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2008年11月 5日 (水)

「新宿情話」須田慎太郎

Shinjuku 須田慎太郎著
バジリコ株式会社(512p)2003.08.25

2,520円

1980年代の後半、2年ほど大阪に住んでいたことがある。その2年間、大阪は大都会にしては街の表情に変化の少ない(しかし濃い)街だと思ったけれど、大阪暮らしを終えて東京に戻り、久しぶりに新宿の歌舞伎町に足を踏み入れたときの驚きは忘れられない。もともと風俗系の店が多い一角だったが、それらと隣あわせて老舗の喫茶店やジャズ喫茶やふつうの飲食店や商店もたくさんあった。それが、風俗とゲームセ ンターに街全体が占領され、ネオンや看板もそれ一色になり、通りを歩けば日本語よりも中国語のほうが頻繁に耳に入ってくる。

1960年代の学生時代から、映画を見たり、ジャズ喫茶に入りびたったり、行きつけの飲み屋に通ったり、いちばん親しんだ盛り場が、ほんの数年不在だったあいだに、見知らぬ外国の盛り場にひとりで迷いこんだように緊張して歩かねばならない街に変貌していた。

そんなふうに、街を歩きながら無意識に神経をとがらせているのに気づくことは、渋谷でも六本木でも、ましてや銀座などではない。目や耳に飛び込む情報が 猥雑な刺激に満ち満ちていて、しかも警戒信号を発しており、そこに入りこむ者を知らず知らず身構えさせるのが、銀座とも渋谷とも六本木とも違う、まぎれも ない今の新宿の街なのだろう。

『新宿情話』の著者である須田慎太郎の名は、写真週刊誌『フォーカス』でスクープを連発したカメラマンとして記憶している方もいるかもしれない。この本 は、新宿に生きる50人ほどの男と女の「人生模様」を(と帯にある。確かにそんな表現がふさわしい)、写真と文章であぶりだしたものだ。

その中身を伝えるのにいちばん手っとり早く、しかも的確なのは、登場人物の職業を列記することだろう。

キャバクラ嬢。セク(シー)パブ嬢。イメクラ・オーナー(女性、25歳)。デートクラブ嬢。ストリッパー。オカマクラブ・ママ。焼き肉店経営者(在日韓 国人女性)。アジア料理経営者(中国人女性、33歳)。ケバブ屋台経営者(クルド人)。ショットバー経営者(バングラデシュ人)。バーの共同経営者(ホモ セクシュアルのカップル)。ホストクラブ経営者(元ホスト)。

喫茶店「スカラ座」経営者。「末広亭」経営者。流しのギター弾き。ゴールデン街のスナック経営者。思い出横丁の食堂経営者。デジタル・フォト・スタジオ 経営者(風俗関係が客に多い)。サラリーマン。スカウトマン(街で女性に声をかける)。裏ビデオ店員。ホームレス。ホームレス支援ボランティア。路上本 屋。やくざ。などなど。

多少とも新宿を知っていれば、ここにあげたほとんどの職業に従事する人たちの姿や店の看板に思い当たるはずだ。須田はこの本のために、そんな新宿に生きる150人もの人たちに話を聞き、写真を撮ったという。

一口に150人といっても、都会の盛り場で声をかけ、信頼関係をつくってインタビューしたり撮影したりするのは並大抵のことではない。『フォーカス』で鍛えられたカメラマンにしてはじめてできた仕事にちがいない。

ここに収められた写真は、いわば無色透明のものばかりで、表現として凝った写真は一枚もない。新宿の街や、彼ら彼女らが働く店を背景に、ごく素直なポー トレートやスナップショットが撮られている。須田はここで、作者の個性に裏打ちされた作品をつくろうとはしていない。

同じことは文章にもいえる。登場人物が語る人生の物語を、須田はそのまま文字にしてゆく。風俗嬢やホストやホームレスが語る過去は必ずしもすべて事実と いうわけではなく、嘘と本当が入りまじっているに違いない。それは、彼ら彼女らの語る新宿にたどりつくまでの物語が、細部は異なってもどこか同じパターン を感じさせることからも想像できる。

須田がそれに気づいてないはずはないが、彼はそこに決して口をはさもうとしない。例えば永沢光雄が『AV女優』(ビレッジセンター)で試みたように、ソ フトな語り口ながら気がつけばAV女優は語りたがらない本音を語るように誘導されているといった高度なインタビュー技術は使われていない。彼らが語るにま かせ、須田自身は無色の媒体としてそれをそのまま記録している。

仮にこの写真と文が雑誌に連載されていたとして、何回か目を通しただけでは、「なかなか面白いなあ」とは思っても、それ以上の関心を引かなかったかもし れない。しかし作者というフィルターを最小限にした写真と文を50人分、500ページにわたって積み重ねられると、そこからはまた違った風景が見えてく る。その風景を、なんと言ったらいいだろうか。

例えば、写真表現を意図したものの場合、何十枚、何百枚と積み重ねることで見えてくるものは作者の個性であり、あるいは作者によって解釈され、変形され、内面に棲むなにものかを引きずりだされた被写体であるだろう。

最近のその見事な成果として、新宿を被写体としたものに森山大道『新宿』(月曜社)があり、街の通りすがりの人間を被写体としたものに鬼海弘雄『PERSONA』(草思社)がある。が、この本はそうした性質のものではない。

文章も同様だ。先ほど触れたように、登場人物の語る言葉には、時にある種のパターンが感じられる。例えば、この本の最後に登場する、若いやくざの語り。

「新宿、大好きですね。自分の故郷っスね。高速下りて大ガードくぐってネオン見上げると、帰って来たんだな、ただいまって。ここのすべてが自分の家みた いに感じますよ。絶対、ここから出られないっスね。アシ洗っても、何しても、命狙われようが、さらわれようが、お茶飲んじゃワリィか、オレの地元じゃねえ かって胸張って、一生、ここで生きていきますよ」

西口高層ビル群に沿って青梅街道を走り、JRの大ガードをくぐって左手に歌舞伎町の「不夜城」を見上げるのは、映画やテレビドラマで繰りかえし目にする定番の映像だ。

彼はこの定番のイメージに、自分の感情を乗せている。それを紋切り型ということもできるけれど、それでもなお彼の新宿への思いは読む者に伝わってくる。 それは彼の言葉が定型化したイメージの上に乗りながらも、なおかつそこからはみだす個人的ななにごとかを感じさせるからだろう。

ここで見えているものは、新宿という街の表面そのものとでも言ったらいいだろうか。それは誰もが知っている「定番」のような風景でありながら、目をこら せば見慣れた風景のなかにかすかな表情の変化や、流動する人々の流れを宿している。それらが記録されることはほとんどないけれど、薄くてもろい、しかも日 々うつろっている新宿という街の表層を、須田はすっとすくいあげることに成功したのだ、と僕は思う。(雄)

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