2020年9月18日 (金)

「証言 沖縄スパイ戦史」三上智恵

三上智恵 著
集英社新書(752p)2020.02.22
1,870円

1945年4月、沖縄本島に上陸した米軍と日本軍との戦闘で、日本軍の主力部隊が南へ南へと追い詰められ、集団自決など住民を巻きこんだ凄惨な戦いが本島南部で繰り広げられたことはよく知られている。

でも、島の北部でどんな戦闘があったのかは、あまり知られていない。僕自身も知らなかった。もちろん北部にも日本軍はいたが、それだけでなく陸軍中野学校から40人以上の将校・下士官が送り込まれ、徴兵前の島の少年を組織して「秘密戦」と呼ばれるゲリラ戦を展開した。この本は、少年兵として戦った人たちなど30人以上に話を聞いてまとめた、その戦いの記録だ。そこには米軍との戦闘だけでなく、スパイの疑いをかけられて殺された住民の話など、生々しい証言がいくつも出てくる。

著者の三上はジャーナリストであると同時にドキュメンタリー映画の監督で、2018年に『沖縄スパイ戦史』(大矢英代と共同監督)を完成させた。本書の前半は、主にその映画のためのインタビューを活字化したもの。映画の完成後、それ以外の元少年兵の証言、陸軍中野学校出身の隊長の生涯、またスパイ虐殺の被害者側・加害者側双方の証言を追加取材して700ページ以上の大部な新書にまとめあげた。

「少年ゲリラ兵たちの証言」と題された第1章では21人の元少年兵の体験が語られる。1944年9月、中野学校出身の村上治夫中尉と岩波壽中尉が沖縄に降り立ち、島の中・北部で「護郷隊」と呼ばれるゲリラ軍を組織しはじめた。召集されたのは、1000人ほどの地元の15、6歳の少年たち。スパイ・テロ・ゲリラ戦・白兵戦の技術を教え込まれ、米軍が上陸した後、後方を攪乱する戦闘の前線に放り込まれた。

軍服を脱ぎ住民のふりをして米軍が占領した飛行場にもぐりこんで捕虜になり、燃料のドラム缶の数や位置を報告して、後に爆破する。松並木や橋をダイナマイトで爆破し、米軍の前進を妨害する(米軍はあっという間にブルドーザーや仮鉄橋で修復した)。夜間に停めてある戦車を爆破する(失敗)。やがて護郷隊が陣取る山に敗走する日本軍も合流し、組織としてまとまった部隊から戦闘意欲を失った敗残兵まで入り乱れての戦いになった。

「僕は監視役だから全部見えるわけだよ。……もう戦意喪失してる兵隊もいて、下士官たちが、貴様らーとぶんなぐって戦わせようとしたけど、動けないものも多かった。彼らが飯盒を並べて飯を炊こうとして煙を出すもんだから、迫撃砲がど真ん中に飛んできて、バーンと、30人全員吹っ飛んで、一瞬で手や足が木の枝にぶら下がってるわけ。もう地獄の風景。肉も骨も、恩納岳は木が生い茂ってて深いから外に飛び散らないでみんな木に引っかかるわけ。見たくなくても見てしまう。人間は首絞められて死んだ方がずっとまし。恩納岳の神様も、あれは……きつかったと思うよ。あんなの見た人はやっぱりおかしくなるよ」

こんな戦闘を経験した多くの元少年兵が、戦後はPTSDに苛まれた。その一人は「兵隊幽霊」と呼ばれ、座敷牢に閉じ込められた。また日本軍にとって軍隊内の苛めはどこまでもついてまわる組織悪だが、護郷隊も例外ではなかった。中国戦線から帰った在郷軍人が下士官として少年たちを訓練したが、その一部にはひどい苛めをしたり、飢えのなかで食料を独占したりする者がいた。彼は戦死したことになっているが、戦いの最中に後ろから撃たれたといい、「殺した人も島の人、殺された人も島の人」と元少年兵は語る。さらに、退却するときに負傷して動けない兵を殺したという話も多くの少年兵が語っている。

第2章では、護郷隊を率いた村上治夫中尉と岩波壽中尉の生涯が追跡される。ふたりとも沖縄へ来たとき23歳。村上は親分肌、岩波は沈思黙考型と対照的だが部下からの信頼は厚く、元少年兵たちから彼らの悪口はまったく聞こえてこない。そのひとり、村上治夫は大阪府出身。満洲での兵役を経て陸軍中野学校に入り、卒業直後に沖縄に派遣された。任務は護郷隊の結成・教育と住民の掌握。住民を掌握する要は、軍に協力させ、裏切り者を出さないこと。「住民を使った秘密戦を学んだ彼らが持ち込んだ構図、つまりスパイは常に周りから入り込むという恐怖を煽り、警戒させること。軍の機密を知ってしまった住民が米軍に投降すればこれも通敵=スパイ行為とみなすという価値観と密告の奨励」が村々にいきわたった。村上は第一護郷隊隊長として遊撃戦を戦ったが、途中から戦意を失った3~4000人の他部隊の兵士が陣地になだれこみ、敗残兵と住民の「始末」が村上を悩ませた。

やがて敗戦。村上が籠った山を下り米軍に投降したのはポツダム宣言受諾から5カ月後、1946年1月だった。戦後、元少年兵たちは戦死した隊員の慰霊祭を企画して村上を呼ぼうとした。村上にようやく沖縄への渡航許可が下りたのは1955年。それから2002年までの47年間、村上は一度も休むことなく沖縄に通いつづけ、元少年兵たちと戦死者を慰霊し、酒を飲み、カチャーシーを踊った。

村上と岩波が戦った「秘密戦」は沖縄だけのことではなかった。本土決戦に際しては全国に護郷隊と同じ「国土防衛隊」を組織し、陸軍中野学校の出身者を中心にゲリラ戦を展開する。そのための教育機関として中野学校に「宇治分校」がつくられた。第3章では、ここに学んだ岐阜の「国土防衛隊」の元教官と元少年兵の証言が収められている。沖縄で起きたことは、戦争がつづけば日本全国で起きるはずの事態だった。

本書の後半には、スパイ容疑で多くの住民が殺された事件と、住民を虐殺した3人の将校・下士官を巡る証言が収められている。

沖縄戦の末期、米軍は着々と北上してくる。村を逃げ日本軍とともに山へ避難していた住民のなかには、飢えて山を下りて生活しはじめる者、米軍に投降して収容所に収容される者も多かった。敗残兵が多く統制のきかない軍隊、米軍地域と日本軍地域を行き来する住民、飢餓と混乱のなかで軍民ともに疑心暗鬼にとらわれ、「スパイリスト」がつくられる。「命がけで食糧さがして、生きるために、生活するために精いっぱいなのに。早く山を下りた人はスパイなんだと、勝手に決めつけているわけさ。日本軍が、自分が生きるために」

この住民虐殺は、沖縄戦で聞き取り調査がいちばんむずかしい分野だと三上は言う。「踏み込んで言えば『手を下した日本軍』の中に、沖縄県民が含まれていることもあるからである。密告した人と、殺した人、殺された人の遺族が戦後も同じ集落に住み続けなければならない地域もあった」。それだけに証言をする人たちの口も重い。スパイリストに載せられた当時18歳の女性は、著者が四回目に会って話を聞いたとき、ようやく自分が夜、寝ているときに兵隊に踏み込まれ殺されかけたことを語った。

第5章では、住民を虐殺したことがはっきりしている3人の軍人について記述される。3人の戦後についてだけ紹介しよう。少なくとも7人の住民を殺した陸軍曹長は、復員後、遠縁の家に婿養子に入って製材所を立ち上げて成功した。家族には戦争で沖縄に行ったことを一言も言わず、70歳で亡くなった。

スパイとして本人だけでなくその家族も斬殺した海軍大尉は、記録では行方不明とも戦死とも書かれている。だが著者の調べでは、敗戦後も生き延び山に潜伏していたところを米軍に発見され収容された。けれども、その後の消息は同じ部隊の誰もが語らず、「行方不明」のまま封印されている。

スパイ殺害を自ら手帳に記録した海軍少尉は、山に籠っているところを米軍に発見され射殺された。その地区の村人は、村人と親しかった少尉ら12人を丁重に埋葬した。戦後、少尉の両親が沖縄を訪れて手厚く葬られていることに感激し、村人との交流がはじまった。両親は慰霊碑を建て、事あるごとに地区に寄付し、毎年、命日には必ず慰霊碑を訪れた。両親が亡くなってからも、少尉の妹やその子供と地区との交流は今もつづいているという。

陸軍中野学校に国内ゲリラ戦のための学校があったことからわかるように、軍は本土決戦のために「国内遊撃戦の参考」などのマニュアルを作成していた。ここでもスパイと疑われる者には「断乎たる処置」を取ると明記されている。別のマニュアルには民間人を「義勇隊」として組織することや、義勇隊が「不逞の徒」に「適切なる処置」をほどこすことも規定されている。

「もし半年でも終戦が遅れてこの教令のもとに『本土決戦』が始まっていたら、敵の攻撃による被害とは別に地域社会の中に不逞分子の処置が横行し、しかも軍人すら介入しない処刑も起きうる状況にあった。沖縄戦以上の悲劇が各地で起きていたことは明らか」と著者は記す。これは遠い歴史の彼方のことでも、沖縄という地域だけに起こった出来事でもない。日本国中どこでも起きる可能性があったし、もしかしたらこれからも起きるかもしれない。そういうものとして本書を読んだ。

三上が話を聞いた元少年兵はいま、90歳前後。戦後ずっと、仲間うち以外では口を閉ざしてきた。その重い口を開けた著者の誠実と粘りがこの貴重な記録を生み出した。(山崎幸雄)

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「太平洋戦争の収支決算報告」青山 誠

青山 誠 著
彩図社(224p)2020.07.27
2,608円

昭和20年8月15日のポツダム宣言受諾から75年。新聞やテレビで75年という数字が飛び交っている。そして今更ながら、73才である自分が終戦から2年弱で生まれたという実感とともに、その混乱の時代に働き、家庭を守り、二人の子育てをした両親の苦労に今更ながらに思いを馳せるばかり。同様の苦労は多くの戦前・戦中派の国民が体感したものだろうが、そうした自らの戦争体験を語り継げる世代は減少し、戦後育ちの国民しかいなくなる時代もそう遠くないのだろう。

15年戦争と言われる時代を俯瞰すると、昭和6年の奉天郊外で発生した「満州事変」、昭和12年の北京郊外の盧溝橋事件に端を発する「支那事変」から日中全面戦争に突入して行く。こうして欧米諸国との関係も悪化し日本の孤立化は進み、国内では仮想敵国としてアメリカの脅威を煽る中で、昭和16年に太平洋戦争が始まる。滅亡を覚悟して国力の限界をはるかに超えて投入され続けた金・物資・人命等、この戦争で途方もない消耗があった。本書のタイトルが「収支決算報告」とある通り、太平洋戦争で投下された戦費、失った物的・人的資産、そして賠償という視点でまとめられている。そこには、主義についての議論はなく純粋に数字から太平洋戦争とは何だったのかを問い掛けている。その一つとして、戦後の軍事恩給の支給対象者数の推移と支給総額を見るにつけ、国民にとっての「戦争の意味」と「国家負担額の膨大さ」という異なった視点をそこから読み取ることが出来る。

昭和15年に近衛内閣は「東亜共栄圏」と名付けた政策を打ち出し、欧米列強の植民地支配からアジアを解放するという理念のもと、アジア各国の協調を呼びかけた。一方、アジア各国への日本の資本投資額は我が国の経済力の限界もあり、石油資源国の蘭印では欧米・中国からの総投資23億ドルの中で日本の投資額は1%以下であり、中国の1/10でしかない。石油の確保の為、開戦前に必至で交渉を続けていた蘭印に対しても、経済的な手段による権益確保という戦略が取られていないという意図のちぐはぐさが見える。また、戦前の日本の石油はアメリカに80%依存していたが、そのアメリカを仮想敵国としながら昭和16年の禁輸までは備蓄用石油をアメリカから買っていたという矛盾も見えてくる。

そして、開戦時の国力を列強と比較すると、日本のポジションはアメリカとの比較でGDPベースは1/5、工業生産高は1/10であった。こうした数字を見るにつけても開戦を決定するプロセスで客観的な分析を示した官僚なり軍参謀は居なかったのか、と考えるのは当事者でない現代人の気楽さなのだろうか。

まず、本書での「戦費」の部分を概括すると、支那事変(昭和12年)から終戦(昭和20年)までの8年間で総額7559億円の軍事費が使われたという。この間、毎年GDPの25%以上、昭和20年には60%が軍事費として支出されており、GDPの1%の軍事支出で済んでいる現代と比較すると戦時の厳しさが判ってくる。この7559億円という数字を現在の貨幣価値で理解するために、大卒初任給の昭和16年(1941年)と現在を比較すると2500倍となるので、この比率で見ると太平洋戦争軍事費の7559億円は現在価値では1,889兆円となり、2019年のGDP553兆円の3.4倍となる。本書でも色々な金額が示されるのだが、消費者物価指数であったり、GDP比であったりして理解が難しいところもあったので、私は大体2500倍程度として現在価値を理解することにして読み進んだ。

各論としては軍隊編成のための人件費が語られている。当時陸軍550万人、海軍240万人という国民の10%が兵役についていたが、例えば、二等兵は月額6円の支給であった。食事や衣服は全て無償支給されていたとはいえ、当時、軍需工場に動員された女学生は月額30円を手にしていたと聞くとそのギャップに驚くばかり。兵役は義務なので、軍からの支給金額に不満で兵役を拒否することは出来ない。軍馬34万頭、軍用犬1万頭の食管理費などと比較して、馬の方が二等兵より待遇が良さそうに見えたりするのも辛い所である。

兵器については、兵力としての能力や威力を考えたことはあるがコストを考えたことは無く、新たな発見もあった。銃・戦車・航空機・戦艦といったコストが示されているのだが、零戦は開発当初は一機5万円だったが、エンジン性能や防護機能を向上につれ末期には10万円になっていたという。現在価格でみると一機1億円から2億円。この零戦を1万7千機製造している。加えて飛行場の建設、搭乗員の訓練、整備費用、燃料代などが積みあがっていくことを考えると航空戦力の確保のコストも膨大なものになることが判る。海軍でみると、昭和12年から6ヶ年計画で大和型を含めて66隻の軍艦が建造されているが、大和型でいえば単価1億4千万円(現在価値は3400億円)。高いのか安いのか判断できないが、自衛隊の最大艦「いずも」のコストを調べてみたが、大和の1/3の排水量で1200億円と言われていることを考えると、いつの時代も軍艦とは高価なものであるらしい。

開戦の重要なトリガーであった石油の視点で考えると、すべての軍事費7559億円をつぎ込んで、蘭印の石油、年間1000万キロリットル(2億7千万円)の確保を目指したと言う収支の戦いだったというなんとも虚しいバランスが明らかになる。

次のテーマである「損失」を概括すると、終戦直後の帝国議会で東久邇首相は、太平洋戦争での戦没者を軍人46万7千人、民間人24万1千人の計70万8千人と報告している。しかし、現在の戦没者の数字は昭和52年の政府報告による、軍人230万人、民間人80万人の計310万人と言われている。時間の経過で判明して行く戦没者が戦後30年間続いていたという事か。

軍備の損失については、海軍艦艇は80%を失い全滅状態。航空機は本土決戦用に5000機が温存されていたが廃棄。生産力で見ると石油精製施設の58%、火力発電所の30%、産業施設の50%を喪失している。まさに日本の全産業が壊滅状態だった。

日本は敗戦によって日清・日露の戦争で獲得したすべての植民地を失い、国土は67万5千㎢から37万8千㎢に減少した。敗戦国である日本は国・企業・個人の、台湾では、日本の資産総額は425億円(現在価値8.5兆円)。朝鮮半島では、戦後GHQ・日本銀行・大蔵省の共同チームが調査し日本の総資産は891億円(現在価値17兆円)。満州では資産総額は1465億円(現在価値で30兆円)という膨大なものである。その他南樺太、中国本土などでも膨大な日本の公私の資産が存在していた。昭和26年に講和条約が日本と連合国48ヶ国の間で調印されたことで、連合国の占領統治が終ると同時に日清・日露戦争で得たすべての植民地と日本の対外資産3794億円(現在価値75兆円)を放棄することと引き換えに連合国の多くが戦時賠償請求権を放棄した。

この講和会議に参加していない中華民国、中華人民共和国、韓国臨時政府などが個別の条約を締結して行くことになる。昭和27年に中華民国との平和条約を締結して賠償放棄。昭和40年に韓国と日韓基本条約締結し、日本が2880億円の経済協力金の提供し、韓国が賠償請求権を放棄した。昭和47年に中華人民共和国と日中平和条約締結し賠償請求権放棄に対して日本はODAで以降40年間に3兆6500億円が拠出されている。

自国民に対しての賠償は軍人恩給・戦傷者恩給の形で行われた。私は恩給を数字として捉える機会が無かったので、個々の手厚さとともに支給総額については考えさせられる点が多かった。恩給の受給対象者は830万人、昭和27年の制度創設から現在までの支給総額は50兆円を超えている。これは他国への賠償金総額よりも大きな負担であるし、現在の国民年金よりも手厚く、戦後日本に存在したことになる。そして、中国に対するODAの額も違和感は残る。何故という問いに対して著者は「昭和20年の東久邇稔彦首相の一億総懺悔発言が、手厚い軍人恩給や経済大国となった中華人民共和国にODAを与え続けると言う矛盾の原点になっていたのではないか」と述べている。

軍事費を調達するために、不足分は膨大な戦時国債によって賄われていった。国民はなけなしの金で国債や公債を買っていった。しかし、終戦後の昭和21年に財産税法が制定され国民が国内に所有していた財産全て(不動産・預金・株券・戦時国債)対して25%~90%の高率な税を課した上に、インフレが進み昭和24年の物価指数は昭和12年の約220倍となった。この二つの要素で日本国政府は債務整理を実施したことになる。要すれば、太平洋戦争に勝とうが負けようが国民はその財産を奪われたと言える。今私の手元に「大東亜戦争割引国債債権・参拾円」が一枚残っている。父が残した本に挟まっていたのだと思うが、発行日が昭和18年、償還日は昭和28年とある。ハイパーインフレの中では戦時国債も本の栞がわりに使われたと言ったところだろうか。そして振り返れば、現在のコロナとの戦いの財政資金の使い方やその決断を冷静に考える必要性もあるのだろう、というのが読後感である。「アベノマスク」を曽孫が見つけてこれは何?と思うようなものか。内池正名)

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2020年8月17日 (月)

「ウェブスター辞典あるいは英語をめぐる冒険」コーリー・スタンパー

コーリー・スタンパー 著
左右社(360p)2020.04.13
2,970円

著者のコーリー・スタンパーはアメリカの伝統的な辞書出版社であるウェブスター社で辞書編纂者として活躍してきた言語学の専門家である。本書は知ることの少ない辞書編纂者の仕事の内容を楽しさや苦労話とともに紹介しつつ、言語としての英語固有の世界を書き綴っている。その説得力の源泉は、彼女の体験からの説明と言葉に関する小ネタ(トリビア)を示すことでこの特殊な世界を感情豊かに伝えているところにある。我々の家庭には何種類かの辞書が有る。しかし、身近な辞書という書籍がどう作られているのかはあまり知られていないというのが本書を読んでも良く判るはずだ。

著者は当初医師を目指ししていたものの、進路を文学に変えて大学卒業。ウェブスター社の辞書編纂者の求人に応募したという。その求人条件とは、正式に認可された大学で学部を問わず学位を受けていること、英語が母語話者であることの二点で、スペシャリストとしての辞書編纂者として仕事を始めて、専門職としての教育や実践で遭遇した色々な課題、語釈の書き方、用例の探索、文法上の解釈議論、読者からの質問への返信対応などが詳細・厳密に語られているところが辞書編纂者らしいところ。

英語を他言語と比較しながら、その歴史や特徴が語られているのは興味深く読んだ。

15世紀まではイギリスの公文書はラテン語かフランス語で書かれていたが、16世紀にヘンリー5世が突然英語を公用語に定めたのもイギリスの国家としての自信の確立だったのだろうし、印刷機の出現が言語の標準化の推進に寄与したことも忘れてはいけない視点だ。

一方、識字率の向上とともに「正しい文法」が自国語を話す人のために作られ、コミュニケーションの質だけでなく、礼儀作法を補強するものとして存在した。しかし辞書編纂者としての著者は「文法」として成文化されてきたルールを支えているのはあくまで「理想」であって、「現実」ではないという意見。別の言い方をすれば、辞書が扱う「文法」は「正しい文法」ではなく「使われている文法」ということだ。

従って辞書編纂者は本、広告、新聞、個人の手紙など、広範囲に事例を集めてくる。黙々と資料を読み続ける姿から「8時間座って本を読むという退屈な仕事」と表現しているほど。

広範な資料からメモをとり、用紙に書き写して、語釈や引用のネタを集めて行くという辞書作成プロセスは18世紀のサミュエル・ジョンソンが「英語辞典」で初めてやり始めた手法だという。この方法は以降の全ての辞書の制作現場で採用されていった。しかし、現代はコンピューター用語、科学技術用語、医学用語など先端的領域では続々と新しい言葉が生まれ続けているし、インターネット上には語源さえ定かでない言葉があふれている。同時に、言葉は時代の変化で語源とは異なった意味で再定義されたり、使う人によって受け止め方が変わるといった状況が多くなっているだけに、こうした手法が今後とも編纂作業の中核たりうるのかはいささか疑問がある。

「American Dream」という言葉が最初に使われたという文章を紹介しながら、そこで使われている意味を聞かされると、また違った感慨がこみ上げてくる。そして著者は言語体系を川に例えて「それはひとつの流れに見えても、川は数多くの独立した流れから出来ていて、その一つでも変わったなら生態系から水流まで全体に変化が及ぶ。そして、川はどこにでも望むところに向かって流れて行く」とその壮大さを表現している。

標準と非標準という視点で、「Nuclear(核)・ニュークリア」という言葉の発音からの人物評価が紹介されている。それはジョージ.W.ブッシュ元米国大統領がこの言葉を「ヌーキャラー」と発音することで、彼は「無教養な南部の白人男」と烙印が押されたという。しかし、こうした非標準発音だけでなく、使用する言葉自体が時代と共に人種差別や性差別の波に晒されている。「Nude(肌色)」という色彩の言葉に内在している人種差別問題、「Marrige」と言う言葉の語釈として同性婚を認めつつある現代ではどう記載すべきなのか等、時代とともに言葉は意味を変えていくという特性には注意が必要なのだろう。こうした変化は英語が母国語でない日本人にとってなかなか判りづらい部分である。

外資系会社での体験で言うと、海外出張して公式の講演スピーチをするときには言語表現に気を使っていたと思う。特にインターネットの時代では、一過性の形で各国の社員がそのスピーチを聞くというだけでなく、何か月もその映像音声が社内のHPで開示され続ける。従って、色々な文化の人達がその言葉を聞いて少なくともネガティブに捉えられないようにしなければならないのだが、私には充分な英語表現力が有るわけではない。止む無く、内容を原稿にして、NYの本社でスタッフ(アメリカ人とフランス人)にこの言葉づかいから、宗教的・文化的に避けるべき言い方になっていないか見てほしいと言って渡した。翌朝、彼らからの答えは「日本人らしい英語でいいんじゃないか!」というものだった。そうか、「上手い英語」ではなく「日本人らしい英語」なのかと微妙な感覚を覚えたことが有った。

「辞書の改訂版で例文が断片的で違和感を感じるとすると、それは印刷時代の遺物である。活字印刷では一字でも増えれば頁を跨ぐことになるため、それを避けるために改訂版では新語を加えると同時に既掲載語の文例などから無理に文字を削ることがある。その結果である」という著者の指摘が目についた。

その文章を読みながら、私は50年以上前、学生時代に岩波国語辞典第二版の制作時にバイトをしたことを思い出していた。第二版が出版されたのは1971年1月で、私がバイトをしたのは1968年だが、新しく取り入れる言葉の語釈と引用について編集者のメモから原稿用紙に清書し字数を確定したり、採用候補の言葉の語釈を他社の辞書で確認したりしていた。当時は活字印刷だったので、新しい言葉の行数、字数の調整とともに既掲載の言葉の字数調整をして頁単位、折丁単位の版組影響を最適化するのが編集者の腕の見せ所であったと思う。しかし、そうした熟練の技も1970年代半から導入されて来たコンピューター写植システムでは、改ページなど気にせず注記も思いのまま増やすことが出来ることから、編纂者のスキルも変化していった。

また、このバイトの経験から、社会人になっても役に立つことがあった。それは岩波の編集部の人から岩波国語辞典の語釈の特徴として教わったのが、「この辞書は世界で初めて右と左の絶対定義をしている」というものだった。「舟を編む」でも紹介されていた様だが、それは「右 : この辞書を開いて読むとき、偶数ページのある側」というもの。編集者の得意気な顔を見ながら、学生の私は「右も左も判らずに辞書を引く人間に、奇数や偶数は判らないだろう」と思ったが口には出さずに我慢した。ただ、同時に「プロの仕事では、素人には判らないだろうがプロはここまでやるんだという、数%かの自己満足(遊び)が仕組まれている」という理解をした。「数%の遊び感覚」の必要性は、その後の私の仕事の指針の一つになった。

思えば、言語と辞書という二つの領域は私にとって多くの思い出を含んでいる領域であった。懐かしさと苦労がふと蘇ってくる読書になった。内池正名)

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「大洪水の前に」斎藤幸平

斎藤幸平 著
堀之内出版(356p)2019.04.25
3,850円

去年、斎藤幸平編『未来への大分岐』(集英社新書)を読んだ。編者とドイツの哲学者マルクス・ガブリエルら3人との対話で、グローバル化した資本主義の危機が論じられていた。NHK・Eテレがマルクス・ガブリエルの特番をつくったときも斎藤は番組に顔を見せていて、そんなことから彼のことが気になった。

でも斎藤の唯一の著書である『大洪水の前に』は、ベルリン・フンボルト大学に提出された博士論文を基に再構成された本で(博士論文の英語版で2018年ドイッチャー記念賞受賞)、書店でぱらぱら立ち読みするとえらく難しい。とても73歳のジジイのにおえる本ではないと尻込みしていたが、コロナ禍で家にいる時間が長いので思いきって挑戦することにした。買って奥付を見ると「第3刷」とある。出版の危機が言われるなか、少部数であるにせよこういう本に興味をもつ読者がちゃんといるんだと、半分引退した編集者として心強く思った。

この本には「マルクスと惑星の物質代謝」とサブタイトルがつけられている。取り上げられているのはガブリエルでなくカール・マルクス。しかも、かつてソ連で刊行された『マルクス・エンゲルス全集』には収録されず、現在刊行中の新『マルクス・エンゲルス全集』にいずれ収録される、未刊行の抜粋ノート、メモ書き、蔵書への書き込みを丹念に調べて、未完成に終わった『資本論』第2、3巻(マルクス没後、エンゲルスの編集で刊行)が本来どんな構想を持っていたかを考えるという雄大なもの。あらかじめ言ってしまえば、晩年のマルクスには現在の言葉でいうエコロジー的な視点があり、利潤追求を最優先に求める資本主義は自然と人間の関係を歪めて持続可能性を持たないシステムであるという結論になるはずではなかったか、と著者は推論している。

このエコロジー的な視点は、19世紀の言葉でいえば「物質代謝」ということになる。従来、マルクスは資源の枯渇や生態系の破壊といった環境問題に関心がなく、技術の進歩と経済の成長によってすべてが解決するという生産至上主義だという批判が根強くあった。確かに若きマルクスには、そういった19世紀の楽観的な近代主義の言葉が散見される。でも1848年にヨーロッパの革命が挫折して以降、マルクスは自然科学の研究に没頭して自然というものが持つ限界を知り、資本と自然の緊張関係のうちに資本主義の矛盾を見定めるようになった。未刊行の抜粋ノートやメモ書きからそれが見えてくる、と斎藤は言う。

「物質代謝」という言葉は19世紀初頭から生理学の用語として使われていた。あらゆる生物が外から栄養物を摂取・吸収・排泄するかたちで、外界との関わりのなかで生命を維持していることを指す。さらにこの言葉は自然科学だけでなく哲学や経済学の領域で、人間の生産・消費・廃棄といった社会的活動を分析する概念としても使われるようになった。

マルクスはこの言葉に刺激を受け、自らの経済学批判に用いるようになる。人間もほかの生物と同様に外界の自然との間で「物質代謝」を行なっているが、人間は労働というかたちで「意識的」に自然と関わる。その結果、人間と自然の「物質代謝」は労働の社会的あり方に対応して変容を迫られる。資本主義の社会は、一方で自然の力(エネルギー、食料、原料)を徹底的に開拓し利用しようとするが、他方で利潤獲得が最優先されるため、限界を超えて自然の力を利用するようになり世界的規模で「物質代謝」に矛盾と軋轢をもたらす。

マルクスは、およそそんな道筋で資本主義の矛盾を考えるようになった。もちろん斎藤によるマルクスの抜粋ノート追跡はこんな大雑把なものでなく、「素材」と「形態」、「物象化」、「商品」といった概念を駆使した細かなものだが、その過程(それこそ斎藤論文が評価された部分だろう)は省略。興味ある方は書店へどうぞ。

もうひとつ、マルクスが自然科学研究から取り入れたのが「略奪農業」という言葉。若きマルクスは農業についても技術と化学(肥料)によって農業生産を増大させられると楽観的だったが、「物質代謝」という概念でもマルクスに影響を与えた化学者リービッヒは、土地の肥沃さを維持することを考えず、利潤を得るために自然の無償の力を絞りつくす農業を「略奪農業」と批判していた。これに刺激を受けたマルクスは、土地の疲弊や自然資源の枯渇について研究するようになり、やがて「大土地所有は、社会的な物質代謝と自然的な、土地の自然諸法則に規定された物質代謝の連環のなかに修復不可能な亀裂を生じさせる諸条件を生み出す」(『資本論』)と書くにいたる。

晩年のマルクスは、土地の疲弊、森林伐採、(高く売るための)羊の奇形的飼育といったさまざまな持続可能性に関心を持っていた。また、過度な農耕と森林伐採が自然的物質代謝の攪乱を引き起こして気温が上昇し、その結果、多様な植生が失われステップが広がってゆくというフラースの著書も読んで抜粋ノートをつくっていた。斎藤は、こうしたマルクスの抜粋ノートが「もし『資本論』が完成したなら、マルクスは人間と自然の物質代謝の攪乱という問題を資本主義の根本矛盾として扱ったという推測を根拠づけてくれるように思われる」と書く。

しかしマルクス死後、その仕事を引き継いだエンゲルスは「物質代謝」という概念をマルクスのようには評価しなかった。結果、エンゲルスの手になった『資本論』第2、3巻では「そのエコロジカルな視座も完全には取り入れられることはなかった」。

では晩年のマルクスは、「物質代謝の攪乱」をどう解決しようと考えていたのか。斎藤は、マルクスのこんな一文を引用している。「歴史の教訓は、農業を別の見地から考察してもわかるように、ブルジョア的制度は合理的農業に反抗し、農業はブルジョア的制度と相容れないということであり、自らの労働する小農の手か、アソシエイトした生産者たちの管理を要するということである」。つまり持続可能な社会であるためには「アソシエイトした生産者」によって合理的、意識的に労働や生産が管理されることが必要ということだろう。

斎藤によれば、マルクスは『共産党宣言』の段階では大恐慌が労働者の蜂起を引き起こすと楽観的に考えていたが、1948年革命の失敗後は楽観論を放棄し、「労働組合などを通じて物象化(注・生産物が商品となり社会的な力を得て生産者に敵対するようになること)の力を制御し、より持続可能な生産を実現するための改良闘争が持つ戦略的重要性を強調するように転換して」いったという。

著者は最後に、宮沢賢治の次のような言葉を記している。「新たな時代のマルクスよ/これらの盲目な衝動から動く世界を/素晴らしく美しい構成に変へよ」

日本では、いまマルクスに対する関心はきわめて低い。その人物も著作も歴史上のものとして整理され棚上げされてしまっている。でも地球規模での経済の長期停滞や、1%対99%といわれる極端な格差拡大、温暖化による気候変動を背景に、ヨーロッパやアメリカではマルクスの再評価、エコ社会主義の視点から新しい読み込みが進んでいるという。そんな世界の最前線を伝えてくれる一冊だった。

カバーは、イルカやクジラが波頭から頭を出した瞬間のイラスト(装画・マツダケン)を全面に銀で箔押しした贅沢なもの。専門的な書籍を、本棚にとっておきたくなるような造本でモノとしての魅力を加え、少部数高定価で出版する。増刷していることからわかるように、こういう方向はひとつのモデルになるかも。(山崎幸雄)

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2020年7月17日 (金)

「裁判官も人である」岩瀬達也

岩瀬達也 著
講談社(330p)2020.01.31
1,870円

多様な事件の訴訟、裁判に関するニュースは毎日の様に報道されている。そうしたニュースを読みながらも、三権分立の中で、特に司法の独立性はそれなりに担保されると無意識のうちに思っている自分がいる。「裁判官、弁明せず」と言われる様に、裁判官は自らの下した判断に解説することはない。それだけに、司法の実態については自分から積極的に知ろうとしない限り時代とともに進んで行く法律解釈の変化を理解していくことは難しい。

本書では、裁判官が判決に至るプロセスを追いながら、死刑制度、原発の稼働、最高裁を頂点とする裁判所組織、人事評価や裁判官の独立性といった、現代の司法が抱えている課題を多くの視点から取り上げている。特に、「司法」は裁判所を運営する最高裁判所の司法行政部門があり、それは行政の一部であると著者は指摘する。別の言い方をすれば、「人事権と予算査定権を立法府と行政府に握られている最高裁判所は三権分立の理念を実践できていない」という主張である。それを示すために本書では日々の裁判官の仕事の中で発生する判決で、国策を否定したり、各分野の違憲判決や最高裁判例を覆さざるを得ない判断によって発生する裁判介入や人事異動、評価への影響などを描いている。

国策に対する裁判として、原発の再稼働時の判決が取り上げられている。一連の裁判は、2006年金沢地裁は北陸電力の志賀原発2号機の安全対策が不十分として原発の停止を判断したことに始まる。2011年東日本大震災による東京電力福島原発の事故の後、2014年福井地裁での樋口裁判長は大飯原発の安全技術と設備は脆弱であるとして3号機と4号機の停止判決を出した。以降、高浜原発3-4号機の再稼働禁止、川内再稼働容認、伊方原発の再稼働容認、伊方原発の再稼働禁止、伊方原発再稼働容認といった形で原発再稼働の禁止と容認の判決が行ったり来たりの歴史を繰り返している。

ただ、2013年に最高裁判所は「高度な専門性が求められる原発の安全性を専門知識の無い裁判官が判断するのは難しい。従って、裁判官は行政側の審査基準が正当で、その審査過程で大きな手続き的欠落がないかを審査し、安全性の独自の審査には自省的であること」という意見を研修資料に取り入れている。介入ではなくガイドラインであると言い張るのだろうが、それは無理である。こうした状況下においては、原発再稼働を止めた裁判官と再稼働を認めた裁判官のその後のキャリアを見ると、法律議論以前に国策に逆らった裁判官に対する処分と言わざるを得ない。

また、裁判官への介入が公になったのが札幌地裁で行われた「長沼ナイキ事件」である。地対空ミサイルのナイキを配備するために保安林を伐採しようとした国に対して住民が起こした訴訟である。第二次安保闘争など騒然とした社会状況の中の1969年に札幌地裁の福島裁判長は「憲法違反の恐れのある自衛隊のために保安林指定解除処分の執行を停止すべき」と判決を出したのだが、その判決内容が国に告知される前に平賀札幌地方裁判所長が福島裁判長宛てに「国側の主張を認めるよう求めた」書簡を届け、結果その書簡が外部に流出したという事件である。

青年法律家協会の裁判官部会の世話人をしていた宮本は福島と同期で、平賀書簡の外部流出の犯人と最高裁から疑われ、青年法律家協会に参加していた裁判官達に対する差別(ブルーパージと呼ばれた)とともに、宮本は10年目の裁判官再任審査でただひとり再任されなかった。この問題は、裁判干渉が露骨に行われていた事実と人事権の使われ方の異常性である。ちなみに再任されなかった宮本は弁護士登録に必要な経歴保証書を最高裁判所に求めたが最高裁は発行を拒否したため、弁護士会の特例処置で弁護士登録が行われたと言う。

こうした、裁判官の職業人としての独立性を担保する仕組みの例として、裁判所法では「意に沿わない人事異動は応じなくて良い」という考え方が紹介されている。しかし、全国3000人の裁判官で構成されていることを考えれば、必然的に異動を前提にして育成・昇進をやって行かなければ組織運営は回って行かないのは目に見えている。毎年8月に裁判官は自身の健康状態、家族構成とともに次の異動の希望任地を記載するが、ここで「希望任地以外は不可」を選択すると処遇・昇進面で制約をうけることになるという。民間であれば社員は「希望」や「異動が出来ない理由」を上司に申告することはあっても、異動の発令が有ればそれに従うことになり、かりに「組織の指示に従わないとすれば、その結果「失う」ものもあるということは明らかだ。組織で仕事をする限り、裁判官の権利と考えてしまうと、問題を矮小化してしまうのではないか。職業人としての姿勢と組織の仕組みの両面を考えないと真の独立性の議論にはなりそうもない。

また、死刑制度そのものの問題提起している。現在、先進7ヶ国(G7)の中で死刑制度を続けているのはアメリカと日本だけである。戦後の憲法改正作業の時、GHQの法政司法課長だったドイツ系アメリカ人は死刑制度廃止論に立つ弁護士であったが、日本政府が死刑制度の温存を求めたため、あえて異議を唱えなかったという。この結果、現憲法下でも死刑制度は存続したが、一石を投じた事件として2011年に大阪で発生した放火事件(5名死亡)である。裁判長は死刑を宣告したが、この裁判では死刑は残虐な刑罰に当たるのかどうかが問われた。証人の一人であった元検察官の筑波大学教授が「絞首刑はむごたらしいとは言えないとは、実態を知らなさすぎる、と言わざるを得ない」と意見を述べている。検察官は死刑執行に立ち会う義務があるが、裁判官にはない。このため、死刑執行に立ち会ったこともない裁判官が「絞首刑は惨たらしくない」という判断がなぜできるのかと、裁判官を揶揄するような意見が紹介されている。こうした事例を読むにつけても、まだまだ、死刑制度に関しては議論が続く論点の様だ。

そして、気になった点がある。1968年に起きた尊属殺人事件で1969年宇都宮地裁は尊属殺人条項は違憲という判断をし、過剰防衛であるものの情状の余地ありとして刑を免じた。本来尊属殺人は死刑もしくは無期懲役であり、東京高裁は一審判決を破棄して情状懲役酌量のうえ3年6ヶ月の実刑判決を言い渡した。この判決にたいし世論は極めて批判的で1973年に最高裁は尊属殺人の違憲判断をするに至る。しかし、尊属殺人の条文が刑法から削除されたのは1995年の改正刑法である。何と時間の掛かることかと思う。司法判断から立法までの道のりの長さは気が遠くなる様だ。

裁判員制度がスタートして10年を超え、6万人以上の国民が裁判員として裁判に参加している状況を考えれば、自分自身が裁判に出席して人を裁くことはもはや他人事ではない時代になっていると思う。裁判員裁判制度の評価をするにはまだ早いのかもしれないが、裁判員裁判では裁判員は被害者の立場がストレートに出るため、量刑的に厳しい判決になりやすいと言われている。しかし、本来、法理だけではなく、社会経験からも判断するということが裁判員裁判の目的だとすると、その目的を果た結果ではないのかと思う。自分が人を裁き、量刑判断しなければならない時が来ることを想定しながら本書を読みながら、今更ながら裁判官という職業の大変さを実感する。(内池正名)

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「武器としての『資本論』」白井 聡



白井 聡 著
東洋経済新報社(292p)2020.4.23
1600円+税

「武器としての『資本論』」というタイトルを見たとき、「武器」とは何のための武器なんだろう、という疑問が湧いた。少しでもマルクスをかじったことのある小生のような団塊の世代なら、当然のように「革命」とか「資本主義を倒す」ための武器といった言葉が思い浮かぶ。でもそうしたことを、いまこの国でほとんどリアリティをもって語ることはできない。笑われるのがオチだろう。ではこの本が、買い手の目を引くためタイトルに選んだ「武器」とは何のためか。白井聡は、「この世の中を生きのびるための武器」なんだと言う。われわれはなぜ毎日、満員電車に揺られて会社に行かなければならないのか。なぜみんなが苦しまざるをえない状態にありながら、その苦しみを甘受して生きているのか。『資本論』はそういうことに答えてくれるのだという。

いま、マルクスなんて時代遅れの代物だ、というのがおおよその一致する見方だろう。確かに社会主義を標榜する国家の崩壊や堕落ぶりを見れば、それもうなずける。でもマルクス、特に『資本論』は現実の政治や国家から一歩も二歩も下がって、資本主義というシステムを批判的に分析した書物。革命論としてでなく、資本主義批判の学としてマルクスをもう一度読み直すと、貧富の差が極端になり、差別と分断が暴力的な様相を呈する今の世界を読み解くヒントが得られるかもしれない。マルクスが19世紀ヨーロッパの資本主義を分析した手法で現代を、特に1980年代以降の「新自由主義」とよばれる現在を分析したらどう見えるのか。これが本書の「裏テーマ」だという。

この本は「『資本論』入門」と謳っているから、『資本論』からいくつかのキーワードを取り上げ、それを解説するスタイルを採っている。「商品」「包摂」「剰余価値」「本源的蓄積」「階級闘争」といった言葉。といっても小生が『資本論』第1巻(だけ)をなんとか読んだ半世紀前の古典左翼的な解釈でなく、その後のさまざまな研究成果を踏まえたものになっているようだ。

本書がその分析を「裏テーマ」とする「新自由主義」とは1980年代以降の「小さな政府」「民営化」「規制緩和」「競争原理」といった言葉に象徴される、現在までつづく資本主義のありかたを指す。それ以前、第二次大戦から1970年代まで(日本で言えば戦後から高度経済成長の時代)を白井は「フォーディズム」とくくっている。フォード社がベルトコンベアを導入して自動車を大量生産するシステムから来た言葉。大量生産した車は、少数の金持ちだけでなく、たくさんの普通の人びとに買ってもらわなければならない。そこでフォード社(に代表される資本家)は、車(商品)の価格を下げると同時に労働者の給料をアップして「労働者を消費者に変えようとした」。その結果、労働者の生活は豊かになり社会保障制度も整備されて、先進諸国では大衆消費社会が出現した。「労働者階級を富裕化して中産階級化するということが20世紀後半の資本主義の課題となり、相当程度実現された」ことになる。

でもこの流れは1980年代に逆流を始める。資本家は政府の介入を最小限にした市場原理主義で企業が自由に活動できる範囲を広げ、規制緩和などを通じて労働分配率を下げ、新たな剰余価値を生みだそうとした。日本でいえば「働き方改革」による非正規労働者の増大や、富むのも貧困も自己責任という考え方の浸透で90年代以降、格差が急速に拡大した。「無階級社会になりつつあった日本が、新自由主義化の進行と同時に再び階級社会化していった」ことになる。無論これは日本だけでなく、先進資本主義国に共通の現象だ。白井はデヴィッド・ハーヴェイの言葉を引用して、新自由主義とは「資本家階級からの『上から下へ』の階級闘争」「持たざる者から持つ者への逆の再分配」だと述べている。

彼はまたこの時代を分析するのに「包摂」という言葉を使っている。『資本論』で使われる「包摂」という概念は、労働者が自分の労働力を商品として売ることでしか生きていけないことで資本の下に組み込まれることを指している。生産の目的が商品を売ることによる貨幣の獲得になることを「形式的包摂」、生産過程全体が資本によって組織化されることを「実質的包摂」と呼ぶといった具合に。でも白井は「包摂」という考えを、人間の身体が資本に組み込まれた状態だけでなく、感性や思考といった人間の精神までも資本のもとに組み込まれることに広げて考えている。こうした解釈の背後には、近代というのは、それ以前のように暴力的に身体を罰する刑罰でなく、監禁・監視することで思考や意思を矯正する刑罰に転換し、また教育や軍隊で規律を訓練し内面化させることによって、従順な身体をつくることで人々を支配する時代だ、というミシェル・フーコーの考え方があるんだろう。

では新自由主義を内面化した価値観とはどういうものか? 一言でいえば、「人は資本(会社や仕事)にとって役に立つスキルや力を身につけて、はじめて価値が出てくる」という思想。若い世代には浸透している考え方だろう。それを白井は「資本による魂の『包摂』」と呼ぶ。新自由主義は人々の働き方だけでなく、考え方や感性までも変えてしまった。「このことの方が社会的制度の変化よりも重要なことだったのではないか」

人が内面まで支配されてしまったのなら、「資本に包摂された魂」がそこから脱却する道はあるのか? それがこの本の最後の問いになる。もちろんそれに対する筋道立った回答は用意されていない。でもその端緒として白井が考えるのは「『それはいやだ』と言えるかどうか」。お金になるかどうかのスキルで価値が決まるのでなく、スキル以前の人としての感性に照らして、生きていく上での条件の切り下げや不条理に対し、それは耐えられないとNOの言葉を発することができるかどうか。そんな「感性の再建」から始めなければならない、というのが白井の結論だ。

と、ここまで読んできて、学生時代に読んで今も記憶に残るマルクスの言葉を思い出した。「五感の形成はいままでの全世界史の一つの労作である」(『経済学・哲学草稿』)。五感、つまり視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚といった感性は動物として人間が生まれつき持っているものではあるが、その中身は人間の社会的活動のなかで形成された文化でもある。マルクスの先の言葉の後には、「心配の多い窮乏した人間は、どんなすばらしい演劇にたいしてもまったく感受性をもたない」という文章がつづく。働くことが自分にとって喜ばしいものでなければ(疎外されていれば)、人間は身体も精神も自分自身でなくなってしまう。その状態に歴史上例がないほど深く侵されたのが新自由主義の時代というわけだろう。でも五感は社会的なものであると同時に、自然の一部である人間が生まれつき備えているものでもある。そこを信頼し、人間的自然の底に立ち帰って感性をもう一度磨き上げよう。この本は、そういう呼びかけの書と見えた。

カバーは赤一色、カバーをはがすと表紙は黒一色という装幀が、中身に対応して直截なのがいい。(山崎幸雄)

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2020年6月17日 (水)

「カブラの冬」藤原辰史

藤原辰史 著
人文書院(156p)2011.1.20
1,650円

「第一次世界大戦期ドイツの飢餓と民衆」とサブタイトルを打たれたこの本は、「レクチャー 第一次世界大戦を考える」というシリーズの一冊。京都大学人文科学研究所の共同研究を基に刊行された十数冊のうちの一冊だ。「カブラ(蕪)の冬」とは、日本ではあまり知られていないが、第一次世界大戦中のドイツで飢餓によって76万人の餓死者が出た事態を指す。1916~17年の冬、食糧が尽きて飢饉となったドイツでは、ふだん飼料として使われることが多かったカブラ(ルタバガ)を食べるしかなく、多くの国民が飢えや栄養失調で死んだ。

ルタバガという野菜には馴染みがない。外見は聖護院かぶらに似ているが、カブとは別種のアブラナ科の野菜。明治期に日本にも移入され北海道で栽培されたが、食用としては広まらなかった。筆者も食べたことはなく、ある人によると「加熱すると甘くなり、食感はジャガイモかカボチャ、香りはキャベツみたい」という。日本で食糧不足に陥った第二次大戦中に米の代用食として食べられたイモ類や穀類のようなものだったのだろう。

この本を読んでみようと思ったのは、著者の藤原辰史という名前にこのところ出会うことが多かったから。食の思想史、農業史の研究者として『給食の歴史』『戦争と農業』『ナチスのキッチン』など次々に本を出している。現在の新型コロナウイルスに関しても、「パンデミックを生きる指針」という文章を発表している(https://www.iwanamishinsho80.com/)。

20世紀初頭、第二帝政下のドイツは工業、科学、軍事が発展してイギリスなど列強に伍し、その秩序に挑戦するほどの経済力を備えるようになっていた。そんな「近現代史上稀に見る先進工業国の飢饉」で、なぜ76万人もの死者を出すに至ったのか。そしてその飢餓体験が、後のナチス台頭とどう関係してくるのか。そんな視点から藤原は「カブラの冬」を読み解いていく。

第一次世界大戦を戦うドイツが飢饉に陥ったのには、大きく二つの理由がある。ひとつは、交戦国であるイギリスが海上封鎖を発動して、ドイツがアメリカやカナダから輸入していた食糧を止めてしまったこと。海上封鎖は1909年に国際法上合法と認められた戦時措置で、敵国の港湾封鎖を宣言した国は封鎖線を越えようとする船舶をどの国籍の船でも拿捕し、戦時禁制品を没収することができる。当時、イギリスは世界最大の海軍力を誇っていたから、「直接の戦闘を避け、遠隔操作で相手国の弱体化を図る」ことに、その意図があった。

もうひとつの理由は、ドイツが食糧輸入大国であったこと。開戦直前のドイツはカロリーベースで全食糧の5分の1を輸入に頼っていた。輸入していた主な食糧は小麦、大麦(飼料)、濃厚飼料(牛乳、バター用)、野菜、鶏卵、肉、コーヒーなど。自給できていたのはライ麦、ジャガイモ程度だった。輸入相手国は小麦の場合、アメリカ、ロシア、アルゼンチン、カナダの順になっている。このうちロシアは交戦国になり、海上封鎖によってアメリカ、カナダ、アルゼンチンからの輸入が激減した。「交通はドイツにとってのアキレス腱」なのだった。

ドイツがイギリス海峡と周辺水域の敵国艦船すべてを攻撃する報復に出たのは半年もたってからだった。その背景には、この戦争は短期で勝てるというドイツの目算があった。ドイツが戦争を始めるとすれば、ロシアとフランスに対する二正面作戦となる。そこで参謀総長のモルトケは、まずフランスを急襲して叩き、転じてロシアを撃つという作戦を立てた。ところがパリ目指してベルギーに侵攻したドイツ軍は激しい抵抗に遭い、「マルヌの戦い」で連合国軍に敗北してしまう。以後、戦線は膠着し、西部戦線は膨大な物資と人員を要する長期の塹壕戦となってゆく。

銃後の日常生活への影響は、開戦の年から既に現れている。インフレと食糧価格の高騰が家計を直撃した。パンや小麦が配給制になり、闇経済も生まれた。やがて配給のパンにジャガイモが混ぜられるようになり、2年後にはパンでなくルタバガが配給されるようになる。

そんな食糧危機のなかで、「豚殺し」と呼ばれる事態が起きた。ドイツ全土で豚が「ドイツの敵」として大量に虐殺されたのである。豚はドイツの食卓に欠かせないものだが、こういう理屈だった。家畜の飼料消費は人間の2倍以上であり、家畜頭数を減らすことで、大量の飼料(ジャガイモなど)を人間に回すことができる、と。標的はとりわけ飼料消費量の多い豚だった。その結果、前年に2500万頭いた豚は翌年には1600万頭まで減った。屠殺があまりに急で、腸詰や燻製にする作業が間に合わず、多くは肥料にされたり、そのまま腐敗してしまった。しかし、そのことで人間に回るはずのジャガイモの在庫量は、屠殺の後でも増えることはなかったという。

そんなエセ科学的精神主義のひと幕の後に、「カブラの冬」がやってきた。1916年は凶作だった。前年に5400万トンの収穫があったジャガイモは2500万トンに激減。秋には食糧危機が深刻化し、飢饉といえる状況に陥った。都市下層民の主食は、パンからルタバガになった。飼料だったルタバガを少しでも美味しく食べるため、「ルタバガスープ、ルタバガ炒め、ルタバガスフレ、ルタバガサラダ、酢漬けルタバガ、煮込みルタバガ団子、ロールキャベツのルタバガ詰め」などのレシピが配られた。豚肉の代わりに、カラス、スズメを食べることも推奨された。

「カブラの冬」の最大の犠牲者は子供と女性だった。飢餓に打ちのめされたドイツ人の憎悪は、敵国だけでなく国内の敵であるユダヤ人と社会主義者に向けられた。その記憶が十数年後、大恐慌の不況のなかで蘇る。「飢餓の反省を最も厳しく、しかも強烈な憎悪とともに内面化したのがナチズム」なのだった。

『我が闘争』に続いて出版されるはずだった『第二の書』のなかでヒトラーは、かつての敵の兵士となら和解できるが、裏切り者とはできない、と述べている。第一次世界大戦のとき、戦闘では勝っていたのに国際的なネットワークを有するユダヤ人と社会主義者、国内の裏切り者が共謀して革命を起こしたためにドイツは敗北した、というわけだ。「背後からの一突き伝説」と呼ばれる。ワイマール共和国時代のナチスの選挙ポスターには、子供や家族のイラストとともに、「飢餓と絶望に対抗せよ! ヒトラーを選べ」「僕たちを飢えさせないで! 飢餓と寒さに対する闘争に身を捧げよ」といったキャッチが印刷されている。「世界恐慌期の日々のパンへの不安がナチ党を政権の座に押し上げる。15年ほど前の飢餓を体験した民衆にとって、飢餓からの解放というスローガンは、それぞれの体験の度合いに応じて、重みを持って受けとめられたに違いない」

最後に藤原は、「20世紀的な暴力感覚」について触れている。ナチスによる空前絶後の暴力の象徴として、アウシュビッツが挙げられる。でも藤原は、フォード工場のような大量生産システムでユダヤ人を虐殺したのと同質な暴力感覚を、イギリスによる海上封鎖にも見ている。敵国の国民を飢えさせることを目的とし、実際76万人の餓死者を出した海上封鎖は、「良心の呵責を感じずに相手国の住民を攻撃でき」、「敵を遠隔操作で消し去る暴力感覚」においてアウシュビッツに先んじ、アウシュビッツと同じものである、と。その暴力感覚は、その後も広島長崎から枯葉剤、クラスター爆弾、ドローン攻撃といった形で現在までを貫いている。「第一次世界大戦以降の時代を生きる人間たちの精神の、おそるべき基調」だと藤原は言う。

ところで、生きるか死ぬかという飢餓の集団体験は現在の日本人にはほぼない。でも「新型コロナウイルス以後」の世界で経済のグローバリズムは停滞あるいは後退するだろうから、食糧だけでなくいろんな物資の実質的「海上封鎖」が起きる可能性は高い。実際、ロシアやカザフスタンが小麦に、インドやベトナムが米に輸出規制をかけはじめた。この国でも食糧の自給率向上が目指されて久しいけれど、実質的な成果が上がっているとは言えない。でもこれからの世界は、地球規模でも一国内でも否応なく食糧やエネルギーのローカル化、地産地消の動きが強まっていくだろう。グローバリズムの弊害が露わになったいま、そのこと自体は悪いことではないと思う。その一方、自国さえうまくいけばよしという自国ファーストの姿勢は新たな分断をつくりだす。第一次世界大戦と大恐慌後の世界はブロック経済化し、ブロック間の競争と対立が第二次世界大戦を生む原因のひとつになった。そんな歴史も踏まえながら、これからの世界がさらに対立と分断を深めていくのか、それを修復する動きが生まれてくるのかに目をこらしたい。(山崎幸雄)

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「漱石と鉄道」牧村健一郎

牧村健一郎 著
朝日新聞出版(328p)2020.04.10
1,870円

私は夏目漱石も好きだし、鉄道も好きだ。だからと言って、その二つを関連付けて考えることはほとんどなかった。あったとしても、松山の軽便鉄道ぐらいなものだろう。しかし、著者は漱石の作品や日記などに鉄道に関する描写が多いことに注目している。例えば、「三四郎」は若者が九州から状況してくる東海道線の中の描写から始まり、「坊ちゃん」は新橋ステーションで主人公が下女の清と別れて四国に旅立つ場面から始まるように、出だしの情景やエンディングで大きな役割を果たしている。社会インフラとして定着して行った鉄道の歴史を詳しく紹介しながら、漱石の作品、日記、書簡などに表現されている鉄道の旅を当時の時刻表や旅行案内などを引用して、具体的に旅を再現して見せる。ちょうど、旅する漱石の向かいの座席に座って同行している気分を味わっているような一冊。

漱石の人生を振り返って見ると、1867年(慶応3年)生れ、大学予備門予科から帝国大学英文科に入学し、1893年(明治26年)に卒業。高等師範、愛媛県松山中学、熊本第五高等学校等で教鞭をとり、1900年(明治33年)文部省より英語教育法研究のため英国出張を命ぜられる。1903年(明治36年)帰国、帝国大学と第一高等学校で教鞭をとるも1907年(明治40年)すべての教職を離れ、朝日新聞に小説記者として就職している。1916年(大正5年)49才で死去。こうしてみると、まさに文明開化を経て、日清・日露の戦いを通して日本が世界に躍り出て行った時代であり、技術的にも政治的にも欧米各国に追いつき、追い越せの時代である。漱石自身も常に先端的な学校制度での教育を受けてきた訳だし、英国留学のチャンスを手にしたということからも、「開化の子」と言われてもおかしくない。

社会変革の象徴としての鉄道は漱石にどんな影響を与え、また、実際に漱石は鉄道をどう利用したのかを解明し、歴史の一コマも見つけようというのが本書の試みである。東海道線や甲武鉄道(中央線)など全国の鉄道、漱石留学先のロンドンの地下鉄、この時代の軍事的にも重要インフラであったシベリア鉄道や南満州鉄道等の進化を漱石の文章と共に俯瞰している。同時代に生きた「漱石と鉄道」という壮大なテーマのもとにページは進んで行く。

本書では、数多くのエピソードが取り上げられているのだが、その一つが「坊ちゃん」の主人公は如何なるルートで四国に行ったのか、というもの。新橋駅で下女の清と別れて、四国の松山とおぼしき地に向かったのだが、小説では新橋駅以降の旅程は省略されていて、いきなり愛媛県三津浜の港に上陸する。「坊ちゃん」が書かれたのは明治39年だが、東京市電の記述内容などから小説の舞台は明治30年頃、漱石が松山中学に赴任したのが明治28年であることを考えると、自らの松山行の体験を書いていると結論付けている。ルートについて荒正人の説に代表される定説は、新橋から神戸経由広島まで列車で行き、宇品港から短距離連絡船で三津浜港に至ったというもの。

しかし、著者は、漱石の知人あての書簡で「7日11時新橋発、9日午後2時当地着」と書いていることと、「坊ちゃん」の中で描かれている三津浜到着の様子からルートの特定について新たな説を提示している。

「ぷうといって、汽船が止まると、艀(はしけ)が岸を離れて、漕ぎ寄せてきた。・・・事務員に聞いてみるとおれは此処へ降りるのだそうだ」

艀がくるとすると乗って来た船は大型船であることが判る。事務員(船員)との会話から察するにこの船はさらに遠くへ行くと思われる。こうした推理から、神戸まで列車で行き、大阪商船が運行していた大型客船による神戸発、三津浜経由宮崎行か宇和島行に乗ったのではないかとの思いに至る。 

私は、このような分析をしながらの読書はしないのだが、著者の分析が正しそうに思えるのも漱石が小説を書くにあたって単なる想像でなく、時刻表を基にして表現していたという著者の仮説に説得力はあるし、漱石がまめに日記をつけていたこともあり、自らの旅の記憶や記録から小説に仕上げているという事が言えるのだろう。

もう一つの興味をもったテーマが「すれ違う漱石と伊藤博文」というものだ。漱石は明治42年9月2日から満州を旅している。当時南満州鉄道総裁だった中村是公は漱石の学生時代の下宿仲間であり、その誘いもあっての邂逅の旅行だった。一か月に及ぶ満州の旅を終えた漱石は10月13日に韓国に入り、ソウル9:00発の直行急行に乗り釜山に18:30に着く。日記には「すぐ船に乗る。・・10月14日8時下関着。」とあるから、釜山20:00発、翌7:30下関港着の連絡船が該当する。その後、下関から広島に入り、「昨晩(10月14日)広島発午後9時30分発の寝台で寝る。夜明方神戸着。大阪にて下車」後、大阪朝日本社を訪ねている。「TRAIN SERVICE 時刻表(明治43年)」から、広島発21:34発の寝台急行が神戸着6:22、大坂着7:22なのでこの列車と特定できる。

一方、伊藤博文は新聞記事から動き方が判る。「十四日午後五時二十三分、大磯通過の急行列車を特に停め・・・満州行きの途に就く」(東京朝日)。時刻表には新橋15:40発の下関行急行が有る。この列車は大船発16:57、国府津着17:36だから、大磯17:23とはピッタリである。それにしても、大政治家とはいえ、急行列車を特別に停めさせるというのも時代である。そしてこの急行は翌15日の6:20大阪、7:17神戸に到着し下関に向かう。

「つまり、二人を乗せた列車は明治42年10月15日朝7:00頃、東海道線の阪神間で轟音とともにすれ違い(既に東海道線は複線化されている)、そして東西に別れていった。」

数日後、漱石は伊藤が暗殺されたとの報を聞く。二週間前に自身が訪れたハルピン駅で中村是公と並んでいた伊藤博文が殺された事実は漱石に深い思いを抱かせたと思うが、漱石は阪神間で伊藤とすれ違ったことは知らない。

この他、楽しい検証も紹介されている。大正元年、病気も進んでいた漱石は妻鏡子を同行して長野に講演に行っている。日記には軽井沢駅のホームを「逍遥」したと書かれている。信越線は明治26年に碓氷峠越えをアプト式機関車の導入で開通し軽井沢では機関車の付け替えもあり停車時間が長かった。明治30年頃には軽井沢駅では立ち食いの駅そばが商売を始めており、著者は「この逍遥の間、妻の鏡子を車内に残して、漱石は一人蕎麦を食っていたのではないか」と想像は膨らむばかりである。

一方、漱石は鉄道について、かなり否定的な物言いをしているという著者の指摘は新鮮であった。「草枕」の中の、「何百という人間を同じ箱に詰めて、轟と通る・・・・汽車ほど個性を軽蔑したものはない。文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によって、この個性を踏みつけようとする。・・・・あぶない。気を付けねばあぶないと思う」というもの。近代化の象徴ともいえる鉄道を警戒しつつ、その利便性は充分に活用したという著者の指摘は正しいのだろう。

しかし、漱石は鉄道に止まらず、先端技術の進歩とともに近代化がもたらす本質的な負の部分をも引き受けて、抱え込まなければならなかった姿が病気と闘い続けた彼の人生そのものである。ナイーブであるだけにストレスは高まり精神をすり減らし、胃潰瘍も重症化していったに違いない。それにしても、明治という変革期を49才で駆け抜けた漱石の残したものがいかに多いかを再認識させられた一冊である。著者は「漱石」以上に「鉄道」が好きだと断言できる。(内池正名)

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2020年5月16日 (土)

「その犬の名を誰も知らない」嘉悦 洋著、北村泰一監修


嘉悦 洋 著、監修 北村泰一
小学館集英社プロダクション(344p)2020.02.20
1,650円

監修の北村泰一は1956年の南極観測第一次越冬隊員。当時25歳の京都大学大学院生でオーロラ観測を主任務にするとともに、犬ゾリの担当をした。昭和基地に15頭のカラフト犬を残し無念の帰国を余儀なくされたが、再度第三次越冬隊員として南極に行き「タロとジロ」に再会した人物である。現在89歳となる北村は第一次越冬隊の最後の生存者である。著者の嘉悦洋は西日本新聞社で社会部や科学分野の記者経験を持ちメディアの業界で生きてきた。

2018年に北村が健在であることを知り、「何故犬たちを置き去りにしたのか」「どのような思いで第三次越冬隊に志願したのか」「タロとジロ以外の犬はどうなったのか」「タロとジロは何故生き延びられたのか」等について北村自身への取材が実現した。この対話の中で、北村からタロとジロ以外の第三の犬が昭和基地に生存して居たという話を聞き、その犬を突き止めることに著者の視点は移っていったという。本書は60年という時間を戻し、南極体験を振り返りながら、第三の犬を解明のための北村と嘉悦の共同作業の記録である。

1956年末の南極観測船宗谷の出港のニュースは小学校3年生だった私も良く覚えている。国の期待を背負い、敗戦国として新たな発展を世界に示すイベントでもあった。南極と言う言葉の持つ挑戦の意味は同年5月の日本隊によるマナスル初登頂とともに子供心を揺さぶるには十分であった。しかし、第二次越冬隊の断念により、15頭のカラフト犬を昭和基地に置いて帰国せざるを得なかった事態に、国内で轟轟たる非難の声が上がったのを思い出す。メス犬のシロ子と8頭の仔犬たちを全て救出してきたという話もかき消してしまう程のバッシングだった。

だからこそ、その一年後に北村が昭和基地でタロとジロの生存を確認出来たときには皆が驚きとともに歓喜したということが強烈な記憶として残っている。逆に言うとそれしか記憶がないと言ってもいいのかもしれない。それだけに、懐かしい記憶を蘇らせてくれるとともに、カラフト犬の性質や南極越冬隊の活動を詳細に理解した上で謎解きに挑戦する楽しさを味わえる一冊である。

本書の前半は、日本の南極観測参加が認められ、その準備活動から北村の第一次越冬体験が書かれている。雪上車だけでなく、犬ゾリを利用すると言う決定に基づき、北海道内から20数頭のカラフト犬のオスの成犬が訓練の為に集められた。そして、タロとジロと名付けられた生後3ヶ月の仔犬も南極で犬ゾリ犬として育成させたいとの思いで選抜されている。この若さが謎解きの一つのヒントになる。

国内で訓練を重ねてはいるものの、未知の南極大陸で遭遇する困難な状況に対応しながら、越冬中に四度の犬ソリによる内陸調査が実施されたがタロとジロはまだまだ二軍であった。内陸調査は往復435km27日間という行程と聞くと、隊員と犬たちの一蓮托生の観測だったことが良く判る。一年間の越冬活動を経て、第二次越冬隊の到着を待つことになる。

第二次越冬隊を乗せた宗谷は1958年の初め、ブリザードの影響を受けて氷原に閉じ込められたまま流され140kmに迫っていた昭和基地から遠のくばかりであった。こうした状況下で、まず北村を始めとする第一次隊員が宗谷に収容されることになり、オスの成犬は首輪を穴一つきつく締めて首抜けをしない様に繋いだうえで、第二次先遣隊3名の隊員に引き継ついだ。

その間、宗谷の救援に駆けつけた米国のバートン・アイランド号の艦長から、氷状の悪化から、至急外海に離脱すべしとの勧告を受ける。第二次先遣隊の三人も昭和基地を撤収し、その後も天候は回復しないまま第二次越冬は断念したことから、15頭のオスのカラフト犬は昭和基地に残されることになった。

帰国した隊員たちを迎えたのは第一次越冬の成功よりも、カラフト犬を残して帰国したことへの激しいバッシングだった。犬ゾリ係でもあった北村は犬たちの首抜けを避けるために首輪をきつく締め第二次隊に引き継いだことに、カラフト犬が生き残るチャンスを奪ってしまったと激しく後悔したという。そして、もう一度南極に行き雪に埋もれた15頭を見つけてやる事をけじめとして第三次越冬隊への志願をするという流れは、もはや研究者という立場を越えて、彼を突き動かしていたと言える。

こうして、北村は第三次越冬隊員として参加し、宗谷からヘリコプターで昭和基地に向かった第一便の隊員から、動き回る二つの黒い点を発見したと報告を受けて昭和基地に向かう。そして、タロとジロとの歓喜の再会を果たす。一方、北村たちは雪の下に埋もれているカラフト犬たちを捜索し、ひと月近く経ったときやっと、一頭の首輪を見つけ、それを中心に探索し一頭の遺体を見つける。犬たちは4m程離して繋がれていたが、彼らは小さな群(2-3頭)をつくるように首輪や遺体が残されていた。結果遺体発見7頭、不明6頭、生存2頭と判明した。これで、北村の犬たちに対する落としどころを見つけられたと言える。

そして、主題の第三の犬の解明になる。北村が超高層地球物理学の研究に追われ、南極に係わることが少なくなっていた1982年に第九次隊員と話す機会を持った。そこで、1968年に昭和基地で一頭のカラフト犬の遺骸が発見されていたという事実を知らされる。この年は第四次越冬隊員で行方不明となった福島紳隊員の遺体が発見された年である。「第九次観測隊夏隊報告」には福島隊員の遺体発見の報告は詳細にあるが、カラフト犬遺体発見の記述は一切ない。また、当時の新聞を中心としたメディアの報道にもこの犬の遺体発見は無かった。その犬は不明6頭の内の誰なのかを解明することは遅々として進まなかったものの、嘉悦という協力者を得て真相解明を再開させる。

膨大な公式記録を読み解きながら、第八次越冬隊報告の中に「今年の夏は昭和基地の気温が極めて高く、融雪現象が激しかった。そのため第一次隊が残したカラフト犬の遺骸すら発見されている」という唯一の記載を見つける。そして、各地に散らばる第九次隊員への聞き取りを続け、「発見場所はカラフト犬の係留地近く」「大きくはない体格」「少なくとも黒色でない体毛」といった断片的な情報を得ながら、6頭の中から第三の犬の候補を4頭に絞り込んで行った。

タロ・ジロが食べ物をどこで得ていたのかについては、首輪が抜けなかった5頭の遺体は全てきれいに残っていたこともあり、一時期流布された共食説は否定された。北村が考えたのは、昭和基地の近くの海水域の氷原につくられた食糧貯蔵庫である。そこは一度海水が流入した事故が有り、海水に浸かってしまった肉類は残置されていた。また、犬ゾリで内陸探査の際に一定距離に作っていた食糧デポがある。これらを犬たちは理解していたはずだ。しかし、タロ・ジロという幼く経験の浅く、方向感覚の未熟な犬だけでは、それらを利用するには限界が有る。そのためには保護本能とリーダーシップを持ったベテラン犬の力が必要だったと考え、北村と嘉悦は第三の犬はリキというリーダー犬であるという結論にたどり着く。

首輪を抜け、鎖の束縛から逃れ自由になったタロ・ジロ以外の成犬は基地から逃れたいと考えて北海道を目指したのかもしれない。しかし、タロとジロは幼い時に南極に来たため昭和基地こそがかれらの故郷だったので動かなかった。一方リキは、タロとジロが彼を頼ったこともあり、彼らとの共同戦線を張ったのではないか。そして、食糧のある場所にも十分訓練された能力を駆使して到達していたに違いない。加えて、リキが昭和基地に踏みとどまったのは人間が戻ってくるのを待っていたのではないか。犬には死の概念がないため、人を待ち続けることが苦痛でないという。しかし、第三次越冬隊が昭和基地に到着する前にリキは息絶えた。当時のカラフト犬の寿命は7~8歳と言われていたが、昭和基地に置き去りにされた時点で7歳だったリキとしては最後まで力をふり絞った結果だったのだろう。

次の北村の言葉が切ない心境を表している。

「北村は小さく息を吐き、『タロとジロに再会したあの時に、リキはすぐそばに埋もれていたんですね。待ち続けていたのに・・・』といって私をみつめた」

犬ゾリを引くと言う集団行動の訓練の重要性、リーダー犬の不可欠さ、極限環境でも小さなグループで生き延びる努力をすることなどは人間の世界とよく似ている。個々の特性を生かしながら協力する姿はプロジェクトのあり方とそっくりだ。

北村は南極で活躍したすべての犬たちが頑張り死んでいったことを知ってもらいたいとの思いを語っているが、それは人間と犬たちの信頼関係の証でもある。使役犬としての犬たちの忠実さはまさに相互の信頼関係と人間の愛情で成り立っていると思う。そして、その関係の延長に家族の一員としての犬たちが居る。人間と犬との深い世界は極限で良く判る。内池正名)

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「疫病と世界史(上・下)」ウィリアム・H・マクニール 「疫病と世界史(上・下)」ウィリアム・H・マクニール


ウィリアム・H・マクニール 著
中公文庫(上280p・下304p)2007.12.20
各1,320円

新型コロナウイルスで「ステイ・ホーム」を強いられている。報道やウェブで日々の感染者数に一喜一憂したりする。でもこういう機会だから、コロナウイルスと感染症がどういうものかを勉強してみたい。というわけでたどりついたのが1976年に書かれた本書。20年ほど前にベストセラーとなったジャレッド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』のタネ本と言われている。

『銃・病原菌・鉄』では、スペイン人植民者が持ち込んだ疫病によってメキシコや南米の先住民人口が激減し、アステカ文明やインカ文明が滅んだ例が取り上げられていた。この『疫病と世界史』はもっと長い時間軸を取って先史時代から現代まで、疫病が世界史にどんな影響を与えたかが俯瞰されている。マクニールによると、彼がこの本を書く以前、歴史家にとって疫病は本格的な興味の対象でなく、もっぱら好事家が取り扱う分野だったという。だからこの本は、歴史家が初めて本格的に疫病という視点から世界史をながめたオリジナルな仕事と言えるだろう。

といって全体を紹介する余裕も力もないので、先史時代、中世ヨーロッパの黒死病、近代について、興味あるところをスケッチしてみたい。

何百万年も前、人類の祖先が熱帯雨林で暮らしていた間は、人類と人類(宿主)に寄生する寄生体との関係は安定していた。ところが人類が森からサバンナに進出し、道具や武器、言葉を獲得して動物を狩るようになり、食物連鎖の頂点に立ったことで生態のバランスが狂いはじめた。人類はサバンナの草食獣との接触によって新しい寄生体に侵されることになる。また連鎖の頂点に立ったことで人類の数が増えることになり、寄生体が宿主から宿主へ移動する機会も増えた。人口増加した人類は寄生体の側から言えば絶好のエサ場となったわけだ。「そこで、ある決定的な限界を突破すると、感染症は奔流のように過剰感染となって爆発する」。

時代が下って農耕が生まれると、寄生体にとって更に好都合なことが起きた。焼畑農業で生まれた空地は蚊の繁殖場所となり、マラリアが猛威をふるいだした。メソポタミア、エジプト、インダス河流域で灌漑農業が始まると水辺で働く農民に吸虫類が寄生し、住血吸虫症を引き起こす。家畜やイヌを飼うことで、ペスト、黄熱病、狂犬病、インフルエンザなどの感染症が動物からヒトへと移った。

やがて都市が生まれ人口密度がある限界を超えると、バクテリアとウイルスは中間宿主に頼らなくともヒトの間で生存が可能になる。「だから、中間宿主なしに直接ヒトからヒトへ移動する、感染性のバクテリアないしウイルス疾患は、とりわけ文明特有の病気なのである」。はしか、おたふく風邪、百日咳、天然痘などが次々に感染爆発し、やがて人々に免疫が生じて、抗体を持たない子供だけが罹る小児病や、ある地域だけに残る風土病となる。そんなふうに新しい病気が発生し、何度かの波があり、沈静化するまでには120~150年かかるという。

次に中世ヨーロッパの黒死病。著者は「ひとつの仮説」として、こう述べる。13世紀半ば、モンゴル軍が雲南省とビルマを掠奪した折にペスト菌を持ち帰り、モンゴル高原に繁殖するネズミの間で繁殖することになった。ペスト菌はやがて中国にも侵入する。一方、北アジアには東西を結ぶ隊商路があり、ペスト菌は隊商が運ぶ食料を食うネズミと、ネズミにたかるノミとともに西へ西へと旅してクリミア半島に到達する。そこから船に乗って地中海や北ヨーロッパの港町へと広がり、内陸へのびる放射状の道路を伝って、ヨーロッパと中東のほとんどの地域がペスト菌で汚染された。

隔離検疫という考えが生まれたのは14世紀イタリアだった。ペストの疑いのある港から来た船は40日間、陸上との交渉を絶つべし、と定められたのだ(検疫quarantineの語源はベネツィア方言の「40日」)。ペストの襲来は17世紀まで繰り返され、そのたびに症状が変わって激甚化したり弱まったりした。14世紀半ばの襲来では、4年間でヨーロッパ総人口の三分の一が死んだという。

ペストによる人口減は深刻だった。14世紀、農耕など単純労働に従事する労働力が少なくなって、それまでの社会経済秩序がヨーロッパ各地でさまざまに変化することになった。東ヨーロッパではユダヤ人によって市場主導型の農業が発達した。また労働力不足と市場経済が実質賃金の上昇をもたらした地域もあった。そこでは労働者は毛織物の服を購入でき(この時期、ヨーロッパは寒冷化していた)、貧民でも完全に肌を覆う衣服を着られるようになった。そのことで皮膚から皮膚へ感染するハンセン病やフランベジアの流行は下火になったが、一方、シラミと南京虫が媒介する発疹チフスが蔓延するようになった。

ペストは人々の心にもさまざまな影響を及ぼした。悪疫が引き起こした憎悪と恐怖は、異様な鞭打ち苦行者の集団を生みだした。彼らは互いに血みどろになるまで打ち合い、ペストをばらまいたと見なされたユダヤ人を襲撃することで神の怒りをやわらげようとした。鞭打ち苦行者は教会と国家の権威を認めず、彼らの祭祀は集団自殺の観を呈したという。説明のつかない突然の死を前に人々は従来の神学を信じられなくなり、神との霊的合一をめざす神秘主義が流行した。こうした反教権主義はやがて宗教改革を生む一因ともなった。

一方、イタリアの諸都市は隔離検疫や行動規制を取り入れ、食糧の供給を確保してペストに素早く対処することができた。その活力がやがてルネサンスを生みだす基盤ともなる。「一言にして言えば、ヨーロッパは新しい時代に入っていったのだった」。

19世紀末、コッホによってコレラ菌が発見された。以後、近代医学は次々に病原菌を発見し、予防と治療を効果的に行えるようになった。その結果、マラリア、高熱病、発疹チフス、結核といった感染症を世界的にかなりの程度抑え込めるようになった。1970年代、WHOは天然痘の根絶に成功し、人類と感染症の戦いは人類の勝利に終わるかに見えた。が、感染症を引き起こす微生物が反撃を開始した。その最初の一撃がエイズだった。「自然界の複雑に絡み合った生態的関係に、人類がなんらかの新しい手段を考え出して改変の手を加えるときには、必ずそうなると決まっているのだが、1880年代以来医学研究が達成した微細な寄生生物の制御ということは、予期せざる無数の副産物と新しい危機」を生むことになった。

例えば「病原生物が突然変異を起こす可能性」。変異を繰り返すインフルエンザが典型的だ。また例えば、「正体不明の寄生生物が、馴れ親しんできた生態系地位を離れ、……密集する人類を襲い……高致死性の病気に見舞わせる」可能性。いまパンデミックとなって世界を震撼させている新型コロナウイルスがこれに当たる。

本書はこう結ばれている。「人類の出現以前から存在した感染症は人類と同じだけ生き続けるに違いない。そしてその間、これまでもずっとそうであったように、人類の歴史の基本的なパラメーターであり、決定要因であり続けるだろう」。

つまり僕たちがステイ・ホームしている日々は、人間と感染症との未来永劫終わることのない戦いの、ある一コマだということだ。異常な日々でなく、世界史のなかに置いてみれば、過去にあり未来にもあるうる、ありふれた一日なのかもしれない。それ以前の、ウイルスの恐怖を知らなかった日々は、むしろ幸運な谷間の例外に属していたことになる。

数世紀に及ぶ中世ヨーロッパのペストは、市場経済や宗教改革やルネサンスを生む一因となったように、社会を変え人々の心をも変えた。とすれば、もし新型コロナウイルスが制御できずこれから数年、いや数十年にわたって間歇的に世界を襲うとするなら、「コロナウイルス以後」の世界はどういうものになるのだろうか。

グローバリズムの結果としてある貧富の格差拡大は、さらに激しくなるのか。人々の不安と恐怖が生みだす強権的な国家が地球を覆うことになるのか。この数カ月、各国でアマゾンの需要が増えネットフリックスの会員が増加したように、GAFA+Nの独占的な支配がいよいよ強化されるのだろうか。

そんな構造的な変化に目をこらしながら、僕たちが日々のなかで気をつけなければいけないのは、現代的「鞭打ち苦行者」にならないことだろう。「鞭打ち苦行」を生んだ基盤は、今の僕たちが感じているのと同じ不安と恐怖。それが合理的な説明のつかなかった当時、理由もなく自分を鞭打ち、ユダヤ人襲撃のように他人への敵意にたやすく転化した。

それは自分にも起こりうる。散歩していて、向こうからマスクをせずジョギングする人が来る。荒い息をしている。すれ違うまでのわずかな間に、どうするかを決めなければならない。できるだけ脇へ避け、目を合わせずに距離を取ろうとするか。相手の目を見て、抗議の意味をこめ無言でにらむか。そのとき、心のなかには小さな敵意が芽生えている。

心のなかに不安と恐怖があり、目の前に混乱する現実がある。その現実を前にして、「鞭打ち苦行者」のように人は自罰感情あるいは他罰感情に捉われやすくなる。自罰感情は、混乱する現実から目をそらし自分の巣に閉じこもろうとする。でもそれは逃げているのだからどこかに無理が生じ心身の不調を引き起こしやすい。他罰感情は、自分から見て悪しき行いをなす人間を名指し、罰しようとする。小さな敵意が積み重なり、集団になり、それが「正義」を背負ったりすると、他者に対する断罪となる。

現にウイルス感染が少ない県の行楽地では、他県ナンバーの車を見張ったり傷つけたりする自警団的な動きが生まれている。「自粛」に反して営業している店に警告して回る自粛警察も生まれている。SNSには、他者の行いや意見を非難する匿名の悪口雑言があふれている。いやあな気分だ。

そんな自罰感情にも他罰感情にも振り回されず、自分で判断し、自らの行動を決めるにはどうしたらいいのか。答えは出ないけど、少なくとも本書のように感染症について長い時間軸のなかで考えてみることは何がしかの余裕をもたらす。と、ここまで書いてきて、ふたつの言葉を思い出した。自罰にも他罰にも陥らないために、それを書き記しておこう。

ひとつは他者への態度で、封鎖された武漢から発信された作家・方方の日記の一節。「一つの国が文明国家であるかどうかの基準は、高層ビルが多いとか、クルマが疾走しているとか、武器が進んでいるとか、軍隊が強いとか、科学技術が発達しているとか、芸術が多彩とか、さらに、派手なイベントができるとか、花火が豪華絢爛とか、おカネの力で世界を豪遊し、世界中のものを買いあさるとか、決してそうしたことがすべてではない。基準はただ一つしかない、それは弱者に接する態度である」(DIAMOND online、2020年3月6日)。

もうひとつは自分への態度で、鴨長明『方丈記』の一節を蜂飼耳の現代語訳で。「もし、念仏をするのが面倒になり、読経に気持ちが向かないときは、思いのままに休み、なまける。それを禁ずる人もいないし、誰かに対して恥ずかしいと思うこともない。無言の行をするわけではないが、一人で過ごしているから、何かを言ってしまうという失敗も生じない。戒律を絶対に守ろうというのではなくても、破らせる環境ではないから、破る結果になりようがない」(山崎幸雄)

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