2019年11月16日 (土)

「ヒト、犬に会う」島 泰三

島 泰三 著
講談社(266p)2019.07.12
1,925円

人と犬との関係は長い歴史がある、それは単なるペットではなく警察犬や牧羊犬を始めとした使役犬としての活躍の場は犬種を問わず多様である。まさに人間の良きパートナーという言い方が適切だと思うのだが、著者が熱く語っているのは「犬がいたからこそ、大型類人猿の一種『ヒト』は『人間』らしくなり…現在の『文明』にまで至った」という犬と人間の対等な関係である。著者は動物学者で日本ザルやマダガスカルに生息するアイアイという小型猿研究の専門家だが、本書では犬と人間の関係を幅広い領域からの分析と賛否を含めて多くの学説を引きながら精緻な説明を展開している。論文を読むような感覚で読み進んだのだが、一方、そこまで言わなくてもという「反論の表現」が有ったりするのも著者の「犬愛」の為せる業なのだろうと思う。

犬にまつわる興味深い事象がいろいろ紹介されているのだが、その一つが「歩く食糧貯蔵庫」仮説。その仮説とは1万5千年前に「イヌ」と「ヒト」は出会い、イヌの家畜化が進み、猟の協力者として、同伴者として、寝床を温めるものとして、そして時には食糧としてイヌが狩猟採集民に扱われていたと言うもの。「食糧」という言葉に一瞬違和感を覚えるが、犬食文化がある中国や韓国そしてオセアニアなどの地域の広がりを考えると、この仮説の存在を否定することも出来ない。

また、大分県での高度に訓練された紀州犬がイノシシと戦って倒すという特殊なイノシシ狩り、モスクワの地下鉄に乗って駅間を移動する犬、江戸時代のお伊勢参りの犬など、本当かと思いつつも人と犬のつき合い方の多様性を良く示しているエピソードである。また、犬は言葉を理解出来ず、名前を呼ばれてしっぽを振るのも単に音に反応しているだけという説に反論するかの様な事例が示されている。それは、初対面の犬に会うとき、事前に犬の名前を教えてもらい、初めて会った時に名前を呼ぶと犬は「なぜ、お前はおれの名前を知ってるんだ?」という驚きと怪訝な表情をするという。犬は単に名前を呼ばれて喜んでいるだけではないのだ。本当に怪訝そうな顔をした黒い犬の写真が添えられている。納得である。

本書が扱っているテーマは、「犬への変化」と題してイヌの起源を探りつつ、多くの学説を引きながら進化によるイヌの特性の変化を紹介し、「イヌ、ヒトに会う」と題してイヌとヒトが同盟関係を結んでいく過程を示し、「犬の力」と題して犬の特性を分析して人との共生の意味を解説。「ことばはどのように生まれたのか」という章では人と犬のコミュニケーションと言葉について語られている。

第一章は「犬への変化」と題してその起源が詳細に説明されている。食肉目としてネコ亜目とイヌ亜目の二つに分離したのが5600万年前。そして北米からユーラシア大陸に進出して100万年前にオオカミとイヌの共通祖が確立した後、「オオカミは人を襲わないという人間への許容度が高い。一方、イヌは人に対する高い親和性とともに、特定のヒトに強く結びつく傾向がある」という特性差を持ちながら独立していったことが判る。

第二章は進化してきたイヌがいよいよヒトと会うことになる局面で1万5千年前にオオカミ亜種のイヌがヒトにより家畜化されていく過程が示されている。

イヌが南下していって小型化が進んだ結果、イヌの平均体重はオオカミに比較しても半分近く軽くなっており、ヒトにとっては適切な大きさになっていた。また、イヌが多産であることや性成熟期間の短さといった生殖戦略はヒトが犬と共生するにあたって、仲間として適切な種を作り出していくための淘汰のサイクルが短いということも有利な点であったとしている。一方、ヒトは先行するホモ・エレクトウスやネアンデルタールの辺縁をさまよう直立二足歩行類人猿だった。

こうした特徴を持つ二つの種が同盟を成立させた理由は、ヒトとイヌ共に祖先種と比較すると小型で強力さに欠けているという相対的に弱いもの同士が結びついたものとされている。こうした環境でヒトは東南アジアに至って、ついに豊富な食生活を体験することになる。そこでイヌに与える食物もあり、イヌと共生することで他集団や大型捕食動物から逃れることが出来るといった相互関係により同盟が確立したと説明している。

第三章は「犬の力」と題して人と違う能力や特性を紹介している。犬は人と違って嗅覚、聴覚、味覚といったものだけでなく「恐怖」「凶暴さ」を匂いで嗅ぎ分けると言う。まさに人と別世界に居るということだが、味覚においても犬は水に関しては独特の味蕾があり水の味を感じることが出来ると聞くと、水をうまそうに飲む犬の姿にも納得がいく。また、犬の特性として集団行動の適応能力の高さこそ重要な点である。

こうした、人にない感覚能力、集団活動能力などを活用して、イヌから犬になった「犬」は人間社会でのみ生き延びられる存在となり、人間の意思を正確に実施しようとする特性を手にしたと言う。一方、ヒトは発達した大脳皮質前頭葉を使って全体的な判断を進化させてきたが、運動能力や感覚について高い能力を持っている訳ではない。このイヌとヒトの判断能力の違いを著者は、「犬は『人の仕草や物言い、匂い』など全体で客観的に判断するが、人は『第一印象』といった『幻想で判断する」と説明している。

第四章は「ことばはどのように生まれてきたのかについて述べられている。犬は声道の構造から人間の様に子音+母音といった発声は出来ないが、犬は人の話言葉を理解する。言葉と言っても、「身振り」「音声」「文字」の三つの形態があるが、その中でヒトの最大の特徴を「ひっきりなしのおしゃべりだった」としている。こうしたコミュニケーション力の進化のステップの第一段階とは、まず呼びかけ能力として相手が応えるまで「作為的な呼びかけ」を続けることであり、次にヒトの言葉は「命令」の段階に入る。この時代は道具の利用の拡大など遺跡も多く残る時代だ。そして2万5千年前から1万5千年前頃にヒトは名詞と修飾語、命令語をつなぐことを始めたという仮説だが、それは考古学的に動物を表す絵が数多く描きはじめられた時代と一致するという。

その中で、犬とのコミユニケーションと言えば「身振り」と「音声」ということになる。主たるものは飼い主がひっきりなしに語り掛ける明瞭な「音声」によって主人の感情や意図を間違いなく察知する能力であり、いずれにしてもそれに従うかどうかは犬と飼い主との相性であったり、犬からみて尊敬や信頼できる相手であるかどうかという。この指摘は全ての人間関係においても成り立つ指摘であることが、また怖い所だと気づかされる。

そして、最後に人にとっての犬の存在について著者は次の様にまとめている

「犬は大好きな人の傍らに常にいるが、まったく異なった世界を見ている。それだけに、人は心が開放される。人が犬のそばでは信じられないほど饒舌になるのはそのためなのである」

本書の読書は、犬との生活の記憶とも重なり合って納得や驚きが続いた。中学生の頃、家で飼っていた秋田犬とコリーのミックス犬は長生きしたこともあり、懐かしさがいくらでも湧いてくる。もっと話しかけてやれば良かったと思うばかりだ。

犬に対する雑学的知識を満喫した読書であったが、気になる点が一つあった。それは、まだオオカミの亜種で会ったころは「イヌ」、家畜化されたイヌを「犬」と表記するとしており、同様に「ヒト」はホモサピエンスという人類種を示し、「人」は犬の家畜化以降のヒトを示すとしている。この説明を読んでいた時、「ヒト、犬に会う」という本書のタイトルは辻褄が合わないのではないかと思った。家畜化を起点とした表現の変化であれば「ヒト、イヌに会う」でないといけないのではないか。しかし、読み進むと第二章のタイトルは「イヌ、ヒトに会う」と整合性のある表記になっている。本のタイトルの表記は何か意図が有るのだろうか。また、考えてしまう夜の読書である。(内池正名)

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2019年10月18日 (金)

「在野研究ビギナーズ」荒木優太 編

荒木優太 編
明石書店(286p)2019.09.06
1,980円

「在野」という言葉の意味を問われて、「ブロ」に対する「アマチュア」、「公」に対する「民」、「組織」に対する「個」といった様に、自分自身の中では曖昧な概念として理解していることに気付かせられた。本書は10名を超える在野で研究している人達の実践体験を自ら紹介する形で「在野」を選択した理由や研究手法、仕事との兼ね合いなどが語られている。編者の荒木は、「在野研究」とは「大学に所属しない学問研究」というザックリとした定義で研究者を取り上げていることもあり、対象の広がりが面白さを増している。

「在野」という言葉は在朝(政府)と対で用いられたもので、「十分に能力はあるが朝廷に仕えない民間人」を指していた。明治以降はより広く政権を得ていない政治家達を指し、官学に対して私学を確立する教育者たち(福沢諭吉や大隈重信)も「在野」であり、美術の世界で官展(日展)の外での芸術活動に対して在野という言葉が使われているという記述を読むと、自分自身の定義の曖昧さという事だけでなく、「在野」ということばが時代とともに多様な使われ方をしてきたことが良く判る。

戦後、鶴見俊輔たちが立ち上げた「思想の科学」の同人たちは「民間アカデミズム」とか「在野の知識人」といった表現がされているのだが、鶴見は終戦で復員するとともに大学に籍を置いていたことを考えると何となくしっくりこない。とは言え、少なくとも「アカデミズム」に埋没していなかったと言うのは事実だ。そう考えると荒木の言う「在野とは、権力そのものを相対化する立場」という意味付けが私には一番納得感がある。

本書は、大きく三つの論点で構成されている。第一部として「働きながら論文を書く」という観点、第二部は「学問的なるものの周辺」としていかにも学問的な領域から趣味的な領域まで知の世界を広く紹介している。第三部は「在野研究」のインフラとして「新しいコミュニケーションと大学の再利用」を取り上げている。ただ、各章は14名の在野研究家たちが自らの研究の説明をしているので、興味のある章だけを読み進むことでも十分楽しめる。

何故在野で研究を始めたかについては、「教員になりたくなかった」とか「研究は好きだが仕事にはしたくない」という理由を挙げている人もいれば、人文系は一人で文献を読むことで成果は出せるという人も居る。そうした中でアシナガバエを研究してきた人が学問領域の特性として、生物の研究は歴史的にアマチュア研究者が大きな役割を果たしたという指摘をしている。フィールドの調査、収集が基本という理由だろう。

研究領域によって在野研究のやり易さ、やり難さがあると思うが、やはり設備・装置が要らない人文系が多くなるのは否めないと思う。働きながらの研究は「仕事が研究に役に立つのか」や「研究が仕事の役に立つのか」といった真面目な論点もあるのだろうが、いずれにしても両立させる努力と割り切りが必要ということだろう。

在野で研究することの苦労の種も多く語られている。文献収集やフィールドワークの費用捻出、大学図書館へのアクセスの制約、他研究者との接点の少なさによる学問的刺激の不足等々。こうした点は想像がつく範囲であるが、論文やフィールド調査に於ける「肩書」が悩みどころであるとは気づかなかった点だ。やはり仕事上の名刺みたいなものが必要なのだろうか。海外論文では「Independent Scholar」という肩書が使われていて問題ない様であるが、「皇居におけるタヌキの食性と季節変動」という2008年の論文の共著者のひとり「明仁」という人物の所属は「御所(The Imperial Residence)」と記載されているという。何とも不思議な表見である。

昨今の情報化社会で言えば、情報の発信・検索の観点では、図書館などに情報収集を依存する必要性は徐々に少なくなっているし、今までであれば論文によって研究成果を発信していたものが、多くの在野の研究者がインターネットを活用しているというのは肯けるところだ。そもそもインターネットで情報を集めることにコストは掛からないし、自宅で検索が出来ることを考えると、10年、20年前の研究状況とは全く変わってしまっていると思う。

同時に、発信手段として考えれば、日本語・英語の併記発信をすると海外研究者の目に止まる頻度も圧倒的に多くなる。こうした、グルーピングの形成も新しい流れなのだろう。ただ、インターネットによる欠点として、web情報にページの概念がなく、参照先を明確にし難いという指摘も一理ある。

一方、物理的な「本」の価値を力説している人がいる。本の効用として論考のまとめ、研究のけじめ等に加えて訂正がないことを指摘しており、「本は研究を終わらせるとともに、次を始めさせる強制力としての作用」があるというもの。その気持ちはなんとなく判る気がする指摘だ。

「在野」の学問のあり方について一般解が有るわけではないし、本書でも研究者達の体験・実践をベースにして読者一人一人が手法選択のヒントにしてほしいと編者は言っている。興味のあることを掘り下げて調べたり、実験したりすることは本人が無自覚のうちに研究者的なことをしている人は多いという。そう考えると、ちょっとした発想の転換で趣味が研究に変わるという事だ。つまり、「好きなものに憑りつかれ、好きの力を信じる」という姿勢が在野を支えているというのは事実だろう。その中で「書評を書くことも研究」という意見が出ていたが、今私が書いている読書感想文的書評では「継続」の意味はあっても「研究」には程遠いと思うのだが。

在野研究には「明日が無い」と編者は言う。
「明日は労働、育児、家事、病院通いといったもろもろのスケジュールで埋め尽くされているから。それでも『明後日はある』と信じて在野の研究者は日々励んでいる。また、明日の明日(明後日)は二重の意味で在野研究者に到来する。知識不足、指導者不在、その研究がなんの価値があるのかといった不安定の中、それでも突き進む頓珍漢でジグザグな方向へ、あさっての方向へ」

それでも、既存のアカデミズムの利用出来るものを目ざとく見つけ、「好きな領域=趣味」を掘り下げるという姿勢は、長い人生を考えれば自分自身でも持ち続けたいと思わせられた。

そう書きながら、若い時に国鉄の切符を集めていたことを思い出した。昭和初期から昭和30年代の山手線の切符の変遷だ。渋谷駅の切符のパンチの形が昭和16年の10月前後で変更になっていたり、硬券から物資不足で軟券に代わっていったり、なかなか興味深い事実があったことを思い出し、本棚の切符ホルダーを手にした。

「あさっての方向」でも「好きな方向」ならいい。研究という観点だけでなく、人生感として読んでも面白い一冊だった。(内池正名 )

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2019年9月15日 (日)

「湘南」の誕生

Shounan_masubuchi

増渕敏之 著
リットーミュージック(288p)2019.02.28
1,728円

「湘南」という言葉はごく日常的な言葉として使われている。しかし、その言葉は多様なイメージを持っていることからその構成要素を分析して「湘南」を考えてみようというのが本書の狙い。著者は1957年生まれというから、私より10歳若い世代であることを考えると、「湘南」という言葉から受ける感覚の差はそれなりに大きいと想像できる。しかし、本書では歴史的経緯や、「湘南」を表現した多くのコンテンツを客観的に捉えることで、世代論として議論を狭めることはない。読者自身の「湘南」経験を本書が示す湘南イメージ全体の中に位置付けてみるという、双方向的な感覚が面白い読書になった。

湘南という地域名称の発祥から本書はスタートする。1669年、大磯に禅僧の崇雪が鴫立庵を構え、「著盡湘南清絶地」と石碑に刻んだことに因んでいるという見方。加えて、明治以降、文人たちが相模川を湘江と呼び、その南側を「湘南」と名付けて政治結社、病院、会社、村などに「湘南」を冠していったという歴史が紹介されている。

一方、相模川の東岸である茅ヶ崎や寒川などでは「湘東」という名称が橋や団体名に付けられていた等、歴史的な「湘南」の範囲については興味深い話が多く紹介されている。

そして、現在の行政上の区分や、自動車の「湘南」ナンバープレートの対象自治体、気象庁が使う湘南の範囲の間でも地理的相違があるが、いずれにも鎌倉、逗子、葉山は入っていない。一方、湘南の範囲に関するアンケート結果が紹介されているが、第一位は「茅ヶ崎から葉山まで」であり、「大磯から葉山まで」が第二位であるという結果を見ても湘南の定義の複雑さが良く判る。

明治以降の大きな変化は西欧文化の流入とともに海水浴保養が謳われ、御用邸や別荘地化が進み湘南文化の礎となった。この範囲は大磯から葉山までの海岸線であり、こうした開発を支えたインフラとして国府津までの東海道線の開通(1887年)、横須賀線の開通(1889年)は重要な要素であった。

こうした要素を踏まえて、著者は本書における「湘南」を「大磯、平塚、茅ヶ崎、藤沢、鎌倉、逗子、葉山」としてその範囲を定義している。

この地域としての「湘南」の等質性を著者は以下の三つの構成要素で説明しようとしている。別荘文化に代表される「高級・富裕」イメージ。サーフィン、ヨット、海水浴といった夏と海に代表される「若者」イメージ。「爆走族・暴走族」に代表される「ヤンキー」イメージ。これらが重層的に組み合わされて湘南イメージが作られていったという仮説である。これらを湘南の発展や歴史的事象に加えて、文学、音楽、映像、マンガといった領域での湘南の表現の実態を描いている。

「湘南の音楽」という切り口では、自由民権運動の盛んな時代に演歌師として活躍した添田唖蝉坊やオッペケペ節の川上音二郎が茅ヶ崎に住んだところから著者は語るが、そう言われても「なるほど湘南」という感覚は希薄だ。しかし、戦前に上原謙が病気がちな息子の加山雄三の健康のために茅ヶ崎に転居したという逸話や、戦後の相模湾沿岸の米軍演習場や施設が作られて米国に代表される基地文化が湘南サウンドの創成に大きく影響したと見ている。

こうした歴史を踏まえて、「湘南サウンド」を、湘南育ちの若者を中心に発表された海やスローライフを主なテーマとした一連のライトミュージックと定義しているのだが、加山雄三とランチャーズ、ザ・ワイルドワンズの時代を経て、1972年に荒井由実が登場し、初期の作品の「天気雨」では直接的に湘南が登場する。八王子に住んでいた彼女と湘南を結ぶ相模線か重要なインフラであり、加えてTUBEも座間の出身で相模線の貢献を指摘しているのは鉄道好きの私としては拍手したくなるような分析である。

そして、サザンオールスターズが茅ヶ崎出身として1978年にデビューしたが、そのインパクトの大きさを考えるとサザンの持つ「湘南」イメージは圧倒的である。一方、堀ちえみや荻野目洋子といったアイドル達も楽曲として湘南を歌っているものの、湘南を表現するコンテンツはやはり自作自演のアーチストの持つ表現力の強さが裏打ちされているという事だろう。

「湘南の文学」として、1903年に発表された村井玄斎の「食道楽」が取り上げられている。村井は平塚に広大な敷地を持ち耕作をしながら、東京や大磯から著名人を招きまさに食道楽を堪能していた人間である。そして、大正期に入り、里見弴、久米正雄など多くの文士が本邸や別邸を構えて鎌倉文士と言われ、鎌倉を舞台とした多くの作品を発表していた。

戦後は1955年に石原慎太郎が葉山を舞台とした「太陽の季節」を、1964年立原正秋が鎌倉を舞台とした「薪能」といった名作が生まれる。その後、片岡義男の「スローなブギにしてくれ」、村上春樹の「村上朝日堂」などにも湘南が語られているとしている。ただ、私は「スローなブギにしてくれ」からは「湘南」というよりも、あの時代の「若者の切なさ」を感じていたというのが実感である。

「湘南の映像」という切り口として、まず1936年に松竹撮影所が蒲田から大船に移転したことが指摘されている。これを契機に俳優たちが鎌倉などに居を構えたり、大船の都市開発の進展なども湘南イメージの醸成の一翼を担ったと言える。

湘南を描いた映画としては「太陽の季節」や「若大将シリーズ」、黒沢明の「天国と地獄」など多くの映画作品が紹介されているが、その中で1971年の藤田敏八の「八月の濡れた砂」や1990年の桑田佳祐の「稲村ジェーン」が私としては印象深い作品である。この二作はともに主題歌が大きなインパクトを感じていたことを思い出す。

最後の視点は「湘南とマンガ・アニメ」である。「スラムダンク」や「ピンポン」「南鎌倉高校女子自転車部」といった作品のストーリーから「ヤンキー」と「湘南」の係わり合いを読み解いているのだが、私は1980年代以降のマンガやアニメについては知見もなかったが、唯一、イラストレイターのわたせせいぞうを取り上げていたところは共感できるところであった。1970年代に出逢ったわたせのイラストや作品には若い落ち着いた男女、海、車、空といった風景が独特な色彩感覚で描かれている。わたせの作品が持つイメージは私の湘南の感覚に重なり合うというのも事実である。

こう考えてみると「湘南」という地域イメージ、地域ブランドの形成とは各自治体の努力によって作られたものではなく、時代と人々によって自然と作られていったというのが著者の主張の大きなポイントであり、多くの自治体が現在進めている地域活性化の戦略のヒントになるだろうと言う主張もしている。「湘南」で終わらせることなくこうした分析から地域活性化のヒントが生まれてきてほしいと思うのだ。

私は1987年から1991年の4年間(年齢的には40代前半)平塚市八重咲町に住んでいた。村井玄斎の旧宅と道を隔てたところだ。10分も歩けば海岸。134号線をドライブして茅ケ崎や片瀬などのレストランを訪れたり、平塚海岸からの投げ釣りや花火大会を楽しみ、箱根駅伝の応援をしたりと、東京の下町育ちとしては束の間の湘南ボーイを体験した。そうして充分楽しい時間を過ごした思い出を蘇らせてくれた読書であった。(内池正名)

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2019年8月17日 (土)

「文豪たちの悪口本」彩図社文芸部

彩図社文芸部 編
彩図社(224p)2019.05.28
1,296円

名だたる文豪たちが、同業者である作家や編集者に対して発した「悪口」や「非難」の文章を集めた一冊である。「これらの悪口から文豪たちの魅力を感じてほしい」との思いから本書をまとめたとのことであるが、言葉のプロ達の「罵詈雑言」を突き付けられると喧嘩となった理由を理解・納得する以前に、彼らの人間性にいささか否定的な思いを持たざるを得ない程、激しい言葉遣いに驚いてしまう。そこまで言わなくても…と、読んでいて辟易としつつも、文壇人間模様の確認という意味ではそれなりの読書だったという事だと思う。まあ、暑い夏の読書としては、清涼感を期待してはいけない一冊。

本書で取り上げられている文豪たちは、「太宰治と川端康成」「中原中也」」「志賀直哉と無頼派作家たち」「夏目漱石と妻」「菊池寛・文芸春秋と今東光」「永井荷風と菊池寛」「谷崎潤一郎と佐藤春夫」といった人達の間での、一言でいえば喧嘩の集大成である。もっとも、夏目漱石の日記に記載されている妻鏡子に対する悪口は、漱石の洒落っ気と負けず嫌いが根底にあり、しっかり者の妻に対する亭主の遠吠えみたいなものだから、他のケースとは異なった「悪口」である。

まず登場するのは太宰治であるが、川端康成との対立は芥川賞選考に関する川端の「私見によれば作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みがあった」と言うコメントに始まっている。結果として太宰の作品「逆行」は受賞叶わず、私生活まで非難されたと感じた太宰は次の様な抗議文を「文芸通信」に投稿した。

「私はあなたの文章を本屋の店頭で読み、たいへん不愉快であった。…ただ、あなたは作家というものは『間抜け』の中で生きているものだということをもっとはっきり意識してかからなければならない」

太宰が言う「間抜け」、川端が言う「生活の厭な雲」の一端を示すものとして、太宰の日記には金を借りる話が数多く書かれているが、「小説を書き上げた。こんなにうれしいものだったかしら。…これで借銭をみんなかえせる」という文章が印象的である。川端がこうした状況を「生活の厭な雲」というのも判らなくはないが、芥川賞の選考に影響させると言うのはやりすぎだとおもうのだが。

次に、太宰が対立したもう一人の人物は志賀直哉である。志賀は「文藝」の対談で太宰の「斜陽」などの作品について「さいしょからオチがわかっていてつまらなかった」とか「貴族の令嬢の言葉遣いがおかしい」などと評している。それに対して太宰は「新潮」に反論を連載し始める。

「或る雑誌の座談会の速記録を読んでいたら、志賀直哉というのが妙に私の悪口を言っていたので、さすがにむっとなり、こちらも大いに口汚く言い返してやったが、あれだけではまだ自分を言い足りないような気がしていた。…どだいこの作家などは思索が粗雑だし、教養はなく、ただ乱暴なだけで、そうして己ひとり得意でならず、文壇の片隅に居て一部の物好きなひとから愛されているくらいが関の山であるのに、いつの間にやらひさしを借りて図々しくも母屋に乗り込み、何やら巨匠のような構えを作って来たのだから失笑せざるを得ない」

この「如是我聞」と題された一連の反論の最後が発表されたのは昭和23年3月。太宰は三か月後に愛人と入水自殺することになる。

また、志賀直哉は昭和22年の朝日評論の谷崎潤一郎と対談の中で太宰と同じ「無頼派」と言われていた織田作之助の印象を聞かれたときに「織田作之助か、嫌いだな僕は。きたならしい」とバッサリ切り捨てている。好き嫌いの表明自体が問題であるとは思わないが、記録に残る文章で「きたならしい」という発言はまさに「悪口」だ。文壇だから許されるというものではないだろう。この発言に対して織田は太宰と違って冷静に反論しているのが大人らしい。

「口は災いのもとである。…ある大家は私の作品を人間の冒涜の文学であり、いやらしいと言った。…考えてみれば、明治以降まだ百年にもならぬのに明治、大正の作家が既に古典扱いされて文学の神様になっているのはどうもおかしいことではないのか」

菊池寛は文芸春秋を創刊し、川端康成、横光利一らの若手作家の活躍の場を提供して行った。今東光も同人の一人であったが、「文芸時代」の創刊や大正13年の文芸春秋に掲載された「文壇諸家価値調査表」なる記事が契機となって騒動が勃発する。それは70名の作家を対象として、学歴、天分、風采、資産、性欲など11項目を評価採点したものである。これに憤慨した横光利一は読売新聞に、今東光は新潮に「文芸春秋の無礼」といった文章を送り付けた。ただ、横光は川端のとりなしで掲載前に撤回し、一方、今東光は以下の文章を新潮に掲載した。

「この決定的な、この上思いあがった、そしてこの非常識…何だか例に引いても不愉快だ。もうよそう。心ある文士は憎悪すべき非礼と侮蔑に甘んじられないならば、宜しく須らく『文芸春秋』に執筆しないことだ」

これに対し菊池寛は「しかし、今東光輩の『自分達を傷つける』意思云々に至っては自惚れも甚だしい…今東光でなく第三者が該表掲載の非礼を糾弾するならば自分は名義上の責任を負うて三謝することを辞さない」と激しく応えている。

菊池寛と永井荷風の確執も本書のテーマとなっている。私も学生時代に断腸亭日乗を読み通していたが、永井は数寄者で遊び人の文学者といった印象が強く、あの日記から菊池寛との関係を読み取ることは無かった。本書で引用されている断腸亭日乗では「文士菊池寛、予に面会を求むという。菊池は性質野卑。交を訂すべき人物にあらず」と一刀両断である。

多くの罵詈雑言が本書には収められているが、これらは、雑誌等の刊行物に掲載された文章、断腸亭日乗のように個人的な日記、そして谷崎と佐藤の例の様な手紙といったものに分類できる。常識的に言えば日記のような非公開のものに記述される言葉はより過激になると思うし、公的な刊行物に記載する文章は一番抑制的になると思うのだが、本書に記載されている太宰治、今東光、菊池寛たちの文章表現は感情開放度も高いことに驚くばかりである。文士にとってはこれらも作品の一部ということだろうか。

そして、本書に集められた文豪たちの活躍した時代は、お互いの「悪口」のやりとりの時間の流れが日単位・月単位であり、気持ちの落ち着きの時間が確保されていたのではないか。その点、現代のネットで罵り合うといった、あっという間に盛り上がる喧嘩とは違った意味が有ったのかもしれない。

加えて、現代では使われない言葉が沢山登場してくるのも書き手が文士であるが故なのか。そう考えると、文士たちの「悪口から魅力を感じる」というよりは、「言葉を駆使する才能を評価する」という方が本書の正しい読み方なのだろう。(内池正名)

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2019年7月16日 (火)

「日本銀行『失敗の本質』」原 真人

原 真人 著
小学館(253p)2019.04.03
907円

著者の原正人は日本経済新聞から朝日新聞に入り、経済部記者、論説委員、編集委員を歴任した。プロであれば、自らの能力を最大限に発揮できる環境を求めて転籍するというのは自然なIT業界で生きてきた私としては違和感はあまり感じないが、新聞業界の風土としてはどうなのか。経済部記者ということは産業界、学界、官僚、政治家など多くの取材源を持って記事を書いていくのだろうが、彼の仕事として判り易かったのは、安倍が2012年12月に「デフレ脱却」の政策を掲げて選挙戦に打って出たが、その政策を批判するために「アベノミックス」というキーワードを使って初めて記事にした本人という点である。

この言葉の元となったのは、言わずと知れた「レーガノミックス」だが、それは「小さな政府と強いドル」を志向しながら「軍事費を拡大」するという一貫性のない経済政策を進めた結果、貿易赤字と財政赤字に苦しめられた政策を揶揄するために使われた言葉だが、この政策を当時は「ブードゥー(呪術)経済学」と批判されていた。この言葉を一ひねりして「アベノミックス」と名付けて安倍の政策批判記事を書いたという。

振り返れば当時の日本の産業界、特に輸出産業各社は「円高」「法人税率の高さ」「電力の供給不安」「自由貿易協定(FTA)への対応」「労働規制」「環境規制」などの対応に苦しんでいた。ただこれらの問題の殆どは日本固有の問題ではなく、世界の主要国の共通した課題であったことは忘れてはいけないと思う。こうした環境での「デフレ脱却」の政策を説明の際に安倍は「日銀と政策協定を結んでインフレ・ターゲットを設けたい。…達成できなければ日銀総裁には責任を取ってもらう」とか「建設国債を大量に発行して日銀に引き受けさせる。そして、やるべき公共投資を行う」と語った。こうした発言に象徴される様に、財政法や日銀法に定められた独立性についても理解しているとは思えず、政治的にも、経済学的にも常識から外れた政策や発言を繰り返すだけでなく、「アベノミックス」という揶揄さえも安倍は自らその言葉を使うに至り著者の感覚を次の様に記している。

「安倍は『レーガノミックス』という言葉の拠来を知ってか知らずか、安倍自らが『アベノミックス』 というこの言葉を使うようになったのには、いささか経済学や歴史の無知としか言いようのないこっけいな姿に見えたものだ」

安倍のこうした発言以上に、私は自国の総理大臣に対して情けない思いを抱いた発言を本書の中に見つけてしまった。それは「輪転機をぐるぐるを回して、日本銀行に無制限にお金を刷ってもらう」という言葉だ。官僚や内閣府のブレーンがついて居ながら、何故こうした言葉が出てしまうのか。

一方、冷静に考えれば、こうした人物やその党派を選挙で選んでいるのも我々国民であることを考えると、2013年の選挙で民主党政権のふがいなさから消去法として浮かび上がったとはいえ、自民党内に総理人材が安倍しかいなかったというのも、この時代の日本の悲劇と言わざるを得ない。

本書では政府の債務残高のGDP比の推移が1つの重要な視点として1890年から2019年までの130年間のグラフを示している。そこから読み取ることが出来るのは第一次世界大戦から第二次世界大戦の参戦とともに軍需産業の成長を支える戦時国債の発行が進み、敗戦直前には債務のGDP比は200%を超えていたことと、敗戦とともに国債は紙くずと化しハイパーインフレが発生し預金封鎖、新円切り替え等を行って国の借金を帳消しにした状況が見て取れる。そして戦後75年を経過した現在の債務残高のGDP比は敗戦時の200%のレベルを超えている。二つの時代の相似からも「財政の危うさ」を著者は強く指摘している。ただ、問題の本質は現在の日本の経済規模で万一でも破綻した場合、世界のどの国も経済共同体も援助できる規模を超えていると言われていることだと思う。

次に原が指摘しているポイントは日銀と安倍政権との連携である。安倍政権のスタートとともに日本銀行側のパトナーとして黒田東彦日銀総裁が任命される。そもそも先進国の中央銀行の金融政策・運用が選挙の争点になったことはない。これまでは「金融政策の政治化」を避けると言うのが政治の知恵であった。そうした世界の常識さえも捨てた安倍と黒田の二人三脚を、名著の「失敗の本質」に準えて第二次世界大戦の日本政府、日本軍の失敗との相似について分析しているのだ。

「失敗の本質」で語られたシナリオに沿って、日本銀行の政策決定や総裁発言を開戦から敗戦までの推移と比較分析している。黒田の前任の白川が安倍から突き付けられたコミットメントを拒否する形で任期満了前に退任したのも衝撃的であったが、その後の総裁黒田、副総裁岩田のコンビは「物価上昇目標2%は2年で達成できる。出来なないなら責任は自分達にある」と言って就任した。しかし、その目標達成時期は延期に次ぐ延期でいまだに達成されていないが、黒田は依然として総裁の座に坐り続けている。これは、ここまで悪化した国家債務に対処する課題の大きさに対して次期日銀総裁になり手がないという指摘もある一方、もはや、黒田がどう言い繕ったとしても2013年の就任時の短期決戦戦略は破綻し、それを修正しようとすればするほど安倍・黒田が否定した白川時代の政策に近づいていくというパラドックスに陥っているということだ。こうした「アベノミックス」の6年間を振り返りつつ、最後の「第二の敗戦」にさせないための判断を問い掛けているのが本書の言わんとしているところだろう。

本書のもう一つの論点は安倍政権の組織論的特性である。その分析とは、著者の立場からすれば、欠点を指摘しているのだが、その論点は、曖昧な戦略目的、短期志向の戦略立案、空気が支配する非科学的な思考、属人的決定プロセス、修正されない組織等を第二次大戦中の政府・軍部の組織文化との比較をして見せている。こうした判断や評価については多様な視点からの反論は当然あるにせよ、著者の姿勢は一貫している。

いずれにしても、健全な議論・論戦がされるべき現代で、政治だけでなく黒田日銀も言葉を失っていることを示すエピソードが書かれている。それは、日銀総裁の記者会見は挙手した記者に対して総裁が指名する形をとるのが慣例であるが、黒田は挙手している記者がいるにもかかわらず会見を打ち切ってしまう、初めての日銀総裁だという。こうした姿勢は明らかに自由な討論を否定する危険な仕振りである。

二人三脚の安倍も、政治家としての不勉強さだけでなく、その誤りさえも自覚できないというレベルに到達してしまったようだ。安倍が「物価が上がれば景気が良くなる」と語っている論理は誤謬であり、「実体経済が良くなるので物価が上がる」というのが科学的な論理思考である。

いずれにしても、我々に突き付けられている状況とは「アベノミックス」の待ったなしの出口戦略の必要性である。団塊の世代が全て75歳となる2025年に向けた施策が必須という著者の指摘は正しいと思う。一方、その出口戦略を推進していくための戦術を具体的に定義して、行動することが求められている。不都合な事実に目を逸らすことなく、判断と行動が求められているという事実だろう。「第2の敗戦」という言葉が怪しく目の前に行き来するという感覚が残る読書であった。( 内池正名 )

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2019年6月20日 (木)

「天皇家の女たち」鈴木裕子

鈴木裕子 著
社会評論社(400p)2019.04.09
3,780円

平成から令和へと時代が進む中、平成天皇の生前譲位や女性天皇、女系天皇、皇族の婚約といった皇室関係の話題がこれほど語られた一年もなかったのではないか。各々の論点は様々であり、その多様性こそが天皇制議論の特徴だと思うのだが、どのくらい歴史的、法律的な視点からの知識を持った上で議論しているのか、はなはだ心もとないと思うのは私だけだろうか。

本書の著者、鈴木裕子は早稲田大学で日本史学を学び、山川菊栄に代表される婦人運動家の研究とともに、民族差別やジェンダーに関する著作も多い学者だ。鈴木の考え方の基軸は、「天皇制」は男系父家長制で貫かれた差別的システムというものだ。だからこそ、「天皇家の女達」というタイトルを掲げ、古今の膨大な資料を引用しながら古代からの天皇とその家系を支えた女性達に焦点を当てて令和の時代までを俯瞰して語っている。大著であるが、全体を通しての文章表現は論理的に語ろうとする意識が見て取れる一冊になっている。

幅広く詳細な本書の中で、興味が持てた論点は、まず、古代における女帝の登場経緯と、その系図である。私自身あまり、女帝という意識で天皇系譜を辿ったことはなく、敢えて言えば最初の女帝は推古天皇だったといった知識レベルでしかない。本書で再認識させられたのは、初の女帝となった推古天皇(32代)以降、皇極天皇(35代)、皇極が再祚した斉明天皇(37代)、持統天皇(41代)、元明天皇(43代)、孝謙天皇(46代)、孝謙が再祚した称徳天皇(48代)とその女帝たちの系譜を示されると、女帝の多さに圧倒される。つまり、男系の血を確保しようとするための家系の複雑さだけではなく、皇子が年少のため中継ぎ的な形で女帝がごく普通に存在していたということである。

二点目は、後宮制度の歴史である。大宝律令(702年)による、体制確立の一環として後宮制度も定められたが、後宮は「妃」・「夫人」・「嬪」の三段階の身分を持つ女達で構成され、その上に「正室」である「皇后」がたてられる形式である。後宮・側室の人数は別として、この制度は明治天皇の時代まで継続した。

ちなみに、桓武天皇(50代)は32名の後宮を持ち、そこから親王(男)・内親王(女)を33名授かったという数字にいささか驚くのだが、桓武天皇(50代)から醍醐天皇(60代)までの11代の天皇の間で天皇一人当たりの子供の数は嵯峨天皇の50名を筆頭に平均19名だったと示している。このように後宮・側室制度が男系の確保の仕組みの根底を示しているとともに、跡目争いに端を発する戦乱が多発した血の歴史であることも系譜から読み取れる。

次の大きな論点は、明治維新による皇室の変化である。孝明天皇の死去とともに、側室中山慶子の子である睦仁(明治天皇)が皇位につくことになる。

明治維新といっても、千年という慣習の打破は簡単でなく、当時の海外の外交官が明治天皇と接見した際の文書が引用されているが、「天皇は薄化粧に結髪姿で女官に囲まれていて、頬には紅をさし、唇は赤と金で塗られ、歯はお歯黒で塗られていた」という天皇の姿は政府の考える国家新体制とはまだまだ乖離していたことを示している。

明治天皇は1869年に一条美子と結婚をした。美子皇后は近代天皇制を進め、族姓に関わらず女官を登用するという方針のもと、武家、平民出身の娘たちを集めるとともに、女性の学識経験者なども進講のために招集した。一方、明治天皇は国政の行事に積極的でなかったこともあり、美子皇后は妻として「国母」として政治・外交・軍事の面で積極的に活動したという。まさに明治の天皇家の近代化とは「雅び」の世界から「軍国日本の君主」への転換とともに、皇后の見え方も大きく変化していったことが判る。

次に、123代大正天皇は側室の庶子として生まれた。明治天皇の5名の親王は全て側室からの庶子であり、かつ成人出来たのは嘉仁親王(大正天皇)だけであった。病弱であり、政治的というには程遠かったと言われているが、節子皇后は4名の親王の実母としてだけでなく、「救癩」事業を支援する皇后の姿を国民にアピールして「国母」イメージの定着を図った。昭和天皇の良子皇后もまた日本の母としての主婦のシンボルとして「大日本連合婦人会(1931年創設)」の会長などに就き、戦後は歴代の皇后は「日本赤十字」の総裁に就いている。

戦後、象徴天皇として天皇制はスタートしたが、昭和の側室制度の不採用に端を発し、皇后は「国母」という象徴に天皇より早く到達したといえるのではないかと私は思った。この象徴天皇制のプロパガンダは主として新聞報道の皇室写真やキャプションによるメディア戦略がとられて「良き家族の母」「平和な家庭」といったイメージで皇后像の転換が図られていっただけでなく、明仁皇太子の結婚のニュースはテレビ映像が強力な手段として活用され、旧皇族・旧華族でもない「民間」の知的エリート一族の美智子妃の姿も国民の中に「良き象徴」を醸成させるに資するものがあったろう。そして、令和のいま、天皇・皇后、秋篠宮、その妃と内親王・親王達について多くの報道がされている。

しかし、天皇家が日本の家族の象徴的姿の体現であればあれほど、もはや男系男子のみの継承という文化は統計学的にも長続きしない文化であることは自明である。

以上の「女たち」という視点から離れて、著者はジョン・ダワーの「敗北をだきしめて」から引用して昭和天皇に関する問題提起をしている。

それは、終戦時、高松宮や近衛文麿らは昭和天皇退位と引き換えに天皇制維持を目指して連合国側と交渉に臨むべきと考えていたが、マッカーサーは昭和天皇の戦争責任ばかりか道徳的な責任さえもすべて免除する決断をした。このため、武官・文官・政治家の責任者達は戦犯として戦争責任を問われ処刑されていったにも関わらず、国家の最高責任者であった天皇は罪に問われることはなく、国民の心に「加害者意識」や「戦争責任意識」を薄れさせ、逆に原爆投下や都市爆撃などの「被害者意識」が強く残ってしまったという考え方だ。これが、他国から見た時の日本の戦争責任のあいまいさとして残るとともに、歴史修正主義者の存在の根源という見方だ。

著者は「天皇家の人々の存在を否定するわけではない。特別な家系のみが尊重されることが差別なのではないか」という言葉に天皇制に対する考えを集約しているようだ。

確かに、昭和天皇の戦前と戦後の二重性は同時代に生きた国民からはどう見えたのだろうかと思う。亡父は大正9年生まれ、昭和17年大学卒業とともに就職、昭和18年召集、昭和19年結婚、昭和20年ポツダム中尉で兵役を終え、元の職場に復帰、昭和22年に第三次公職適否審査委員会に出向し自らの親族の公職追放審査をやらされたという経験をしている。まさに、戦争に翻弄された人生であったが、父と天皇制について話し合うことはなかった。父はそうした話題を避けていたかも知れないが、今考えれは一言でも父の思いを聞いてみたいものであったと今更ながらに考えさせられた。( 内池正名 )

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2019年5月17日 (金)

「料理が苦痛だ」本多理恵子

 

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本多理恵子 著
自由国民社(208p)2018.11.02
1,296円

タイトルを見ると単なる料理嫌いのエッセーにも思えるが、著者は自分の体験をもとに、世の主婦や主夫たちの中にある「家族の為に料理を作り続けなければならないという苦痛」の原因を考え、その対策を提示している一冊だ。

家事を預かる人間にとって、日常の中から家族に作る料理の心配が頭から離れることは無いだろう。食材の在庫を心配し、毎朝の弁当作りなど「終わりのない家事」に縛られている日常に疲れ果てる人がいておかしくはない。我が団塊の世代で言えば、結婚すれば男は朝から晩まで働いて「金」を家庭に持ち帰り、女は一日、家事と育児に没頭していた。現代は役割分担の柔軟性も高く、社会や家庭は男女が一義的に役割を分けることもなく、家庭ごとに役割分担の違いがある。本書でも「主婦と主夫」という両立した書き方をしているところもあれば、「主婦」という今までの概念の延長としての「料理をつくるのは女」という印象の書き方をしている箇所もあり、社会的目線と著者の実感の混在した状況も垣間見ることが出来る。

本書の構成としては、料理をつくることの苦痛の根源を自分自身の体験として紹介している第一章。苦痛の根源となる要素を広く取り上げて考える第二章。苦痛を和らげるための料理の一時停止などの手順を提示している第三章。これなら作れるという発想の転換をしたレシピを提示している第四章。そして、著者の一連の経験を通して得られた家族との対話と、その変化を書いている。

著者は和菓子屋の娘として育ったが、料理に対する姿勢はネガティブだったようだ。例えば、住宅を中心にして表には店舗、裏には工場があり、台所は屋根こそあるものの、通路の様な使い勝手の悪い場所だった。そこで、懸命に料理を作る母親は、小さな娘たちがうろちょろすることが邪魔でしかなく、子供達を台所から遠ざけていたという。また、和菓子職人の父親は、化粧品の匂いがつくと言って、娘たちが料理をすることを嫌がった。加えて、一家の食事は、お客が来れば誰かが接客に立っていく必要が有り、一家団らんとは程遠い時間だったと回想している。こうした著者も、学生時代に独り立ちして料理を作ったりしたが「食べてくれる人がいない」状況は料理の楽しさを生まず、結婚とともに「食べてくれる人(家族)」ができても、気合を入れた料理に家族が無反応だったりすると、精神的に辛かったと回想している。この様に、けして料理にポジティブではなかった人間が本書を書いているということは大切なことかもしれない。

次に、主婦にとっての料理にまつわるプレッシャーをいろいろと挙げている。

「時間があるから出来るはず」とか「家族の健康のため」という呪縛は、家族の健康を念頭に時間をかけて家庭料理を作ることを一人の肩で背負うという負担以外の何物でもない。

「毎日違うものを食べると言う呪縛」とは、外国で暮らしてみると家庭料理は選択肢が少ないことに疑問も不満もないことに気付くと言う。言われてみれば、日本ほど多様な料理を家庭で作っている国はないだろうと思う。台所にある道具の多様さも、和食、洋食、中華、はては石焼ビビンバ用の石鍋まであるのだから。「今日は昨日と同じご飯ですが、何か?」と言ってみてはどうかという提案には納得。また、昨今の風潮で言えば、インスタ映えという呪縛を上げている。なにも毎日のように人様に対して自慢げに自分の料理を見せつけてどんな意味が有るのかという意見には賛成だ。料理を食べてくれるのは「いいね」をくれる見知らぬ人ではなく、目の前の家族である。

「八宝菜の呪縛」というのは笑ってしまうような呪縛である。TVの料理番組を見て今晩は八宝菜を作ろうと買い物をして帰宅した主婦が、いざレシピを確認してみると材料を一品買い忘れていて、わざわざ材料一品の為にまた買い物に出かけるという話である。確かに八宝菜と言えば、各種具材の炒めものだ。豚の薄切り、イカ、エビなどに、野菜は白菜、人参、長ネギ、シイタケ、きくらげなどを加えるのだが具が沢山と言う意味の「八」であるし、レシピがどうであれレシピ通りの具材ですべて作らなければならないということもない、と私は思うのだが。開き直れば「七宝菜」ですと言いたくなってしまうのだが、その柔軟さというか、好い加減さがなく、自身を追いつめて行くという話だ。誰も、食べるときに具材の数なんぞ数えてやしないのだ。

この様に、主婦をとりまく料理の呪縛が数多く紹介されている。この辺の判断は、男女の違いもありそうであるし、そこには料理以前の問題である家族のコミュニケーションという側面の存在が大きいように思う。だからたまには、食卓で自らが作った思いを語り、質問をする。「さて、このソースは何からできているでしょうか?」と質問し、語りあうことの重要性を著者は指摘している。ただ、食卓で料理だけの会話では、まるで、カウンター越しの板前と客の会話の様に思ってしまうのだが。

そして、心から料理をしたくないと思う時、解決方法は「料理を止める」ことと言っている。「自分を責めるのではなく、素直に作らないことを選択する」という意見だ。それも著者は段階的に進めることを提案している。まず、自分の理想と家族の期待のギャップを知ること。逆の言い方をすれば、自分の苦痛は独りよがりから来ているのではないかと言う仮説である。「作りたい料理」と「食べたい料理」のとのズレを理解するための確認シートが例示されていて、それを家族に記入してもらい語り合っていく。要すれば、家族との料理に関するコミュニケーションである。

そしていよいよ「料理を止めてみる」決断であるが、やめる期間を事前に決める。一週間なら一週間、とにかくきっぱりやめること。そして、この間には気になる料理を家族で外食をする。重要なのは口コミの評価ではなく自分の舌で評価することであるとしている。またその期間に料理本を読み込んでみるという提言もしている。一回目はすべて読み流す。二回目は気になったレシピを読む。三回目は特に気になったレシピの作り方を頭の中でシミュレーションする。そうして残ったレシピが「作る料理」・「作りたい料理」になるという。

こうした「料理停止期間」を過ごし、再開に向かうという。

本書は料理本ではなく、料理への向き合い方のガイドであると同時に、家族のあり方を考える本である。私は、食事という家族団らんの時間は決して料理が話題の中心ではなく、今日あったこととか、明日の予定とか話す場だと思うのだが。料理を作った人からすると「料理」が話題の中心であってほしいと思うのも判らなくはない。

ただ、いろいろ挙げられている呪縛の例を見ていると、どうも本書の対象は30-40代の主婦のようである。私もソバ打ちを趣味にしたり、学生の頃から自炊をしてきた。従って料理が嫌いではないが、毎日料理をするという経験はない。

その前提で、若い人達と話をしていると、自分の食べたいものを選択するのが不得意な人、決められない人が多くなったようにも思える。それは、レストランのシェフのお勧めを求め、SNSで発信される他人の評価に従って食事をする人達である。

そうした人達の典型的な質問が「美味しいお蕎麦屋さんはどこですか」という質問である。人の嗜好は多様で、個人差がある。「美味しい」かどうかの判断は異なることから、私は「好きな蕎麦屋はXXX」と返答するようにしている。「美味しいかどうかは、貴女が決めるのです」と語り掛け、呪縛の根源は自身にあることを教えてあげることも必要なことである。(内池正名)

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2019年4月22日 (月)

「文化大革命五十年」楊 継縄

楊 継縄 著
岩波書店(284p)2019.01.30
3,132円

「文化大革命五十年」という本書のタイトルを目にしたとき、時間の経過する速さに驚きつつ、あまりに遠くなってしまった当時の思い出が湧き出して来た。1960年代の初頭、中学生の私はベリカード(受信確認証)をもらう目的で各国の中波の日本語放送を聴いていた。その一つが北京放送だった。受信の記録を送ると美しくデザインされたベリカードとともにその後日本語小冊子が毎月の様に送られて来た。「人民公社好」・「大躍進」といったスローガンが躍る小冊子だったが、中学生だろうが関係なく送付していたのだろう。そんなきっかけで、中国という国に興味を持ちはじめた。1960年代中頃になると「文化大革命」という先鋭的な言葉と、報道される三角帽子を被せられた昨日までのリーダーたちが街を引きずりまわされる映像の持つギャップに不気味さというか違和感を覚えながらそのニュースに接していた。自分自身も騒然とした時代のど真ん中で混迷を深めていただけに、この対岸の騒動はニュース以上のものではなかった。

著者の楊継縄は1940年生まれ。新華社の記者の後、多くの著作を発表し、彼の代表作である「墓碑—中国六十年代大飢荒紀実」(2008年刊)は世界的にも注目された一方、楊に対する当局からの圧力が強まったといわれている。そうした理由からか、多少なりとも自由な香港で本書の原本である「天地翻覆----中国文化大革命史」(2016年刊)は出版されている。90万字という原本を要約する形で日本語版である本書は作られているが、要約とはいえ、二段組で300ページの本書は高齢者の視力ではなかなか厳しい読書であった。

著者は「文革の悪夢から逃れ、災禍の再来を避けることこそ、中国が直面する重大な任務」として、文化大革命を科学的に研究することの重要性を強調しつつ、研究がまだまだ十分でないという認識である。本質的には、依然として「中国大陸」では文革研究はタブーとされていることから、真相の研究も表面的なレベルにとどまっていると著者は考えている。中国において、当局による出版審査を通った「文革史」と呼ばれる本はいくつか出版されているが、そのほとんどは官僚や知識人を被害者として紹介しており、一方、その迫害の加害者がその時点で権力を持っていたものであったと明確にしていないという。こうした状況に対する、著者の苛立ちが本書を書こうとしたモチベーションのように感じられる。そのため、歴史に対する「責務」や「責任感」という強い言葉を使って、真相を解明しようとする論調と併存して、自らの「熱」を抑えるかのように「科学」・「事実」という視点を語っているのが印象的である。

本書は文化大革命の始まりから紅衛兵、林彪事件、毛沢東の死、四人組裁判にいたる終焉までを描いている第一部。文化大革命後の名誉回復、官僚体制下の改革開放を描く第二部。文化大革命五十年の総括として、建国後17年間の制度に立ち戻って文革の根本原因を探るなど、現在の中国にとって文革の対価や遺産は何なのかを述べている第三部、という構成になっている。

全編を通して登場する人物も圧倒的な数で、既知の名前の方が稀であることなどからも、どんどん読み進み文革を俯瞰的に理解するという読書となった。 

1965年の彭真への批判、続く劉少奇と毛沢東の対立から、1966年の中国共産党中央委員会で反革命修正主義分子を摘発するという通知が出されて、時を置かずに「中央文革小組」が成立して文化大革命が始まった。以降の10年間に発生した、林彪事件、毛沢東の死、四人組の裁判といった中国の混乱した状況に関して、膨大な資料を引用しながら記述されていく。それは複雑極まりないジグソーパズルの様で、個々のピースが全体のどこに、どう関連して行くのかを理解して行く難しさを痛感させられる。

しかし、著者が一番言いたいことは、10年間の文革の結果と収束以降を語ることにあると思う。文革の結果として判り易いのは、人的な被害の規模感である。1978年の中央政治局会議で報告された数字は、一定規模の武闘・虐殺事件で127,000人が死亡、党幹部の闘争で10,500人が非正常死、都市部の知識人・学者官僚が反革命・修正主義・反動とレッテルを貼られ683,000人が非正常死、農村部における豊農とその家族1,200,000人が非正常死、と報告されている。文革に関連して2百万を超える国民が死亡したというこの数字を示されると、権力者間の政治的な闘争といった概念を超えて、壮大な内戦であるといえる。

そうした抗争の中で、1971年の林彪事件はまだまだ多くの不明点があるものの、その結果については著者は「この事件は中国のみならず、現代世界で最大級の政治ゴシップであり、それは毛沢東に痛撃を見舞ったばかりか文化大革命の弔鐘として鳴り響いたのだ」と語っている。この事件が文革のターニング・ポイントであったとしている。

その後、1976年1月に周恩来死去、9月9日に毛沢東死去、10月6日に四人組逮捕という推移を見ると、けして政治の理によって文革が終焉したのではなく、「象徴」の死によって文革の最終章を迎えたというのが良く判る。

文革後、多くの人的損失に加えて、毛沢東の死後、文革が中国にもたらした危機に対応するために、改革が必要とされ、経済改革は進められたが、政治改革は実施されることはなかった。つまり文革後権力を握った勢力は文革を全面的に否定しながらも毛沢東の政治遺産である一党独裁と官僚の集権化を捨てることは出来なかった。

1981年6月の中国共産党十一期中全会は文革を「指導者が間違って引き起こし、反革命集団に利用されて、党と国家を各民族・人民に大きな災難をもたらした内乱である」という結論に対して楊は次の様に語っている。

「文化大革命を否定しているが、文革を生み出した理論・路線・制度は否定していない。こうしたある意味、中途半端な結論によって、現在の中国に文革の悪魔が残っている。このため、災禍の再来が避けられない。……自由主義の角度から見ると、『官僚集団』とは中立的な言葉であり、制度の執行者であるが、中国の様に官僚集団の権力が国民から支えられたものではないので、権力を抑制したり均衡させる力はなく、官僚は公務上の権力を使って、大衆を抑制することが出来る。経済は市場化したが、権力構造は計画経済時代の状態を維持している。この状態は権力の濫用と資本の貪欲さが悪質に結合しているのが現代の中国の一切の罪悪が群がるところであり矛盾の源泉である」

これが、著者が文革を研究することの熱源である。ただ、著者は自らが先達と言っている訳ではなく、「後学の徒」であり、先行の研究者の優れた大量の著作を起点として始められた良さもあると語っている。それでも、著者はその時代の当事者であったことには違いない。

本書を読んで思うのだが、「自分の体験としての時代」と「歴史としての時代」を峻別して考えることは難しいことが良く判る。自分を正当化することと相反する色々な視点からの意見を客観的に聴く姿勢を持ち続ける気力が必要だ。他者の視点を加えて時代は完成する。つまり、自分が見聞きした体験は大切にすべきであるが、それは歴史を語る上での一面でしかないのだから。(内池正名)

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2019年3月15日 (金)

「贖罪の街(上下)」マイクル・コナリー

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マイクル・コナリー 著
講談社文庫(上320・下320p)2018.12.14
各950円

ミステリーのシリーズものを読む楽しみは、なじみのバーで酒を飲むのに似ている。バーへの道筋の風景は、すっかりなじんでいる。扉を開け、まずはお気に入りの席が空いているかどうか目で確かめる。その席に座ると、バーテンダーが黙っていても自分のボトルをカウンターに置いてくれる。いつもの酒(ジャック・ダニエルズのソーダ割)が目の前に差し出される。そして気の置けない会話。すべての手順が決まりきって、すべてが心地よい。

ミステリーのシリーズものを読むのも、そんな安心感とともにある。なじみの主人公と、主人公を取りまく常連たち。彼らの関係性が時に発展し、時に停滞しながらも小宇宙をつくりだし、そのなかに浸るのが快い。でも読者というのは贅沢であり残酷でもあるから、長いことシリーズものを読んでいると、ある瞬間、その小宇宙になじみがあるからこそ飽きがくることがある。そんなふうにして、いくつのシリーズものと別れてきたことだろう。

ローレンス・ブロックの探偵マット・スカダーものは飽きがくるまえにシリーズ自体終わってしまったが、ロバート・パーカーのスペンサー・シリーズ、パトリシア・コーンウェルの検視官スカーペッタ・シリーズ……。ほかにもある。そんななかで、今も読みつづけているのがマイクル・コナリーの刑事ハリー・ボッシュ・シリーズだ。『贖罪の街』は、その最新作。

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「三輪山 何方にありや」鈴木 慧

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鈴木 慧
郁朋社(248)2019.01.29
1,620円

タイトルの通り、古事記の中巻に記述されている神武東征(筑紫からの侵略)に対して、守る側の奈良盆地連合王国のリーダーたちの戦いの一年を描いている小説。神武東征がテーマであれば狭野彦(神武天皇)からの目線で語られる話が常であるが、本書では連合王国の王である饒速日と最大集落の首長である長髄彦を中心に、彼らの思惑と智謀、そして戦いの日々を通して一人ひとりを描写している。饒速日は長髄彦の義弟である。彼は王としての正統性や集落の開拓や運営におけるバランスの観点と、饒速日が権力欲がないこと、もっと言えば権力を握るだけの戦力を保持していないことを理由に王に推戴されているといった設定がこの話のポイントのひとつになっている。

西暦175年、連合王国の新年の幹事会からこの物語は始まる。筑紫勢が周防、吉備を制したといった情報は以前からもたらされていたものの、筑紫勢の目標が奈良盆地であるとは王国の人々にとって身近な問題としては考えていなかった。しかし、軍勢の動きから、侵略の危険が目前に迫った王国の首長たちにとって共通の敵の存在が明らかになり、結果として王国の結束を強めていく。最終意志決定機関である幹事会での首長たちの発言の順番、発言の表現や言い回しといった緻密な描写は首長間で微妙な駆け引きが必要だったこと、そして時代を超えて組織論としてのリーダーたちの思惑と心情が巧みに綴られている。

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