4号機の停止判決を出した。以降、高浜原発3-4号機の再稼働禁止、川内再稼働容認、伊方原発の再稼働容認、伊方原発の再稼働禁止、伊方原発再稼働容認といった形で原発再稼働の禁止と容認の判決が行ったり来たりの歴史を繰り返している。

ただ、2013年に最高裁判所は「高度な専門性が求められる原発の安全性を専門知識の無い裁判官が判断するのは難しい。従って、裁判官は行政側の審査基準が正当で、その審査過程で大きな手続き的欠落がないかを審査し、安全性の独自の審査には自省的であること」という意見を研修資料に取り入れている。介入ではなくガイドラインであると言い張るのだろうが、それは無理である。こうした状況下においては、原発再稼働を止めた裁判官と再稼働を認めた裁判官のその後のキャリアを見ると、法律議論以前に国策に逆らった裁判官に対する処分と言わざるを得ない。

また、裁判官への介入が公になったのが札幌地裁で行われた「長沼ナイキ事件」である。地対空ミサイルのナイキを配備するために保安林を伐採しようとした国に対して住民が起こした訴訟である。第二次安保闘争など騒然とした社会状況の中の1969年に札幌地裁の福島裁判長は「憲法違反の恐れのある自衛隊のために保安林指定解除処分の執行を停止すべき」と判決を出したのだが、その判決内容が国に告知される前に平賀札幌地方裁判所長が福島裁判長宛てに「国側の主張を認めるよう求めた」書簡を届け、結果その書簡が外部に流出したという事件である。

青年法律家協会の裁判官部会の世話人をしていた宮本は福島と同期で、平賀書簡の外部流出の犯人と最高裁から疑われ、青年法律家協会に参加していた裁判官達に対する差別(ブルーパージと呼ばれた)とともに、宮本は10年目の裁判官再任審査でただひとり再任されなかった。この問題は、裁判干渉が露骨に行われていた事実と人事権の使われ方の異常性である。ちなみに再任されなかった宮本は弁護士登録に必要な経歴保証書を最高裁判所に求めたが最高裁は発行を拒否したため、弁護士会の特例処置で弁護士登録が行われたと言う。

こうした、裁判官の職業人としての独立性を担保する仕組みの例として、裁判所法では「意に沿わない人事異動は応じなくて良い」という考え方が紹介されている。しかし、全国3000人の裁判官で構成されていることを考えれば、必然的に異動を前提にして育成・昇進をやって行かなければ組織運営は回って行かないのは目に見えている。毎年8月に裁判官は自身の健康状態、家族構成とともに次の異動の希望任地を記載するが、ここで「希望任地以外は不可」を選択すると処遇・昇進面で制約をうけることになるという。民間であれば社員は「希望」や「異動が出来ない理由」を上司に申告することはあっても、異動の発令が有ればそれに従うことになり、かりに「組織の指示に従わないとすれば、その結果「失う」ものもあるということは明らかだ。組織で仕事をする限り、裁判官の権利と考えてしまうと、問題を矮小化してしまうのではないか。職業人としての姿勢と組織の仕組みの両面を考えないと真の独立性の議論にはなりそうもない。

また、死刑制度そのものの問題提起している。現在、先進7ヶ国(G7)の中で死刑制度を続けているのはアメリカと日本だけである。戦後の憲法改正作業の時、GHQの法政司法課長だったドイツ系アメリカ人は死刑制度廃止論に立つ弁護士であったが、日本政府が死刑制度の温存を求めたため、あえて異議を唱えなかったという。この結果、現憲法下でも死刑制度は存続したが、一石を投じた事件として2011年に大阪で発生した放火事件(5名死亡)である。裁判長は死刑を宣告したが、この裁判では死刑は残虐な刑罰に当たるのかどうかが問われた。証人の一人であった元検察官の筑波大学教授が「絞首刑はむごたらしいとは言えないとは、実態を知らなさすぎる、と言わざるを得ない」と意見を述べている。検察官は死刑執行に立ち会う義務があるが、裁判官にはない。このため、死刑執行に立ち会ったこともない裁判官が「絞首刑は惨たらしくない」という判断がなぜできるのかと、裁判官を揶揄するような意見が紹介されている。こうした事例を読むにつけても、まだまだ、死刑制度に関しては議論が続く論点の様だ。

そして、気になった点がある。1968年に起きた尊属殺人事件で1969年宇都宮地裁は尊属殺人条項は違憲という判断をし、過剰防衛であるものの情状の余地ありとして刑を免じた。本来尊属殺人は死刑もしくは無期懲役であり、東京高裁は一審判決を破棄して情状懲役酌量のうえ3年6ヶ月の実刑判決を言い渡した。この判決にたいし世論は極めて批判的で1973年に最高裁は尊属殺人の違憲判断をするに至る。しかし、尊属殺人の条文が刑法から削除されたのは1995年の改正刑法である。何と時間の掛かることかと思う。司法判断から立法までの道のりの長さは気が遠くなる様だ。

裁判員制度がスタートして10年を超え、6万人以上の国民が裁判員として裁判に参加している状況を考えれば、自分自身が裁判に出席して人を裁くことはもはや他人事ではない時代になっていると思う。裁判員裁判制度の評価をするにはまだ早いのかもしれないが、裁判員裁判では裁判員は被害者の立場がストレートに出るため、量刑的に厳しい判決になりやすいと言われている。しかし、本来、法理だけではなく、社会経験からも判断するということが裁判員裁判の目的だとすると、その目的を果た結果ではないのかと思う。自分が人を裁き、量刑判断しなければならない時が来ることを想定しながら本書を読みながら、今更ながら裁判官という職業の大変さを実感する。(内池正名)

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「武器としての『資本論』」白井 聡



白井 聡 著
東洋経済新報社(292p)2020.4.23
1600円+税

「武器としての『資本論』」というタイトルを見たとき、「武器」とは何のための武器なんだろう、という疑問が湧いた。少しでもマルクスをかじったことのある小生のような団塊の世代なら、当然のように「革命」とか「資本主義を倒す」ための武器といった言葉が思い浮かぶ。でもそうしたことを、いまこの国でほとんどリアリティをもって語ることはできない。笑われるのがオチだろう。ではこの本が、買い手の目を引くためタイトルに選んだ「武器」とは何のためか。白井聡は、「この世の中を生きのびるための武器」なんだと言う。われわれはなぜ毎日、満員電車に揺られて会社に行かなければならないのか。なぜみんなが苦しまざるをえない状態にありながら、その苦しみを甘受して生きているのか。『資本論』はそういうことに答えてくれるのだという。

いま、マルクスなんて時代遅れの代物だ、というのがおおよその一致する見方だろう。確かに社会主義を標榜する国家の崩壊や堕落ぶりを見れば、それもうなずける。でもマルクス、特に『資本論』は現実の政治や国家から一歩も二歩も下がって、資本主義というシステムを批判的に分析した書物。革命論としてでなく、資本主義批判の学としてマルクスをもう一度読み直すと、貧富の差が極端になり、差別と分断が暴力的な様相を呈する今の世界を読み解くヒントが得られるかもしれない。マルクスが19世紀ヨーロッパの資本主義を分析した手法で現代を、特に1980年代以降の「新自由主義」とよばれる現在を分析したらどう見えるのか。これが本書の「裏テーマ」だという。

この本は「『資本論』入門」と謳っているから、『資本論』からいくつかのキーワードを取り上げ、それを解説するスタイルを採っている。「商品」「包摂」「剰余価値」「本源的蓄積」「階級闘争」といった言葉。といっても小生が『資本論』第1巻(だけ)をなんとか読んだ半世紀前の古典左翼的な解釈でなく、その後のさまざまな研究成果を踏まえたものになっているようだ。

本書がその分析を「裏テーマ」とする「新自由主義」とは1980年代以降の「小さな政府」「民営化」「規制緩和」「競争原理」といった言葉に象徴される、現在までつづく資本主義のありかたを指す。それ以前、第二次大戦から1970年代まで(日本で言えば戦後から高度経済成長の時代)を白井は「フォーディズム」とくくっている。フォード社がベルトコンベアを導入して自動車を大量生産するシステムから来た言葉。大量生産した車は、少数の金持ちだけでなく、たくさんの普通の人びとに買ってもらわなければならない。そこでフォード社(に代表される資本家)は、車(商品)の価格を下げると同時に労働者の給料をアップして「労働者を消費者に変えようとした」。その結果、労働者の生活は豊かになり社会保障制度も整備されて、先進諸国では大衆消費社会が出現した。「労働者階級を富裕化して中産階級化するということが20世紀後半の資本主義の課題となり、相当程度実現された」ことになる。

でもこの流れは1980年代に逆流を始める。資本家は政府の介入を最小限にした市場原理主義で企業が自由に活動できる範囲を広げ、規制緩和などを通じて労働分配率を下げ、新たな剰余価値を生みだそうとした。日本でいえば「働き方改革」による非正規労働者の増大や、富むのも貧困も自己責任という考え方の浸透で90年代以降、格差が急速に拡大した。「無階級社会になりつつあった日本が、新自由主義化の進行と同時に再び階級社会化していった」ことになる。無論これは日本だけでなく、先進資本主義国に共通の現象だ。白井はデヴィッド・ハーヴェイの言葉を引用して、新自由主義とは「資本家階級からの『上から下へ』の階級闘争」「持たざる者から持つ者への逆の再分配」だと述べている。

彼はまたこの時代を分析するのに「包摂」という言葉を使っている。『資本論』で使われる「包摂」という概念は、労働者が自分の労働力を商品として売ることでしか生きていけないことで資本の下に組み込まれることを指している。生産の目的が商品を売ることによる貨幣の獲得になることを「形式的包摂」、生産過程全体が資本によって組織化されることを「実質的包摂」と呼ぶといった具合に。でも白井は「包摂」という考えを、人間の身体が資本に組み込まれた状態だけでなく、感性や思考といった人間の精神までも資本のもとに組み込まれることに広げて考えている。こうした解釈の背後には、近代というのは、それ以前のように暴力的に身体を罰する刑罰でなく、監禁・監視することで思考や意思を矯正する刑罰に転換し、また教育や軍隊で規律を訓練し内面化させることによって、従順な身体をつくることで人々を支配する時代だ、というミシェル・フーコーの考え方があるんだろう。

では新自由主義を内面化した価値観とはどういうものか? 一言でいえば、「人は資本(会社や仕事)にとって役に立つスキルや力を身につけて、はじめて価値が出てくる」という思想。若い世代には浸透している考え方だろう。それを白井は「資本による魂の『包摂』」と呼ぶ。新自由主義は人々の働き方だけでなく、考え方や感性までも変えてしまった。「このことの方が社会的制度の変化よりも重要なことだったのではないか」

人が内面まで支配されてしまったのなら、「資本に包摂された魂」がそこから脱却する道はあるのか? それがこの本の最後の問いになる。もちろんそれに対する筋道立った回答は用意されていない。でもその端緒として白井が考えるのは「『それはいやだ』と言えるかどうか」。お金になるかどうかのスキルで価値が決まるのでなく、スキル以前の人としての感性に照らして、生きていく上での条件の切り下げや不条理に対し、それは耐えられないとNOの言葉を発することができるかどうか。そんな「感性の再建」から始めなければならない、というのが白井の結論だ。

と、ここまで読んできて、学生時代に読んで今も記憶に残るマルクスの言葉を思い出した。「五感の形成はいままでの全世界史の一つの労作である」(『経済学・哲学草稿』)。五感、つまり視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚といった感性は動物として人間が生まれつき持っているものではあるが、その中身は人間の社会的活動のなかで形成された文化でもある。マルクスの先の言葉の後には、「心配の多い窮乏した人間は、どんなすばらしい演劇にたいしてもまったく感受性をもたない」という文章がつづく。働くことが自分にとって喜ばしいものでなければ(疎外されていれば)、人間は身体も精神も自分自身でなくなってしまう。その状態に歴史上例がないほど深く侵されたのが新自由主義の時代というわけだろう。でも五感は社会的なものであると同時に、自然の一部である人間が生まれつき備えているものでもある。そこを信頼し、人間的自然の底に立ち帰って感性をもう一度磨き上げよう。この本は、そういう呼びかけの書と見えた。

カバーは赤一色、カバーをはがすと表紙は黒一色という装幀が、中身に対応して直截なのがいい。(山崎幸雄)

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