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2008年11月 5日 (水)

「グロテスク」 桐野夏生

Guro 桐野夏生著
文藝春秋(540p)2003.06.30

2,000円

ジャズのライブを聴いていて、ドライブに次ぐドライブのはてに、いまこの瞬間に音が異次元へイッた、と感ずるカタルシスがやってくることがある。最近では、ハービー・ハンコック、クリスチャン・マクブライド、ジャック・デジョネットというすごいトリオでそれを体験した。ジャズばかりではない。どんな音楽にも、また詩や小説にも、脳内にアドレナリンが放出されているに違いないそんな瞬間はある。

読みだしたら止まらない、しかしどこまで行っても沈鬱なこの物語に、はたして小説のカタルシス、読むことの快楽 は来るのか? そう思いながらページを繰っていたら、来ましたね。それも、見事に。僕は女の、それも娼婦の気持ちになって、道玄坂の上から夜の渋谷の町を 見下ろしていた。

昼は一流企業の総合職、夜は渋谷・円山町の街娼ーー「東電OL殺人事件」として知られるスキャンダラスな素材が、細部まで現実の事件に沿いながら、しかし中身はまったくのフィクションとして、艶やかなエンタテインメントに仕立てられた。

実際の事件の被害者(ここでは和恵)は小説では脇役で、物語は主人公「わたし」の告白というかたちで進行する。「わたし」に名前が与えられていないのは、固有名詞をもたない「誰ででもありうる者」ということだろう。

和恵と「わたし」は、初等部から大学まで持つQ学園の、Q女子校の同級生。現実の被害者がそうだったように、誰もがすぐに慶応の名を思い浮かべる。小説の前半はQ女子校が舞台で、主な登場人物は4人いる。

白人とのハーフで、「バービー人形」みたいに完璧な美貌をもつ「わたし」の妹、ユリコ。「わたし」は姉であるにもかかわらず、容貌は日本人的、しかも目 立たない存在で、妹の美しさに根深い劣等感をもっている。「一番になりたい」という願望をもつ和恵は努力家だが、「わたし」から見れば現実に対し「無知で 無神経で無防備で無策」な生徒。

彼女らは高校からQ学園に入った「外部生」だが、ミツルは初等部から上がってきた「内部生」で成績も運動能力も抜群。「外部生」にとっては仰ぎみるような存在だ。

裕福で洗練された「内部生」による「外部生」への軽蔑といじめ。「外部生」は努力によって、あるいは悪意を研ぎすますことによって、あるいは美貌によっ て「内部生」に対抗し、また「外部生」同士の競争を勝ちぬこうとする。でも結局は、努力では報われない世界があることに気づくことになる。

ーーと書いてくれば分かるように、Q学園は、豊かでしかも閉ざされた共同体であるこの国のミニチュアのようなものとして描かれている。

「わたし」の告白を中心に、ユリコの手記と、和恵の日記、つまりそれぞれの一人称の目で出来事が記述される。

「美しすぎる妹」を憎悪する「わたし」の目から、妹のユリコが同級生や大学生相手に売春していることがあばかれる。和恵の日記で、売春を教師に密告してユ リコを退学に追い込んだのは姉の「わたし」であることがあばかれる。ユリコの手記では、自分が体を売ることに何の抵抗もない「生まれながらの娼婦」である ことが告白される。

この小説が複雑な陰影をもってくるのは、一人称の告白や手記や日記のそれぞれに嘘が混じっていることが分かってくるあたりからだ。だから読者は一人称の 語りをまるごと信ずることができず、それぞれの嘘を突きあわせて、その全体像を記述に沿ってではなく自分の想像力で再構成していくしかない。

そこに、もうひとつの一人称が挿入される。ユリコを殺す不法残留の中国人、チャンの「上申書」。

横道に逸れるけれど、松本清張に代表されるかつての社会派ミステリーのなかで、犯罪の動機は圧倒的に「貧しさ」だった。それが読む者の共感を呼んだ。し かしこの小説を動かしているのは「貧しさ」ではない。「貧しさ」を背負って殺人を犯すのは共同体の外部から来た外国人労働者で、物語全体のなかではひとつ の挿話をなしているにすぎない。

もっとも、四川省の貧農であるチャンが広州、香港を経て日本に密航するまでを語った「上申書」には、取材にもとづいているからだろう、なかなかの説得力 がある。とりわけ、チャン兄妹が故郷を捨て広州へ行くために生まれて初めて満員列車に乗り、水一杯を得るにも便所へ行くにも法外な金を取られて「資本主 義」に目覚めるくだり。

しかも、日本へ密航する途上で妹を見殺しにしたという「上申書」が、実は妹を見殺しにしたのではなく殺したのだということが明かされ、ここにも一人称の嘘が仕込まれている。

小説の後半、物語が現在に近づくと、ユリコは一晩数百万円の高級娼婦から、忘年会帰りの客に声をかける街娼へと転落している。姉の「わたし」は「中年女 のフリーター」として日々を暮らしている。医師になったミツルは新興宗教にのめりこみ、教団の起こしたテロに連座して服役している(このミツルの扱いだけ は、いささかおざなり)。

企業の総合職としてキャリアを積んだはずの和恵は、勝ちたい、一番になりたいという希望もすり減り、若い女子社員からも疎まれる存在になりはてている。そんなとき和恵は20年ぶりにユリコと出会い、自らも夜の世界に身を投げだしてゆく。

「肉体地蔵」と題された「和恵の日記」の章は、やはりこの小説のなかで圧倒的な迫力を持っている。作者が周到に紡いできたフィクションが、ここで初めて事実の持つ力と出会い、実際に起きた事件の枠組みというボトルにリアルな想像力が注ぎこまれる。

例えば、自らの肉体と金を直に交換することによって初めて生きている実感を感ずる和恵の目からの描写。

「あたしは道玄坂のてっぺんから渋谷の町を見下ろした。夜半すぎて、少し強くなった十月の風があたしのトレンチコートの裾をはためかせる。昼の鎧は夜のマ ントだった。そして、マントの中身は柔らかで魅力的な女の体。あたしの頭脳と肉体は、それぞれ確実に金を稼ぐ。ふふふ。唇から自然に笑いが洩れた」

「街路樹の間を縫うようにゆっくり走るタクシーのテールランプが甘く光っている。あたしは百軒店の曲がりくねった小路に入り、知り合いでもいないかと探し た。今夜こそ、会社の人間にあたしという女を見せつけてやりたかった。あたしは冴えない変な社員じゃない。寂しい独身女でもないし、吝嗇な中年女でもな い。光輝く夜のあたしを見てくれ」

ただし、嘘はここにも仕込まれている。マントの中身は「柔らかで魅力的な女の体」などではなく、拒食症で痩せさらばえた体、渋谷109のトイレで夜のために化粧をしていると、女子高生に「化けもんだよ、ひでー」と避けられるような存在なのだ。

こうした一人称と、その語りに孕まれた嘘(あるいは、本人がそう思いこんでいる意識と現実とのズレ)との二重性が、この小説全体にリアリティーを与えているし、その悲しみを襞の多いものにもしている。

この後、最終章ではもう一度「わたし」の告白に戻る。これは現実の事件に沿った小説ではなく、あくまで「処女の姉(わたし)と娼婦の妹」が主人公なの だ。そこには最後のどんでん返しが用意されているが、それを明かしてはルール違反になる。でもそこで読者は、これは「転落」の物語ではなく「解放」の物語 だったのだと、改めて気づくことになるだろう。(雄)

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