2023年11月16日 (木)

「日本語の発音はどう変わってきたか」釘貫 亨

釘貫 亨 著
中央公論新社(264p)2023.02.20
924円

著者は1954年生まれ。専門は「日本語学」、著作は「古代日本語形態変化」などが紹介されている。「日本語学」とか「日本語形態変化」という言葉に初めて接して、具体的な内容や研究手法もよく判らないまま本書を手にしたのは、帯のキャッチコピーの「羽柴秀吉はファシバ フィデヨシだった!」という言葉に引きつけられたから。

音声学では発音の再現を「再建」という言葉を使うとのことだが、本書は奈良時代(8世紀)から江戸中期(18世紀)における日本語発音の再建研究の現状と手法を説明しており、文献資料(万葉集や源氏物語絵巻等)の重要さと共に日本語音韻学だけでなく各国音韻学の成果も生かしつつ再建して行く大変さを理解させてくれる。また、表意文字としての漢字、表音文字としての平仮名、片仮名、そしてローマ字(アルファベット)を組み合わせて日常文を表現している日本語についても、なんでこんな複雑な言語になってしまったのかを知る楽しさもある。

現代の私たちは五十音(あいうえお)によって母音は5つと理解している。しかし、奈良時代は「い(i)」と「ゐ(wi)」、「え(e)」と「ゑ(we)」、「お(o)」と「を(wo)」に区別した発音がなされていたため、8母音だった。こうした「ゐ」とか「ゑ」は今となっては、店の名前などでしか出会わない存在である。音の再建の重要な資料が万葉集(万葉仮名)である。万葉仮名は中国の音読みを参考にして日本語音節(おおむね50音の一つ一つ)に漢字を当てたもの。当初は人名や地名といった固有名詞に使い、その後動詞などにも使って、8世紀には漢字だけで日本語の文が書けるようになったという。万葉仮名でハ行の子音は「波」「比」「布」「倍」「保」の漢字が当てられているが、中国唐代ではこれらの漢字は上下の唇を合わせた破裂音で「pa-pi-pu-pe-po」に近い発音だったという。こうした中国音韻学と万葉仮名からの推論が鍵。

次の変革期は平安時代で、ハ行の破裂音は緩くなり「ファ・フィ・フゥ・フェ・フォ」と変化して行くとともに、手紙を書く時などは、「以」を「い」のように万葉仮名を崩して平仮名を生成して書くことが主流になっていく。そして表音文字の完成形として平仮名「いろは歌」四十七文字が確立した。万葉仮名と違って平仮名は一字が一音に対応するので書き手の筆記速度は大きく改善し、枕草子、源氏物語をはじめとして総て平仮名で書かれている物語や日記が多く残っている。その特徴としては地の文と会話文の表現差や切れ目がなく書かれていて、現代の我々が読んでもなかなか読み難い文章である。

また、漢字を訓読するときの万葉仮名の「伊」の偏をつかって「イ」と表現する片仮名が成立したものの、漢文読み下しのための訓点(符号)として使われていたこともあり、美的鑑賞の対象にもならず書としての存在感もほとんどなかった。

鎌倉時代になると文章の書き方は大変革を起こす。平安の源氏物語絵巻は総て平仮名で書かれていたが、藤原定家が書写校訂した源氏物語定家本は漢字を組み合わせて句点、読点を付した上で会話を括弧で括るという、まさに読み易さの革命を起こしている。こうした定家の活動は王朝風の文や和歌の綴りの混乱への対応でもあった。源氏物語定家本の漢字混入は注釈であるとともに文意理解の補強になっている。現代の我々が接している古典文はこの定家の文章体裁である。こうした定家の仕事も見方を変えると「原典尊重」の視点から批判が出てもおかしくなさそうであるが、著者は復古と革新の両面から前向きに評価している。

もう一つ日本語音声の記録の重要な資料として著者が挙げているのはイエズス会宣教師が残したローマ字の記録である。日葡辞書(1603)として刊行されているが、これによるとハ行音は「f」で表現されている。「ハ行音」は「鳩fato」「光ficari」というように両唇摩擦音で表記されていることから、本書の帯の「ファシバ フィデヨシ」がこれか。

江戸元禄期の文芸復興で、僧侶であり歌人でもあった契沖は仮名遣いの説明原理として使われてきた「いろは歌」に変わり、「五十音図」で説明した。また、古事記の近代的注釈を世に出した本居宣長は音訓研究の中で提唱した和歌の字余りからみた音声の再建が取り上げられている。例えば額田王の「熟田津に船乗りせむと月待てば潮も叶ひぬ今は漕ぎいでな」という和歌は「5-7-5-7-8」という字余りに読めるが、このア行音節の字余りの発音としては単独母音「い」を省略して発音していて、「今は漕ぎでな」と7音リズムだったとしている。素直に納得出来る説明だし、面白い視点だと思う。

こうした時代を通して、音読みの歴史も興味深い視点だ。例えば「行」という漢字を音読みで「こう・ぎょう・あん」、訓読みで「おこなう・ゆく」等と我々は使い分けて読んでいる。この様に、一つの漢字を日本人が複雑に読むことに中国人は驚くという。特に音読みの複数の読み方を「漢字の重層化」と言うようなのだが、各層は呉音(3~6世紀)、漢音(6~8世紀)、唐音(13世紀)として日本に入って来た。ただ、本家中国だけでなく、朝鮮、ベトナムでもこうした重層音は残っていない。なぜ日本にだけ重層音が残ったのかについて、呉音は仏教(僧侶)、漢音は律令制度(貴族)、唐音は禅宗といった別々の集団の中で伝承された結果と著者は見ている。

また、日本漢字音の特徴は音節が母音で終わることにある。一方、各国言語では子音で終わる語が多くある。英語の「CUP・káp」は日本では「カップ・kappu」と母音終わりに変化させる。このように明治以降片仮名で転写して表現してきた。日本人の英語下手の原因として発音のまずさが挙げられているのも、こうした片仮名イングリッシュで耳と目に刷り込まれているからと指摘している。

個人的に言えば日本語の多様性の一面として、中国の固有名詞の多くを漢字表記して日本語音で発音している。これで中国の歴史文化を学び、語って来た。以前の職場で各国の技術者と仕事をする中に中国の技術者たちも居た。ITの仕事関係の会話を英語でする際はお互い問題ないが、食事をする等の日常会話の中で中国の歴史や地名を語ろうとすると発音が判らないというジレンマに陥る。中国のことをそう知っている訳でもないアメリカ人が固有名詞(地名・人名)を音で覚えているので会話は成立する。一方、書けるし、それなりに知識のある日本人は中国語発音を知らないために会話が成立しない。「論語」は中国語でどう発音するのか? 「ルゥンイー」を知らなければ論語から名付けられた私の名前も伝えることはできない。

そんなことも考えながら、日本語の複雑な歴史を発音という視点からの説明とともに、グローバルに見ても異質な日本語体形を再認識させてもらった一冊だった。(内池正名)

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「よこまち余話」木内 昇




木内 昇 著
中公文庫(320p)2019.05.25
726円

木内昇(のぼり)という名前は書籍広告でときどき見ていた。タイトルからして、時代小説の新しい書き手のひとりなんだろうな、と思っていた。このところ時代小説からは興味が遠ざかっている。そんなとき、読み手として信頼する友人から「『よこまち余話』を読んだ?」と、この本を勧められた。

不思議な読書体験だったなあ。確かに過去を題材にしているけれど、ジャンル小説としての時代ものとは違う。エンタテインメントではないし、かといってシリアスな小説でもない。そういうジャンル分けで言えば、幻想小説やSFのような要素もあわせもっている。でもそれらのどこにも属さず、それらの間(あわい)にひっそりと佇んでいる。そのひっそりした気配が外側のジャンルだけでなく内側の小説世界、言葉のすみずみにまで立ち込めているのが素敵だ。

話は17編の短編からなっている。時代も場所も、しかとは分からない。時は明治の末から大正あたり(文中に、新しく人造絹糸ができたとある)。場所は東京。ひとつだけ現実にある地名として「弥生坂」が出てくるから、本郷か根津あたりだろうか。狭い路地の両側に立つ十二軒の長屋が舞台。路地の一方の端から石段を上ると天神様の社(やしろ)があり、もう一方の端はお屋敷の土塀に突き当たり、塀沿いに歩くと表通りに出る。

長屋の一軒に住む魚屋の息子、家業を継いだ十代の浩一と小学生の浩三の兄弟が狂言回し。長屋の端には、三十代半ばで楚々としたお針子の齣江(こまえ)がひとり暮らしで、向かいにはトメさんというおしゃべりでおせっかいな老婆がやはりひとりで住んでいる。トメさんはいつも齣江のところに入り浸っている。糸屋が注文された刺繍糸を齣江のところに届けたり、魚屋のおかみさんが齣江のもとに愚痴を言いにきたり、なんだか落語の人情噺か寅さん映画のような、小さな出来事がつづく日々の暮らしで小説は幕を開ける。そのまま短篇がいくつか進行する。

これは世話物の世界なのかと思っていると音無坂を歩く浩三の、道に落ちた自分の影が、いきなり浩三に話しかける。「おまえには、ゲンジツだけだな」。「しかし中には知らんほうがいいことだってあるんだぜ。突き詰めると、酷(むご)いだけだ」。でも、その一篇ではその後なにも起こらない。

次の一篇。兄の浩一がトメさんの長屋へ頼みごとにいくと、婆さんは留守。ふっと部屋に上がり開いた押し入れを見ると、押し入れの壁に小さな丸窓が開いている。窓の向こうの座敷に日本髪で白粉を塗った若い女人がいて、大きな目で浩一を睨んでいる。浩一は鳥肌が立ち、恐怖にかられて悲鳴を上げる。「兄ちゃん、なにしてんだよ」。弟の声で浩一は我に返る。午後、齣江の長屋に入り浸っている浩三は齣江に聞く。「『あのさぁ。トメさんはここじゃ一番古くからいるんだろう? …どっから来たのか、知ってる?…』」。齣江の答えはない。「『じゃあさ……齣さんはどっから来たんだい?』しばらく待ったが答えはなかった」。夜。トメさんは花見のために仕立てた小袖に手を通して、押し入れの丸窓の向こうに呟く。「『久方ぶりに仕立ててみたんだ。もっともあんたの頃のようにはいかないけど』」。窓の向こうの若い芸者は微笑んでいる。「『今年は花を見に行くよ。もうそろそろ、散る様も楽しめるよう腹を括らないといけないからね』」。

「雨降らし」の一篇では、正体不明の男が路地に現われ一軒一軒の門口で鈴を鳴らして店賃を集めていく。男が現れると必ず雨が降るので、長屋の住人は男を「雨降らし」と呼んでいる。同じ短篇のなか、天神様の境内で演じられる薪能で、浩三はシテの周りに同じ装束を着た何人ものシテが舞っている幻を見る。舞が終わると、周りにいたシテはシャボン玉のように弾けて消えてしまう。「音のしない花火にも似た、鮮やかで儚い光景だった」。現実に戻った浩三が周囲を眺めると、トメさんは足ばやに長屋に戻ろうとし、齣江は涙を拭いている。浩三が齣江に声をかけようとしたとき、「『やめておけ』と、影に遮られた。…『ここに集った誰のことも、放っておいてやるんだ』」。

小説のなかで、ときどき『花伝書』の言葉が引用される。『花伝書』を書いた世阿弥が完成させた能の形式に夢幻能がある。夢幻能の主役(シテ)は、現実に生きている人間ではなく、死んだ男や女の霊。霊であるシテと現実の人間(ワキ)の対話で舞台がなりたっている。小説のなかでは天神様の境内で能が演じられるが、どうやら長屋のある路地そのものが夢幻能の舞台であるらしい。SFふうに言えば、路地では彼岸と此岸の空間と時間がねじれて接しており、その通路がどうやら長屋の押し入れにある、らしい。路地には人間と彼岸の存在が一緒に住んでいる、らしい。正体不明の雨降らしは彼岸と此岸が接する場所の管理人である、らしい。

むろん、作者はそんなことは一言も説明しない。明治の東京の小さな路地のささやかな日常と、そのなかに現われる一瞬の幻を淡々と描写しているだけだ。路地に響くいろんな音や、空気の湿り具合や、石段脇の銀杏の繁りに囲まれて、中学校へ進学したいという浩三の願いや、齣江へのほのかな少年らしい思慕がいとおしい。齣江も浩三を「浩ちゃん」と呼んで可愛がる。

小説の後半になって、ひとりの男性が登場してくる。中学校に進学した浩三の先輩である遠野さん。浩三が仲良くなった遠野さんを路地へ連れてくると、雨降らしもいる。長屋から顔を出した齣江が浩三と一緒にいる遠野さんを見る。「『あ……』齣江がなにかを云った。口は動いていたが、言葉は聞こえない。うまく声にならなかったのかもしれない。息を整え、今一度口を開こうとした。そのとき、雨降らしが彼女の腕を強く掴んだのだ。そうして耳元で囁いた。『そこから先は、御法度です』」。

次の一篇で浩三はトメさんから、天神様の能に遠野さんを連れてくるよう命じられる。自分の影が浩三に語りかける。「『能には行っても、彼らに踏み込んじゃあ駄目だ』『彼岸の世界に関われば、酷いことになる』」。能が始まる直前、トメさんは浩三を外へ連れ出して齣江と遠野さんをふたりきりにする。その翌日、トメさんは長屋から姿を消した。トメさんという老婆がいたことを、長屋の誰もが覚えていない。

これ以上書くとネタバレになってしまうので、このへんでやめよう。といって、この小説は最後まで読めばすべてをきれいに説明してくれるわけではない。逆に、読み終わってもわからないことだらけと言ってもいい。説明しないことで物語に余韻をもたせ、読者にあれこれ想像させる。

やがて来る未来で、齣江と遠野さんはどうやら結婚して幸せな日々を送ったらしい。でもそれなら、齣江が彼岸から路地へと姿を見せたのはなぜなのか。さまざまに想像できるけれど、いずれにせよ「死」が介在していることは確かだろう。それがどのようなものであったかは、作者はかすかな手がかりさえ与えてくれない。

ただ全編が柔らかな日本語で書かれたこの小説のなかで、「国力」とか「時世」といったいかめしい漢語が数カ所だけ出てくる。そうした漢語が気になるのは、現在に生きるわれわれはその後のこの国の歩みを知っているからだろう。ただ、そういった時代の流れはまだこの小説のなかに押し寄せていない。今の読者から見れば束の間の、あたたかい陽だまりのようなこの路地の空気と長屋から聞こえてくる「浩ちゃん」の呼びかけに、しばし耳を澄ませていたい。(山崎幸雄)

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「羊の怒る時」江馬 修

江馬 修 著
ちくま文庫(320p)2023.08.10
924円

「関東大震災の三日間」という副題のあるこの本の著者、江馬修という名前はプロレタリア文学の作家として名前だけ知っていた。でも冒頭の「序」を読むと、江馬がマルクス主義者になったのは本書を「書き終える頃から」で、それまでは田山花袋らの自然主義に影響を受け下層階級の人々を描く小説家で、世間では「人道主義作家」と呼ばれていたようだ。

江馬は本書を「小説」と呼んでいるが、現在の呼び方で言えば「ノンフィクション」あるいは「記録文学」と言うことになろうか。震災の2年後に刊行されたが、その後忘れられ、1989年に小出版社から復刊された。広く人々の目に触れるのは、ちくま文庫に収録された今回が初めてかもしれない。

本書には震災の「第一日」から「第三日」まで、「その後」と時系列に沿って江馬の体験が書かれているので、本を読んでの感想というより、このなかで朝鮮人(初版では「×××」の伏字)関係の記述を順を追って拾い出してみたい。作品の評価とは別に、それがこの本からいちばん学ぶべきところだと思うから。

1923(大正12)年9月1日、江馬は新宿郊外、初台の自宅に家族といた。このあたりからは、代々木の谷をはさんで練兵場(現在の代々木公園)の草原があり、明治神宮の森が広がっているのが見える。ここは「郊外」で、神宮の森の向こうを江馬は「東京」と記している。激しい揺れの後、一家は家の前の空き地に飛び出した。隣にはI中将の家がある。練兵場の彼方、明治神宮の森の上、新宿方面に黒煙と火の手が上がるのを、空き地に集まった近所の人々が不安と緊張でながめている。

江馬が代々木の谷へ様子を見にいくと、知人である朝鮮人学生の鄭君と李君の下宿先の家がつぶれ、二人が屋根の下から大家の奥さんと赤ん坊を助け出す場面に出くわした。「朝鮮の問題については常に深い同情をもって対していた。随ってこれらの若い朝鮮の若い学生たちから信頼されることは、自分にとって一種の喜びであり幸福であった。とは言え、また、言い難い苦痛であったとも告白しなければならない。何故ならば、彼らの友達として自分の余りに無力であることが痛いくらい自覚させられたから」。朝鮮人学生の知り合いがあり、彼らに深い同情を寄せている。それが地震が起きたときの江馬の朝鮮人への思いだった。

やがて外出していたI中将夫妻が帰ってくる。I中将が近隣住民のリーダー的な存在になって、彼を中心にグループがつくられる。第1日目の夜、在郷軍人がやってきて、「火事のため監獄を開放して囚人を逃がしたそうだから警戒するように」と言い残して去る。

2日目の午後、I中将が「耳に挟んできたんだが、混乱に乗じて朝鮮人が放火して歩いてると言うぜ」と江馬に伝える。新宿まで様子を見に行ったI中将の息子が、「朝鮮人を二人、大騒ぎして追っかけているのを見ましたよ」と言う。「一人は石油缶を路地に置いて、マッチを擦っている所を見つけられたんだそうです」。近所の住人のひとりT君が、「本当ですかね、朝鮮人が一揆を起して、市内の至る所で略奪をやったり凌辱したりしているというのは。だから市内では、朝鮮人を見たら片っぱしから殺しても差支えないという布令が出たと言ってましたがね」と噂を伝える。

ちょうどそのとき、学生服を着た学生が新聞紙で包んだ重そうなものを片手に持って通りすぎた。江馬は思わず「朝鮮人!」と呟いてしまう。「一切が明らかにされた(注・デマであることが分かった)今でさえも、そしてあんな際に最も理性を失わなかったと自信している自分でさえも、あの時学生の手にあったものが石油か爆弾では無かったかというような気がふっとする事がある。人間の心の惑乱の恐ろしさよ!」。

江馬が子供のために菓子を求めて歩いていると、地震と火事から逃れてきた人々が、いたるところで朝鮮人について憎悪と興奮をもって語っているのを目撃する。朝鮮人らしい学生が群衆に囲まれ殴られているのも目撃する。殴打が激しくなり、江馬は「無暗に殴らないで、早く警察に渡してしまえ」と怒鳴る。「自分は正気を失った群衆よりは、警察の方を信じていたのだった」。

知り合いの学生である李君が、友人のいる本所が火事で焼けたので探しに行くと言う。江馬は自分が目撃したことを話して止めようとするが、李君は「何も悪いことはしていないので怖いことはない」と言って出かけてしまう。李君はそれきり帰ってこなかった。

I中将が言う。「きゃつらはかねてから事を計画して、こんな折を狙っていたのかな」。白シャツを着た自転車の男がこう叫んで去って行った。「朝鮮人が三百人ばかり暴動を起こしてこちらへやってくるから、男子は皆武装して前へ出てください。女と子供は明治神宮へ避難させてください」。住民が木刀やスポーツ用の投槍やピストルを手に集まってくる。江馬は妻や子供に「行かないで」と泣かれて家に閉じこもる。「遠く原の方面にあたってわっわっという喚声がもの凄く響いた。つづいて銃声が二、三発……『暴徒がやってきたんでしょうか』と妻が怯えた声で聴いた。『さあ、そうかもしれない』。三百人からの暴徒が手に手に武器や爆弾をもって、原を横切り、谷を伝ってこちらへ襲来してくる様が、まざまざと目に見える気がした」。

夜、江馬が外へ出るとI中将以下、住民が木刀などを手に集まっている。皆が額に手拭いを巻き、「初」と問われたら「台」と答えるのが合言葉。「相手が三百人と言ったところで朝鮮人じゃないか。一人残らず低能か、なまけものだよ」、恐怖にかられたT君が高い声でしゃべりつづけている。

三日目。江馬は本郷に住む兄一家の安否を確かめるために出かけた。途中、朝鮮人らしき学生3、4人が10人ばかりに取り囲まれている。「ぶっ殺してしまえ」。乱闘が始まった。「自分は目をそらして、あわてて壱岐坂を登って行った。心で自分をこう罵りながら。『卑怯者!』」。帝国大学正門から森川町へ抜けようとしたところで江馬は検問に会った。「顔つきが朝鮮人くさいね」「君が代が歌えるか」。なんとか検問を抜けたが、蕎麦屋のおかみさんに「あなたはどこへ行くんですか」と詰られる。無視していると後ろから、「朝鮮人かもしれないぞ。捕まえてやれ」と男の声がする。姪っ子と出会って言葉を交わし後ろを振り返ると、棍棒やバットを持った男3人が「安心したというよりも、がっかりしたように」立っていた。

兄の家で互いの無事を確かめていると、在郷軍人がやってきた。「朝鮮人が避難者の風をして、避難者に化けて我々の中に交っている事が発見されました。気をつけてください」。兄の家を出て帰る途中、江馬は電信柱にこんなビラを見る。「町内に朝鮮人三百人ばかり潜伏中なれば各自警戒せらるべし」。

初台の家に帰ると、自警団が結成されている。在郷軍人が自慢話でもするようにしゃべっている。「富ヶ谷で朝鮮人が十二、三人暴れたんです。私もよく知ってる騎兵軍曹が馬上から一人の朝鮮人を肩から腰へかけて見事袈裟斬りにやっつけたと言いますよ」。職人らしい若い男が火事装束に大刀を抜身にしてどなっている。「主義者でも朝鮮人でも出てくるがよい、片っぱしから斬って捨ててやるから」。

夜、在郷軍人が通りがかり、そこの坂を7人の朝鮮人が抜刀を振り回して通ったと「滔々と」「上手な話しぶり」で「雄弁」に語った。江馬はその坂へ行って見張り番の者に尋ねたが、そんな事実はなかった。「夜警の退屈まぎれに、そして人々の過敏にされた心を脅かす興味につられて心なきものがいかにこの種の有害な風説を振りまいて歩いたことだろう。そして人々はいかに単純にそれを信じた事だろう」。

「その後」の章では、4日目以降の出来事が語られる。地震の日の朝から都心に出ていた知り合いの学生、蔡君が1週間ぶりに帰ってきた。蔡君は初台へ帰る途中、群衆に囲まれて殴られ、自ら「警察へ連れていってくれ」と叫んで大塚で留置場に入れられていた。留置場には他にも朝鮮人がいて、群衆は警察に押しかけ朝鮮人を出せと騒いだ。警察は5日目あたりから朝鮮人を解放しはじめたが、蔡君は家まで遠いので「もう2、3日辛抱したほうがよい」と言われたのを無理に帰ってきたという。

江馬は蔡君を自宅にかくまうことにした。「一週間を経過しても、朝鮮人に対する一般の疑惑と昂奮はなかなか鎮まらなかった」から。「自警団は(避難者も加わって)賑やかなものになっていた。……彼等は震災と朝鮮人に関するそれぞれの土産話を持ち寄ってきた。退屈な夜警の中で人々は喜んで熱心に耳を傾けた」。夜警の途中、朝鮮人がいると情報が入ると、人々は勇んで駆けつけた。それはロバだったり、白い立て札だったりした。……

関東大震災時の朝鮮人虐殺について、これほど臨場感のある文章を読んだのははじめてだった。もともときちんとした調査がなされていないから、犠牲者の数すら数百人から数千人まで諸説あるし、公的な記録も少ない(先日、松野官房長官がこの問題で「政府内で記録が見当たらない」と述べたが、少数ながらあるようだし、殺害の罪を問われた者の裁判記録もある)。

そうしたものとは別に、この本は江馬という作家が自分の眼で見たもの、体験したことがそのまま書かれていることに意味がある。江馬は朝鮮人が殺された現場を直接見たわけではない。けれども、朝鮮人が暴動を起こしたという流言がどんなふうに広がり、地震と火事に打ちのめされ逃げまどった人びとが不安にかられ、武器を手に自警団をつくり、怪しげと見える者を片っ端から追いかける、その集団の「空気」がリアルに記録されている。朝鮮人の知り合いを持ち、彼らに同情を寄せる江馬ですら危うくその空気に飲み込まれそうになる。そうかもしれないと思う。そこから出てくるのは、さてお前はこの状況におかれたらどのように振る舞うか、という問いだろう。(山崎幸雄)

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「測る世界史」ピエロ・マルティン

ピエロ・マルティン  著
朝日新聞出版 (288p)2023.06.20
2,420円

人類は生きるために、そして世界を知るために様々なものを測って来た。我々が日常的に道具を使って測っているものとは、物差しによる「メートル」、時計による「秒」、秤による「グラム」、気温計や体温計による「温度」、枡による「リットル」と言ったところである。普段の生活でアンペアや明るさを測っている人は居ないだろうし、明るさの「カンデラ」と言われると理屈としては判ったつもりになっているだけ。物質量単位の「モル」にいたっては「何それ?」といった感じではある。

著者のピエロ・マルティンはイタリア人で物理学(熱核融合)を専門とする大学の教授。EUの国際研究プロジェクトの責任者であるとともにメディアを通しての情報発信を活発に行って科学の普及に努めているという。それだけに、様々なエピソードを詰め込んで読者の「測る」ことへの興味の観点を広げるとともに、一般人から見ると変人とも見られる物理学者たちを学術的視点からと人間的視点の双方から紹介することで理解を深めてほしいという思いも伝わってくる。そして、本書で取り上げている7つの世界基準の単位は科学の進化の為には必須であるとともに、説明と検証のための共通化の歴史が語られている。つまり、「生活や歴史」として人類が測ってきた体験の側面と、「物理科学」としての複雑な方程式が登場してくる理論の側面の両方を描いている。従って、手に取る人の知識差や興味の視点の違いによっても楽しみ方は違ってきて良いのだろうと思う。

本書はあのビートルズと医療機器の関係を語ることから始まっている。EMI(Electric and Music Industries)社は1960年代初頭に結成早々のビートルズのレコーディングを行った会社。その時点でビートルズが将来世界を席巻するバンドになるとはEMIの誰もが思っていなかった。また、この時期にEMI社の医学機器部門ではコンピーターによる断層撮影技術の開発、実用化に成功した。これで同社のエンジニアは1979年のノーベル賞を受賞し、この測定分析技術は医学の進歩に大きく貢献した。そこで、著者の指摘は、ビートルズは音楽の革新に対し貢献しただけではなく、彼らの演奏活動から生じた収益がCTスキャンの実用化への大きな後押しになったと指摘している。こうした逸話を各所にちりばめながら本書は進んで行く。

最古の測定遺物として、一年間の月の満ち欠けの記録を彫り込んだ4万年前のマンモスの牙が発見されているという。また文明の黎明期には人間の身体が長さの測定の道具で、肘の端から中指の先までは肘(キュビット)という単位で広く使われていた。聖書でもこの単位はノアの箱舟の大きさを表現しているし、エジプトでもこの単位で基準石を作り、ピラミッドの建設でも活用し底辺約230mの大ピラミッドを誤差10cm以内という精度で完成させている。ローマ時代になると道路などの長い距離の測定はマイルが使われた。これは1000歩というラテン語に由来する名称だが、この時代の一歩は一方の足が地面を離れてから、その足がまた地につくまでを言っているので、現代の二歩に相当すると説明されている。街道歩きをしてきた私としては歩数測定基準も違いが有った事に面白さを感じる。

ローマに繋がる街道にはマイル標石が設置され、まさに「全ての道はローマに通ず」という権力の象徴でもあった。こうした測定基準によって「権力」と「信頼」を作り共同体社会が形成されていったことも良く判る。18世紀末のフランス革命によって6つの単位を定めた法律が施行された。長さのメートル、面積のアール、薪の体積(1立方メートル)ステール、液体容積のリットル、重量のグラム、通貨のフランである。その後、1875年にパリで17ヶ国が条約に署名して、以降の測定単位の国際協調の流れをつくり万国共通の測定単位が確立した。この国際条約が「メートル条約」と呼ばれたのも、ギリシャ語の「測定(メートル)」というが語源だという。

1960年にパリで第11回国際度量衡総会が開催され、宇宙を含めた測定空間の拡大に伴って国際単位が改定された。科学の進歩とともに測定精度を上げることが不可欠であるのは当然であるが、アインシュタインの特殊相対性理論で示した慣性で変化しない光の距離速度が基準となったことで、一つのゴールに到達したと言われているが、その測定基準は私の生活感からはかけ離れていったのも事実。

我々の生活で最も大きな影響を持つ単位は時間だと思う。アメリカ人物理学者のファインマンは「本当に重要なのはそれをどの様に定義するかではなく、どの様に測定するかだ」と言っているが、時間の測定はエジプト文明における大きな石柱の影を使って日中の時間や季節の変化を測定する日時計から始まる。ピサの大聖堂を訪れたガレリオはシャンデリアのリズミカルな揺れを見て、自分の脈拍を測りつつ振り子の当時性を発見したことから、1650年にオランダのハイヘンスによる振り子時計の実用化につながる。

そしてメトロノームが開発され、作曲家の意図したテンポを示す基準となった。ベートーベンは先端的な機器であるメトロノームを使用していた。彼のピアノソナタ第29番は一番の難曲と言われている。楽譜ではビアノソナタ第29番-106のテンポを138ビートと表記しており、とてつもなく早い演奏を要求していた。そのため、助手がメトロノームの操作を誤ったか、測定ビートの転写をまちがえたのではないかと言われているというエピソードが紹介されている。また、ダリの「記憶の固執(1931)」に描かれている液状化して垂れ下がっている時計は、時間は人間の主観的、個人的なものであり、アインシュタインの考えた時間の相対性を表現していると著者は解釈している。こうした時間の個人的な相対性は科学ではない、有限性の人生が心理に変えているという事からすると、測定単位の中の時間の特殊性は明らかである。

科学の進化の中で、原子の振動数を基に定められた時間基準では3億年で誤差1秒となったと。また、1875年に白金90%、イリジュウム10%の合金で作られたキログラム原器が一世紀の間に5000万分の1グラム減少したことが判明したため、2019年に重力の相対性理論と量子力学で定義されることになったと聞くと、もはや精度感覚は一人の人間としてはまったく実感できない。

一方、イングランドでは「1ポンド」は「100ペニー」。「1ペニー」は乾燥小麦32粒分という重量単位だった。このように重量単位は商業活動における必要性が高いため、多くの国で、リラ、ポンド、ペタ、マルタなどの様に重量単位だったものが通貨単位になっていったケースが多いというのも納得がいく。また、温度の測定単位は1848年に物体の可能な限り低い温度を絶対零度と設定しているケルビンという単位が採用されている。しかし、摂氏による温度表記が今なお我々生活の中で利用されているのは水の氷結が0℃、沸騰点の100℃という「シンプルさ」と「美しさ」とする著者の指摘はその通りで、基準の定義の妥当性もさりながら、測るという行為に対する我々の納得感が測定単位の定着に求められていると理解した。

しかし、読み終えてみると物理学の難しい方程式はともかくとして、そこから進化してきた科学技術の恩恵を十分に享受している自分に気付かされるのも事実である。自動車のナビ機能もGPS衛星との遠距離の通信や時間補正などが活用されて、誤差無く自分の移動状態を瞬時に表示してくれる。また人間ドックに行けばあらゆる検査は放射線や電磁波などを活用した機器によって測定が徹底的に行われる。日々そうした先進技術に囲まれて生活していることと、その原理を理解しているかは別問題として、本書の数式の部分は読み飛ばしても十分雑学的な楽しさ満載の一冊であった。(内池正名

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2023年9月15日 (金)

「世界の食卓から社会が見える」岡根谷実理

岡根谷実理 著
大和書房(312p)2023.04.15
2,090円

料理本というと、得てして「美味しい」とか「珍しい食材」といった視点で完結してしまうものだが、著者は世界各国の一般家庭に滞在し、一緒に料理をつくり、食べることで食材や料理についての話を聞き集めるという活動を続けている。その視点は個人から徐々に社会や歴史へと広がり、食を起点とする課題や文化を深堀りしている。著者は自身を「世界の台所探検家」と称し「料理は社会を知る入口でしかない」と語っている様に、家庭の料理から現地を知り、そして世界の動きが見えてきた時に、大きな達成感が得られると言っている。まさにフィールド・ワークの神髄といえる。本書で語られる、各国の料理から見えて来る課題は「政治」「宗教」「地球環境」「食の創造性」「伝統食の課題」「気候」「民族」と多様さが面白い所である。

ただ、私もテレビで各種のニュースを横目で見ながら、日々食事をしているものの、食材の一つ一つに思いを馳せて食べている訳でもなく、「美味い」か「不味い」かが重要で、口にしている食べ物とニュースを結び付けて考えることもそう多くない。そんな生活の中で本書を読んだ結果、少しでも食べ物から世の中を見るルーティンが生まれてくれば著者の狙いは達成できたということなのだろう。食を取り巻く幾つかの課題について、初めて知ったという面白さとともに、そう言われてみればという再確認の事柄もあり、それらをビックアッブしてみた。

食と政治の関係では、メキシコのタコスを取り上げて、1991年の北米自由貿易協定締結に従ってアメリカからの強い要請による、遺伝子組換(GM)や除草剤使用のとうもろこし輸入の影響を描いている。加えて、スーダンではイネ科のソルガムという穀類の粉で「アスイダ」という練り粥、日本で言えば「蕎麦がき」的料理がほぼ毎日食卓に登場する主食だが、一方、町ではコッペパンが沢山売られているという。スーダンは乾燥地域なので小麦は栽培できないのだが、1980年代からアメリカの「余剰農産物処理法」によって輸入が拡大するとともに政府の補助金もあり、パンが安価な代替主食になっていった経緯がある。しかし、補助金の打ち切りやウクライナ戦の影響を受けて値上げが続いているという。輸入に依存した食のリスクが顕在化して、国民の混乱が有るという。自給率の重要性が再確認されるとともに、アメリカの食料輸出戦略の負の部分がいろいろな分野で出てきていることも判る。

食と宗教については食戒律(コーシャ)がメインテーマである。イスラエルのマクドナルドではチーズバーガーは販売されていない。それは、コーシャの基準に「同じ料理で乳製品と肉の両方は使わない」とあるのも、聖書に書かれている「子山羊をその母の乳で煮てはならない」という言葉に起因しているという。このように各宗教が色々な食戒律を持っているが、各国航空会社が提供している特別機内食のリストが紹介されている。見ると、ANAは中国南方航空や大韓航空とともに11種類の特別機内食が選択可能な一方、エールフランス、アメリカン、ルフトハンザは6~7種となっている。選択種類の多さにも驚くが、アジア系と欧米系の差についても理由が知りたいという好奇心が湧いてくる。

食と地球環境について、ボツワナのティラピア(淡水魚)の高い養殖効率から将来のタンパク源確保の将来性を評価している。また、メキシコのアボカドは紀元前から栽培されており、現在も全世界の30%の生産で世界一を誇っている。日本で消費されるアボカドの90%はメキシコからの輸入である。しかし、問題は栽培のための水の確保だという。アボカド1kgの収穫に1981リットルの水が必要とされ、これはバナナの2倍、トマトの10倍である。このため国内の限られた栽培地確保のために森林伐採が進み、環境危機が叫ばれていると指摘している。

食の創造性という観点では、ベトナムや台湾などでみられる代替肉料理と宗教との関係について探っている。肉を食べないがタンパク質は摂取するというのなら、わざわざ大豆で作った代替肉をたべずに大豆食品を食べれば良いというのももっともだ。「人間は肉に似せたものを何故食べるのか」と問い掛けている。日本でも精進料理に「うなぎもどき」が有ったりする。台湾やベトナムでも精進料理として鶏の丸焼きをかたどった料理があるという。著者がベトナムの尼寺に行ったのが仏誕祭(花祭り)で参拝者に料理がふるまわれていた。その中にエビのような人参や肉無しの肉まんがあったので、尼僧に理由を聞くと「私たちは肉を食べたいとは思わない。野菜を野菜として食べていれば穏やかでいられる。肉に似せた精進料理を作るのは参拝者のため」とのこと「僧からの優しさの贈り物」と著者は見ている。

現代日本の代替肉料理はどう考えればいいのか。単なる我慢の結果と言うのでは趣旨が違うようにも思える。

伝統食についての課題について、旧ソ連邦のモルトバは農業国だが、伝統的に各家庭で自家製のワインを作っている。また、家で搾ったミルクでチーズを造っている。客に自家製のワインとチーズでもてなすのが礼儀とのこと。まさに伝統食ということなのだろう。ここで見えて来る問題は、国民のアルコール摂取量はワイン換算で170本/1人で世界一位。これに統計に入っていない自家製ワインが加わると途方もない量になるとみている。この国の全死因の26%はアルコール関連で世界平均の5倍という。文化と伝統を取り締まることはできないが、悩ましい課題である。

と民族の観点では、イスラエルからパレスチナに移動して行く旅で国境を越えると風景は一変して石造りの家々と古い街道が続く。パレスチナで訪問した家庭では多様な食べ物を作ってくれたが、必ず出て来るのが自家製のオリーブの塩漬けで、漬け汁にレモンが皮ごとはいっていてサッパリとした味わい。食後、散歩に出ると道の両側に大きな樹が生えている。案内してくれた人が「オリーブの木が生えてると、そこはパレスチナ人の土地だと判る」と言う。何故と聞くと、「オリーブの木は地中深く根を張り、簡単には抜けない。木質も硬く、切り倒すのも一苦労。だからパレスチナ人が昔から住んでいた土地にはオリーブの木が残っている。いまはイスラエルでも」

美味しいか美味しくないかだけでなく、料理の成り立ちを理解することで、我々が生きている社会を見ることが出来る。そんな思いが著者をかき立ててきた様だ。そして、2018年から2022年にかけて著者が旅してきた体験が本書のベース。それも、著者が切り取った世界の見方の一つでしかないことから、刻々と変化する時代であるからこそ、読者が新たな「料理の向こう側」を見たならば、是非教えてほしいという一言も添えられている一冊。(内池正名)

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「イラク水滸伝」高野秀行

高野秀行 著
文藝春秋(480p)2023.07.30
2,420円

ノンフィクション作家である高野秀行のモットーは「誰も行かないところへ行き、誰もやらないことをし、誰も書かないことを書く」だそうだ。それがどんなものかは彼の著書を並べてみれば、おおよそ見当がつく。『幻獣ムベンベを追え』『謎の独立国家ソマリランド』(講談社ノンフィクション賞)『辺境メシ』『幻のアフリカ納豆を追え』。大学(早大)の探検部出身という経歴をつけ加えれば、梅棹忠夫、本多勝一、船戸与一、西木正明といった探検部出身の学者、作家、ジャーナリストの書くものに連なることも推測できる。

『イラク水滸伝』はイラク南部、ティグリス川とユーフラテス川の合流点に広がる広大なアフワール(湿地帯)を舞台にしている。「水滸伝」とタイトルにあるのは、こんな理由からだ。アフワールと呼ばれる湿地帯は、昔から戦いに負けた者やマイノリティ、山賊や犯罪者が逃げ込む場所だった。迷路のように水路が入り組む湿地帯には、馬も大軍も入れない。そんな状況が、町を追われた豪傑たちが湿地帯を根拠に宋朝と戦う『水滸伝』を思わせるから。

アフワールの民の抵抗に手を焼いたフセイン政権は、流れ込む水を堰き止めて湿地帯を乾かし、水の民は移住を余儀なくされた。でもフセイン政権が崩壊した後、堰がこわされ湿地帯が半分くらい復活しているという。しかも、アフワールとその周辺でシュメール人が世界最古の都市文明を築いたメソポタミア遺跡群が世界遺産に登録された。高野が「アフワールへ行こう」と思ったのは、こうしたニュースを耳にしたからだった。

でも、困難がいくつかあった。一つはイラクの政治的混乱。この旅を企画した当時、IS(イスラム国)と政府軍が戦闘を繰り広げていた。その後も治安はいいとはいえない。もうひとつはコロナ。そもそもイラクへ入国できなくなった。

結論を言えば、高野はアフワールを昔ながらの船で旅するという当初の目的を達することはできなかった。この本はその経過報告というか、まずアラビア語イラク方言を学び、人脈をたどってアフワールに行き、元反政府ゲリラの親玉に会い、湿地を復活させようとするリーダーと親しくなり、船をつくり、水の民の生活に触れ、伝統的な刺繡布の謎を追い、完成した船を水路に浮かべて漕ぎ、といったもうひとつの旅の報告になっている。著者も言うように、「不運の連鎖」と「悪あがき」に満ちた「蛇行と迷走」は、本来の目的だった船旅よりたぶん面白いものになった。

高野は、東京の大学院に留学していたハイダル君にアラビア語を習い、それだけでなくバクダードで彼の兄の家に滞在し、アフワールへの旅にはハイダル君自身が通訳兼ガイドとして同行してくれることになった。チームは高野と、彼の師匠格、東京農大探検部OBで環境活動家・冒険家の山田高司(隊長)。

水滸伝を名乗るからには、豪傑が登場しなければならない。ハイダル君のコネクションでまず会えることになったのが、「湿地帯の王」と呼ばれるカリーム・マホウド。フセイン政権時代は反政府ゲリラ活動を率い、米軍侵攻後は占領軍の「暫定統治委員会」のメンバーになったが、あまりに荒っぽくて政治に向かず、現在はティグリス川沿いの町、アマーラで暮らしているという。彼はフセイン時代に投獄され、そこでコミュニストの仲間になった。自らも湿地民の氏族であるカリームは湿地帯とそこに住む民についてこんなふうに説明してくれた。

「アフワールは……ノアの洪水以来、何も変わっていない。そこは昔から『マアダン』という人たちが住んでいる。元の意味は『水牛などの動物を飼う人』の意味だ。と同時に、ギルガメシュの時代から“体制と戦う者”つまりレジスタンスのことも意味する。アフワールには馬や象が入れないから、強い権力に抵抗するのに適した場所だったのだ」

カリームだけでなく、アフワールの民に話を聞くと、ノアの洪水とかギルガメシュとかシュメールとか古代と現代とがごく自然に、当たり前のようにつながっている。カリームに会えたことは、高野たちにとって幸運なことだった。アフワールに限らないが、いまこの国は強盗が出没し、外国人は拉致されかねない。危険があるかもしれないとき、高野たちは「カリームに食事に招かれたよ」と告げる。「旅行者が誰かの世話になるとその地域では世話した人の『客(ゲスト)』と見なされる。そして客が被害を受けるというのは『主人(ホスト)』にとってこの上ない屈辱なのだ」。もしこのあたりでカリームの客である高野たちが襲われた場合、カリームが恥辱をそそぎに襲ってくる可能性を誰もが想像する。「だから彼の客であることをアピールすれば、一定の抑止力にはなる」。

高野はさらに伝手をたどって、アフワールでの活動に全面的に協力してくれることになるもうひとりの「豪傑」に出会う。環境NGO「ネイチャー・イラク」の長、ジャーシム・アサディ。アフワールの湿地民出身で、大学を卒業して水資源省に入り水利専門の技術者となった。フセイン政権崩壊後はアフワール復興事業の現地責任者になり、治水工事を指揮している。「大胆な治水工事を計画実行する能力と統率力、驚くほど広いネットワーク、国籍や身分や素性に関係なく、自分を頼ってきた人は誰でも最大限に面倒をみようという親分肌、そして個人の自由を無視した権力を忌み嫌い、自分が納得できないことには徹底して反対し戦う、反骨にして異能の人でもあった」「彼らこそが新世紀の『水滸伝的好漢』なのではないかと思う」。

ジャーシム宋江(と高野は水滸伝の主人公になぞらえて呼ぶ)の「客」となった高野たちは、彼の紹介でいろんな湿地の民に出会う。湿地の浮島(水面に出た葦の上に刈り取った葦を重ねて「島」にする)に小屋掛けして住む家族。「浮島は彼の土地なのかと訊くと、『いや、誰が使ってもいい』との答え。ジャーシム宋江が笑った。『アフワールに私有地なんてない』」。さらに、水牛を飼って移動生活する「マアダン」(現代イラクでは差別的に使われるという)の人々。原始キリスト教成立直後に生まれたマンダ教という宗教を信じ、湿地帯で船大工を生業に二千年間ひっそり暮らしてきたマンダ教徒。

高野たちは彼らから話を聞き、伝統的な船タラーデを注文して建造に立会い、水牛のミルクを寝かせてつくるゲーマルという食品(「絹ごし豆腐のような重みがあって、うっとりする香りと旨味」)の作り方を見学したり、アザールと呼ばれる刺繍布の織り手を訪ねたりしている。最後には完成したタラーデを湿地に浮かべて漕いでみる(カバー写真)。文章に写真やスケッチも加えて、そのひとつひとつの行動の報告がこの本の核をなしている。未知と謎を探求する冒険譚であり、地誌や民族誌でもあり、イラクという国の「混沌」を旅する読みものとして面白い。

同時に、西洋的な近代国家の常識や物差しでは測れないイラクの内側に少しだけ触れられる。われわれがイラクについて知っているのは、多数派のアラブ人シーア派と少数派のアラブ人スンニー派、それにクルド民族の対立といった程度だけど、この本にも出てくるように民族も宗教も多種多様な人びとが暮らしている。また氏族の力が大きい社会であることも、高野たちが氏族の有力者の「客」となることで安全を担保することからわかる。そうした民族・宗教・氏族の異なるいろんなグループが民兵組織をつくり武器を持っているから、われわれの目には「混沌」としか映らない。高野たちが最終的にアフワールの船旅をあきらめたのも、いくつもの氏族が、時に対立し武装している地域を誰の庇護も受けない外国人が旅することの困難さからだった。

実際、「ネイチャー・イラク」のジャーシムが、本書の取材後にバクダード郊外で(どうやら親イラク民兵組織に)拉致された。二週間後に解放されたが、誰が何の目的で拉致したのか、ジャーシムも高野に多くを語らない。彼は今もアフワールに戻れていないという。

高野は「あとがき」で取材を終えた後のことも書いている。アフワールはいま、ティグリス川上流にトルコが大規模なダムをつくったために再び深刻な水不足に見舞われている。水牛とともに暮らすマアダンはユーフラテス川に避難したという。

「今後アフワールは一体どうなるのか。水が減り続け、フセイン政権時代のように、湿地帯は乾燥した荒野と化し、湿地民と水牛は水を求めてイラク各地を彷徨うのだろうか。/別の可能性もある。湾岸諸国あるいは中国やイランといった国が資本と技術を投じて、アフワールを巨大観光地化することも私は想像してしまう。/いずれにしても、それは従来のアナーキーにして多様性に富んだ湿地帯の姿ではないであろう」

その意味で、高野も自負するように、この本はいままた岐路に立たされている巨大湿地帯の現時点での貴重な記録になるかもしれない。ともあれ、最後は水滸伝らしいフレーズで締めくくられる。「ジャーシム宋江だって、言っていたではないか。『湿地帯の将来は暗い。でも今日は楽しもう!!』と」。(山崎幸雄)

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「夜は歌う」キム・ヨンス


キム・ヨンス 著
新泉社(320p)2020.2.15
2,530円

韓国文学セレクションと題された一冊。本書を書店の書棚で手に取りそのまま買ってしまったのは、舞台が旧満洲国だったから。旧満洲国については以前から興味があって、研究者の著作からノンフィクション、小説、漫画まで、目につくとつい読みたくなってしまう。最近では小川哲『地図と拳』や、本サイトでも取り上げた平山周吉『満洲国グランドホテル』がある。その興味の源をたどっていくと、子供のころ近所の友だちの家に遊びに行くと、釣竿職人のおやじさんが満洲国に駐留した元兵士で、竿をしならせながら「♫ここはお国を何百里 離れて遠き満洲の」と「戦友」を歌い満洲の話をしてくれたことにたどりつく。

この『夜は歌う』がほかの「満洲もの」と違うのは、奉天(瀋陽)や大連といった都市部でなく朝鮮半島とソ連との国境地帯(現在の吉林省延辺朝鮮族自治州)延吉周辺(当時の呼び方では間島─カンド─)を舞台にしていること、そして主人公が朝鮮半島からやってきた朝鮮人であることだろう。時は1932年。満洲国が成立した年であり、現在の韓国や北朝鮮は大日本帝国に併合されて朝鮮民族の国家がない時代。だから、小説では日本と日本人が敵として重要な役割を果たす。

あらかじめ言っておくと、といってこれは反日小説じゃない。小説には二人の日本人が登場するが、二人は若き主人公の人格形成に大きな影響を与える。彼らは愛憎入り混じった複雑な関係にある。

小説は「民生団事件」と呼ばれる歴史的出来事を素材にしている。日本軍と戦う抗日遊撃隊のなかで、500人をこえる朝鮮人が朝鮮人によって粛清された事件だ。この小説は2008年に韓国で発表されたが、当時、韓国でこの事件はほとんど知られていなかったらしい。キム・ヨンスは安重根や朝鮮戦争など歴史的な素材をいくつもの小説に仕立てているようだが、日韓の資料を使ってこの小説を完成させた。

物語は「僕」の一人称で語られる(以下、「 」ははずす)。自分は何者なのか、どう生きるべきかといった成長物語である一方で、韓流ドラマみたいな波乱万丈のストーリー。僕、金ヘヨンは朝鮮半島の南部、慶尚道生まれで詩が好きな青年だ。工業高校を出て運よく満鉄に測量士として採用され、鉄道敷設の調査で間島の龍井(ヨンジョン)にやってくる。満洲国建国直後の間島には40万近い朝鮮人が住んでいた。僕は満鉄で二人の日本人に出会う。ひとりは大連の満鉄調査部にいる西村。西村は東京帝国大学在学中に共産党に入党し地下活動していたが検挙され、獄中で転向。出所後、詩人として活動したが心中事件を起こして生き残り、満洲にやってきた。もうひとりは、僕のいる測量班を警護する中隊の中島中尉。彼はどうやら石原莞爾の信奉者らしい。その一方、ハイネの詩を口ずさむ「浪漫主義者」。中島は僕にこう言う。

「俺はおまえが気に入った。…自分を卑しいとは思っていないようだ。…いままで人を殺したことはあるまい? だが満洲にいるかぎり、お前のようなやつもいつかは人を殺す日が来る。その日が来たらまた話そうじゃないか。果たして死ぬとはどういうことなのか。…死があるからこそ生きるのが素晴らしい、それが分かれば充分だ。だから犬死にしやしないかと体を震わせて怯えるくらいなら女を愛せ」

その言葉どおり、僕はソウルの梨花女子専門学校を卒業したピアニスト、李ジョンヒと出会い、恋に落ちる。僕は中島にもジョンヒを紹介し、三人で酒を飲む間柄になる。が、僕がジョンヒに求婚した直後、ジョンヒは死に、僕は拘束される。彼女が殺されたのか自殺したのか判然としないが、実はジョンヒは抗日組織の一員で、情報を取るために僕と中島に近づいたのだった。そのことを知って、僕は「話を聞く前にいた明るい世界から永久に追放されたような気分だった。僕の向かった所は、信じられるものなど何もない暗い世界、自分すらも信じられない夜の世界だった」。

釈放され、満鉄を辞めた僕はいっとき阿片に溺れるが、龍井の写真館に住み込んで養生することになる。写真館を手伝っている娘、ヨオクは抗日組織の連絡員。僕とヨオクは互いに好意を持つようになり、抗日の遊撃区である彼女の村に行ったとき、村は日本軍の討伐隊に襲われヨオクは右脚を失う。日本軍の手先ではないかと疑われていた僕も、以後は信頼を得て抗日組織の村(ソビエト)で、ジョンヒと高校の同級生であるコミュニスト、朴トマンと行動を共にすることになる。また、満洲国と協力して間島に朝鮮人特別自治区をつくろうと運動する「民生団」を主導する朴キリョンとも知り合う。

当時、間島の抗日組織にはいくつもの集団があった。中国人主体の救国軍、朝鮮独立を目指す朝鮮人主体の独立軍、土匪系の山林隊、中国共産党系の遊撃隊。共産党系については注釈がいる。かつて秘密裏に朝鮮共産党が結成されたが日本の度重なる弾圧で壊滅し、コミンテルンも一国一党の原則から朝鮮共産党を認めず、間島の朝鮮人コミュニストは中国共産党に合流することになった。しかしもともと「民生団」に所属した者が多い朝鮮人コミュニストは、共産党中央によって民族主義者として糾弾されることになる。日本軍の討伐を逃れた遊撃隊のなかで、ある夜、二人の朝鮮人コミュニスト、朴キリョンと朴トマンは互いを民族主義者とののしり、朴キリョンは朴トマンに向けて銃を発射する。それはまだ始まりにすぎなかった。

「『1933年の夏、遊撃区にいた朝鮮人共産主義者とは誰か』。それに対する正しい答えはない。彼らは朝鮮革命を成し遂げるために中国革命に乗り出す、という二重の任務を負っていた。彼らは中国救国軍が日本軍に敗退したあとも最後まで闘った、強硬で勇敢な共産主義者であり、国際主義者だった。同時に、民生団の疑いをかけられひどい拷問を受けても、絶対に自分の正体を明かさない日本軍の手先でもあった。誰も、彼ら自身でさえ、自分が何者なのかわからなかった」

物語はさらに転々し、最後、僕と中島中尉は再会して対決することになる。その後の歴史を考えれば、結末はおのずと明らかだろう。国を失い、国を離れ、旧満洲の地で日本軍と戦う朝鮮の男たち女たちと触れ合いながら、最後までどこか傍観者的インテリの姿勢を崩さなかった「僕」は、中島中尉の言葉に導かれてある行為に出る。そのことによってはじめて、「僕」は死んでいったジョンヒやトマン、また中島の「夜の世界」に正面から向き合うことができるようになったのだろう。

この時代、列強の侵略に抵抗する思想としてコミュニズムは輝いていた。一方、スターリンや毛沢東に象徴される内部の暴力的な権力闘争、粛清の芽も抱え込んでいた。その両者に引き裂かれながら、東アジアの片隅で戦い、死んでいった無名の朝鮮人群像。キム・ヨンスは歴史に埋もれた、そうした存在を蘇らせた。悲劇的な物語にもかかわらず、全体が暗いトーンでなく、恋愛や友情も絡んだ青春ものの趣もあるので読後感は意外に爽やかだ。

われわれには馴染みの薄い地域の忘れられた歴史を扱った小説だけど、巻末に綿密な注があり、最初はわずらわしいけれど丹念に読んでいくと、おおよその背景が理解できるようになっている。橋本智保訳。(山崎幸雄)

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「『玉音』放送の歴史学」岩田重則

岩田重則 著
青土社(300p)2023.06.26
2,640円

毎年のことだが、8月に入ると過去を振り返り、広島・長崎の原爆被災や空襲・引揚などの記事が新聞の紙面を埋める。その悲惨さを再認識するとともに、太平洋戦争の開戦から終戦に至るまでの国家の責任について考えさせられる。本書の冒頭で、太平洋戦争終結は明治維新と現在(2023年)の中間点となると書かれてい、その表現に少し違和感を覚えた。何代かの祖先から両親・自分へと生き継いできたその時代で、各々が様々な思い出を積み上げて時間を過ごしてきた。しかし、戦後生まれの私としては明治の一年と戦後の一年を同じ時間意識で振り返ることは難しいことに気付かされたということだろう。

著者の岩田重則は1961年生まれ。祭祀、火葬、墓制といった視点からの民俗学の研究者である。本書は明治から現代までの時間軸の中で「玉音放送」に焦点を当てて昭和20年8月15日の終戦は何だったのかを再確認するための一冊である。今までも多くが語られて来たが、戦中の歴史は事実もあれば情報の操作で生まれた誤解もある。本書では民俗学の手法でもあるフィールド・ワーク的に、内閣情報局をはじめとした軍官の文書、全国の新聞をはじめとしたメディアの報道記事比較、入江相政、木戸幸一など政治・宮中に係わった人々の日記にはじまり、作家や庶民の日記などを引用しながら、事実の断片を集めて歴史の隙間を埋めて行くことで8月15日の全貌を描き出している

「玉音放送」とは、大日本帝国憲法で規定された天皇の大権で、戦争終結を「聖断」し、それを公文書「詔書」を公布、臣民(国民)に向けて「命令」するという昭和天皇の権力発動だった。しかし、多くの日本国民は「聖断」と「玉音放送」を権力発動だという受け止め方ではなく、逆に天皇による恩恵であるかのような「共同幻想」が国民の中に生まれていたと著者は指摘している。この原因を君主制における「権威」の存在としている。日本で言えば「万世一系」「三種の神器」といった根拠によって天皇の「権威」は創出されている。明治維新前から徳川側と薩長側はともに天皇の「権威」を掌握することが権力奪取の必要条件であると理解していた。その「権威」を大日本帝国憲法で「天皇は万世一系の統治権を持ち、国・国民を統治する」と成文化するとともに、「無答責」として法的に天皇は問責されることは無いとされていて、「神聖」と表裏一体の考え方で成り立っている。しかし、戦争を開始することも終結させることも天皇の大権であることから、その責任とは何なのかについて戦後語られて来た歴史も忘れてはいけないと思う。

太平洋戦争も開戦から2年半が過ぎ、転換点となった1944年のサイパン陥落(7月7日)、東条内閣総辞職(7月18日)、グァム島玉砕(8月21日)と続く中で戦争終結派が徐々に形成されていったと著者は見ている。その一人であった近衛文麿元総理の日記では「速やかに停戦すべしというのは、ただただ国体護持のためなり。昭和天皇は最悪の場合、退位だけでなく、連合艦隊の旗艦に召され、艦と共に戦死いただくのが我が国体の護持」とまで語っている。また、東久邇宮は「東条に最後まで責任をとらせる方が良い。そのためにも総辞職させない」と述べているのを読むと、国体護持と戦争責任論が戦争終結派のなかで渦巻いていたのが良く判る。

1945年となり、本土空襲など戦局が追い詰められて行く中、昭和天皇は1945年6月22日に東郷外相との面談記録の中で「速やかに戦争を終結させる」と発言したとされる。これが「終戦」についての天皇の初めての言葉のようだ。以後終戦までの2ヶ月を時系列で見ると、7月26日に連合国からポツダム宣言が発せられ、8月6日広島に原子爆弾が投下される。軍は即日、物理学者の仁科芳雄を広島に派遣し原子爆弾であることを確認しているが、内閣情報局は8月7日午後に朝日、毎日、読売や同盟などのマスコミ各社を集めて「今までの爆弾とは違うようだが情報が無いので通常の都市爆撃として報道する様に」と指示している。

8月9日長崎への原爆投下。同日最高戦争指導会議が開催され、鈴木総理大臣が国体護持を条件としてポツダム宣言受諾を提案したものの、阿南陸軍大臣が反対したため合意に達せず、昭和天皇は「米英軍に対して勝算なし」としてポツダム宣言受諾を聖断した。8月10日は「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラザルコトノ了解ノ下・・」という微妙な言い回しをした受諾文を連合国に伝える。対して国内では「徐々に国民をポツダム宣言受諾に誘導する」という戦術でボツダム宣言を伝えることは無かった。

8月12日に連合国側から返答があり、その中で国体に関しては「占領解除後の国家形態は日本国民の決定による」と言うものだった。これを前提に、8月14日天皇が召集した最高戦争指導会議+閣議で昭和天皇は「戦争継続は無理。国体については疑義もあるが、この回答文を通して先方は相当好意を持っていると解釈する」として受諾を聖断する。

8月14日午後11時に受諾詔書は公布され、同時に外務省から連合国に英文の通知文として送付されている。国内向けの詔書の骨子は「開戦は自衛のためであり、アメリカが原子爆弾を使用し日本国民だけでなく世界文明の破壊が予想される、歴代天皇に謝する術もないことから、国体護持のもとポツダム宣言を受諾する」というもので国民や戦没者に対する謝罪も天皇としての責任にも言及することは無かった。一方、連合国向けの英文には「原子爆弾」と「国体護持」に関する記載はなく、ポツダム宣言をそのまま受諾して武装解除と戦争終結文書に調印することを約束している。こうした二重規範の中で「玉音放送」が実施される。

玉音放送は14日午後11時25分から宮内庁で録音され、翌15日正午から放送された。そして予定通り放送終了後、街頭で新聞は販売され「8月15日の宮城前で御詔勅を拝し、陛下お許し下さいませ。我ら足りませんでした」という同文の記事が複数の新聞に掲載されていることからも、情報局からの情報管理・原稿提示があったことが判る。そして、このシナリオの締めくくりは、8月16日発足の東久邇内閣による所信表明演説であった。その中で「陛下に対し奉り、誠に申し訳なき次第」と昭和天皇への懺悔を繰り返した。そして、戦争終結に至った「責任」について記者から問われると、敗因にすり替えて「戦力の急激な低下・原子爆弾の出現・ソ連の参戦・国民道徳の低下」を挙げている。権力と責任を隠し、権威を前面に出して「一億総懺悔」を語っている。「国体護持」プロパガンダの最終稿である。

本書を読んで、私なりに気になった点を取り上げてみると、

1点目は、昭和天皇独白録の中で、8月12日の皇族会議で朝香宮が天皇に「国体護持が出来なければ戦争を継続するのか」と質問したところ、「私(天皇)は勿論だと答えた」と記されている点である。戦争終結の聖断は国体護持の為であり、国体護持が連合国から認められなければ本土決戦も辞せずとの決意だ。国民の生命を守る為でも、平和のためでもないと言い切っている。

2点目は、御前会議・最高戦争指導会議のあり方である。支那事変期(1938年)から太平洋戦争終結までの8年間で15回開催されている中で、天皇の発言があった会議はたった2回である。加えて、最後の会議(8月14日)だけが天皇による召集で、残り14回は大本営・内閣の召集である。御前会議とはまさに担がれた権威によって運営されていたことが判る。

3点目は、広島原爆被爆者の原民喜が玉音放送を聴いた感想として「もう少し早く戦争が終わってくれていたら」と語っているのが心に刺さる。7月26日のポツダム宣言に対して、その受諾を連合国に通知したのは8月10日。広島への原子爆弾投下の5日後の事である。あと一週間早く聖断してくれていたら、20万人の命が奪われることはなかった。

著者はいろいろな事実を二者択一的な正誤と解釈するよりも、そうした事象を歴史の記憶として留める意味を語っている。確かに、今だからこそ多くの断片的な情報も集めて俯瞰することが出来る。その時点では全てを見て考え、行動出来る訳ではない。加えて情報も時として事実であるかのように無差別に流れて来る。それは現在の我々が直面している状況と同様かも知れない。ポツダム中尉で終えた親父に「玉音放送」をどう受けとめたのかを聞いてみたかったと今更ながらに思う、そんな個人の無力感もある8月という季節だ。(内池正名)

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2023年7月15日 (土)

「戦争は女の顔をしていない」スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ 著
岩波現代文庫(506p)2016.2.16
1,540円

机の上に「積ん読」本の山がある。といっても、それ以外の本をすべて読んだわけでもなく、読んでない本のほうが多いのだが、なかでも「積ん読」した本はいつか必ず読もうと決めたもの。いつしかそれが10冊近くたまっている。今月76歳になった癌サバイバーとしては、このままでは文字通り「積ん読」のままこの世におさらばしかねない。そう思って手に取ったのが、いちばん上にあった本書だった。

『戦争は女の顔をしていない』(1984)は、ノンフィクション作家として初めてノーベル文学賞を受けたスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの第1作であり代表作でもある。第二次世界大戦の独ソ戦は、戦闘にとどまらずジェノサイド、収奪、捕虜虐殺が繰り広げられた「人類史上最大の惨戦」(大木毅)で、ソ連側で戦闘員約一〇〇〇万人、民間人を含めると二七〇〇万人の死者を出している。この戦争には一〇〇万人を越える女性が従軍していた。アレクシエーヴィチは、参戦した五〇〇人以上の女性を訪ね歩いて戦争の話を聞き、そうしてできあがったのが本書だ。

タイトルが端的に示しているように、この本をひと言で言うなら「女たちの戦争」ということになる。アレクシエーヴィチも書いているが、これまで戦争はほとんど「男の言葉」で語られてきた。男の目、男の感覚、男の価値観。取材を始めたアレクシエーヴィチがまず突き当たったのはその壁だった。「訪問して話を聞く時に、もし彼女のほかに身内や知り合い、近所の人などがいると、ことに男性が居合わせると、二人っきりで話を聞く時よりは、真心からの打ち解けた話が少なくなる」。その言葉に続けて、アレクシエーヴィチはこんなエピソードを記している。ある女性に話を聞きにいくと、夫は妻を台所に立たせて自分で話したがった。ようやく妻と二人きりになると、彼女はこう告白した。「ひと晩中わたしと一緒に『大祖国戦争の歴史』を丹念に読んだんです。わたしのことが心配で心配で。今だって、見当はずれなことを思い出すんじゃないか、ちゃんとした話ができないんじゃないかって気をもんでるの」。

戦後、従軍した女性たちは沈黙を強いられた。まともな女の子なら戦争なんか行かないとか、「戦争の雌いぬ」などと蔑まれ、女性たちも新しい生活のために戦争を忘れようとした。その記憶を呼び覚まし「痛みに耳を澄ます」ために、アレクシエーヴィチは彼女らの心の底に降りていくことから始めなければならなかった。

そのようにして集められたたくさんの証言は、取捨選択され30ほどのグループに分けられている。でもこの本は、普通のノンフィクションとはいささかスタイルが違う。文庫本500ページに及ぶこの本を読んで気づくのは、まず彼女がストーリーをつくらないこと。小生も雑誌記者をやっていたから分かるが、取材した素材を読者の興味を引くようなストーリーに構成することは、ジャーナリストが当たり前のように採用する手法。でもストーリーをつくる代償として、そこにはまらないものは捨てることになる。彼女はそこからはみ出すもの、互いに矛盾する語りも丹念に拾い上げている。

いまひとつは、ひとつの価値観や主張に染め上げないこと。価値観や主張を鮮明にするのは時に必要だが、彼女はそれもやろうとしない。でもそのことで逆に、この本は「アレクシエーヴィチの作品」というより、彼女を媒体としてもっと広く深い歴史の現場へと読者を連れ出す。戦争の最前線がどういうものか。この本はなによりそのことを、戦争を知らない読者にも身に染みるように分からせてくれる。

どのページを開いても、そんなディテールにあふれているけれど、三つだけ引用してみよう。

「白兵戦……ボキボキいう音を覚えています。白兵戦が始まるとすぐこの音です。骨が折れる、人間の骨がボキボキ折れるんです。獣のようなわめき声! 突撃のときは他の兵士たちにつづきます、ほとんど肩を並べて。何もかも目の前で起こるんです。男たちは相手を刺し殺そうと銃剣を突きたて、どどめを刺すんです。銃剣で口や目を突く……心臓や腹を……それに……何と言ったらいいの? 私はうまく言い表せない……とにかく恐ろしいことになるんです……/戦争が終わってトゥーラの家に帰りました。夜ごと悲鳴を上げていました。夜は母と妹が一緒にそばにいてくれました。私が自分の悲鳴で飛び起きたからです」(上級軍曹・砲兵中隊衛生指導員)

「私は撃つことに決めたの。そう決心した時、一瞬ひらめいた。『敵と言ったって人間だわ』と。両手が震え始めて、全身に悪寒が走った。恐怖のようなものが……。今でも、眠っているとき、ふとあの感覚がよみがえってくる……。ベニヤの標的は撃ったけど生きた人間を撃つのは難しかった。銃眼を通して見ているからすぐ近くにいるみたい……。私の中で何かが抵抗している。どうしても決心できない。私は気を取り直して引き金を引いた。彼は両腕を振り上げて、倒れた。死んだかどうか分からない。そのあとは震えがずっと激しくなった。恐怖心にとらわれた。私は人間を殺したんだ。この意識に慣れなければならなかった」(兵長・狙撃兵)

「私の病室には負傷者が二人いた。ドイツ兵と味方のやけどした戦車兵が。そばに行って『気分はどうですか?』と訊くと、『俺はいいが、こいつはだめだ』と戦車兵が答えます。『でも、ファシストよ』『いや、自分は大丈夫だ。こいつを』/あの人たちは敵同士じゃないんです。ただ怪我をした二人の人が横たわっていただけ。二人の間には何か人間的なものが芽生えていきました。こういうことがたちまち起きるのを何度も目にしました」(第五二五七野戦病院・看護婦)

これらはほんの一部にすぎない。21歳で白髪になって戦線から戻ったこと、密告されたこと、退却の途中の店でハイヒールと香水を買った話、ずっと男もののパンツをはかされたのがどんなに嫌だったか、捕虜の少年兵にパンを与え、敵を憎むことができなかったのが嬉しかったとの告白、両足を失った中尉に殺してくれと頼まれたができず、戦後、彼に会うのを恐れて市場に行けなかったこと、スターリンと共産主義の理想を信じていたという述懐、あなたの微笑みが私を再び生きる気にさせたと告白された経験、血の匂いのアレルギーになり、今も赤いものは身体が受け付けないこと、優しい人になるには何十年も必要だったという言葉、捕虜にならないために弾丸を二つ残していたこと、爪に釘を打ち込まれ丸太で身体を引っ張られ電気椅子に座らされた拷問の体験、人を殺したから私は罰を受けているという感覚。人間の悪魔的な面も善良さも、優しさも残酷も、すべてがむきだしになって記録されている。

アレクシエーヴィチはこう書いている。「一つとして同じ話がない。どの人にもその人の声があり、それが合唱となる。人間の生涯と同じ長さの本を書いているのだ、と私は得心する」。

ここに登場するかつてのソ連人は、現在はロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人、タジク人といったふうに、いくつもの国に分かれて暮らしている。彼女たちのほとんどは自ら志願して軍隊に入っている。彼女たちに兵士や看護師として前線で戦うことを決意させたのは何だったのか。国家、民族、思想、故郷、家族……言葉にすればそういうものになる気持や感情がこの本には散りばめられている。アレクシエーヴィチはそれらを一つの流れに収斂させず、彼女らの言葉をそれぞれの肉声を保ったまま、広大な海のように読者の前に広げてみせた。

にしても、かつてナチスに対し共に戦った兵士たちの息子や娘が現在は侵略する側と侵略される側に分かれて血を流しているのは歴史の皮肉というか、悲劇としか言いようがない。アレクシエーヴィチ自身はウクライナ人の祖父とベラルーシ人の祖母を持つ。ずっとベラルーシに暮らしていたが、現在はドイツに移り、ロシアのウクライナ侵攻を批判するノーベル賞受賞者の共同書簡に名を連ねている。(山崎幸雄)

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「皮革とブランド」西村祐子

西村祐子  著
岩波書店 (206p)2023.05.23
990円

著者は社会人類学の領域で、皮革産業の歴史や文化をテーマとした研究者。本書では皮革加工とファッションブランドの歴史を紹介しつつ、持続可能性の観点から皮革産業の将来について語っている。加えて、この数年のコロナ禍で高級ブランドビジネスの中核だった観光客に対する免税販売は苦境に立った。コロナ禍で「見せ場」もなく、ブランド品に金を掛けるという目標を失った消費者達、特に女性達は「ユニクロ」で良いという不可逆的な意識変革を起こしているのではないかとさえ感じられる。

著者は服飾業界での「ブランド」とは「製品としての信頼」を中心に、サービス、製作能力といった多様な要素で構成されるとしている。しかし、私を含めオジサン達からすると「グッチ」とか「エルメス」と言われても服のデザインの違いも良く判らない中で、バッグなどはブランドのシンボルマークがついていたりするのでどうにか判別できるという程度。もともと、ブランドの語源は放牧する牛の所有者を識別するために個々の焼印を押していたことに由来する。つまり「ブランディング」とは識別することであり、「ブランド製品」に求められるのは、他人から「あの人は高級なブランド品を持っている」と認識してもらうという「自己満足」がファションブランドの本質ではと私は思うのだが。そんな、ファッションブランドにさしたる興味を持たずに生きてきた私にとっては、ファションブランドと皮革製品の歴史や関係について初めて知る事柄も多い読書だった。

まず、皮革の文化について語られている。古くから、ヨーロッパでは王族・貴族は毛皮を身に纏って身分の高さを誇示していた様に「皮革」は高級品としての象徴性を持っていた。しかし、同時に各国では革に加工するなめし皮職人は卑しい仕事とされ、ユダヤ人や華僑の客家といった流民や移民が担ってきた歴史が有る。日本でも「皮田」と呼ばれた特殊な集団がこの仕事を支えてきた。まさに、屠殺に対する宗教的忌諱感や皮なめしの工程で使用されていた動物の脳しょうの悪臭が差別感を生んでいたようだ。

ただ、欧州では中世の終わり頃には「皮なめし職人」の技術は評価された結果、技能集団はギルドを構成した。イギリスでは「レザーセラーズ」として独占販売権・技術独占・新規参入阻止をしてブルジョア集団化していくとともに政治的地位も獲得していった。

こうした皮革産業の構造変革を促したのは、ナポレオンによる近代戦争と言われている。近代戦争では軍関係の皮革需要は大きく、都市ごとの閉鎖的なギルド組織に支えられる限定的な生産モデルでは対応出来なかった。ただ各地の職人の技術は温存されて、バルカン半島で原皮を手に入れ、スペインのコルトバで製品を作り、ヴェネツィアで販売店を開いているビジネス・パートナーに渡すという国際分業体制、大量生産体制が構築されていった。

「ブランド化された高級品」と「大量生産された製品」は一見結びつかないように思うが、何故皮革製品がブランドの看板商品になっていたったのかという疑問に著者は次の様に答えている。「服飾は毎年新作が発表されるが、皮革製品は一つの製品が何十年も売れ続き、衣服と違って国ごとにサイズを取りそろえる必要もなく、時として男女兼用だったりもする。こうしたことから、ファションメーカーの利益の過半は皮革製品から生まれている」と聞くと、ファションビジネスモデルで見ると皮革製品は特別な範疇にあるということが良く判る。

本来、中世の王侯は専用の仕立屋を自宅に呼びオートクチュール(オーダーメイド一点物)として服を作って来たが、より多くの客を相手にする為に19世紀にはメゾン(高級服飾店)を構えて客を店に呼ぶという効率化を図った。加えてミシンが発明されたことで製作の効率化を可能にして行った。これがブランドの量産化の最初の変革であり、メゾン体制のもとパリが世界のファションブランドの中心となっていった。

しかし、パリの伝統的なファッション業界の優位性も第二次大戦後から揺らぎ始める。それは「ブランド品」は一握りの特権階級の占有物ではなく、膨大な中産階級の需要によって成り立っているという見方をして、著者は「ファッションの民主化」と表現するとともに、ファション業界の量産化が進む。

また、革の衣服の象徴性はジェームス・ディーンの黒革のジャンパーとブーツに始まり、「アウトロー」・「プロテスト」を表現するものに変化していく。1970年代にベビー・ブーマー世代が成人となり、それまでの「少数の文化人や芸術家によってリードされていた文化活動」とは大きく異なる「数の力」や「豊かさ・余裕」が消費者活動の主役となった。それを取り込もうとするブランド戦略はある意味でブランドのサブカルチャー化であったというのもうなづける。ファションが著者の言う「庶民の思想的トレンド」であればブランドのデザインの方向を決めるのは時代なのかも知れない。富裕層も若者も同じものを着るという「平等」と「自由」であり、これを業界の人達は「民主化」「第二のルネッサンス」と呼んだようだ。

ものづくりとして、こうした動きを可能にしたのは、大量生産体制、グローバル化したサプライチェーン、複数企業の連携だったとしている。その中で著者は各人が同じ製品を持ちながらも、オリジナリティーを発揮するために使い方、着かたに自分なりの主張(襟を立てるとか)を少しだけ加えることの重要性を「3%ルール」といっている。

一方、製造業に関する国の規制も強化されていく。伝統的な皮革製造プロセスで使用されて来た漂白の為のホルマリンは使用禁止となり、石油由来の仕上剤などを水溶性剤に代えて環境汚染を減少させ、排水処理の効率化、廃棄物のリサイクルの推進などが行われて来た。こうした環境問題への対処に加えて、動物愛護の流れは強くなっていく。そうした動きを加速させた例として、2015年にエルメスのバッグ「パーキン」に使われているクロコダイルが残酷に殺されているとの批判を受けて、その名前の由来主である女優のジェーン・パーキンがエルメスに自分の名前を使わない様に要求したというのも象徴的な事件であった。こうして、希少動物の捕獲禁止、製造プロセスでの使用薬品の制限、毛皮取引制限などを守る事がブランドの評価に加わってくる時代となってからも、皮革の代替品として合成皮革開発では、ルイヴィトンが通気性のあるポリウレタン開発に成功して以降、「革」と「合成皮革」を組み合わせた製品が作られ、今や天然合皮のヴィーガンレザーが登場してくる。

「革製品は触ることで良さを体感する。品物と自分のコミュニケーションの第一歩」で「持ち手と作り手の会話」と著者は言う。ただそれはブランドを選ぶ以前に、どんな革が自分として好きなのかということだと思う。私は革製品について興味もあるし、日用品として長財布、名刺入れ、書類鞄などはコードバンの製品を長く使っている。それらは「大峡製鞄」や「いたくら」といったブランドよりもコードバンという革の手触りや使い勝手で選んでいる。今更ながら、革製品と言えば靴やベルト、キーホルダーなど多くの革製品に日常生活は支えられていることに気付かせされた一冊だった。(内池正名)

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