2022年5月17日 (火)

「すごい左利き」加藤俊徳



加藤俊徳 著
ダイヤモンド社(200p)2021.09.29
1,430円

脳科学者(発達脳科学、脳画像診断の専門家)である著者が、「なぜ利き手があるのか」「左利きの直観・独創性のすごさ」「脳構造によるワンクッション思考」など脳機能構造を説明するとともに、左利き右利きの脳の使い方の違いと、その特性を明らかにしている一冊である。著者自身が左利きで、子供の頃から「右手が他の子のように動かせない」ことを気にしていた体験をベースに書かれているのだが、脳科学者になって「これまで抱えてきた左利きの疑問やコンプレックスは全て判った」と書いている。私も左利きで周りの友達との「違い」を子供の頃から体験してきたが、特段コンプレックスを感じずに生活できたのは、人間関係に恵まれていたという事なのだろうか。

私は、字を書くのは練習させられて右で書くようになったものの、絵を描くのは左、箸は右、スプーンは左、野球の打つ・投げるのは左、ゴルフは右、ハサミ・包丁は左、ギターは左など、右と左は使い分けている。ただ、試験のときは右手に鉛筆、左手に消しゴムをもって解答用紙に向かっていたので、コンプレックスを感じるよりは両手を使える便利さを享受していたと思う。

本書は、左利きを前向きにとらえるガイドブックで有ると同時に、左利きエピソードが沢山盛り込まれている。

人間は利き手が決まっているが、これは直立歩行になってから両手を使い効率よく作業する能力を手に入れたと同時に、転びそうになった時に咄嗟に利き手で庇うなど、ムダな動きをせずに済むことで脳の負担を軽減することに役立っているという。また、150~200万年前になると左側に傷を負ったサルの頭蓋骨が多く発見されている。これは右手に斧を持った人類がサルを捕獲していたと推定されることから、この時代には右利きが多数を占めていたことも判ると言う。右と左の利き手の違いが出てきた理由について次の二つの説を紹介している。一つは、人間がより複雑な道具を利用して獲物を捕まえるために言葉によるコミュニケーションが必須となり言語脳のある左脳を発達させた結果、左脳がコントロールする右手をよく使うようになったという説。もう一つは、身体の左側に心臓があるために、急所を守ることから右手で戦うのが有利だったことから右利きが増えて行ったと言う説を紹介している。私は後者の説は知っていたが、二説とも納得感ある説だ。

本論としては、脳の機能と左利きの特性が示されているとともに、それに対する脳トレなども紹介されている。脳には感情系、視覚系、運動系など8つの分野に場所が分れているが、左脳、右脳で役割分担をしている。感情系で言えば左脳では自分の感情・意見をつくり、右脳では自分以外の人の感情を読み取るという。視覚系では左脳は文字や文章を読み取り、右脳は絵や写真などのイメージ処理を行う。この結果、利き手の左右に関わらず、右脳は非言語系、左脳は言語系を処理するため、文字を書くとき右利きは運動系左脳で右手を動かしながら、左脳の伝達系で言葉を生み出すというシンプルな処理となる。一方、左利きは右脳運動系で左手を動かしながら、左脳の伝達系で言語を生み出すという左脳・右脳のネットワークを使わなくてはならない。これが「ワンクッション思考」と呼ばれているもので、右脳から左脳間の行き来によって、左利きは言葉を発するまでの時間の「ワンテンポ遅れ」があると指摘されているが、私は自覚したことは無い。

一方、左利きは日常生活では必然的に両刀使いで活動することが多い。例えば、駅の自動改札のタッチセンサーは右側についているので、左利きでも右手を使わざるを得ないなど、両方の脳を活性化させているというメリットもある。脳の映像分析などから左利きは右利きに比較して、脳の使い方に左右差が少なく全体を使っていることも判っている。

次に、左利きの特性として「直感」を取り上げている。左脳は論理的・分析的な思考機能を持っている一方、左利きがまず使う右脳は視覚や五感を活用して非言語系の膨大なデータベースとなっているという。これが発明の前提となる「仮説」を生み出すための「発想の飛躍」や「直感」を支えていると言う。別の言い方をすると「ひらめき」という事なのだろうが、それを支えるのが右脳の持つ非言語系のイメージデータに他ならない。

また、左利きの「独創性」について語っている。90%の右利きに対して10%の左利きは少数派故に、既成の枠では収まりきらない天才的発想というプラスもあれば、その発想を上手く言葉で説明出来なければ単なる「変人」になってしまうリスクもある。まさに表裏一体である。こうした右利き左利きの違いが出て来るのは、同じ場所に居ても、左利きは左側を見て、左側の音に注意を払い、右利きはその逆。つまり違う世界を見聞きしているという指摘である。こうした視点の違いも少数派左利きの「独創性」を生み出す力になっているという。 

最後に「最強の左利きになるために」と題された章で左脳・右脳を鍛える脳トレがいくつか紹介されている。「To Do Listを作る」「日記を付ける」「移動時間にラジオを聴く」「外国語を学ぶ」といったものである。

「To Do Listを作る」と言うのは、左利きがイメージで記憶している事象を言語化すること、「日記を毎日つける」というのはスマホやパソコンではなく紙の日記帳に書き綴ることで共に左脳の活性化を図る狙い。そして「外国語を学ぶ」ことで多くの脳機能をまんべんなく活性化させることが出来るという。そう指摘されてみると、左利きの私はこのうち三つの事柄を若い時から行ってきたことに気付かされた。

「To Do List」は仕事上プロジェクトの進捗管理には必須であり、仕事を離れた現在もやるべき事を忘れない様に「To Do List」を書き続けている。「日記」は30才代からストレスフルな仕事に追われていたこともあり、気持ちの切り替えのために始めた。以後現在まで40年間書き続けている。また、外国語は外資系の会社に入社したため。必然的に英語を学ばなければならない環境に置かれた。

これらは、いずれも私が左利きであったので始めた行動ではないのだが、結果的には著者の言う「より強い左利きになる」ための幾つかの手法を身に着け、現在も続けていることに驚かされた。

本書を読んで、過去の自己の左利き感覚体験を納得出来ただけでなく、あまりプレッシャーを感じること無く75年の左利き人生を送って来たことに感謝の思いが募った。また、左利きの子供を持つ右利きの親は本書を一読することで、子供の行動をより理解するとともに成長を支援することが出来そうである。 

左利きで損したことは、蕎麦打ちを習い始めた時に蕎麦包丁は片刃なので右利き用と左利き用は異なるのだが、左利き用の包丁は右利き用の1.5倍の値段だったことだろうか。(内池正名)

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「古代中国の24時間」柿沼陽平

柿沼陽平 著
中公新書(328p)2021.11.25
1,056円

大きめの書店に入っていちばんの楽しみは、なんといっても新刊書の棚を隅から隅まで眺めることだろう。この歳になると好みの著者やジャンルは固まっているから、買う本はたいていその範囲に収まってしまう。新刊書棚を見る楽しみは、そんな自分の好みを超えて新しい読書体験をもたらしてくれる本に遭遇すること。この本もそのようにして昨年末に出会った。でもそのときは『ケルト人の夢』(本サイト2月に紹介)、『人びとのなかの冷戦世界』(同4月)と大著2冊を読む予定があったので迷った末に買わなかった。先日、行きつけの書店に行ったら、やっぱりこの本がオーラを発して「面白いよ」と呼びかけてきた。発売3カ月で4刷になっているから、順調に売れてるようだ。

サブタイトルに「秦漢時代の衣食住から性愛まで」とある。秦や漢の時代の皇帝、官吏、都市民や農民がどんな日常を送っていたのかを、朝起きてから寝るまで時間を追って膨大な文献やモノの遺品・遺物など史料を使って再現している。著者の柿沼は1980年生まれで中国古代史・貨幣史の専門家。

彼はこの本のスタイルについて、「ハゲ・トイレ・痰・口臭、起床時間、自慰等々……卑俗でリアルな生活風景」を自らが古代世界にワープしたロールプレイングゲームのように描いた、と書いている。ではそれがどんなものか、覗いてみようか。

もちろんハゲはいつの時代、どの地域にもある。でも秦漢時代(前3~3世紀)の官吏にとってこれは大問題だった。というのは官吏はその身分にあった冠をかぶり、髷(まげ)を結ってそこへ冠を留めていたからだ。髷を結えなければ君主におじぎするとき、冠がぽろっと落ちる危険がある。だから官吏は髪を長くしておかなければならない。寄る年波に勝てずハゲた官吏はカツラ(髦・てい)をつけて冠をかぶる。でも漢時代の壁画にはカツラなしで頑張るハゲた官吏たちの絵も描かれている。

漢代のトイレにはいくつかのタイプがあり、しゃがむタイプ(和式)が多いが座るタイプ(洋式)もある。漆塗りの便座(洋式)が出土しているのは、身分の高い者が使ったんだろうか。高級なトイレのそばには、排便後に下半身を洗い、衣服を替えるための部屋もあった。だからトイレは更衣と呼ばれた。基本は男女の区別なし。「高級か否かを問わず、かなり臭かった。そのため高級トイレなどには、鼻につめるための乾棗(なつめ)が置いてあったり、南方産の香粉や香水が置いてあったりする」。ふつうトイレは2階にあり、その下の1階には豚小屋が設置されていることが多い。排泄物は豚に食べてもらい、その豚をまた人間が食べる。

痰といっても、皇帝の痰の話。皇帝が痰を吐くとみるや傍に控えた侍中(じちゅう)がすばやく唾壺(だこ)を差し出す。侍中とは虎子(しびん)や清器(おまる)を管理する係。皇帝が尿意や便意をもよおしたら対処する役目なのだが、つねに皇帝の傍にいる必要があるからか高名な学者であることが多かった。だから侍中はほかの官吏から羨望のまなざしで見られていたという。

この時代の人びとはろくに歯も磨かなかったから、口臭は切実な問題だった(虫歯は秦漢人が口臭以上に恐れた問題だが、それは置いて)。口臭がひどければ恋愛にも結婚にも仕事にも支障が出る。皇帝の側近ともなれば、皇帝に不快な思いをさせないよう杜若(とじゃく)や鶏舌香(けいぜつこう)といったブレスケアを服用するほうがよい。特に鶏舌香は曹操が軍師の諸葛亮孔明に贈ったことのある珍品だ。女性もブレスケアを用い、「気(吐息)は蘭の若(ごと)し」と評された美女もいたとか。

秦漢の時代、日の出前後の時間を「平旦」と呼んだ。この時刻、洛陽など都市はまだ寝静まっているが、5日に1度くらい開かれる聴朝(ちょうしょう・政治)の開始時刻でもある。すでに宮城の前には官吏が集まり開門を待っている。実際、前漢の武帝は平旦に詔を発し、官吏はそれを踏まえて「食時」(しょくじ・午前9時頃)に答申している。食時はその字のとおり、朝食を取る、あるいは朝食を終える時刻。もっとも農民はもっと早く食事をしたろう。

主食は黄河流域でいえばアワが多く、上等なものとしてキビがあり、オオムギも食べられていた。ある人は、キビが一番、イネが二番で、ムギやマメはいまいちと評している。たいてい煮てから蒸し、粒のまま食べた。庶民はこれに加えてネギやニラを食べる程度。上流階級になると牛、羊などの肉、ニワトリ、キジなどの鳥類、コイ、フナなどの魚類を食べた。特に子牛や子羊の柔らかい肉や、春には繁殖期のガチョウ、秋には若鶏など季節ごとに豪華な食材が好まれた。ちなみに食事は庶民層なら朝夕2食が多い。

さて、最後になったが自慰とか性愛については、古今東西やることはあまり変わらないから、この時代ならではということは少ない。とはいえセックスを通じて不老長寿を図る房中術なるものがあり、『十問』『合陰陽』などの書物が出土しているが、著者は詳しく説明していない。そのかわり、キスしたり抱き合ったりしている陶俑や、レズビアン用と思われる張型の出土品が紹介されている。概してこの時代の性愛はおおらかで、同性愛もそれほど差別されていたわけでなく、「少なくとも上層階級の性愛のかたちは多様であった」。

とまあ本書のごく一部を抜粋してみたけれど、ほかにも住居と都市の構造とか、居酒屋や宴会の作法とか、ファッションと流行とか、ナンパの仕方とか、興味深い記述がたくさんある。そんな古代中国の日常生活空間に旅行者のように入り込んであっちを見たりこっちを見たり、短い滞在時間ではあったが好奇心を満足させて楽しみ、遊んだ。その印象を大雑把に言えば、少なくとも都市住民に関するかぎり高度成長以前のわれわれとそんなに変わらないなあ、というものだった。日本で言えば縄文から弥生の時代である。

この本は専門書でなく一般向けの新書だけど、だからといって見てきたような嘘やあいまいな記述があるわけではない。巻末には20ページ890カ所に及ぶ注がつけられ、あらゆる記述の出典が明らかにされている。そこに著者の姿勢が見える。学者の余技でなく、目指すのはフェルナン・ブローデルに連なる本格的な「日常史」。

プロローグには、こんなことも書かれている。そもそも中国古代史の史料はそんなに多くない。せいぜい1500万字程度(!)。「まともな研究者なら10年間もかければ読み通せる量である」。もちろん柿沼は1500万字に10年かけて目を通し、そこから日常生活についての記述に付箋をつけていった。その集積に加えて、木簡・竹簡、遺跡・遺構からの出土品、石やレンガのレリーフ、明器(副葬品)などの史料も加えて、「最近、ようやく古代中国の24時間の生活風景が大まかにわかってきた」結果、この本が生まれた。

先月このサイトで紹介した益田肇(『人びとのなかの冷戦世界』)もそうだけど、新しいタイプの研究者が続々と生まれてるんだなあと頼もしい。彼らが次にどんな本を書いてくるのか、楽しみだ。(山崎幸雄)

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2022年4月17日 (日)

「人びとのなかの冷戦世界」益田 肇

益田肇 著
岩波書店(426p)2021.4.16
5,500円

「世界はすでに新たな世界的衝突の最初の段階に入っている。…ロシアは参戦する。そしてこの第三次世界大戦は10年続くことになるだろう」

この言葉は、今年2月以来のロシアによるウクライナ侵略について語られたものではない。でも、いま目の前で進行している衝突が世界史の転換点にあること、それが第三次世界大戦という言葉が発せられる生々しさを持っているという意味では、ウクライナでいま起きている事態に重なってくる。

この言葉が発せられたのは1950年。発したのはイギリスの哲学者バートランド・ラッセル。この年6月、北朝鮮軍が韓国に侵攻し、直後に米国が軍隊の投入を決めて朝鮮戦争が勃発したのを受けての発言だ。

『人びとのなかの冷戦世界』は、第二次世界大戦後に米ソの超大国が対立し、冷戦(The Cold War)と呼ばれた時代がどんな時代だったのかを、従来の歴史解釈とは別の視点から探った野心作。第三次世界大戦という言葉がリアルに感じられた時代のことを、当事者からも第三次世界大戦という言葉が飛びだす現在のウクライナ侵攻の真っただ中で読むという緊張感あふれる読書になった。

この本が、従来の冷戦を扱う歴史書と違う点は主にふたつある。ひとつは1950年という特定の年に注目し、その断面でいくつかの国(アメリカ、日本、韓国、中国、台湾、フィリピン)で何が起こっていたかを考えていることだ。ふつう冷戦の歴史というと、第二次大戦終結直後から米ソ対立が始まり、1947年に冷戦という言葉が使われはじめた、と「起源」やその「展開」といったふうに記述されることが多い。でもそういう発想そのものが危ういと著者は言う。そうした議論は冷戦世界が実在していたことを前提としているからだ。著者の結論をあらかじめ言ってしまえば、「冷戦とは想像上の『現実』だった」というもの。

この年、米ソが対立する冷戦が朝鮮半島で火を噴いて「熱戦」となり、世界の多くの人々が、この冷戦はやがて来るであろう第三次世界大戦への過渡期なのだと実感した。それまで何人かの学者や政治家が唱える一つの現実認識にすぎなかった冷戦(cold war)という言葉が、だれも疑うことのできない「大文字の歴史(The Cold War)」へと転換した。1950年とはそういう年だった。

この本が新しい視点を持っているもうひとつは、従来の冷戦史が政治家(トルーマンやスターリン)ら国の指導者の言動を追い国家対国家の枠で考えることが多いのに対して、各国の無名の人々が書いた日記や手紙、手記を幅広く収集し、草の根の視点から人びとがこの事態にどう対処したかを分析していること。だから各章の記述はアメリカや日本や中国の無名の人々の、ある日の行動から始まる。

そこから次のようなことが明らかになってくる。第二次世界大戦は参戦した国の社会に大きな変動を起こし、その結果さまざまな「新しい感情、新しい要求、新しい思考様式、新しい生き方」が生まれて旧来の社会と対立や緊張を起こしていた。

例えばアメリカではアフリカ系から人種的平等を求める運動や、女性たちから男女平等を求めるデモが起こる一方、増え続ける移民への反感が増大していた。1950年に始まった赤狩り(マッカーシズム)で標的とされた者の多くは共産主義者ではなく、アフリカ系や公民権運動家、フェミニスト、同性愛者、移民、ニューディール政策支持者といった「新しい生き方」を求める人たち、つまり多数派から「非アメリカ的」とされる人びとだった。著者は、赤狩りはイデオロギー闘争ではなく何が「アメリカ的」で何が「非アメリカ的」なのかを巡る戦いだったという。非アメリカ的と目された「新しい生き方」は「共産主義者」「ソ連の手先」というレッテルを貼られて社会から排斥された。多くの民衆もそれに加担した。

日本のレッド・パージも似たような構造を持つ。1950年に始まったレッド・パージはGHQの指令に基づくとされている。確かに最初に新聞業界の共産党員とその支持者が排斥されたのはGHQの指令によるものだった。しかしその後、さまざまな企業で行われた大量解雇にGHQは関与しておらず、それぞれの企業の判断によるものだった。パージされたのは共産党員と支持者だけでなく「多くの場合、職場における不順応者や反抗者、非協力的なものたち」だった。核心部にあったのは、ここでもイデオロギー闘争というより「職場や社会、コミュニティーにおける望ましい秩序と調和のあり方をめぐる社会的軋轢」だったのだ。

著者はさらに中国の「反革命分子弾圧」、台湾の「白色テロ」、朝鮮半島の集団殺戮事件、フィリピンのフク団弾圧、英国での労働運動弾圧など、世界各地で「人びとの手による社会的粛清のパターンがほぼ同時に出現している」ことを見る。一方で、最近の研究から北朝鮮が韓国に侵攻したのは金日成が主導し、中国が参戦したのも混沌とした国内事情から毛沢東が決断したもので、必ずしも「スターリンの世界戦略」ではないことを示す。

上下2段組み300ページ以上に及ぶ膨大な本文をこんなふうに要約してしまっては落ちこぼれるものも多いけれど、益田は結論としてこう述べている。朝鮮戦争期に世界各国でほぼ同時に生まれた社会粛清運動の本質は「社会秩序を取り戻そうとする草の根保守主義のバックラッシュ(揺り戻し)」だった。その際、「共産勢力の拡大を食い止める」という冷戦の論理は、国内の社会的・文化的な軋轢を封じ込めるのに極めて効果的に機能した。

「冷戦とは、世界各地の社会内部のさまざまな異論や不和を封じ込めて『秩序』を生み出すための社会装置だったのではないか、そしてそれは政治指導者によってというよりも、むしろ普通の人びとによって創りだされた想像上の『現実』だったのではないか」

冷戦は「想像上の現実」だというこの本の大胆な仮説には、さまざまな反論があることだろう。でも僕らが学校で習う歴史も別の角度から眺めてみればまた新しい見方ができるという意味では、なんとも刺激的な読書体験だった。

益田が指摘していて見落としてはならないのは、人びとが秩序を求めて冷戦の言説にとびついた底に恐怖の感情があったことだろう。1950年は第二次大戦が終わって5年、参加した国の民衆には戦争の体験と記憶がまだ残っていた。朝鮮で起こった戦争はその記憶を蘇らせ、人びとは核攻撃を含む第三次世界大戦への恐怖をつのらせた。その恐怖と不安が社会内部に「敵」を名指し排除する社会粛清運動を駆動させた。

ウクライナの戦乱のなかで、今また核攻撃とか第三次世界大戦という言葉が飛びかっている。不安と恐怖の感情の水位が高まっている。歴史が、そのままでないにしても螺旋状に繰り返されるとすれば、この本を参照できることは多いだろう。例えば民主主義国家対権威主義国家といっても、敵対するどちらの国の内部にも社会的対立がある。国家という枠で民主主義対権威主義の二項対立に単純化してしまえば、そうした社会内の分断線は見えにくくなる。1950年に冷戦の論理で「非○○的なもの」が排除されたように、権威主義国家では強権的になされるものが、民主主義国家では民主主義の装いのもとに、異論が排除されたり、表現や行動の自由に実質的制限がかけられたりする機運が上からだけでなく下からも沸き上がってくるかもしれない(ヘイトスピーチや自粛警察にその萌芽が見える)。そこに敏感でありたいと思う。

本書はもともと益田がコーネル大学に出した博士論文が基になっている。その後、ハーバード大学出版から単行本になり、それが評判になって日本語版が出版された。日本語版については翻訳というより大幅な加筆、修正がなされている。そのせいか、研究論文の骨格は残しながら記述は具体的で分かりやすく、僕のような一般読者でもついていける。

ただ、12級という最近の本ではありえない小さな活字の2段組は70代半ばのジジイには苦痛だった。書店で手にしたとき、高齢者は拒まれていると感ずる。国内でほぼ無名の著者の博士論文、どのみち高定価が避けられないのなら、もっと活字を大きくして分厚い本にするか、上下2分冊にしてほしかった。面白くて最後まで読み通してしまったけれど、元編集者として一言。今年度の毎日出版文化賞、大佛次郎論壇賞受賞作。(山崎幸雄)

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「水木しげるのラバウル従軍後記」水木しげる

水木しげる 著
中央公論新社(256p)2022.03.09
2,530円

本書は水木しげる生誕100年を記念して今年刊行された。「トペトロとの50年:従軍後記(文庫本)」(2002)を底本として、同書の単行本(1995)に収録されていた絵や写真を加えるとともに、「娘よあれがラバウルの灯だ」(1973)、「トペトロの葬式」(1994)を増補したもの。タイトルの通り、第二次大戦でラバウルに従軍した際の現地の人々との触れ合いをもとに、戦後も続けた彼らとの交流と南方文化についての好奇心を語りつつ、多様な絵で表現している。写真も収録されているのだが、どうしても水木自身の絵やデッサンに目が行ってしまうと言うのも当然のこと。水木は大正11年(1922)生まれで、私の父と同年令。そう考えると戦争体験や混乱の戦後を生きてきた世代としての共通の感覚を想像しながらの読書となった。

本書は子供の頃からの話に始まり、中心はラバウルの従軍と現地のトライ族の人達との交流にある。水木は昭和18年(1943)召集。上官から「任地は北がいいか、南がいいか」と聞かれ、水木は日本国内の話と勝手に思い、土地勘もある暖かい「南がいい」と答えた結果、南方軍に編入となりラバウル近郊の「地の果てみたいなところの、そのまた最前線」であるズンゲン守備隊に配属になる。そこで歩哨中に敵の襲撃を受け、隊は全滅。水木はただ一人助かったものの爆弾で腕を負傷して左腕を失っている。そのズンケンの兵舎の様子を描いた絵が収められているが、それを見ると軍服の兵隊が描かれていなければ、ヤシの木が茂り、鳥が舞うという長閑な南方の島の風景そのものであり、悲壮感の欠片もない。そして、傷病兵としてラバウル近郊に集められ、畑仕事など軍役とは関係ない作業をさせられていた。作業の合間にはトライ族の家を訪れる等の付き合いがあり、後に交流の中核となるトペトロと呼ばれていた少年もその一人。こうした時間は傷病兵にとって大いなる安らぎであったことは想像に難くない。この体験が「ラバウル従軍後記」を生む原点になっているとともに、トライ族の人達の生き様や風習の中から水木が後に描く妖怪などのヒントを得たというのも面白い。こうして終戦を迎えた時、トライ族の人々からはラバウルに残り、日本に帰るなと言われた様だ。しかし、水木は七年後に戻ってくると言い残して帰国している。

本書には水木の多くの絵画・デッサン・漫画が収められている。その一つ、ラバウルでの戦争を描いた水彩画は小松崎茂の作品を彷彿とさせるし、終戦後に描かれた鉛筆画の家族の姿は終戦直後の重苦しい生活をリアルに表現している。復員して故郷の境港で描いた古い町並みはモノクロームの静かな佇まいの中に懐かしい風情を感じさせるものだ。

その中で、戦前から残していたクレパスを使って描いた、自らの心象風景の数枚の絵は「戦争というハンマーで頭を殴られたような気持ちで’脳みそ’が思うように働いてくれない。・・・戦争のショックが襲ってきた」と言っているように暗い表情の男が画面中央に小さくなって部屋で膝を抱えてしゃがみこんでいる。この絵を見ると、明るく語る水木の深層心理は暗く沈殿したような思いがあったことが気付かされる。

昭和23年(1948)に武蔵野美術学校に入学し絵画の学び直しにチャレンジしている。「デッサンもさることながら、私は奇妙な人々に子供のころから興味を持っていた」と言っている通り、この「むさび」で出会った人々の中から8名の「奇人」を描き、彼らの言葉を紹介している。ある奇人曰く「芸術は詩がないとだめですよ。芸術の前に生命はカケラに等しい」とか、別の奇人を評して「この男は理屈をのみこねて、絵を描くこと更になく、やたらと歩き廻り一言『絶望』と叫ぶ」。また、同じ頃、電車の中で見掛けた女性達を描いていて、ひとりひとりにタイトルを付けている。割烹着で買い物かごを持った女性は「配給一路型」、英字新聞とハンドバックを持った女性は「インフレ愛好型」。「婚期あせり型」、「新人類型(別名パンパン)」等が描かれている。水木のひねりの効いた表現だ。

もう一つ、「絶望の町」というタイトルの一連の鉛筆画がなかなか重い。戦後の一般民衆の生活の厳しさを描いたものだが、なぜか登場人物は服を着た骸骨たち。その中の一枚は我先に霊柩車に載ろうとしている骸骨たち。その吹き出しには「かの国に幸福を求めて。押さないで下さい、私が先です」とある。まさに、戦後の生活と世情を描く、水木ワールド全開である。こうして、紙芝居や貸本屋の為の漫画を描いて食いつないでいたものの、ラバウル行きは「夢のまた夢」の生活が続いていた様だ。

そして、昭和46年(1971)に念願のラバウル再訪を果たし、トペトロを探し当てたのも偶然が味方したようだ。このラバウルは水木にとって思い出の地である以上に「南方病」と云うほどに、この地の文化・風習にのめり込んでいた。「鬼太郎たちは実はトペトロたちなのだ」と語っているようにトライ族の風俗や人々にヒントを得ていたし、「鬼太郎を守る側の一団のお化けたちはトライ族に近い。それはトライ族の方が日本人より人間本来の姿に近いから」という感覚は、学校や軍隊といった社会環境や人間関係に馴染むことが難しかった水木の本音であろう。

トペトロの死は平成3年(1991)に一通の手紙で知らされる。葬式をしないまま墓地に埋葬されていると聞き、水木は二年後にラバウルを訪れている。トライ族の葬式は参拝に来てくれた人達に貝貨(金)、米、カンズメなどを渡さなければいけないという事で、水木が喪主として資金を負担して葬儀を終えたという。水木は「トペトロとの50年は奇妙な楽しみに満たされた50年だった。片腕の当番兵と土人、森の人たちとの奇妙な交流の話を、そのまま捨てておくのはもったいないと思って一冊の本にした」という文章で終えている。

私は、今まで「ゲゲゲの鬼太郎」に代表される漫画を通して「水木しげる」という人間を見てきたのだが、そうした妖怪漫画の原点としてのラバウル体験を真剣に語り続ける姿に戦争の持つ厳しさを感じるとともに、片腕を失い、復員後も厳しい生活環境で多くの喪失感もあったと思うのだが、戦時中の人との繋がりを保つことが出来たというのは素晴らしいことである。加えて、絵やデッサンを通じて水木の画才の新たな一面を知ることが出来たのも収穫だった。大きくとらえると昭和という時代を辿る読書であった。

わたしの父は第二次大戦に従軍し無事復員したものの、学生時代の旧友の1/3が戦死したという喪失感は大きく、戦死した仲間の為にも、生き残った自分は頑張らなくてはならないという気持ちをバネにして生きていた人だった。「級友の1/3が戦死」という言葉以上の戦争体験を私に語る事は無かった。「もう少し、親父といろいろ話していれば・・・」と思っても、もう遅いのだが。(内池正名)

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2022年3月17日 (木)

アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?

カトリーン・マルサル 著
河出書房新社(288p)2021.11.16
2,310円

著者のカトリーン・マルサルは1983年生まれのスウェーデン出身のジャーナリスト。特に経済、女性問題について発言してきた女性。原書は「Who cooked Adam Smith’s dinner?」と題され2015年の刊行。30才そこそこで本書を世に問うたと考えると大胆な発想と切り込んでいくパワーにも納得がいく。

アダム・スミスに始まる経済学は「国富論」(1776)に代表されるように、国民一人一人の利益追求が国の全体効率に繋がるという考えで、それを支えるのは「Invisible Hand(見えざる手)」という自然均衡概念である。それを簡潔に示した例として本書のタイトルにもなっている話は、「我々が食事を手に入れられるのは、肉屋や酒屋やパン屋の善意のお陰ではなく、逆にいえば対価をもってそれらを手に入れるのも利己心があるからだ」というもの。この言葉に対して著者は「アダム・スミスは食べている肉を焼いてくれた人を見落としている」と鋭いツッコミをいれているのだ。経済循環を考えた時に肉屋と食べる人を繋ぐ部分、いわゆる「家事」全般はアダム・スミス以降の経済学でも視野に入れられることがなかった。利益を求めない貢献、子供を生む、子供を育てる、家族の食事を作るといった活動は経済の視点からは無視されるということであり、国家のGDPに含まれることもない。こうした点を経済学の不十分さとして著者は論じている。

経済活動を考える際に、人の行動をモデル化するために過去からいろいろな例が示されて来た。その一つがロビンソン・クルーソーである。無人島に流れ着き、ルールも法律もない純粋な自己利益だけで生活し、制約は時間と資源の量だけ。彼は生産者でもあるとともに消費者だから、物の価値は需要と供給によって純粋に決定される。このように経済モデルは理想(欲望)を目指し有限な資源の配分を選ぶことで「調和と均衡」が図られる。そこに「善意」も「愛」も入る余地はない。まさに著者が非難する、伝統的な経済学の世界であることは間違いない。こうした状況を変革しようと挑戦した女性としてナイチンゲールを取り上げている。ナイチンゲールはクリミア戦争(1853)の時イギリスから38名のボランティアとともに黒海に向かい、野戦病院で看護活動を通して兵士の死亡率を大幅に引き下げた。その詳細な活動記録を残したうえで、統計学者でもあった彼女は統計データを駆使して看護のあり方や看護師に対する待遇改善を政府に求め続けた。しかし、社会はそのナイチンゲールを「白衣の天使として、男性が必要とする女性の形に歪めて行った」という見方をしている。ここでも「愛情」や「ケア」は賞賛されたものの、社会を変革するには至らなかった。

19世紀、20世紀と社会の豊かさは手にしてきたものの、貧困を無くすより格差を広げたというのが著者のもう一つの主要な指摘。そうした格差が隠されてしまう仕組みの一つがGDPの算定の仕方だ。同じ種類の労働でもGDPに含まれたり含まれなかったりすることがある。「男性が雇っている家政婦と結婚すると、GDPが減る」とか、「高齢の母親を老人ホームに入れるとGDPは増加する」といったケースだ。ただ、依然として家庭内の無償労働についてカナダの推計ではGDPの40%程度が隠れているという数字を聞くと、いささか驚かされるとともに、人間の活動成果として測定する手段の必要性は理解出来る。

また、男女間の所得格差を提起している。第二次大戦後、女性の平等が叫ばれる中で、「女性は自由で孤独で競争心の強い人間になれる」と言われ始めるが、経済の観点で言えば「女性は家事をしなければならず疲れることで、仕事の効率が下がるとともに、時間の制約もあるので低い賃金となる」とか、逆に「女性は賃金が安いので家事をやらざるを得ない、男女どちらかが家事をするなら賃金の安い女性にやらせた方が損失は少ない」といった堂々巡りが続いた。しかし、考えてみれば「髪結いの亭主」ではないが、女房の方の賃金が高ければ、男は家事に専念できる。そう考えると男女の二元論ではなく、人によると思うのだが、例外的事例でしかないのも事実。

20世紀に入り、女性は相続権、就職、借金、同一賃金など、様々なジェンダー間の平等な権利を手に入れようと活動してきたが、一方、競争を前提とする社会に進出した女性の前に立ちはだかったのは、男を前提とした社会規範であり、それにより女性は男と女の双方の規範を負担する必要が現実であり、男はありのままの自由を認められていても、女はありのままの自由は得られていないという。要すれば男社会に女を混ぜ込んだだけでは平等は達成されないという見方だ。ただ、第二次大戦後、ボーヴォワールが唱えた女性解放思想の代表作「第二の性」というタイトルにも「何故、女性は第二?」という意見を述べているが、そこまで言わなくてもという気もする。

これだけ歴史を積み重ねてきた経済学は何故リーマンショックを予測出来なかったのか。

そして、「経済学は抽象的な架空の条件ばかり分析していて、目の前の大事な問に向き合っていない。自然の恵みを利用して人々が必要を満たし、人生の喜びを享受するやり方を研究する科学であってほしい」と著者は問い掛けている。しかし、生身の人間は常に「合理的」で「利己的」に行動するわけではない。実際の人々はいろいろな予測結果やメディアの情報に左右されながら行動する。単純化された理論上の経済人は本当の人間と違うのは当たり前のことで、本当の人間は良く言えば複雑、別の言い方をすれば非合理的な動きをする。社会活動の全てを予測することは不可能であり、社会科学の限界として理解しておくべきだと思う。

本書を読みながら、学生時代の教科書アダム・スミスの「国富論」、ケインズの「雇用・利子および貨幣の一般理論」、サミュエルソンの「経済学」、マルクスの「資本論」などが思い出された。あくまでそれらの著作には学問として接してきた限界からだろうか、著者のような読み方をしていなかった自分に気付かされる点も多かった。また、それも時代の為せる業だろうか。一方、実際の金融市場で活動する投資家たちが数字に踊らされている場面に直面したことが有る。15年程前、上場会社の経営に係わっていた時、或る女性の株主から「御社の株価動向についての見解は」といった質問に受け答えしていた。すると彼女の最後の質問は「ところでこの会社は、何をしてる会社?」と聞かれて驚いたことがある。この株主は「株価」と「その推移」だけに興味が有り、社員たちが苦労して何を作っているかとか、どんな商品・サービスでお客様から評価されているかなどは一切関心がない様子だった。そして、株価が上がれば利ザヤ稼ぎで株は売るのだろう。しかし、こうした株主も資本主義を支える投資家の一人ではあるのだが。

「男」として普段気にしていない観点がいろいろ出て来た。そうした意味では新たな発見があり、時として納得の出来ない部分もありつつ、楽しく読み終えた。(内池正名)

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暁の宇品

堀川惠子 著
講談社(392p)2021.7.5
2,090円

著者の堀川惠子は、次々に話題作を発表しているノンフィクション作家。本サイトでも以前『永山則夫 封印された鑑定記録』を取り上げている。その堀川は広島で生まれ育った。彼女が本書を書くことになったきっかけは、「人類初の原子爆弾はなぜ広島に投下されなくてはならなかったか」という疑問だった。第二次大戦末期、アメリカは原爆投下候補地を何度か検討しているが、広島はその都度候補地の筆頭に挙げられている。アメリカ国立公文書館に残された議事録には、最終的に広島が選ばれた理由について「重要な陸軍の乗船基地」だったとある。広島沖にある日本軍最大の輸送基地、宇品(うじな)のことだ。この港には陸軍の船舶司令部が置かれていた。

本書は陸軍船舶司令部の3人の司令官の足跡を主にたどっているが、それは取りも直さず船舶輸送、つまり日本軍が軽視した兵站という視点から太平洋戦争を見なおすことになる。陸軍船舶司令部という部門は、戦地へ陸軍の兵を運ぶとともに、補給と兵站を一手に引き受けていた。司令部周辺には人馬の食料を調達する陸軍糧秣支廠、兵器を生産する陸軍兵器支廠、装備品を生産する陸軍被服支廠などがあり、これらの任務に従事した人員は民間の船員や軍属を含め30万人以上に及ぶ。「太平洋戦争とは輸送船攻撃の指令から始まり、輸送基地たる広島への原子爆弾投下で終わりを告げる、まさに輸送の戦い“補給戦”だった。その中心にあったのが、広島の宇品だったのである」

本書の軸となる登場人物は、陸軍で「船舶の神」と呼ばれた田尻昌次中将。一般向けの戦史にほとんど登場することのないこの人物の遺族を訪ねた著者は、ここで不遇の軍歴に終わった田尻が13巻の「自叙伝」を残していたことを知る。未発表のこの資料と田尻の著書、田尻がつくった制度から生まれた船舶将校・篠原優が著し防衛研究所の書庫に眠っていた手記が本書の柱となっている。

陸軍大学校を出た田尻は、宇品で船舶司令部の前身である陸軍運輸部、次に東京の参謀本部船舶班、再び宇品の陸軍船舶司令部と、一貫して陸軍の船舶輸送部門を歩んだ。陸軍が初めて育てた船舶輸送の専門家だった。

田尻が宇品にやってきとき、陸軍船舶司令部は「船と船員を持たない海運会社のようなもの」だった。それにはこんな歴史がある。世界中ほとんどの国の軍隊で、海上輸送は海軍の役割になっている。ところが日清戦争を前に陸軍が部隊の輸送を海軍に頼んだところ、海軍からそれはわれわれの任務ではないと断られた。陸軍はやむをえず民間船をチャーターして兵や物資を運ぶことにした。船舶徴傭(ちょうよう)と呼ばれるこのやり方が、実に太平洋戦争が終わるまで続くことになる。

参謀本部船舶班と宇品の司令部で田尻が手掛けた任務は次のようなものだ。まず、軍事用舟艇の開発。日清日露では敵がいない場所への上陸だったから手漕ぎボートのような舟で上陸できたが、田尻は敵が抵抗するなかで上陸できる舟、外付けエンジンで自走できる鉄舟を開発した。大発動艇(大発)と呼ばれるこの舟は、後に上海事変で威力を発揮し師団規模の敵前上陸に成功する。他にも小発動艇(小発)、装甲艇(攻撃能力の高い舟)、舟艇母艦(大発を大量に搭載できる輸送船)などを彼は技術者とともに開発している。

次に田尻が手掛けたのは船舶工兵の育成。日本軍は兵や物資の輸送・陸揚げを民間人に頼っているが、どうしても上陸作戦の専門部隊が必要になる。その専門家を育成して各師団に配置した。ほかにも宇品港を整備したり、海軍と共同作戦のための委員会をつくるなど、対立することの多かった海軍と良好な関係を築いてもいる。

そのように船舶の専門家として欠くことのできない田尻だが、日中戦争が泥沼化し、重要物資を東南アジアに求めようとする「南進論」が勢いを増してきた1939(昭和14)年、ひとつの事件が起こる。この年、田尻は陸軍中枢と政府に向けて「意見具申」を行なった。既に国家総動員法が施行されており、軍事が最優先されて民間船が徴傭され、国内の物資流通が圧迫されている。船が圧倒的に足りないのだった。田尻は具申書のなかで、日本の船舶輸送が置かれた危機的状況とその解決に国家的な対応が必要なことを、自らの任を超えて訴えた。「建軍以来、日本陸軍のアキレス腱であり続けた船舶の深刻な問題を白日の下に晒し、関係者に警鐘を鳴らそうとしたこの意見具申は、いわば爆弾だった」

その翌年、宇品の倉庫で原因不明の火災が起こり、田尻はその責任を問われる形で退職させられる。戦後のメモで田尻はこのことを「罷免された」と記す。その背後には、船舶の実情を知らずに威勢のいい「南進論」を唱える参謀本部の皇道派将校と、合理性に基づいて議論する田尻とはそりが合わないという事情もあったようだ。

本書の後半では、田尻が引退を余儀なくされた後の、対米英戦争に至る過程とガダルカナル戦が、船舶の視点から語られる。

1941(昭和16)年に入り、米英との戦争を視野に入れた参謀本部は、陸軍省に「物的国力判断」を作成させた。この時点で日本の船舶保有量は490万総トン。

開戦に踏み切った場合、陸海軍の徴傭船舶を250万総トンとすると、残った民需用船舶では「基本原料難きわめて深刻」「物資需給は逼迫」し、国力の低下は明らかだった。しかも輸送船は必ず攻撃されるから「損害船舶」が出る。これを報告は開戦1年目80万トン、2年目60万トン、3年目70万トンと見積もった。この時点で日本の新造船は年24万トンだから、輸送船舶は年々減ってゆく。「帝国の物的国力は対米英長期戦の遂行に対し不安あるを免れない」という結論は当然のものだった。

ところが5カ月後、8月の「国力判断」では「損害船舶」を1年目50万トン、2年目70万トンと低く見積もり、一方、開戦後に戦況が落ち着けば徴傭を解いて民需に回せるので「コレナラナントカナル」という楽観的な結論が導かれる。さらに9月の検討では、2年目以降の「損害船舶」は不明であるという理由からゼロと仮定され、民需が回復するという右肩上がりのグラフが作成された。また造船能力も1年目50万トン、2年目70万トン、3年目90万トンと見積もられた(実績は1941年で24万トン)。著者はこう書いている。「開戦を可能にさせるための“辻褄あわせ”がひたすら行われるのである。最初は遠慮がちに、最後はあからさまに――」

ガダルカナル島の悲惨な戦闘も、船舶の視点から見れば「絶海の孤島にどちらが先に戦力を集中させるかという“輸送の戦い”」だった。1942(昭和17)年8月、米軍が1万人以上の大兵力でガ島に上陸し、日本軍の飛行場を占拠したことから半年に及ぶ死闘が始まった。大本営はミッドウェイから帰国途上にあった一木支隊2000人を急遽、輸送船でガ島に向かわせた。ところがこの輸送船が石炭の旧式エンジンで速度が遅いため、支隊の半数を駆逐艦に乗りかえさせ先行上陸させた。しかし戦闘用の駆逐艦は多数の重火器を搭載できないため、部隊は小銃と機関銃、大隊砲2門の軽装備で米軍の圧倒的火力の前にほぼ全滅した。

その後の兵力投入も失敗したため、司令部は第二師団と戦車部隊、重砲兵部隊を投入することとし、6隻の輸送船からなる大船団を組んだ。しかし結果は制空権を握る米軍の攻撃に輸送船3隻が沈没、3隻は満身創痍となった。かろうじて陸揚げされた武器弾薬食料も輸送に必要なトラックやクレーンが皆無なため、多くが米軍の攻撃にあって燃えた。ガ島には食料がなく、しかも兵は食料を持たぬまま送り込まれた。飢餓に瀕した部隊に向け、武器食料を輸送するため11隻の輸送船団が組まれたが7隻が撃沈され、残った4隻のうち1隻は「擱座(座礁させ)、強行上陸」の命を受けた。「それはもはや特攻輸送と呼んでよかった」と堀川は書く。

その後もニューギニア海域では次々に輸送船が攻撃され、船員はここを「船の墓場」と呼んだ。田尻の後を継いだ2人の司令官は、新しく船舶をつくろうとしても資材なく、宇品はただ指令されたとおりに乏しい輸送船をやりくりし、船舶工兵を集めて送りだすしかなかった。宇品の代名詞ともいうべき大発と小発は、鉄鋼がないため木製やベニヤ製のものまで考案されるようになった。1944(昭和19)年に入ると、南方資源地帯と内地を結ぶ航路は途絶し、宇品は輸送基地としての機能を失っていった。代わりに命じられたのは特攻艇の開発。ベニヤ製で2人乗り、爆雷を積んで敵戦艦に突っ込むというもの。出撃した2288人のうち1636人が戦死している。この特攻艇については極秘とされ、戦後も長くその存在を封印されることになった。

現在にいたるまで、宇品の船舶司令部についての研究や著作はほとんどない。そのことは、戦前戦中だけでなく戦後になっても輸送や兵站の問題が重要視されなかったことを意味しているかもしれない。軍事だけでなく、周囲を海で囲まれたこの国はあらゆる経済活動に輸送や兵站の問題はついて回る。当時より遥かにグローバル化が進んだ現在で言うなら食料の自給やエネルギー問題、サプライチェーン網の確保といったことになろうか。未発表の資料を駆使して、これまで軽視されてきた視点から戦史に新しい光を当てた本書は貴重なものだ。

しかもこの本に書かれていることは決して過去の歴史じゃない。登場する中央や現場の軍人たちの言動を読んで、今もなんにも変わっちゃいないんだな、というのが正直な感想。森友問題での公文書改竄やら国交省の統計データ書き換えやら、輸入に頼るコロナワクチンや検査キットの不足やら、今のこの国の組織と人のありようが二重写しに見えてくる。ロシアのウクライナ侵略で第二次世界大戦後の世界秩序が大きく変わりそうな予感もあるこの時期、いろんなことを考えさせられる読書だった。今年度の大佛次郎賞受賞作。(山崎幸雄)

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2022年2月17日 (木)

「ケルト人の夢」マリオ・バルガス=リョサ

マリオ・バルガス=リョサ 著
岩波書店(538p)2021.10.27
3,960円

小説を読む愉しみのひとつに、「いま・ここ」を離れた過去・未来の異空間に拉致され、いっとき登場人物になりきって喜び怒り哀しみ楽しむ経験を与えてくれることがある。子どもなら誰も冒険ものや探偵小説、あるいは少女小説でそんな我を忘れる全身体験をしているけれど、大人になってからそうしたカタルシスを味わわせてくれる小説にめったにお目にかからない。その稀な小説に出会った。マリオ・バルガス=リョサの『ケルト人の夢』。

時は20世紀初頭。舞台はアフリカのコンゴと南米のアマゾン、そしてアイルランド。西洋列強による植民地支配が地球規模で展開されていた時代だ。主人公は実在の人物で、イギリスの外交官ロジャー・ケイスメント。アイルランド(ケルト人)の血を引く彼は、英国領事として赴任したコンゴとアマゾンでヨーロッパ人による先住民の残酷な支配を告発して歴史を動かす役割を果たした。が、後にアイルランドの英国からの独立運動に参加して反逆者となり、捕えられて絞首刑となる。

言うまでもなくバルガス=リョサは1970年代に世界に衝撃を与えたラテン・アメリカ文学ブームを牽引したひとり。ペルー出身で、後にスペイン国籍を取得している。本書は彼がノーベル文学賞を受けた2010年に刊行された。綿密な取材による事実に基づきつつ奔放な想像力でディテールを埋めた、なんともスケールの大きな小説だ。

物語はロジャーが英国領事時代のコンゴ(あるいはアマゾン)と、アイルランド独立派のイースター蜂起にからんで逮捕された獄中とが同時進行する。

当時、コンゴはベルギーの、というよりベルギー国王レオポルド二世が個人所有する植民地だった。国王は「文明と、キリスト教と、自由貿易」をもたらすために兵士や民兵を送り込んだが、ヨーロッパ中から集められた彼らにはごろつきやならず者、犯罪者、一攫千金を狙う冒険者が多かった。彼らは「村落を焼き、略奪を行ない、先住民を撃ち殺し、鞭で打ち据え」といった所業を行く先々で繰りひろげた。若きロジャーはアフリカを文明化するという理想を信じて国王のために働いていたが、やがてその過酷な現実を知ることになる。後に英国領事としてコンゴに赴任したロジャーは、政府に虐待のレポートを提出するためコンゴ川を遡って村々を訪れる。バルガス=リョサの筆は、まるで読者がコンゴ(あるいはアマゾンの密林)の現場に立ち会ってでもいるようなリアリティに満ちている。

「瞼を閉じると、目のくらむようなつむじ風のなかに、背中、尻、脚に小さな毒ヘビに似た赤い傷痕が残る黒檀のような体が、繰り返し現れる。子どもや老人の切断された腕の傷口、残っているのは皮膚と頭蓋骨だけでまるで生気も、脂肪も、筋肉も抜き取られてやつれ果てた、死体のような顔。痛みよりも、そんな目に遭ったことがひきおこした深い自失を表すうつろな目あるいはしかめっ面だけ。それはいつも同じで、ロジャー・ケイスメントがノートと鉛筆とカメラを持って足を踏み入れたすべての村落や片田舎で何度となく繰り返されてきた光景だった」

この現実はコンゴの次に赴任したアマゾンでも変わらなかった。「自分がだんだん正気を失いつつある気がするよ」、と彼はアイルランドの従妹に手紙を書いている。やがてロジャーのなかで、ひとつの疑問が浮かんでくる。「コンゴと同じくアイルランドも植民地ではないか?…イギリス人はアイルランドを侵略したのではなかったか」。このときからロジャーは、大英帝国の外交官として働きながらアイルランド独立を夢みる、矛盾に引き裂かれた男として生きることになる。

小説のなかで同時進行する獄中は、その十数年後。既に第一次大戦が始まっている。アイルランド独立派はイギリスに対して蜂起を計画し、ロジャーは独立派として英国の敵国ドイツから武器を故国に送ろうとして失敗、逮捕された。アフリカやアマゾンのすさまじい搾取を告発した有名人で元英国外交官のロジャーをどう扱うか、英国政府は揺れている。獄中の彼を従妹や独立派の友人や神父が訪れる。彼らとの、そして看守「シェリフ」との対話がロジャーの過去と現在を浮き彫りにする。

独房の「現在」でロジャーは、死刑判決が下った彼に恩赦の請願が認められるか否か、生と死の狭間で揺れている。一方、回想のなかに現れるアイルランドや家族の記憶は美しい。なかでも印象に残るのは、カトリックだった母の肖像。彼女は「ほっそりした体つきの女性で、歩くというよりは空中を漂うかのようであり、目と髪の色は明るく、滑らかきわまりない手が自分の巻き毛に絡んだり入浴中にその手で自分の体が愛撫されたりすると、彼は幸福な気持ちに満たされた」。

この母をはじめとして、なんとも個性的な人物が次々に登場するのもこの小説の魅力のひとつ。高名なアフリカ探検家で「(先住民の)知能は君や私よりワニやカバに近い」と公言するスタンリー。割り当てられた量のゴム樹液を持ってこなかった先住民を「気晴らしのために」石油の染み込んだ大袋に詰め火を放つ遊びに興ずるゴム農園のチーフ、ビクトル・マセド。はじめロジャーを売国奴と軽蔑するが、やがて心を開いて息子を失った悲しみを告白する看守の「シェリフ」(本書の登場人物はほとんど実在するが、これはバルガス=リョサが創作した人物らしい)。

なかでも心に残るのは、同性愛の性向をもつロジャーの前に現れるノルウェーの金髪の美青年、アイヴァント・クリステンセンだろう。ニューヨークの路上で出会い、一目で気に入ったロジャーは彼を「ヴァイキングの神」と呼び、助手としてアイルランド独立派の会合に同行する。が、アイヴァントは裏でイギリスの諜報機関に通じ、ロジャーの行動はすべて筒抜けになっていた。それがロジャー逮捕の原因となる。

ロジャーは20世紀初頭に苛烈な植民地支配を告発して世界史を動かした人物だけど、バルガス=リョサは彼を英雄としてだけ描いていない。むしろ彼の弱みや判断の間違いをも含めて、ロジャー・ケイスメントという矛盾に満ちた人間の丸ごとの姿に迫っている。

僕たちはこの長大な小説を読みながら、緑濃い密林と瀑布の風景に見惚れ、拷問機にかけられる先住民の身になって恐怖し、航行不能の川を遡るため船体を先住民に牽かせて山越えする光景に驚嘆し(映画『フィッツカラルド』!)、殺されかねない奥地のゴム農園で残虐な白人チーフとひとり対峙するロジャーにはらはらし、独立という「ケルト人の夢」に邁進すると同時に「美貌のヴァイキング」に惹かれてゆく姿に人間が否応なく選んでしまう選択を思う。

ロジャー・ケイスメントの存在は長らく歴史のなかに埋もれていたらしい。同性愛が強いタブーだった当時、ロジャーがアフリカやアマゾンで若い先住民に声をかけたことを記した秘密日記をイギリス情報部が断片的に宣伝に利用したことは、アイルランド人をも困惑させた。彼は墓碑も十字架もないままロンドンに埋葬され、彼の遺骸がアイルランドの地に帰るのは性意識に世界的な変化があった1960年代を待たなければならなかった。

そんな「英雄と殉教者は抽象的な典型でも完璧さの見本でもなく、矛盾と対照、弱さと偉大さからなる一人の人間」の姿を、この小説は余すところなく味わわせてくれる。年末から正月をはさんで一カ月、まるで歴史のなかに自分が紛れ込んだような読書だった。

蛇足。読後、友人と、これ映画で見たいよね、という話になった。あれこれ名前を挙げた末に決まったのは、こんな「夢の映画」。

主役のロジャー・ケイスメントにベネディクト・カンバーバッチ。
ロジャーが告発する虐待の責任者ペルー・アマゾン・カンパニー社主にハビエル・バルデム。
ロジャーが惑う美青年アイヴァントにティモシー・シャラメ。
回想シーンの母にアイルランド系のシアーシャ・ローナン。
そして監督には『アギーレ 神の怒り』『フィッツカラルド』とアマゾン舞台の映画2本を撮った御大ウェルナー・ヘルツォーク。
どんなもんでしょう? 見たいなあ。(山崎幸雄)

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「仲人の近代」阪井裕一郎

阪井裕一郎 著
青弓社(208p)2021.10.27
1,760円

本書は江戸期から現代までの「恋愛」「見合」「仲人」「結婚」といった事柄に係わる実態変遷をまとめた物。今までも家族や結婚に関する研究は多く発表されているが、「仲人」を中心軸にして日本の歴史を紐解くという研究は初めてとのこと。その冒頭でリクルート社の「ゼクシイ結婚トレンド調査」が示した、2007年に結婚した人達のうち仲人を立てた人は1%に満たなかったという数字に少なからず驚きを覚えた。「頼まれ仲人」を含め仲人を立てる結婚式は減少していると感じていたが、その数字は想像を超えている。ただ、「仲人が自明でなくなった現代だからこそ、あらためて『仲人』とは何かを包括的に語る事が出来るようになった」という著者の言葉に研究者としての思いの強さが出ている。

本書は時代を四つの時代に分けて、江戸から明治初期までの武家や一部の特権階級と農民・漁民・庶民の結婚習俗の違いを、明治期から大正期にかけて、過去の習俗と文明化との狭間での結婚観の変化を、戦時体制下における結婚媒介の国家管理や人口政策・優生思想の流れを、そして戦後の「民主化」と「高度経済成長」による家制度の崩壊と企業社会における仲人のあり方などを論点として歴史を俯瞰している。こうした仲人前史から現代までの仲人や媒酌婚の役割変化を明らかにすることで、伝統として語られて来た仲人や媒酌婚が「創られた伝統」であるとする著者の見解を導き出している。「家を唯一の根拠とした武家のものの見方が一世を風靡した世の中(明治)が到来した結果、仲人結婚が『多くの縁組の標準』 になっていった」という柳田国男の言葉のように、江戸期から明治初期では大多数の日本人にとって仲人を立てた結婚はまったく無縁で、仲人結婚が日本の伝統文化だったとは言い難い状況だったことが判る。

明治初期でも、一般庶民にとっては村内婚が当たり前で、結婚を媒介したのは村内の「若者仲間」と呼ばれる同年輩男女の集団であった。彼らは氏神祭祀や村の共同作業などを取り仕切りながら、集団として男の「求婚資格」を、女の「求婚を受けるかどうかの決定権」を承認していた。加えてこの「求婚」と「決定」のプロセスの中に「夜這い」が定着していたという。ただ、嫁入り頃の娘を持つ民家では戸締りをしないことが共同体の中で定められていたという話にはいささか驚きを覚えた。しかし、明治中期になると、日本が文明国家として世界に認められるために「新しい文化の基準」でこうした地縁集団としての「若者仲間」は廃止され、夜這いや混浴といった旧習が「野蛮」とされ禁止されていくことになる。

同時に、交通網の発達や経済発展により、徐々に村外婚も多くなっていくと、結婚相手の双方を見知っているわけでもないことや、「子供は親に仕え、従う」といった武家の儒教文化からの「家」の論理が強まり、「媒酌婚」の重要性の声が高まる中で、明治民法素案には「媒酌人ななくして婚姻を成すべからず」という文言が有ったという。しかし、最終的にはこの文言が入った形では立法化されていないという事実について、著者は「文明化」の一環として、「家族主義」と「個人主義」の折衷が求められていた結果としている。この時代、武家・華族(上流階級)の慣習を「美徳」とみなして庶民に定着させる「上からの働きかけ」と、日本の習俗を旧風として西洋文明を取り入れるという「外からの働きかけ」の動きがあった。この「国粋」と「欧化」という二つの文明化の動きのなかで媒酌婚位置づけは揺れ動いのだろう。また、結婚に関するいくつかの興味深い対立点を著者は指摘している。

一つは「結婚した夫婦は同じ姓を名乗る」ことを法制定しているのは現在でも日本だけであるが、これは日本の伝統と言うよりも、キリスト教のファミリー・ネームの発想を取り入れて明治民法制定したと著者は考えている。二点目は結婚式である。もともと日本の結婚式では「神に誓う」という慣行はなかったし、伝統的な結婚は村落共同体による承認の「人前結婚」であった。キリスト教の結婚式に倣って、「小笠原式」様式を取り入れた日本版結婚式が生み出されたが、この神前結婚式も戦前は殆ど普及しておらず大衆化したのは戦後であるという。このように、「文明化」「近代化」に伴って多くの伝統や慣習は現実社会との整合性を失い、旧来の儀礼や形式を用いながら新たな社会に適合した「伝統」が再構築されて来たことは興味深い指摘である。

こうした変化の中で、国策として「人口問題」と「優生学」の視点が結婚のプロセスに組み込まれていく。都市に流入した人達の結婚難は社会問題化していき大正10年には結婚媒介所の公営化が始まり、昭和5年には「人口増殖=結婚相談」、「遺伝劣等者の断種=民族の進化」を目標として「日本民族衛生学会」が設立された。昭和13年の国家総動員法の公布とともに「結婚報国会」が結成され、都道府県、企業、工場、町村会での結婚媒介が義務化されるとともに「日本の長い伝統である仲人を国策に生かす」という考えが声高に叫ばれるなど、社会事業として国家管理が徹底されたこの状況は戦時下の日本を象徴している。

敗戦とともに「民主化」がキーワードとなり「父母の同意を必要とする結婚規定」は廃止された。こうして、本人の意思の尊重が進められたが、1950年代でも仲人(多くは親族)を立てた結婚がほとんどであった。高度経済成長期から安定成長期(1960年代~1980年代)には多くの企業で年功序列賃金や終身雇用制が定着し、社員を「家族」としてとらえるようになった。この時代では職場や仕事の関係でのいわば職場見合い結婚が多くなったことから、必然的に仲人を担うのは会社関係者であった。1980年代の結婚で仲人を務めたのは、それ以前の「親族等」から「会社の上司」が一番多くなった。

こうして仲人は「地縁」「家系」から「会社」と移行していく中で二人の後見役として継続していたという事だろう。しかし、団塊のジュニア世代の結婚期に入ると、仲人を立てた結婚は1994年63%、1999年21%、2004年は1%と激減していく。

この戦後の結婚や媒酌人の役割の推移は、私自身の体験そのものであることに気付かされる。私は1971年に学生時代に知り合った妻と結婚をしたが、仲人は親戚(母方の伯父)に頼んだ。その後、社会人になり役職につくようになると、部下の結婚で10年間(1985年~1994年)に12回の仲人を務めた。 そして1999年に娘は仲人を立てず結婚した。こうしてみると、私の仲人に係わる体験は時代の流れそのものだったことが良く判る。平凡というか、なんというか。

仲人を立てた結婚の激減の理由について著者の見解は、親の世代が戦後生まれとなり家制度が希薄になったことに加えて、企業内でも上司が部下のプライバシーに介入すべきではないという考え方の増加など、企業と個人の関係に変化が起きたのではないかと言う見方である。今や、企業にだけでなく、あらゆる共同体から離脱する個人があり、地域も職場も安定的なコミットメントの場ではなくなってしまった。こう考えると、一人一人が個人化していく中で安定的な帰属をどこに求めて行くのかが考えるべき点のようである。若者達が「地域」「家族」「職場」「学校」等どこに関係性を創出・維持していくのかが問われていると思いながらの読書であった。(内池正名)

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2022年1月18日 (火)

「東京ヴァナキュラー」ジョルダン・サンド

ジョルダン・サンド 著
新曜社(304p)2021.09.24
3,960円

著者は1960年生まれのアメリカ人、東京大学で建築史、コロンビア大学で歴史学を学び、東大在学中は谷中に住んで「地域雑誌 谷中・根津・千駄木」の編集者たちと歴史保存運動に係わった実体験が本書を書かせた原動力の様だ。「ヴァナキュラー」という言葉の意味を「土地ことば」と知ると、「谷根千」「新宿西口広場」「江戸東京博物館」といった一見ランダムな都内の地域や場所をテーマにして住民と空間の織りなす歴史を描いている本書のタイトルとして納得出来る。著者は東京のユニークさよりは、世界各国の都市空間を考える共通の手法を示したかったようだが、東京で生まれ、生活をしている私が時代記憶とともに本書を読むと「東京論」以外の読み方は見つからない読書だった。

20世紀後半には旅行や観光の商業化が進み、各国の都市は歴史資産とローカルな文化の独自性を打ち出す姿勢が顕著になった中で、東京がこの波に乗るのは若干遅かったと指摘している。その理由として1970年代初頭で東京には一世紀を超える建造物は殆ど無かったとしている。そう言われてみると、江戸期に繰り返された大火事、関東大震災、東京大空襲などで破壊と再建が繰り返され、東京駅や国会議事堂という近代建築物も19世紀末から20世紀初頭に作られていることを考えると、東京は「モニュメント」なき都市というサブタイトルにも納得がいく。

また、戦後の30年間に眼を向ければ、公害の代名詞でもあった東京はポスト工業化を果たし、1950年代からの郊外ニュータウンへの開発、1970年代には逆に都心のマンションに人口移動が進んだ。この結果、古くからの住民と新しい住民が混在したコミュニティーの成立のためにも、地域住民が自ら住む地域を守るという視点からの保存運動が顕著となった。こうした中1979年から1994年の16年間都知事をつとめた鈴木俊一は「マイタウン東京構想」という住民主体を匂わす政策と同時に「世界都市東京」を目指した「世界都市博」開催を推進した。結果としてバブル崩壊とともに「世界都市博」は開催されなかったが、この相反する政策こそ東京のジレンマを映し出していたと著者は指摘している。

本書の第一章は1969年の新宿西口地下広場が取り上げられている。一瞬とはいえ大衆が公共の広場を占有したものの公権力で排除された結果、東京では市民のための公共空間・広場機能は終焉を迎え、東京の都市論の転換点になったとしている。

中世ヨーロッパの都市国家における広場は、市民たちが集まり、政治を語り、決議する舞台だった。こうした広場は日本の都市空間には存在してこなかった。江戸幕府は防火帯として広小路を作ったり、橋のたもとにスペースを確保したことで非公認の市場や興行場として利用されることはあったが、あくまで、災害対策と経済活動のためであった。明治政府も1886年ドイツの建築家達に東京中心部の設計を依頼したが、彼らの大広場を含む都市計画が採用されることは無く、街路バターンの規格化と経済発展のインフラ整備のみに注力することになる。

こうした東京で、1968年10月21日国際反戦デーのデモに始まり、1969年のフォークゲリラ、ベ平連の集会などが新宿西口地下広場で行われた。この集会の特徴は「行進する統一的な行動をとる市民ではなく、座り込む幾つかの集団」であり、メディアは「精神の解放区」と呼んだ。しかし、この場所を「広場」から「通路」と名称を変えることで道交法違反として人々を排除した。この事件以降の都市論は公共の広場や国政のモニュメントから切り離された日常共有空間に可能性を求めて行ったというのが著者の見方である。以降、「界隈」や「原風景」といった言葉によって人々の思い出と歴史遺産の織りなすイメージが作られていく。一方、言葉としての「広場」は、新聞の読者投稿欄のネーミングに使われるなど、本来の「人々の声を集める」という意味を体現していると指摘されると、理念は正しく理解しているものの具体的な広場がないということかと納得させられる。

次に、所謂「谷根千」における活動を取り上げている。1984年に「地域雑誌 谷中・根津・千駄木」が創刊される。この雑誌の三人の編集者(若き母親)は地域の住民だった。住民の思い出話や、町の習わしなどを聞き取ってまとめることに集中しており、巻頭言では「・・懐古趣味でなく、古き良きものを生かしながら暮らすのが楽しく、生きのいい場所として発展するのに役立ちたい」と心意気を表している。こうした住民の共同感覚を育み、物語を掘り起こす作業は純粋な地域活動として続けられ、メディアにも数多く取り上げられていく。1970年の都民のアンケートで「下町」ランキングは浅草が筆頭で、上位十数地区の中に谷中、根津、千駄木は入っていないが、1987年の観光ガイドブックでの下町特集では谷根千が目玉になった。しかし、「谷根千」に住む人達からすると「下町」と言われることに反対の人々も多かったと言う。

町おこしとしては大成功だったと言っていいのだが、谷根千の町並保全のジレンマが有るとすると、建物という個人の有形財産とコミュニティーという無形財産の優先順位の問題である。この観点は地域の風景資産や歴史資産を保全するというときにはどの都市・地域でもぶつかるものだ。私も街道歩きをしていれば、古い宿場としての町並みを残した東海道の関宿や中山道の妻籠宿など素晴らしい歴史遺産に感動するのだが、そこでの歴史風景保全と人々の生活の調和には大変な努力が必要と言われている。また、多くの自治体で行われている、地域風景資産の認定も住民と所有者の意見の相違は良く起こることである。完璧な解が有るわけではなく、コミュニティーの判断に委ねられることになる。

東京を扱う初めての博物館として江戸東京博物館が1993年に開館した。400年を迎えた新たなモニュメントとして「東京という過去がいかに記憶されるべきか」という命題のもと屋内模型の展示なども多用した保存事業の大衆化の反映であった。もともと江戸の日常的な歴史イメージを形作ったのは「江戸っ子を自称する」市井の研究者達で、彼らは「日本の近代化を進めて行った明治人(薩長人脈)の努力は大いに誇るべきであるが、彼らが江戸時代の文化遺産を全く認めなかったことに対しては憤りを感じざるを得ない」という気持ちが強く、この感性の延長上に江戸東京博物館の展示方針があるため、江戸から高度成長期までの期間を対象としている展示の中で明治維新そのものや、天皇と皇居に対する言及は殆ど無いという違和感を著者は指摘している。

また、1999年に九段下に作られた昭和館は「戦中戦後の国民生活の労苦」を伝えるという施設であるが、戦時をテーマにしているにも関わらず、武器や死を示す展示や資料は無く、戦争そのものを柔らかなセピア色に染め抜くことで、当時の政治を覆い隠す役割を果たしていると考えている。このように日常に傾注していく中、2005年に公開された「Always三丁目の夕日」は1958年の都内の架空の町を描いて大ヒットした。観客達は自分の個人体験や記憶が時代の典型と思いつつ、半世紀前を回想するという、まさに東京ノスタルジーの頂点であった。こうした点を含めて、江戸博や昭和館の展示は「歴史研究の成果を踏まえない、興味本位の展示であり・・・・見世物的に再現することでは歴史認識は正しく形成されない」とし、ハイカルチャーの保存庫としての博物館の存在意義が失われ、個人の記憶が前面に出た公衆不在の「パプリックメモリー」に向かう道に進んでいるという著者の指摘には新鮮さを感じる。

本書では多くの論点が提示されている。例えば、無秩序な都市開発が生み出す一風変わった風景を前向きに受け止めて都市を再評価する「路上観察学」活動の評価や、「日本橋」における風景保存と町おこし活動に内在する矛盾点の指摘、東京の「平和祈念館」の計画の挫折など、東京という都市を考えるうえで多用な視点からの問題が提起されている。文章的には読み難い言い回しが有るし、異見として読んだ部分もあるが、なかなか刺激的な一冊であった。(内池正名)








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「脳にはバグがひそんでる」ディーン・ブオノマーノ

ディーン・ブオノマーノ 著
河出書房新社(416p)2021.04.03
1,375円

『脳にはバグがひそんでる』というタイトルに惹かれた。以前にも『脳には妙なクセがある』『脳はなにげに不公平』(いずれも池谷裕二著)など、脳に関する本を何冊か手にしている。いずれも素人向けに平易に解説した読み物だ。本書は、これら二冊と比べれば明らかに専門的だけれど、日常の出来事や実験エピソードなどを交えて、門外漢にも取っつきやすい構成になっている。

誰でも一度は、「もしかしたら脳は完全ではないのではないか?」と疑問に思ったことがあるのではないだろうか。身近なところでは、いわゆる「ど忘れ」などもそうだし、慣れ親しんだ商店街で、ある一軒が突然更地になってしまったとき、以前どんな店舗だったかどうしても思い出せなかったり、室内で日用品の置き場所を変更すると、しばらくの間は元の場所に取りに行ってしまったりと、すぐにいくつかのケースを思いつく。

こうした個人的なことなら笑い話で済まされるが、バグのせいで様々なことが引き起こされるとなるとそうもいかない。広告やプロパガンダに踊らされ、さまざまなバイアスに引きずられ、およそ合理的とは言い難い判断を下す。いわれない恐れを抱いたり、超自然的なものを信じたり、いりもしない品物を買ったりする。証人や原告の記憶違いで無実の人を有罪にしたり、薬品の名前を取り違えて医療過誤を起こす。はては、とんでもない政治家をリーダーに選んだりしてしまう。

「人間の脳は私たちの知っている宇宙の中で最も複雑な装置だが、それはまた、不完全な装置でもある」と、著者はいう。「脳は感覚器官を通して外界からデータを獲得し、それを分析・貯蔵・処理し、私たちの生存と繁殖の機会を最適化する出力(つまり動作や行動)を生み出すように設計されている。だが、ほかのどんな計算装置とも同じで、脳にもバグがつきものだ」

脳のバグは、様々な状況で大きな影響を及ぼしているが、その理由を説明するのは容易ではない。ただ、際立った原因を二つ挙げることはできる。一つは、「神経系のオペレーティング・システム、つまり脳の構築の仕方を定めた太古の遺伝的青写真」だ。この青写真のおかげで私たちの誰もが、呼吸や体と脳の間の情報の流れの制御といった基礎レベルの課題をこなす脳幹を持っているが、時代の進化とともに多くのバグを生み出す原因ともなっている。

二つ目の原因は、「脳の記憶の構造」だ。脳は情報をニューロン同士のつながりのパターンよって貯蔵する。そのため、脳内のものはすべて、思考も感情も行動も互いにつながり影響を与えていて、これが多くのバグの要因となっている。

ここでは、そうしたバグについて、いくつかのエピソードを取り上げながら見ていこう。

今すぐに100ドル受け取るか、1カ月後に120ドル受け取るかの二つの選択肢が与えられると、多くの人がすぐに100ドルを受け取る方を選ぶはずだという。本来なら、一カ月後に120ドル受け取るほうが合理的だが、「太古の遺伝的青写真」に従えば、先の見通しが立ちにくい先祖の時代では、目の前の満足感を優先(短期的利益)する方が合理的ということになってしまうのだ。

例えば、サッカーのオフサイドの判定について取り上げている。研究結果によると、オフサイドの判定は最大で25%が間違って下されるという。審判は、パスが出される瞬間の、前線の両チームの二人の動く選手の相対的な位置を判断しなければならない。パスを出す選手と二人の選手はたいてい離れた位置にいるので審判は視線を移さなければならない。人が視線を移すには100ミリ秒かかることと、二つの出来事が同時に起こった場合、人は自分が注視していた出来事が先に起こったと判断しがちだという。今ではビデオ判定があるからいいようなものの、25%の誤審というのは驚きだ。

本書では、バグの一つとして「恐れ」について考察している。もちろん、「恐れ」自体はバグではない。動物が捕食者や有毒な動物や敵など、命を脅かす危険に対して、確実に先回りして反応できるように進化が与えたのが「恐れ」だからだ。ただし、恐れる対象はそれだけではないのが厄介だ。その一つが「よそ者恐怖症」だ。人類は生まれつき「よそ者」を恐れるように準備されているのだという。世界では、今もって人種的、宗教的などの理由で争いがあとを絶たない。いくら理性的に「争いはやめよう」と声を上げても、それが脳のバグの一つで、容易には解消しないのだとしたらなんだかやりきれない思いだ。

人はマーケティングの影響を受けやすいという。本書では、史上最も効果的なマーケティング・キャンペーンの一つに、結婚の際にダイヤの婚約指輪を贈る習慣を挙げている。20世紀の初め、ダイヤの売上が急速に減っていたとき、ダイヤ市場を掌握していたデビアスという企業が、1938年、広告代理店に依頼したキャンペーンだ。映画スターやハリウッド映画とタイアップして、ダイヤと愛の結びつきを大衆の普遍的な心に焼き付け、若い男女にダイヤの婚約指輪を主役とみなすように仕向けたのだ。「ダイヤモンドは永遠の輝き」というコピーとともに。

広告のキャンペーンは、社会の構造さえ変えてしまうことがある。20世紀初めのタバコのキャンペーンと20世紀末のボトル入り飲料水のキャンペーンも、成功例の一つだ。タバコの場合は、実用的な機能も恩恵もほとんどなく、むしろ健康に致命的な影響のある商品を、まんまと売りつけることに成功した。飲料水については、ただ同然に手に入る商品に、お金を払うように仕向けたのだ。

広告キャンペーンに似たものとして、政治キャンペーンがある。ヒトラーの例を挙げるまでもなく、通常の選挙でも、初めのエピソードでも述べた即座の見返り(耳障りの良い公約)につられて、人はろくでもない候補者を選んでしまったりする。

本書はコロナパンデミック前に書かれたものなので、コロナとは直接関連がない。それでも、我が国ではともかく、欧米でワクチン反対運動が広がる光景を不思議に思っていた。21世紀初頭の10年間は、自閉症はワクチンが原因で引き起こされるという考えが一般的に信じられていたという。1998年に発表された科学論文が発端だ。その後、データの捏造が判明し、論文は撤回された。それでも、初めのインパクトの方が強く、脳内で「自閉症」と「ワクチン」の間に強い結びつきができてしまった。もともと、体内に異物を取り入れることに抵抗があることもあって、欧米ではワクチン接種反対運動は根強く残っているようだ。

こう見てくると、脳のバグは、私たちの生活のすべての面に影響を及ぼしているが、脳に依存しているとなると、社会はそう簡単には変わらないのだなあ、と暗澹たる気持ちになる。けれども、例えばサッカーの誤審は多少なりとも解消されたではないか。他の分野でもおいおい解消すると思えば一抹の救いになる。

脳は、削除機能を持っていないので、一朝一夕にバグを解消することはできない。だからこそ、私たちは「自分の脳のバグと、そのバグがどう利用されているかに気づき、それを理解するようにならなくてはいけない。そうすれば日常的に下す判断だけでなく、最終的には自分の人生やまわりの世界を形作る見解や政治的選択も最適化できるのだ」。本書を読むことで、多少その理解が進むかもしれない。(野口健二)

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