2022年7月16日 (土)

「送別の餃子」井口淳子

井口淳子  著
灯光舎(224p)2021.10.22
1,980円

著者は民族音楽学を専門にしており、研究テーマは「中国の音楽・芸能」「アジアの洋楽受容」と紹介されている。「中国の音楽・芸能」はともかく「アジアの洋楽受容」とは何だろうと思ったが、「亡命者たちの上海楽壇」という著作を見つけ、ロシア革命やユダヤ人迫害などで逃れてきた音楽家たちの活躍の場であった上海の状況を研究対象としており、興味深い分野の研究家である。

本書は著者が1980年代半から、中国の農村にフィールド・ワーク(以下FW)として繰り返し長期間滞在して中国の伝統芸能を研究する中で出会った人々の思い出を描いている。旅行のような一過性の滞在と違って、FWとなるとそれなりの期間に亘って村民の自宅に宿泊滞在させてもらうこともあり、住民との繋がりも深くなっていく。生活や移動における様々な問題が起こる中で「著者が困り果てていた時に周りの人々から、身振り手振りで助けてもらった」という体験が本書のベースといっている。

しかし、彼女は日本で言う「やさしさ」という言葉にピタリと合う、中国語は見つからないともいう。中国は二者択一を体現する考え方が強く、親子関係でも、よちよち歩きの子供に対しても「(あなた)」と呼びかけ、自分は「我」と称する。そんな、ある意味クールな立ち位置を守っているのだが、国籍や性別を問わず助けるという感覚は「仲間や身内」という狭い関係を超えて「人」を助けるという広い視野が根底にあると著者は考えているようだ。

本書に登場する人々はFWの対象の農村住民は当然として、民俗音楽や芸能を演じている人々の生業(なりわい)や日々の暮らしを描いている。また、1980~90年代の中国農村で女性研究者が長期間滞在することに中国側も心配していたようで、県の文化系の役人が監視役、支援者、通訳などの複数の役割を持って同行しており、そうした人々も登場する。

「甘い感傷に浸ることではなく、失敗の体験の中にぽっかりと差す薄日のような感覚」と表現しているように、厳しい現実の中での人々との触れ合いが見て取れる。そんな中で出会った「送行餃子」という言葉が本書のタイトルになっている。

著者が体験した時代背景は、毛沢東の死後、鄧小平による開放政策に始まり、1989年の天安門事件、90年代は江沢民の経済成長政策が進み、社会全体の貧富の格差が広がった時代だ。そうした変化の大きかった時代において上海に代表される都市の変革とともに、農村の生活変化も進んだ。象徴的に言われるのが、現地の人との連絡手段である。中国農村では手紙、急ぐときは電報という時代が長く続いたが、固定電話の時代をすっ飛ばして携帯電話の時代に突入したという。しかし、「農村」の状況は日本と中国では大きく異なっている。中国では「農村戸籍」と「都市戸籍」に分れていて、農村に生まれた人は一生農村を離れられず、出稼ぎで都市に出て来ても、そこに戸籍を移せず「農民工」と呼ばれて賃金などの条件も違うと言う。

そして文革の痕跡に接する事もある様だ。ある時、北京で中国文化の学芸員との会話の中で著者が農村の話をすると、スッーと暗い表情になったという。気になって尋ねると、父親が共産党幹部で文革の時に一家で地方に下放され彼女は「黒五類子女」といわれ迫害されたという。口承文化である民衆文化も文革で四旧として批判の対象になり、多くの資料や文物が廃棄された。その後の改革開放時代も経済第一主義で半農半芸の影戯芸人などは数を減らしていったという実態を紹介されていくと、あの文化大革命も私の中では歴史的事実という知識でしかなくなっていることに気付かされる。

北京郊外、河北省唐山市楽亭県が著者の最初のFWの地で、その後も何度も訪ね続けている。この楽亭県の文化行政機関主席の高老師との付き合いが語られている。1980年代後半でも、中国は大陸農村の調査は原則外国人に門戸を閉ざしており、ハードルはかなり高かった。加えて、全国で300を超える方言があり、出身者でもなければ住民と会話もできない。こうした点から、高老師のようなスタッフが同道することになる。老師と言っても年齢に関係ない敬称で、日本で言えば「先生」といったところ。 通訳、ボディーガード、郷土文化のガイドといった多様な役割を持った人ということか。

しかし、老師のように県の中心で生活していては農村の芸人の活動についてほとんど耳に入ってこないようで、「最近はめっきり上演が少なくなっている」と言っていたが、実際に村に滞在し始めると、「集市」と言われる定期市に周辺の村人も集まり口コミで情報が交換されて、近郊の村でこんな上演があるといった話が次々と入ってくる。この楽亭県では「三枝花」と呼ばれる、語り物芸能の「楽亭太鼓」、影絵芝居の「楽亭皮影戯」、地方劇の「評戯」を鑑賞していく。こうして村の人たちと上演を観た帰りの道すがら芸人の腕前の評価などを聴くという体験を繰り返す。

そして、何週間も滞在してお世話になった御宅での最後の食事に、普段料理をしない高齢のおばあさんが餃子を作ってふるまってくれたという。まさに「送別の餃子」である。

また、面倒を見てくれた老師はもともと「郷土作家」と呼ばれている小説家。別れ際に一束の原稿用紙が渡される。それは彼が著者を主人公に書いた短編小説だった。そこには著者が自分では気付いていない欠点や弱点も丁寧に表現されていたと言う。まさに老師からの「送別の餃子」である。

著者のもうひとつの重要なFWは陜西省陜北県の楊家溝村である。1990年以来、毎年のように研究調査に訪れていると言う。この村では山肌を5メートル程穴を掘って住居にしている。岩窟である。水はずっと崖下の川に汲みに行くという厳しい生活が強いられる。食べ物も生活物資もすべて手作り、自前が前提の村。この村でも多くの伝統芸術の演者と出会っている。日本と同様に、中国の伝統芸能の演者は視覚障碍者であることが多いようだ。子供が病気や怪我で眼が不自由になると、親はその子が一生食べて行けるように「算命(うらない)」か「芸人」のどちらかの技量を身に付けさせた。その中の一人、語り物を演じる芸が象徴的である。視覚障碍者の演者は、物語を語り、両手で大三弦を奏で、足に付けた板を打ち鳴らしてリズムを取る。まさに一人三役をこなす。また、同時に彼は「占い師」でもある。この村は1000軒位の集落とのことで、各家で誕生日などの祝い事があると彼を呼び、数時間の演奏の後、食事がふるまわれ、最後に家族全員の「算命」を行い謝礼を受ける。これが彼の生計である。

また、著者は視覚障碍者の雨乞いの歌を聞き、その旋律に美しさを感じたと言う。しかし、演者は「この歌は哭調であり「不好聴(美しくない)」と語ったと言う。視覚障碍者の彼にとっては美しい音とは「自然の鳥の鳴き声や水の音」などであった。この村では、1990年代でもラジオやテレビの音は聞こえない。聞こえるのは「人の声」なのだ。だからこそ当地の民謡で「あなたの姿は見えないけれど、あなたの声は聞こえる」という歌詞が持つ意味に考えさせられる。

思えば、私は北京、上海、香港など何度となく仕事で訪れている。しかし会議の合間の休憩時間に街を散策したり、中国人の仕事仲間と中国語と英語が併記されたメニューが準備されているようなレストランで食事をするくらい。そんなことでは、本書のテーマとなっている風景や人々に接するチャンスはまったくなかったし、私の体感した中国はほんの一面で、特殊な部分だったと思う。しかし、仕事である以上それもやむを得ないことだ。仕事を全く離れたいまこそ、ゆっくりと滞在型の旅行に出てみたいと旅心がそそられる一冊となった。(内池正名

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「地元を生きる」岸政彦、打越正行、上原健太郎、上間陽子

岸政彦、打越正行、上原健太郎、上間陽子 著
ナカニシヤ出版(444p)2020.10.20
3,520円

本サイトで取り上げる本は新刊を中心にしているけれど、ときどき古い本にすることもある。新刊を2冊くらい読んでもこれという本に出会わなかったとき、新刊ではないがどうしても書いておきたい本に出会ったとき。本書は後者に属する。京都の小出版社から刊行されており、新刊のとき見逃したらしい。先日、沖縄復帰50年関連の書籍広告が新聞に出ていて、そこで目に入った。

著者グループの一人である岸正彦の本は、このサイトで『はじめての沖縄』(新曜社)を取り上げたことがある。社会学者で、沖縄から本土へ就職した若者や、沖縄戦と戦後の生活についての聞き取りを長年つづけている。最近は小説家としての評価も高い(おまけにジャズ・ベーシストでもある)。打越正行と上間陽子という2人の名前にも覚えがあった。本書のサブタイトルは「沖縄的共同性の社会学」だが、それに2人の著書のタイトルを加えるとこの本の姿がおぼろに見えてくる。打越の著書は『ヤンキーと地元──解体屋、風俗経営者、ヤミ業者になった沖縄の若者たち』(筑摩書房)、上間のが『裸足で逃げる──沖縄の夜の街の少女たち』(太田出版)。

1960年代生まれの岸と、70年代生まれの打越と上間、80年代生まれの上原健太郎という世代の異なる研究者たちが集まって、「沖縄における『地元』──つまり『沖縄的共同性』──というものが、さまざまな人びとにおいてどのように経験され」ているかをフィールドワークしたのが本書である。その際、聞き取りをする相手について岸は「安定層」(琉球大学や本土の大学を卒業し公務員など安定した仕事に就いている人)を、沖縄出身の上原は「中間層」(多くが高卒でサービス業で働く人)を、打越と上間は「不安定層」(地域社会から排除され、建築業の末端や夜の街で辛うじて生計を立てている人)を対象にした。

聞き取りをする上で4人が取り入れた視点があり、それは「階層とジェンダー」だという。なぜなら「沖縄は階層格差の大きな社会」であり「ジェンダー規範の強い社会」でもあるからだ。言い換えれば沖縄内部では貧富の格差が激しく、男は男同士の、また男女間での濃密な関係が時に理不尽な抑圧や暴力を伴うことがある社会だ、ということだろう。

「沖縄的共同性」というのは、たとえば県が作成した文書ではこんなふうに表現されている。「沖縄はユイマールをはじめとする助け合いの精神を有しており、人と人とのつながりや地域の課題等を共有し、協働で解決を図りながら生活を営んできました」(「沖縄21世紀ビジョン基本計画」)。この本の聞き取りは、そんな「一枚岩的な共同体のイメージ」を抜け出して、沖縄社会内部の格差と分断を明らかにする。4人の筆者が行った聞き取り調査のなかから、印象に残った語りを拾いだしてみようか。

「それが沖縄的だったかどうかすらもうよくわかんないですけどね。/…例えばNHKの『ちゅらさん』とかですよね、そういうのに出てくる状況みたいなのはほぼ無いですね」──1964年生まれ、琉大卒の公務員。那覇とその郊外の都市部で育った彼の語りを岸たちは「共同体から距離化する語り」と呼ぶ。

「俺ら、資金もないし、じゃあどうやって居酒屋スタートするかっていう話になったときに、じゃあ、俺たちは資金もないから、人脈だなってことになって。じゃあその人脈を活かして、居酒屋をやる前になんかやろうぜってなって」──1985年生まれ、専門学校卒の若者が地元の同級生ら3人と居酒屋を立ち上げ、地縁血縁のネットワークで商売を広げていく。上原が聞き取った「中間層」に属するジュンのこの語りは「共同体に没入する実践」と呼ばれている。

「達也にーに(兄)から、仲里かー、ってから。すぐらったんよふーじー(殴られたんだよー)。はーってから。誰によ? よしきにーににくるされた(暴行を受けた)って言ってるわけよ。まじでねって、引き合わんねえ。もういいよー、辞めようってから、他の仕事やろう。俺も達也にーにのこと好きだから。だから要は、友だちがこんなってやられたら引き合わんさ。俺もこれで辞めたのに。バカみたいだなあって」──中卒、30代。元暴走族で、族仲間が多く働く建築現場で「しーじゃ(兄)」と「うっとぅ(弟)」の上下関係が時に暴力を生み、仲間が離合集散を繰り返す。この章の筆者・打越は自らバイクに乗って暴走族の一員となり、「パシリ」役を勤めながらこの集団と長年つきあってきた。そんな研究者と研究対象の関係を超えたつきあいがあってこその語りが紹介されている。

「帰るおうちがあって、逃げれる場所がある、で、みんなに会いたいときに会えるし、なんか、そんなのがあるから、いまは別に苦しくもないし……いまが楽しいし、逃げなくてよかったな。……現実から。……自分が、なんかこの仕事(注・風俗の仕事)をしてしまったら、なにも考えなくてすむ、っていうのがあって、この短時間のあいだに、とりあえずこの人としゃべって、まあ、そういうことして、終わればいいんだ、っていう自分の中でこれが逃げ道になってしまってて……。だけどいまはこうやってやることがちゃんとあって、毎日仕事行って、帰ってきて『疲れたぁ』っていうのも、たまにはいいなって」──暴力をふるう父親のいる複雑な家庭から逃げ、民宿を転々しながら暴力と隣り合わせの風俗の仕事をし、打ち子兼恋人に金をまきあげられ、その後、ようやく空き家になっていた実家に戻り仕事を始めた春菜の語り。上間が担当している。

本書に先立って上梓された上間と打越の2冊の本の意味を、岸はこう評している。「上間陽子は沖縄社会のなかで排除されると同時に縛り付けられる若い女性たちの過酷な世界を描き、打越正行はその女性たちに暴力をふるうような男たちの、それはそれでまた過酷な世界を描いた。そうすることでこの二人は、これまでの沖縄的共同性についての私たちの『語り方』を、永遠に変えてしまったのだ」

4人の調査から浮かび上がるのは、助け合いの精神に富み地縁血縁の強い「沖縄的共同性」と言われるものを、必ずしもひとくくりでは語れないということだろう。その内実は複雑で多様だ。本土に住む私たちはともすると沖縄を、本土では失われたものをこの地に仮託して、おじいおばあを核にした共同体の強い絆が残り、ノロやユタに象徴される伝統的な信仰が生き、青い空と海、南国のゆるい時間のなかでゆったり生きる、といったステレオタイプで捉えがちだ。でもこの本は、そんな紋切り型で沖縄を見るのはもうやめよう、と言っている。

戦後すぐの沖縄は基地に依存した輸入経済でなりたっていた。だから本土のようには製造業が育たず、主に零細企業からなる第三次産業に偏るかたちで発展してきた。沖縄の県民所得は今も全国最下位であり、有効求人倍率、非正規雇用率、離職率、完全失業率いずれも全国最低クラス、また地域内の不平等性を示すジニ係数も全国最低クラスとなっている。年間収入1000万円以上の世帯は沖縄全体の2.1%に過ぎないが、400万円未満の世帯は64.1%を占めている(2014年)。こうした数字を背景に、岸たちの調査は沖縄社会の多様性や複雑さ、「ある種の『分断』」を描き出した。「私たちは、沖縄の貧困や格差が、かなりの程度『人為的に』作られたのではないかと考えている」と記す。

もちろん本書で紹介されている調査はそのまま一般化できるものではない。岸たちも書いているように、「小さな、ささやかな、断片的な記録」にすぎない。でもこうした「生活の欠片たち」を通じて「私たちなりのやり方で沖縄社会を描こうと思う」と、岸は控えめながら強い確信をもってこの本の意図を語っている。『断片的なものの社会学』(朝日出版社)という素晴らしい著書を持つ岸らしい。

上間と打越が執筆した「不安定層」の男女の語りは、ほとんどの読者にとってたぶん初めて見る沖縄の底の底で、すごい迫力で読む者に迫ってくる。それに上原の「中間層」と、岸の「安定層」の語りを加えて、この本は沖縄社会の構造を、彼らなりのスタイルで描き出そうとしたものだろう。貧困と暴力を再生産する負の側面も持つ沖縄的共同性。そこから意識的に離脱する者があり、そのなかで生きる者があり(それが多数派だろう)、そこから排除されると同時に縛り付けられる者もある。そんな像がおぼろげに見えてくる。

この調査は2012年に始まり2016年には原稿がほぼ出来あがっていたが、そこから刊行まで4年かかった。刊行を止めていたのは岸で、「私は、自分自身が『ナイチャー』の社会学者として、沖縄の内部の『複雑性』を描き出すような本を出版することを、深く迷い、恐れ、悩んでいました」。でもその間に沖縄の多くの人から背中を押され、刊行を決めたという。

本書はあくまで聞き取りの記録、「エスノグラフィー」であり、そこから見えてくる範囲内で沖縄社会内部の構造が語られている。その外にある戦後沖縄の歴史や政治、アメリカや本土との関係については触れられていない。ただ岸はそのことについて、ひと言だけ書いている。「私たち日本人は、一方で『共同性の楽園』のなかでのんびりと豊かに生きる沖縄人のイメージを持ちながら、他方で同時にその頭上に戦闘機を飛ばし、貧困と基地を押し付けている」。本書は、そんな本土の人間の矛盾、あるいは見て見ぬふりを私たち自らが理解する最初の一歩になるはずだ。(山崎幸雄)

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2022年6月19日 (日)

「あの胸が岬のように遠かった」永田和宏

永田和宏 著
新潮社(318p)2022.03.25
1,870円

本書のサブタイトルは「河野裕子(かわの・ゆうこ)との青春」。永田和宏に河野裕子という名前は現代短歌に興味がある人なら誰でも知ってるだろうけど、そうでない人には馴染みがないかもしれない。永田と河野はともに歌人、そしてふたりは夫婦でもある(あった)。永田は歌人であるとともに細胞生物学の研究者で、京都大学教授などを経て現在はJT生命誌研究館館長。歌人として宮中歌会始の選者も勤める。

河野裕子は1969年、23歳で戦後生まれとして初めて角川短歌賞を受賞。その後、永田と結婚し2人の子を育てながら精力的に歌を発表し短歌の賞を「総なめしてきた」(永田)が2010年、乳がんで死去した。

……と、略歴を記しても何を語ったことにもならない。ふたりはお互いを詠んだ相聞歌をたくさん残しているので、それらを集めた『たとへば君』(文春文庫)からいくつかを抜き出してみる。

たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか─河野
あの胸が岬のように遠かった。畜生! いつまでおれの少年─永田
(ふたりが出会ったころの歌)

君は今小さき水たまりをまたぎしかわが磨く匙のふと暗みたり─河野
なにげなきことばなりしがよみがえりあかつき暗き吃水を越ゆ─永田
(収入も乏しく、子育てをしていたころ)

何といふ顔してわれを見るものか私はここよ吊り橋ぢやない─河野
待ち続け待ちくたびれて病みたりと悲しき言葉まっすぐに来る─永田
(河野にがんが見つかったころ)

手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が─河野
たつたひとり君だけが抜けし秋の日のコスモスに射すこの世の光─永田
(河野が死の前日に詠んだ歌と永田の挽歌)

河野の死後、永田は妻・裕子の10年にわたる闘病を記した『歌に私は泣くだらう 妻・河野裕子 闘病の10年』(新潮文庫)を刊行している。『あの胸が岬のように遠かった』はそれに次ぐもので、時期を遡って1960年代後半、ふたりが出会ったころを回想したもの。「はじめに」で永田が書くところによると、河野の死後、彼女の実家で遺品を整理していたら若き日に河野と永田がやりとりした300通を超す手紙と、河野の十数冊の日記帳が出てきた。この本は、その手紙と日記帳を引用しながら「出会いからの、どこかとことん熱く、波瀾ばかりだったような気のする、ある意味とても恥ずかしい青春の記」である。

河野の日記は、彼女の歌と同じようにひたむきで、そのときそのときの感情をぐいぐいと自ら追い込み、突き詰めて読む者に迫ってくる。例えばこんな具合に。

「ああ なんということになってしまったのだろう
抱きしめ合った 抱きあげられた
あのひとの てのひらの中に ほおを埋めながら
狂おしくうめいて そうして
ああ
私たちは 一体どうしたというのだろう
言ってはならぬことを言ってしまった
傷つけてしまった また ひとりを。
ふたりの人を 愛していると
そのために こんなに つらいと」

河野裕子の熱心な読者なら、河野が永田と出会ったとき、それ以前に出会い、愛してしまった男性が既にいたことを知っているだろう。河野の初期の代表作とされる「たとへば君」の一首は、その時期に詠まれている。そこで呼びかけられている「君」が永田なのか、もうひとりの男性なのか。歌は歌それ自体独立したものだから、背後の事情などどうでもいいことではあるけれど、河野の歌に惹かれる身として気になるところではある。永田自身、「『たとへば君』の君は私なのか、と問われるとにわかに私だとは言い切れない気もする」(『たとへば君』)と書いている。そのあたりの事情が、河野の日記と手紙を追うことでつまびらかにされている。

誰のものであろうと、20歳前後の若い時代に書かれた日記を読むという体験は、なんとも心苦しく、胸が痛む。そして著者ばかりでなく、読むほうも「恥ずかしい」。それは、日記が他人に読まれることを前提にしていないからというだけでなく、往々にして読み手の若い時代の似たような出来事や感情が眠っている記憶を刺激し、呼び覚ましてしまうからでもあろう。河野や永田と同世代が書いた日記として、かつて『青春の墓標』とか『二十歳の原点』といった、自死した若者の書き残したものが刊行されたことがあった。河野の日記や手紙を追いながら、はるか昔のことになるこの2冊を読んだ時のざらざらした感覚が生々しく思い出された。

そしてこの2冊の本の著者が自死したのと交錯するように、河野と永田がほぼ同じ時期にそれぞれ自殺未遂を起こしたことが明かされている。恋愛(結婚)と就職(研究)と歌と親子関係(家)と予期せぬ妊娠と、さまざまな事情に追い詰められてのものであったらしい。

でも、この本を青春の息詰まる重苦しさから救っているものがふたつある、と思う。ひとつは、時間という癒し。この本が執筆されたのは、河野が日記や手紙を書いてから50年後。永田はすでに70代になっている。その時間が、「波瀾ばかり」の時代を回想する永田の筆に穏やかな距離感を与えている。例えば、河野が永田には告げずもうひとりの男性と会っていたことを記す日記を引用しながら、こう記す。「東京でNと一緒だったことは、彼女はもちろんひと言も言わなかった。……いかにも幸せな瞬間として書かれているのが、いまとなっては微笑ましい。もちろん腹が立つわけもなく、こんな小さな秘密も、何となく孫娘の行状を見ているような気さえしてくるのである」

いまひとつは、切迫した河野の文章に時に滲みでるユーモア。大学を卒業し中学の国語教師になった河野が永田に送った戯れ文の手紙「夜半のめざめ物語」など、部分しか引用されてないが全文を読みたくなる「パロディ風物語」だ。当時のふたりの歌をパロディに仕立てあげる才には感心してしまうが、ここで引用するには長すぎるので、ふたりが忙しくて会えなかった時期、手紙を書いても返事の来ない永田に宛てた別の手紙の一節を書き写してみよう。

「あなたは十一月のプラタナスの木の 一番上のはっぱみたいにとおい。
……私みたいに自家発電も充電もできる仕組みになっていると 時々メーターに故障がおこって、さわっただけであなたなんか感電死させる位 平気なんだから
私はまたガタピシして来て、おしりが痛くて 二日も寝ているわよ
おしりに注射三十本位打った。あしたもよ。痛くて少し泣いたけど。
あなたがいてくれるといいと思ったけど、きっと私が泣いていた頃には、いい気持で昼寝なんかしてたんだろうし。
どうせあなたは ひややっこなんだから」

いきなりの「ひややっこ」に笑ってしまう。先に引いた、「病院横の路上を歩いていると、むこうより永田来る」と詞書(ことばがき)のある歌、「何といふ顔してわれを見るものか 私はここよ吊り橋ぢやない」。なぜ「吊り橋」なのか。読者はもちろんのこと、詠まれている当の永田も解釈しがたいと語る、とはいえある種のおかしみをもって心に残る言葉が自ずから──絶えざる修練に裏打ちされて、自ずから滲み出ると感じられるように──生まれてくる、そんな言葉の感覚に通ずるような気がする。

この本には、河野が日記帳に書きつけたが歌集には収録されなかった歌も紹介されている。だからこれは彼女の歌の拾遺集としても読むことができる。河野がこの時期につくった歌は、いま読むと古風な、と言いたくなるほど端正なものが多くて、素人目にも完成度が高い。

60年代後半、大学は騒然としていて、その空気を取り込んで歌にした歌人も多かったけれど、河野はそこから一歩身を引いて、ひたすら自分自身の内側に目をこらしている。その自分自身の感覚の海には、高校時代から歌をつくりはじめたという彼女が親しんだ古典から近代にいたる歌の数々が溶けこんでいる。そんな言葉と風土の蓄積の豊かさを背負っているとはいえ、ここに流れる感受性や選ばれる言葉はまぎれもなく同時代同世代のものだ。ちなみに評者は河野の一歳年下、永田とは同年の生まれ。河野が日記や手紙に記す言葉ひとつ(喫茶店「らんぶる」とか「機動隊」とか)で瞬時に半世紀以上前の時空に連れていかれ、喜怒哀楽もつれあったあの時代を追体験することになる。そんな読書だった。(山崎幸雄)

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「気候変動と『日本人』20万年史」川幡穂高

川幡穂高  著
岩波書店(227p)2022.04.15
2,200円

著者は地質学を学び、東京大学大気海洋研究所の所長などを歴任。現代の炭素循環に関する知見を古気候学や古環境学に生かしながら、水環境を含めた地球表層環境の進化と人間社会への影響を研究している。本書の骨格となっている日本の2万年間の気温復元もこうした研究の成果。

現代(1950年代~)を「アントロポセン(人新世)」と呼ぶことが近年提唱されている。過去46億年の間は気候変動が人間社会に影響を与えてきた。しかし、この「人新世」では人類が気候変動、環境破壊、生態系の変化等を引き起こす主役になった時代ゆえの命名らしい。本書ではそうした現代からの目線で、過去の気候変動と社会変化の関連を分析している。特に、縄文時代初期からの2万年間に絞っては、各種データから気温復元を行い、この間に10回の大規模な寒冷期があったことを明らかにし、その時代の社会現象との関連を示している。記載も詳細で、学生時代に習い覚えた歴史年代もいささか朧げで、年表をひっくり返して時代確認をしながらの読書となった。言訳的ではあるが、年代記載形式も「XXXX年前」と「紀元前X世紀」といった多様さも読み手からすると難しくしていたと思う。

ホモサピエンスの最古化石は19万5千年前のものだが、これが本書のタイトルの「20万年」に対応する。「巨大な脳を持ち」、「二足歩行する」新人類のホモサピエンス(知恵のある人)は旧人のネアンデルタール人と共存しながらも、気候変動の中で生き延びた。日本にホモサピエンスが到達したのは対馬ルートで4万5千年前頃という。

狩猟採集時代は居住地周辺に食料を求め、食べ尽すと居住地を移動していったが、農耕を行うようになると、定住生活をして、さらに交易で離れた場所からも食料を調達するようになる。特に水稲栽培では寒冷化による収量低減が大きいことを考えると、気候変動の中で一番大きな影響は食糧不足であり、著者が指摘する人口の推移が重要な視点となる。

こうした変化の原因を探るために、気温を2万年に亘って復元している。東京湾や陸奥湾、広島湾などの堆積物試料を採取し分析、グリーンランドに残された氷の分析、樹木の酸素や水素同位分析から都市ごとの気温や降水量を復元している。また、人骨の同位体分析から当時の食事内容を推定、貝塚に残されている残存物の分析(貝の炭酸カルシュウムがアルカリ性のため土壌水が中和されて試料が保存されやすいという)等々、科学的分析が数多く紹介されているが、同時に分析機器の精度向上などもあり、過去の定説が書き変わっていく時代でもある様だ。

日本の2万年の気温復元による10の寒冷期の特徴と時代状況の中で興味を惹かれた点を以下の通りまとめてみた。

第一寒冷期は縄文文化が始まった時代。そして約1万数千年の間で徐々に温暖化してゆき、石鏃や縄文土器など、狩猟生活の画期的な技術革新をもたらした。縄文土器は煮炊き用に使われたことから、食料の殺菌や利用食材の拡大など縄文人の健康に大きく貢献した。縄文人の寿命は15才まで生きた人の平均余命は男で16.1年、女は16.3年と推計数字が紹介されている。現代より50年短い寿命のようだ。

第二寒冷期は「8200年前のイベント」と言われている。グリーンランドの氷の分析から地球規模で気温が3.3度下落した時期で、北海道ではサハリン系の石刃鏃などの石器群が出現していて、石器の精密度が大きく進化している。

第三・第四の寒冷期は「4200年前のイベント」と呼ばれている時期で、三内丸山集落の開始と崩壊に対応する。もともと縄文人は少数で狩猟生活をして居場所を転々としてきた、しかし三内丸山に見られるように、移動生活を捨てて1000年以上に亘って、定住の地で熟練した技術を持ち、交易をし、森の管理をする生活を継続させていた。採取農業から「半栽培」農業が開始されていることから、新しい縄文の農業が見えて来る。陸奥湾の堆積物解析によると、栗の「半栽培」が行われていたことも判っている。堆積物の中の栗やアカガシの花粉の量から判断して、自然の森林の栗の比率を大きく超えていることや、栗花粉の遺伝子の多様性が極端に少ないことなど、三内丸山の人達は栗林を里山の様に管理しながら収穫していたと考えている。そして地球規模で寒冷化した「4200年前イベント」の影響を受けて、この地は放棄され、少人数に分散して移住生活にもどったと著者は見ている。その後、この地に人が戻って来たのは実に3000年後の平安時代だった。

第五寒冷期は紀元前10世紀の弥生文化前期で、日本の水稲栽培の開始時期でもある。佐賀県菜畑遺跡出土の弥生式土器に付着した炭化米の放射性炭素年代が紀元前10世紀のものとされ、それまで教科書では弥生文化の開始年代を紀元前4~5世紀とされていたものが、訂正されている。

第六寒冷期は弥生中期で環濠集落に住み、共同生活をおこない社会の階層化が進んだ時代大陸からの移住の増加とともに、鉄器は紀元前4世紀頃日本にもたらされた。この頃は寒冷期のピークで争いも多発した。日本の吉野ケ里遺跡などのように防御施設に守られた集落へと変化して行く。鉄器は銅、青銅に比べて強度があることから、狩猟道具や農耕道具として生産効率を上げてきた。一方、この頃の人骨は受傷人骨が多く出土していることから、対人の武器として鉄器が所持され始めた時期でもあった。

第七寒冷期は古墳時代への移行期で世界的にも181年のタウポ火山の噴火によって地球規模で異常気象が多発して寒冷化が進んだ。日本書紀にある倭国の大乱も2世紀後半に発生しているが飢饉による社会不安がトリガーになったといわれている。

その後は倭国が統一国家を形成して行く時代となり、比較的温暖な期間となる。古墳造営が多く行われたが、大仙陵古墳は16年間、2000人が専従し、1万5千個の埴輪が作られるという巨大国家プロジェクトで、漢人の知恵と鉄製道具、製陶技術が必須であった。

第八の寒冷期は古墳時代から飛鳥時代の貴族政治へ移行していく。隋や唐による朝鮮半島侵攻により混乱し、百済などから多くの移民が流入した。その後、飛鳥から奈良時代は温暖化して、農業生産も増大し、律令制度が定着して行く。しかし、平城京(710年)の建設など、この時代は初めて都市型の環境汚染が始まったとされる。土壌に含まれる土器片から鉛汚染の状況分析結果が紹介されている。奈良時代後期(8世紀後期)では1200PPM以上という高い鉛濃度を示している。これは飛鳥時代の100倍で、現在の環境基準値をも上回っている。平城京の建物は朱に塗装されていて、その原料に辰砂(硫化水銀)が使われていたことが原因である。また、この時期には奈良県の木材は切り尽くされ、建物建造のための木材は兵庫県から運ばれている事実からも環境への影響も大きかったことが判る。

第九の寒冷期は平安末期。平安初期(820年頃)は過去3000年間での最温暖期で、当時の代表的な構造物である寝殿造は壁もなく、部屋の仕切りはすだれ、床は板敷、冬でさえ素足で暮らしていたという。しかし、徐々に寒冷化が進み、人口も750万人から平安後期には700万人、鎌倉時代に600万人と減少して行った。これらの時代は「自然災害の発生は、為政者の不徳の為す所」という考えがあり、こうした気候変動は政変に繋がって行った。

第十の寒冷期は江戸の武家社会が近代へ移行する時代。特に18世紀末から19世紀にかけて、天明・天保の大飢饉が発生し、人口は各々100万人減少し、幕府は対応出来ず社会転換を促したとされる。ちなみに、天保の夏の気温は過去3000年間で最も低かったと分析されている。

平均気温が1~2度下がり、数十年継続する気候を「極端な寒冷期」と呼んでいるが、この気候状況が旧体制を崩壊させ新体制の導入の原動力となり、不可逆的な変化を起こすと考えている。日本における2万年間の10の寒冷期の内、この「極端な寒冷期」は平安末期の貴族政治から武家政治に変化したことと、江戸末期の武家政治から近代国家への変革期となった二つの時期。

他の8つの寒冷期について、「気候変化は社会を直接支配する」ということよりも「食料確保や生業といった人間社会に作用して、技術革新や移住を介して人間社会に働きかけている」という前向きにとらえている。ただ、現代は「極端な気候変動の温暖化版」と捉えていて、「20万年前にホモサピエンスがアフリカで誕生し、自らの知恵で文明を発展させてきたが、現代こそ「知恵のある人=ホモサピエンス」を我々が実践することを求めている」という著者の言葉は「提言」というより「期待」ということだろう。

本書では、多くの視点からの分析や推論がパズルのように語られていく。理解力を駆使しつつも、自分なりの知的刺激が得られればそれで良し、といった開き直りが必要な読書だった。(内池正名)

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2022年5月17日 (火)

「すごい左利き」加藤俊徳



加藤俊徳 著
ダイヤモンド社(200p)2021.09.29
1,430円

脳科学者(発達脳科学、脳画像診断の専門家)である著者が、「なぜ利き手があるのか」「左利きの直観・独創性のすごさ」「脳構造によるワンクッション思考」など脳機能構造を説明するとともに、左利き右利きの脳の使い方の違いと、その特性を明らかにしている一冊である。著者自身が左利きで、子供の頃から「右手が他の子のように動かせない」ことを気にしていた体験をベースに書かれているのだが、脳科学者になって「これまで抱えてきた左利きの疑問やコンプレックスは全て判った」と書いている。私も左利きで周りの友達との「違い」を子供の頃から体験してきたが、特段コンプレックスを感じずに生活できたのは、人間関係に恵まれていたという事なのだろうか。

私は、字を書くのは練習させられて右で書くようになったものの、絵を描くのは左、箸は右、スプーンは左、野球の打つ・投げるのは左、ゴルフは右、ハサミ・包丁は左、ギターは左など、右と左は使い分けている。ただ、試験のときは右手に鉛筆、左手に消しゴムをもって解答用紙に向かっていたので、コンプレックスを感じるよりは両手を使える便利さを享受していたと思う。

本書は、左利きを前向きにとらえるガイドブックで有ると同時に、左利きエピソードが沢山盛り込まれている。

人間は利き手が決まっているが、これは直立歩行になってから両手を使い効率よく作業する能力を手に入れたと同時に、転びそうになった時に咄嗟に利き手で庇うなど、ムダな動きをせずに済むことで脳の負担を軽減することに役立っているという。また、150~200万年前になると左側に傷を負ったサルの頭蓋骨が多く発見されている。これは右手に斧を持った人類がサルを捕獲していたと推定されることから、この時代には右利きが多数を占めていたことも判ると言う。右と左の利き手の違いが出てきた理由について次の二つの説を紹介している。一つは、人間がより複雑な道具を利用して獲物を捕まえるために言葉によるコミュニケーションが必須となり言語脳のある左脳を発達させた結果、左脳がコントロールする右手をよく使うようになったという説。もう一つは、身体の左側に心臓があるために、急所を守ることから右手で戦うのが有利だったことから右利きが増えて行ったと言う説を紹介している。私は後者の説は知っていたが、二説とも納得感ある説だ。

本論としては、脳の機能と左利きの特性が示されているとともに、それに対する脳トレなども紹介されている。脳には感情系、視覚系、運動系など8つの分野に場所が分れているが、左脳、右脳で役割分担をしている。感情系で言えば左脳では自分の感情・意見をつくり、右脳では自分以外の人の感情を読み取るという。視覚系では左脳は文字や文章を読み取り、右脳は絵や写真などのイメージ処理を行う。この結果、利き手の左右に関わらず、右脳は非言語系、左脳は言語系を処理するため、文字を書くとき右利きは運動系左脳で右手を動かしながら、左脳の伝達系で言葉を生み出すというシンプルな処理となる。一方、左利きは右脳運動系で左手を動かしながら、左脳の伝達系で言語を生み出すという左脳・右脳のネットワークを使わなくてはならない。これが「ワンクッション思考」と呼ばれているもので、右脳から左脳間の行き来によって、左利きは言葉を発するまでの時間の「ワンテンポ遅れ」があると指摘されているが、私は自覚したことは無い。

一方、左利きは日常生活では必然的に両刀使いで活動することが多い。例えば、駅の自動改札のタッチセンサーは右側についているので、左利きでも右手を使わざるを得ないなど、両方の脳を活性化させているというメリットもある。脳の映像分析などから左利きは右利きに比較して、脳の使い方に左右差が少なく全体を使っていることも判っている。

次に、左利きの特性として「直感」を取り上げている。左脳は論理的・分析的な思考機能を持っている一方、左利きがまず使う右脳は視覚や五感を活用して非言語系の膨大なデータベースとなっているという。これが発明の前提となる「仮説」を生み出すための「発想の飛躍」や「直感」を支えていると言う。別の言い方をすると「ひらめき」という事なのだろうが、それを支えるのが右脳の持つ非言語系のイメージデータに他ならない。

また、左利きの「独創性」について語っている。90%の右利きに対して10%の左利きは少数派故に、既成の枠では収まりきらない天才的発想というプラスもあれば、その発想を上手く言葉で説明出来なければ単なる「変人」になってしまうリスクもある。まさに表裏一体である。こうした右利き左利きの違いが出て来るのは、同じ場所に居ても、左利きは左側を見て、左側の音に注意を払い、右利きはその逆。つまり違う世界を見聞きしているという指摘である。こうした視点の違いも少数派左利きの「独創性」を生み出す力になっているという。 

最後に「最強の左利きになるために」と題された章で左脳・右脳を鍛える脳トレがいくつか紹介されている。「To Do Listを作る」「日記を付ける」「移動時間にラジオを聴く」「外国語を学ぶ」といったものである。

「To Do Listを作る」と言うのは、左利きがイメージで記憶している事象を言語化すること、「日記を毎日つける」というのはスマホやパソコンではなく紙の日記帳に書き綴ることで共に左脳の活性化を図る狙い。そして「外国語を学ぶ」ことで多くの脳機能をまんべんなく活性化させることが出来るという。そう指摘されてみると、左利きの私はこのうち三つの事柄を若い時から行ってきたことに気付かされた。

「To Do List」は仕事上プロジェクトの進捗管理には必須であり、仕事を離れた現在もやるべき事を忘れない様に「To Do List」を書き続けている。「日記」は30才代からストレスフルな仕事に追われていたこともあり、気持ちの切り替えのために始めた。以後現在まで40年間書き続けている。また、外国語は外資系の会社に入社したため。必然的に英語を学ばなければならない環境に置かれた。

これらは、いずれも私が左利きであったので始めた行動ではないのだが、結果的には著者の言う「より強い左利きになる」ための幾つかの手法を身に着け、現在も続けていることに驚かされた。

本書を読んで、過去の自己の左利き感覚体験を納得出来ただけでなく、あまりプレッシャーを感じること無く75年の左利き人生を送って来たことに感謝の思いが募った。また、左利きの子供を持つ右利きの親は本書を一読することで、子供の行動をより理解するとともに成長を支援することが出来そうである。 

左利きで損したことは、蕎麦打ちを習い始めた時に蕎麦包丁は片刃なので右利き用と左利き用は異なるのだが、左利き用の包丁は右利き用の1.5倍の値段だったことだろうか。(内池正名)

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「古代中国の24時間」柿沼陽平

柿沼陽平 著
中公新書(328p)2021.11.25
1,056円

大きめの書店に入っていちばんの楽しみは、なんといっても新刊書の棚を隅から隅まで眺めることだろう。この歳になると好みの著者やジャンルは固まっているから、買う本はたいていその範囲に収まってしまう。新刊書棚を見る楽しみは、そんな自分の好みを超えて新しい読書体験をもたらしてくれる本に遭遇すること。この本もそのようにして昨年末に出会った。でもそのときは『ケルト人の夢』(本サイト2月に紹介)、『人びとのなかの冷戦世界』(同4月)と大著2冊を読む予定があったので迷った末に買わなかった。先日、行きつけの書店に行ったら、やっぱりこの本がオーラを発して「面白いよ」と呼びかけてきた。発売3カ月で4刷になっているから、順調に売れてるようだ。

サブタイトルに「秦漢時代の衣食住から性愛まで」とある。秦や漢の時代の皇帝、官吏、都市民や農民がどんな日常を送っていたのかを、朝起きてから寝るまで時間を追って膨大な文献やモノの遺品・遺物など史料を使って再現している。著者の柿沼は1980年生まれで中国古代史・貨幣史の専門家。

彼はこの本のスタイルについて、「ハゲ・トイレ・痰・口臭、起床時間、自慰等々……卑俗でリアルな生活風景」を自らが古代世界にワープしたロールプレイングゲームのように描いた、と書いている。ではそれがどんなものか、覗いてみようか。

もちろんハゲはいつの時代、どの地域にもある。でも秦漢時代(前3~3世紀)の官吏にとってこれは大問題だった。というのは官吏はその身分にあった冠をかぶり、髷(まげ)を結ってそこへ冠を留めていたからだ。髷を結えなければ君主におじぎするとき、冠がぽろっと落ちる危険がある。だから官吏は髪を長くしておかなければならない。寄る年波に勝てずハゲた官吏はカツラ(髦・てい)をつけて冠をかぶる。でも漢時代の壁画にはカツラなしで頑張るハゲた官吏たちの絵も描かれている。

漢代のトイレにはいくつかのタイプがあり、しゃがむタイプ(和式)が多いが座るタイプ(洋式)もある。漆塗りの便座(洋式)が出土しているのは、身分の高い者が使ったんだろうか。高級なトイレのそばには、排便後に下半身を洗い、衣服を替えるための部屋もあった。だからトイレは更衣と呼ばれた。基本は男女の区別なし。「高級か否かを問わず、かなり臭かった。そのため高級トイレなどには、鼻につめるための乾棗(なつめ)が置いてあったり、南方産の香粉や香水が置いてあったりする」。ふつうトイレは2階にあり、その下の1階には豚小屋が設置されていることが多い。排泄物は豚に食べてもらい、その豚をまた人間が食べる。

痰といっても、皇帝の痰の話。皇帝が痰を吐くとみるや傍に控えた侍中(じちゅう)がすばやく唾壺(だこ)を差し出す。侍中とは虎子(しびん)や清器(おまる)を管理する係。皇帝が尿意や便意をもよおしたら対処する役目なのだが、つねに皇帝の傍にいる必要があるからか高名な学者であることが多かった。だから侍中はほかの官吏から羨望のまなざしで見られていたという。

この時代の人びとはろくに歯も磨かなかったから、口臭は切実な問題だった(虫歯は秦漢人が口臭以上に恐れた問題だが、それは置いて)。口臭がひどければ恋愛にも結婚にも仕事にも支障が出る。皇帝の側近ともなれば、皇帝に不快な思いをさせないよう杜若(とじゃく)や鶏舌香(けいぜつこう)といったブレスケアを服用するほうがよい。特に鶏舌香は曹操が軍師の諸葛亮孔明に贈ったことのある珍品だ。女性もブレスケアを用い、「気(吐息)は蘭の若(ごと)し」と評された美女もいたとか。

秦漢の時代、日の出前後の時間を「平旦」と呼んだ。この時刻、洛陽など都市はまだ寝静まっているが、5日に1度くらい開かれる聴朝(ちょうしょう・政治)の開始時刻でもある。すでに宮城の前には官吏が集まり開門を待っている。実際、前漢の武帝は平旦に詔を発し、官吏はそれを踏まえて「食時」(しょくじ・午前9時頃)に答申している。食時はその字のとおり、朝食を取る、あるいは朝食を終える時刻。もっとも農民はもっと早く食事をしたろう。

主食は黄河流域でいえばアワが多く、上等なものとしてキビがあり、オオムギも食べられていた。ある人は、キビが一番、イネが二番で、ムギやマメはいまいちと評している。たいてい煮てから蒸し、粒のまま食べた。庶民はこれに加えてネギやニラを食べる程度。上流階級になると牛、羊などの肉、ニワトリ、キジなどの鳥類、コイ、フナなどの魚類を食べた。特に子牛や子羊の柔らかい肉や、春には繁殖期のガチョウ、秋には若鶏など季節ごとに豪華な食材が好まれた。ちなみに食事は庶民層なら朝夕2食が多い。

さて、最後になったが自慰とか性愛については、古今東西やることはあまり変わらないから、この時代ならではということは少ない。とはいえセックスを通じて不老長寿を図る房中術なるものがあり、『十問』『合陰陽』などの書物が出土しているが、著者は詳しく説明していない。そのかわり、キスしたり抱き合ったりしている陶俑や、レズビアン用と思われる張型の出土品が紹介されている。概してこの時代の性愛はおおらかで、同性愛もそれほど差別されていたわけでなく、「少なくとも上層階級の性愛のかたちは多様であった」。

とまあ本書のごく一部を抜粋してみたけれど、ほかにも住居と都市の構造とか、居酒屋や宴会の作法とか、ファッションと流行とか、ナンパの仕方とか、興味深い記述がたくさんある。そんな古代中国の日常生活空間に旅行者のように入り込んであっちを見たりこっちを見たり、短い滞在時間ではあったが好奇心を満足させて楽しみ、遊んだ。その印象を大雑把に言えば、少なくとも都市住民に関するかぎり高度成長以前のわれわれとそんなに変わらないなあ、というものだった。日本で言えば縄文から弥生の時代である。

この本は専門書でなく一般向けの新書だけど、だからといって見てきたような嘘やあいまいな記述があるわけではない。巻末には20ページ890カ所に及ぶ注がつけられ、あらゆる記述の出典が明らかにされている。そこに著者の姿勢が見える。学者の余技でなく、目指すのはフェルナン・ブローデルに連なる本格的な「日常史」。

プロローグには、こんなことも書かれている。そもそも中国古代史の史料はそんなに多くない。せいぜい1500万字程度(!)。「まともな研究者なら10年間もかければ読み通せる量である」。もちろん柿沼は1500万字に10年かけて目を通し、そこから日常生活についての記述に付箋をつけていった。その集積に加えて、木簡・竹簡、遺跡・遺構からの出土品、石やレンガのレリーフ、明器(副葬品)などの史料も加えて、「最近、ようやく古代中国の24時間の生活風景が大まかにわかってきた」結果、この本が生まれた。

先月このサイトで紹介した益田肇(『人びとのなかの冷戦世界』)もそうだけど、新しいタイプの研究者が続々と生まれてるんだなあと頼もしい。彼らが次にどんな本を書いてくるのか、楽しみだ。(山崎幸雄)

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2022年4月17日 (日)

「人びとのなかの冷戦世界」益田 肇

益田肇 著
岩波書店(426p)2021.4.16
5,500円

「世界はすでに新たな世界的衝突の最初の段階に入っている。…ロシアは参戦する。そしてこの第三次世界大戦は10年続くことになるだろう」

この言葉は、今年2月以来のロシアによるウクライナ侵略について語られたものではない。でも、いま目の前で進行している衝突が世界史の転換点にあること、それが第三次世界大戦という言葉が発せられる生々しさを持っているという意味では、ウクライナでいま起きている事態に重なってくる。

この言葉が発せられたのは1950年。発したのはイギリスの哲学者バートランド・ラッセル。この年6月、北朝鮮軍が韓国に侵攻し、直後に米国が軍隊の投入を決めて朝鮮戦争が勃発したのを受けての発言だ。

『人びとのなかの冷戦世界』は、第二次世界大戦後に米ソの超大国が対立し、冷戦(The Cold War)と呼ばれた時代がどんな時代だったのかを、従来の歴史解釈とは別の視点から探った野心作。第三次世界大戦という言葉がリアルに感じられた時代のことを、当事者からも第三次世界大戦という言葉が飛びだす現在のウクライナ侵攻の真っただ中で読むという緊張感あふれる読書になった。

この本が、従来の冷戦を扱う歴史書と違う点は主にふたつある。ひとつは1950年という特定の年に注目し、その断面でいくつかの国(アメリカ、日本、韓国、中国、台湾、フィリピン)で何が起こっていたかを考えていることだ。ふつう冷戦の歴史というと、第二次大戦終結直後から米ソ対立が始まり、1947年に冷戦という言葉が使われはじめた、と「起源」やその「展開」といったふうに記述されることが多い。でもそういう発想そのものが危ういと著者は言う。そうした議論は冷戦世界が実在していたことを前提としているからだ。著者の結論をあらかじめ言ってしまえば、「冷戦とは想像上の『現実』だった」というもの。

この年、米ソが対立する冷戦が朝鮮半島で火を噴いて「熱戦」となり、世界の多くの人々が、この冷戦はやがて来るであろう第三次世界大戦への過渡期なのだと実感した。それまで何人かの学者や政治家が唱える一つの現実認識にすぎなかった冷戦(cold war)という言葉が、だれも疑うことのできない「大文字の歴史(The Cold War)」へと転換した。1950年とはそういう年だった。

この本が新しい視点を持っているもうひとつは、従来の冷戦史が政治家(トルーマンやスターリン)ら国の指導者の言動を追い国家対国家の枠で考えることが多いのに対して、各国の無名の人々が書いた日記や手紙、手記を幅広く収集し、草の根の視点から人びとがこの事態にどう対処したかを分析していること。だから各章の記述はアメリカや日本や中国の無名の人々の、ある日の行動から始まる。

そこから次のようなことが明らかになってくる。第二次世界大戦は参戦した国の社会に大きな変動を起こし、その結果さまざまな「新しい感情、新しい要求、新しい思考様式、新しい生き方」が生まれて旧来の社会と対立や緊張を起こしていた。

例えばアメリカではアフリカ系から人種的平等を求める運動や、女性たちから男女平等を求めるデモが起こる一方、増え続ける移民への反感が増大していた。1950年に始まった赤狩り(マッカーシズム)で標的とされた者の多くは共産主義者ではなく、アフリカ系や公民権運動家、フェミニスト、同性愛者、移民、ニューディール政策支持者といった「新しい生き方」を求める人たち、つまり多数派から「非アメリカ的」とされる人びとだった。著者は、赤狩りはイデオロギー闘争ではなく何が「アメリカ的」で何が「非アメリカ的」なのかを巡る戦いだったという。非アメリカ的と目された「新しい生き方」は「共産主義者」「ソ連の手先」というレッテルを貼られて社会から排斥された。多くの民衆もそれに加担した。

日本のレッド・パージも似たような構造を持つ。1950年に始まったレッド・パージはGHQの指令に基づくとされている。確かに最初に新聞業界の共産党員とその支持者が排斥されたのはGHQの指令によるものだった。しかしその後、さまざまな企業で行われた大量解雇にGHQは関与しておらず、それぞれの企業の判断によるものだった。パージされたのは共産党員と支持者だけでなく「多くの場合、職場における不順応者や反抗者、非協力的なものたち」だった。核心部にあったのは、ここでもイデオロギー闘争というより「職場や社会、コミュニティーにおける望ましい秩序と調和のあり方をめぐる社会的軋轢」だったのだ。

著者はさらに中国の「反革命分子弾圧」、台湾の「白色テロ」、朝鮮半島の集団殺戮事件、フィリピンのフク団弾圧、英国での労働運動弾圧など、世界各地で「人びとの手による社会的粛清のパターンがほぼ同時に出現している」ことを見る。一方で、最近の研究から北朝鮮が韓国に侵攻したのは金日成が主導し、中国が参戦したのも混沌とした国内事情から毛沢東が決断したもので、必ずしも「スターリンの世界戦略」ではないことを示す。

上下2段組み300ページ以上に及ぶ膨大な本文をこんなふうに要約してしまっては落ちこぼれるものも多いけれど、益田は結論としてこう述べている。朝鮮戦争期に世界各国でほぼ同時に生まれた社会粛清運動の本質は「社会秩序を取り戻そうとする草の根保守主義のバックラッシュ(揺り戻し)」だった。その際、「共産勢力の拡大を食い止める」という冷戦の論理は、国内の社会的・文化的な軋轢を封じ込めるのに極めて効果的に機能した。

「冷戦とは、世界各地の社会内部のさまざまな異論や不和を封じ込めて『秩序』を生み出すための社会装置だったのではないか、そしてそれは政治指導者によってというよりも、むしろ普通の人びとによって創りだされた想像上の『現実』だったのではないか」

冷戦は「想像上の現実」だというこの本の大胆な仮説には、さまざまな反論があることだろう。でも僕らが学校で習う歴史も別の角度から眺めてみればまた新しい見方ができるという意味では、なんとも刺激的な読書体験だった。

益田が指摘していて見落としてはならないのは、人びとが秩序を求めて冷戦の言説にとびついた底に恐怖の感情があったことだろう。1950年は第二次大戦が終わって5年、参加した国の民衆には戦争の体験と記憶がまだ残っていた。朝鮮で起こった戦争はその記憶を蘇らせ、人びとは核攻撃を含む第三次世界大戦への恐怖をつのらせた。その恐怖と不安が社会内部に「敵」を名指し排除する社会粛清運動を駆動させた。

ウクライナの戦乱のなかで、今また核攻撃とか第三次世界大戦という言葉が飛びかっている。不安と恐怖の感情の水位が高まっている。歴史が、そのままでないにしても螺旋状に繰り返されるとすれば、この本を参照できることは多いだろう。例えば民主主義国家対権威主義国家といっても、敵対するどちらの国の内部にも社会的対立がある。国家という枠で民主主義対権威主義の二項対立に単純化してしまえば、そうした社会内の分断線は見えにくくなる。1950年に冷戦の論理で「非○○的なもの」が排除されたように、権威主義国家では強権的になされるものが、民主主義国家では民主主義の装いのもとに、異論が排除されたり、表現や行動の自由に実質的制限がかけられたりする機運が上からだけでなく下からも沸き上がってくるかもしれない(ヘイトスピーチや自粛警察にその萌芽が見える)。そこに敏感でありたいと思う。

本書はもともと益田がコーネル大学に出した博士論文が基になっている。その後、ハーバード大学出版から単行本になり、それが評判になって日本語版が出版された。日本語版については翻訳というより大幅な加筆、修正がなされている。そのせいか、研究論文の骨格は残しながら記述は具体的で分かりやすく、僕のような一般読者でもついていける。

ただ、12級という最近の本ではありえない小さな活字の2段組は70代半ばのジジイには苦痛だった。書店で手にしたとき、高齢者は拒まれていると感ずる。国内でほぼ無名の著者の博士論文、どのみち高定価が避けられないのなら、もっと活字を大きくして分厚い本にするか、上下2分冊にしてほしかった。面白くて最後まで読み通してしまったけれど、元編集者として一言。今年度の毎日出版文化賞、大佛次郎論壇賞受賞作。(山崎幸雄)

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「水木しげるのラバウル従軍後記」水木しげる

水木しげる 著
中央公論新社(256p)2022.03.09
2,530円

本書は水木しげる生誕100年を記念して今年刊行された。「トペトロとの50年:従軍後記(文庫本)」(2002)を底本として、同書の単行本(1995)に収録されていた絵や写真を加えるとともに、「娘よあれがラバウルの灯だ」(1973)、「トペトロの葬式」(1994)を増補したもの。タイトルの通り、第二次大戦でラバウルに従軍した際の現地の人々との触れ合いをもとに、戦後も続けた彼らとの交流と南方文化についての好奇心を語りつつ、多様な絵で表現している。写真も収録されているのだが、どうしても水木自身の絵やデッサンに目が行ってしまうと言うのも当然のこと。水木は大正11年(1922)生まれで、私の父と同年令。そう考えると戦争体験や混乱の戦後を生きてきた世代としての共通の感覚を想像しながらの読書となった。

本書は子供の頃からの話に始まり、中心はラバウルの従軍と現地のトライ族の人達との交流にある。水木は昭和18年(1943)召集。上官から「任地は北がいいか、南がいいか」と聞かれ、水木は日本国内の話と勝手に思い、土地勘もある暖かい「南がいい」と答えた結果、南方軍に編入となりラバウル近郊の「地の果てみたいなところの、そのまた最前線」であるズンゲン守備隊に配属になる。そこで歩哨中に敵の襲撃を受け、隊は全滅。水木はただ一人助かったものの爆弾で腕を負傷して左腕を失っている。そのズンケンの兵舎の様子を描いた絵が収められているが、それを見ると軍服の兵隊が描かれていなければ、ヤシの木が茂り、鳥が舞うという長閑な南方の島の風景そのものであり、悲壮感の欠片もない。そして、傷病兵としてラバウル近郊に集められ、畑仕事など軍役とは関係ない作業をさせられていた。作業の合間にはトライ族の家を訪れる等の付き合いがあり、後に交流の中核となるトペトロと呼ばれていた少年もその一人。こうした時間は傷病兵にとって大いなる安らぎであったことは想像に難くない。この体験が「ラバウル従軍後記」を生む原点になっているとともに、トライ族の人達の生き様や風習の中から水木が後に描く妖怪などのヒントを得たというのも面白い。こうして終戦を迎えた時、トライ族の人々からはラバウルに残り、日本に帰るなと言われた様だ。しかし、水木は七年後に戻ってくると言い残して帰国している。

本書には水木の多くの絵画・デッサン・漫画が収められている。その一つ、ラバウルでの戦争を描いた水彩画は小松崎茂の作品を彷彿とさせるし、終戦後に描かれた鉛筆画の家族の姿は終戦直後の重苦しい生活をリアルに表現している。復員して故郷の境港で描いた古い町並みはモノクロームの静かな佇まいの中に懐かしい風情を感じさせるものだ。

その中で、戦前から残していたクレパスを使って描いた、自らの心象風景の数枚の絵は「戦争というハンマーで頭を殴られたような気持ちで’脳みそ’が思うように働いてくれない。・・・戦争のショックが襲ってきた」と言っているように暗い表情の男が画面中央に小さくなって部屋で膝を抱えてしゃがみこんでいる。この絵を見ると、明るく語る水木の深層心理は暗く沈殿したような思いがあったことが気付かされる。

昭和23年(1948)に武蔵野美術学校に入学し絵画の学び直しにチャレンジしている。「デッサンもさることながら、私は奇妙な人々に子供のころから興味を持っていた」と言っている通り、この「むさび」で出会った人々の中から8名の「奇人」を描き、彼らの言葉を紹介している。ある奇人曰く「芸術は詩がないとだめですよ。芸術の前に生命はカケラに等しい」とか、別の奇人を評して「この男は理屈をのみこねて、絵を描くこと更になく、やたらと歩き廻り一言『絶望』と叫ぶ」。また、同じ頃、電車の中で見掛けた女性達を描いていて、ひとりひとりにタイトルを付けている。割烹着で買い物かごを持った女性は「配給一路型」、英字新聞とハンドバックを持った女性は「インフレ愛好型」。「婚期あせり型」、「新人類型(別名パンパン)」等が描かれている。水木のひねりの効いた表現だ。

もう一つ、「絶望の町」というタイトルの一連の鉛筆画がなかなか重い。戦後の一般民衆の生活の厳しさを描いたものだが、なぜか登場人物は服を着た骸骨たち。その中の一枚は我先に霊柩車に載ろうとしている骸骨たち。その吹き出しには「かの国に幸福を求めて。押さないで下さい、私が先です」とある。まさに、戦後の生活と世情を描く、水木ワールド全開である。こうして、紙芝居や貸本屋の為の漫画を描いて食いつないでいたものの、ラバウル行きは「夢のまた夢」の生活が続いていた様だ。

そして、昭和46年(1971)に念願のラバウル再訪を果たし、トペトロを探し当てたのも偶然が味方したようだ。このラバウルは水木にとって思い出の地である以上に「南方病」と云うほどに、この地の文化・風習にのめり込んでいた。「鬼太郎たちは実はトペトロたちなのだ」と語っているようにトライ族の風俗や人々にヒントを得ていたし、「鬼太郎を守る側の一団のお化けたちはトライ族に近い。それはトライ族の方が日本人より人間本来の姿に近いから」という感覚は、学校や軍隊といった社会環境や人間関係に馴染むことが難しかった水木の本音であろう。

トペトロの死は平成3年(1991)に一通の手紙で知らされる。葬式をしないまま墓地に埋葬されていると聞き、水木は二年後にラバウルを訪れている。トライ族の葬式は参拝に来てくれた人達に貝貨(金)、米、カンズメなどを渡さなければいけないという事で、水木が喪主として資金を負担して葬儀を終えたという。水木は「トペトロとの50年は奇妙な楽しみに満たされた50年だった。片腕の当番兵と土人、森の人たちとの奇妙な交流の話を、そのまま捨てておくのはもったいないと思って一冊の本にした」という文章で終えている。

私は、今まで「ゲゲゲの鬼太郎」に代表される漫画を通して「水木しげる」という人間を見てきたのだが、そうした妖怪漫画の原点としてのラバウル体験を真剣に語り続ける姿に戦争の持つ厳しさを感じるとともに、片腕を失い、復員後も厳しい生活環境で多くの喪失感もあったと思うのだが、戦時中の人との繋がりを保つことが出来たというのは素晴らしいことである。加えて、絵やデッサンを通じて水木の画才の新たな一面を知ることが出来たのも収穫だった。大きくとらえると昭和という時代を辿る読書であった。

わたしの父は第二次大戦に従軍し無事復員したものの、学生時代の旧友の1/3が戦死したという喪失感は大きく、戦死した仲間の為にも、生き残った自分は頑張らなくてはならないという気持ちをバネにして生きていた人だった。「級友の1/3が戦死」という言葉以上の戦争体験を私に語る事は無かった。「もう少し、親父といろいろ話していれば・・・」と思っても、もう遅いのだが。(内池正名)

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2022年3月17日 (木)

アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?

カトリーン・マルサル 著
河出書房新社(288p)2021.11.16
2,310円

著者のカトリーン・マルサルは1983年生まれのスウェーデン出身のジャーナリスト。特に経済、女性問題について発言してきた女性。原書は「Who cooked Adam Smith’s dinner?」と題され2015年の刊行。30才そこそこで本書を世に問うたと考えると大胆な発想と切り込んでいくパワーにも納得がいく。

アダム・スミスに始まる経済学は「国富論」(1776)に代表されるように、国民一人一人の利益追求が国の全体効率に繋がるという考えで、それを支えるのは「Invisible Hand(見えざる手)」という自然均衡概念である。それを簡潔に示した例として本書のタイトルにもなっている話は、「我々が食事を手に入れられるのは、肉屋や酒屋やパン屋の善意のお陰ではなく、逆にいえば対価をもってそれらを手に入れるのも利己心があるからだ」というもの。この言葉に対して著者は「アダム・スミスは食べている肉を焼いてくれた人を見落としている」と鋭いツッコミをいれているのだ。経済循環を考えた時に肉屋と食べる人を繋ぐ部分、いわゆる「家事」全般はアダム・スミス以降の経済学でも視野に入れられることがなかった。利益を求めない貢献、子供を生む、子供を育てる、家族の食事を作るといった活動は経済の視点からは無視されるということであり、国家のGDPに含まれることもない。こうした点を経済学の不十分さとして著者は論じている。

経済活動を考える際に、人の行動をモデル化するために過去からいろいろな例が示されて来た。その一つがロビンソン・クルーソーである。無人島に流れ着き、ルールも法律もない純粋な自己利益だけで生活し、制約は時間と資源の量だけ。彼は生産者でもあるとともに消費者だから、物の価値は需要と供給によって純粋に決定される。このように経済モデルは理想(欲望)を目指し有限な資源の配分を選ぶことで「調和と均衡」が図られる。そこに「善意」も「愛」も入る余地はない。まさに著者が非難する、伝統的な経済学の世界であることは間違いない。こうした状況を変革しようと挑戦した女性としてナイチンゲールを取り上げている。ナイチンゲールはクリミア戦争(1853)の時イギリスから38名のボランティアとともに黒海に向かい、野戦病院で看護活動を通して兵士の死亡率を大幅に引き下げた。その詳細な活動記録を残したうえで、統計学者でもあった彼女は統計データを駆使して看護のあり方や看護師に対する待遇改善を政府に求め続けた。しかし、社会はそのナイチンゲールを「白衣の天使として、男性が必要とする女性の形に歪めて行った」という見方をしている。ここでも「愛情」や「ケア」は賞賛されたものの、社会を変革するには至らなかった。

19世紀、20世紀と社会の豊かさは手にしてきたものの、貧困を無くすより格差を広げたというのが著者のもう一つの主要な指摘。そうした格差が隠されてしまう仕組みの一つがGDPの算定の仕方だ。同じ種類の労働でもGDPに含まれたり含まれなかったりすることがある。「男性が雇っている家政婦と結婚すると、GDPが減る」とか、「高齢の母親を老人ホームに入れるとGDPは増加する」といったケースだ。ただ、依然として家庭内の無償労働についてカナダの推計ではGDPの40%程度が隠れているという数字を聞くと、いささか驚かされるとともに、人間の活動成果として測定する手段の必要性は理解出来る。

また、男女間の所得格差を提起している。第二次大戦後、女性の平等が叫ばれる中で、「女性は自由で孤独で競争心の強い人間になれる」と言われ始めるが、経済の観点で言えば「女性は家事をしなければならず疲れることで、仕事の効率が下がるとともに、時間の制約もあるので低い賃金となる」とか、逆に「女性は賃金が安いので家事をやらざるを得ない、男女どちらかが家事をするなら賃金の安い女性にやらせた方が損失は少ない」といった堂々巡りが続いた。しかし、考えてみれば「髪結いの亭主」ではないが、女房の方の賃金が高ければ、男は家事に専念できる。そう考えると男女の二元論ではなく、人によると思うのだが、例外的事例でしかないのも事実。

20世紀に入り、女性は相続権、就職、借金、同一賃金など、様々なジェンダー間の平等な権利を手に入れようと活動してきたが、一方、競争を前提とする社会に進出した女性の前に立ちはだかったのは、男を前提とした社会規範であり、それにより女性は男と女の双方の規範を負担する必要が現実であり、男はありのままの自由を認められていても、女はありのままの自由は得られていないという。要すれば男社会に女を混ぜ込んだだけでは平等は達成されないという見方だ。ただ、第二次大戦後、ボーヴォワールが唱えた女性解放思想の代表作「第二の性」というタイトルにも「何故、女性は第二?」という意見を述べているが、そこまで言わなくてもという気もする。

これだけ歴史を積み重ねてきた経済学は何故リーマンショックを予測出来なかったのか。

そして、「経済学は抽象的な架空の条件ばかり分析していて、目の前の大事な問に向き合っていない。自然の恵みを利用して人々が必要を満たし、人生の喜びを享受するやり方を研究する科学であってほしい」と著者は問い掛けている。しかし、生身の人間は常に「合理的」で「利己的」に行動するわけではない。実際の人々はいろいろな予測結果やメディアの情報に左右されながら行動する。単純化された理論上の経済人は本当の人間と違うのは当たり前のことで、本当の人間は良く言えば複雑、別の言い方をすれば非合理的な動きをする。社会活動の全てを予測することは不可能であり、社会科学の限界として理解しておくべきだと思う。

本書を読みながら、学生時代の教科書アダム・スミスの「国富論」、ケインズの「雇用・利子および貨幣の一般理論」、サミュエルソンの「経済学」、マルクスの「資本論」などが思い出された。あくまでそれらの著作には学問として接してきた限界からだろうか、著者のような読み方をしていなかった自分に気付かされる点も多かった。また、それも時代の為せる業だろうか。一方、実際の金融市場で活動する投資家たちが数字に踊らされている場面に直面したことが有る。15年程前、上場会社の経営に係わっていた時、或る女性の株主から「御社の株価動向についての見解は」といった質問に受け答えしていた。すると彼女の最後の質問は「ところでこの会社は、何をしてる会社?」と聞かれて驚いたことがある。この株主は「株価」と「その推移」だけに興味が有り、社員たちが苦労して何を作っているかとか、どんな商品・サービスでお客様から評価されているかなどは一切関心がない様子だった。そして、株価が上がれば利ザヤ稼ぎで株は売るのだろう。しかし、こうした株主も資本主義を支える投資家の一人ではあるのだが。

「男」として普段気にしていない観点がいろいろ出て来た。そうした意味では新たな発見があり、時として納得の出来ない部分もありつつ、楽しく読み終えた。(内池正名)

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暁の宇品

堀川惠子 著
講談社(392p)2021.7.5
2,090円

著者の堀川惠子は、次々に話題作を発表しているノンフィクション作家。本サイトでも以前『永山則夫 封印された鑑定記録』を取り上げている。その堀川は広島で生まれ育った。彼女が本書を書くことになったきっかけは、「人類初の原子爆弾はなぜ広島に投下されなくてはならなかったか」という疑問だった。第二次大戦末期、アメリカは原爆投下候補地を何度か検討しているが、広島はその都度候補地の筆頭に挙げられている。アメリカ国立公文書館に残された議事録には、最終的に広島が選ばれた理由について「重要な陸軍の乗船基地」だったとある。広島沖にある日本軍最大の輸送基地、宇品(うじな)のことだ。この港には陸軍の船舶司令部が置かれていた。

本書は陸軍船舶司令部の3人の司令官の足跡を主にたどっているが、それは取りも直さず船舶輸送、つまり日本軍が軽視した兵站という視点から太平洋戦争を見なおすことになる。陸軍船舶司令部という部門は、戦地へ陸軍の兵を運ぶとともに、補給と兵站を一手に引き受けていた。司令部周辺には人馬の食料を調達する陸軍糧秣支廠、兵器を生産する陸軍兵器支廠、装備品を生産する陸軍被服支廠などがあり、これらの任務に従事した人員は民間の船員や軍属を含め30万人以上に及ぶ。「太平洋戦争とは輸送船攻撃の指令から始まり、輸送基地たる広島への原子爆弾投下で終わりを告げる、まさに輸送の戦い“補給戦”だった。その中心にあったのが、広島の宇品だったのである」

本書の軸となる登場人物は、陸軍で「船舶の神」と呼ばれた田尻昌次中将。一般向けの戦史にほとんど登場することのないこの人物の遺族を訪ねた著者は、ここで不遇の軍歴に終わった田尻が13巻の「自叙伝」を残していたことを知る。未発表のこの資料と田尻の著書、田尻がつくった制度から生まれた船舶将校・篠原優が著し防衛研究所の書庫に眠っていた手記が本書の柱となっている。

陸軍大学校を出た田尻は、宇品で船舶司令部の前身である陸軍運輸部、次に東京の参謀本部船舶班、再び宇品の陸軍船舶司令部と、一貫して陸軍の船舶輸送部門を歩んだ。陸軍が初めて育てた船舶輸送の専門家だった。

田尻が宇品にやってきとき、陸軍船舶司令部は「船と船員を持たない海運会社のようなもの」だった。それにはこんな歴史がある。世界中ほとんどの国の軍隊で、海上輸送は海軍の役割になっている。ところが日清戦争を前に陸軍が部隊の輸送を海軍に頼んだところ、海軍からそれはわれわれの任務ではないと断られた。陸軍はやむをえず民間船をチャーターして兵や物資を運ぶことにした。船舶徴傭(ちょうよう)と呼ばれるこのやり方が、実に太平洋戦争が終わるまで続くことになる。

参謀本部船舶班と宇品の司令部で田尻が手掛けた任務は次のようなものだ。まず、軍事用舟艇の開発。日清日露では敵がいない場所への上陸だったから手漕ぎボートのような舟で上陸できたが、田尻は敵が抵抗するなかで上陸できる舟、外付けエンジンで自走できる鉄舟を開発した。大発動艇(大発)と呼ばれるこの舟は、後に上海事変で威力を発揮し師団規模の敵前上陸に成功する。他にも小発動艇(小発)、装甲艇(攻撃能力の高い舟)、舟艇母艦(大発を大量に搭載できる輸送船)などを彼は技術者とともに開発している。

次に田尻が手掛けたのは船舶工兵の育成。日本軍は兵や物資の輸送・陸揚げを民間人に頼っているが、どうしても上陸作戦の専門部隊が必要になる。その専門家を育成して各師団に配置した。ほかにも宇品港を整備したり、海軍と共同作戦のための委員会をつくるなど、対立することの多かった海軍と良好な関係を築いてもいる。

そのように船舶の専門家として欠くことのできない田尻だが、日中戦争が泥沼化し、重要物資を東南アジアに求めようとする「南進論」が勢いを増してきた1939(昭和14)年、ひとつの事件が起こる。この年、田尻は陸軍中枢と政府に向けて「意見具申」を行なった。既に国家総動員法が施行されており、軍事が最優先されて民間船が徴傭され、国内の物資流通が圧迫されている。船が圧倒的に足りないのだった。田尻は具申書のなかで、日本の船舶輸送が置かれた危機的状況とその解決に国家的な対応が必要なことを、自らの任を超えて訴えた。「建軍以来、日本陸軍のアキレス腱であり続けた船舶の深刻な問題を白日の下に晒し、関係者に警鐘を鳴らそうとしたこの意見具申は、いわば爆弾だった」

その翌年、宇品の倉庫で原因不明の火災が起こり、田尻はその責任を問われる形で退職させられる。戦後のメモで田尻はこのことを「罷免された」と記す。その背後には、船舶の実情を知らずに威勢のいい「南進論」を唱える参謀本部の皇道派将校と、合理性に基づいて議論する田尻とはそりが合わないという事情もあったようだ。

本書の後半では、田尻が引退を余儀なくされた後の、対米英戦争に至る過程とガダルカナル戦が、船舶の視点から語られる。

1941(昭和16)年に入り、米英との戦争を視野に入れた参謀本部は、陸軍省に「物的国力判断」を作成させた。この時点で日本の船舶保有量は490万総トン。

開戦に踏み切った場合、陸海軍の徴傭船舶を250万総トンとすると、残った民需用船舶では「基本原料難きわめて深刻」「物資需給は逼迫」し、国力の低下は明らかだった。しかも輸送船は必ず攻撃されるから「損害船舶」が出る。これを報告は開戦1年目80万トン、2年目60万トン、3年目70万トンと見積もった。この時点で日本の新造船は年24万トンだから、輸送船舶は年々減ってゆく。「帝国の物的国力は対米英長期戦の遂行に対し不安あるを免れない」という結論は当然のものだった。

ところが5カ月後、8月の「国力判断」では「損害船舶」を1年目50万トン、2年目70万トンと低く見積もり、一方、開戦後に戦況が落ち着けば徴傭を解いて民需に回せるので「コレナラナントカナル」という楽観的な結論が導かれる。さらに9月の検討では、2年目以降の「損害船舶」は不明であるという理由からゼロと仮定され、民需が回復するという右肩上がりのグラフが作成された。また造船能力も1年目50万トン、2年目70万トン、3年目90万トンと見積もられた(実績は1941年で24万トン)。著者はこう書いている。「開戦を可能にさせるための“辻褄あわせ”がひたすら行われるのである。最初は遠慮がちに、最後はあからさまに――」

ガダルカナル島の悲惨な戦闘も、船舶の視点から見れば「絶海の孤島にどちらが先に戦力を集中させるかという“輸送の戦い”」だった。1942(昭和17)年8月、米軍が1万人以上の大兵力でガ島に上陸し、日本軍の飛行場を占拠したことから半年に及ぶ死闘が始まった。大本営はミッドウェイから帰国途上にあった一木支隊2000人を急遽、輸送船でガ島に向かわせた。ところがこの輸送船が石炭の旧式エンジンで速度が遅いため、支隊の半数を駆逐艦に乗りかえさせ先行上陸させた。しかし戦闘用の駆逐艦は多数の重火器を搭載できないため、部隊は小銃と機関銃、大隊砲2門の軽装備で米軍の圧倒的火力の前にほぼ全滅した。

その後の兵力投入も失敗したため、司令部は第二師団と戦車部隊、重砲兵部隊を投入することとし、6隻の輸送船からなる大船団を組んだ。しかし結果は制空権を握る米軍の攻撃に輸送船3隻が沈没、3隻は満身創痍となった。かろうじて陸揚げされた武器弾薬食料も輸送に必要なトラックやクレーンが皆無なため、多くが米軍の攻撃にあって燃えた。ガ島には食料がなく、しかも兵は食料を持たぬまま送り込まれた。飢餓に瀕した部隊に向け、武器食料を輸送するため11隻の輸送船団が組まれたが7隻が撃沈され、残った4隻のうち1隻は「擱座(座礁させ)、強行上陸」の命を受けた。「それはもはや特攻輸送と呼んでよかった」と堀川は書く。

その後もニューギニア海域では次々に輸送船が攻撃され、船員はここを「船の墓場」と呼んだ。田尻の後を継いだ2人の司令官は、新しく船舶をつくろうとしても資材なく、宇品はただ指令されたとおりに乏しい輸送船をやりくりし、船舶工兵を集めて送りだすしかなかった。宇品の代名詞ともいうべき大発と小発は、鉄鋼がないため木製やベニヤ製のものまで考案されるようになった。1944(昭和19)年に入ると、南方資源地帯と内地を結ぶ航路は途絶し、宇品は輸送基地としての機能を失っていった。代わりに命じられたのは特攻艇の開発。ベニヤ製で2人乗り、爆雷を積んで敵戦艦に突っ込むというもの。出撃した2288人のうち1636人が戦死している。この特攻艇については極秘とされ、戦後も長くその存在を封印されることになった。

現在にいたるまで、宇品の船舶司令部についての研究や著作はほとんどない。そのことは、戦前戦中だけでなく戦後になっても輸送や兵站の問題が重要視されなかったことを意味しているかもしれない。軍事だけでなく、周囲を海で囲まれたこの国はあらゆる経済活動に輸送や兵站の問題はついて回る。当時より遥かにグローバル化が進んだ現在で言うなら食料の自給やエネルギー問題、サプライチェーン網の確保といったことになろうか。未発表の資料を駆使して、これまで軽視されてきた視点から戦史に新しい光を当てた本書は貴重なものだ。

しかもこの本に書かれていることは決して過去の歴史じゃない。登場する中央や現場の軍人たちの言動を読んで、今もなんにも変わっちゃいないんだな、というのが正直な感想。森友問題での公文書改竄やら国交省の統計データ書き換えやら、輸入に頼るコロナワクチンや検査キットの不足やら、今のこの国の組織と人のありようが二重写しに見えてくる。ロシアのウクライナ侵略で第二次世界大戦後の世界秩序が大きく変わりそうな予感もあるこの時期、いろんなことを考えさせられる読書だった。今年度の大佛次郎賞受賞作。(山崎幸雄)

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