「時のしずく」 中井久夫
といって、中井久夫の本をちゃんと読んでいるわけではない。特に、専門である精神医学に関する著作(『中井久夫著作集』全6巻)には、てんで歯が立たない。せいぜいのところ、一般書として出された『分裂病と人類』『西洋精神医学背景史』『最終講義 分裂病私見』あたり。
だから中井久夫の知性の核心に触れたという確信は持てないけれど、『記憶の肖像』『家族の深淵』といったエッセー集や、阪神淡路大震災の後に書かれた
『1995年1月・神戸』『昨日のごとく 厄災の年の記録』(以上4冊、いずれもみすず書房)などの編著から、その知性の輪郭をおぼろげながら知ることが
できる。
初めて彼の本を読んだのは『分裂病と人類』だった。物ごとの予兆に敏感な分裂病(今は統合失調症)と、執着気質に特徴のある躁鬱病の起源を、狩猟と農耕、
森と平原といった人類史的視野のなかで探ろうとした壮大な構想に興奮させられた。文字通り読書の快楽を味わった体験だった。
一方、『1995年1月・神戸』をはじめとする編著は、震災当時、神戸大学医学部精神科の責任者だった中井を中心に、精神科患者の救援活動を組織した体験
を同時進行でレポートした記録。分子生物学の研究者として出発しながら、途中で患者と向きあう臨床医であることを選んだ中井の実践的な知性のあり方がくっ
きり見えてくる感動的な本だった。
そして『記憶の肖像』などのエッセー集で素晴らしいのは中井の文章だ。
寺田寅彦を引き合いに出すまでもなく、魅力的な文章を書く科学者は多い。中井は「論理的な日本語を意識的に心がけた」(本書)と書いているが、ひとつに
は、時に常識をくつがえす独自の「論理」によって、ひとつには、その背後にギリシャ現代詩の訳者でもある中井の詩人の魂が潜んでいることによって、最近の
書き手から感ずることの少ない、きりっとした日本語に触れることができる。
『時のしずく』は、その系列に属する最新のエッセー集。これまであまり語ることのなかった自伝的な事柄や、震災に触れたもの、中井と同じ阪神文化圏に育った須賀敦子を語ったものなどが含まれている。
例えばそのなかの一編、「災害被災者が差別されるとき」は、こんな具合。
阪神淡路大震災では被災者に対する目立った差別はなかった。ただ、大阪方面から「見物人」が来て記念撮影をしたり遺体発掘を見物していたという事実に、関
東大震災で山の手から下町へと見物人が繰り出した歴史を重ね、「中心地から遠ざかるにつれて、被災が見えなくなる」と書く。
「神戸の震災における私の観察では、被災地の倒壊家屋が三割を切ると共同体感情(評者注・被害者としての連帯感)は生じにくくなり、隣人は優位に立ち恩恵を施す救援者として、甘んじて救援を受ける被災者に相対するようになるように見えた」
関東大震災では、自警団は被害の中心地ではなく、中心地から被災者が逃げて来る周辺地域に組織された例が多かった。「『自警団』の基礎は、不安と疑心暗鬼
と人間性悪説とエゴイズムである。その上に立って、『自警団』は被災者に対するステロタイプをつくりあげ、これに対して自らを守ろうとする。『自警団』の
対象は現実ではなく想像力に支えられたものである」
1995年の神戸で自警団が組織されることはなかったが、それは「多くの好条件に支えられてのことだ」と中井は言う。
「一つの希望は、一九九〇年代のボランティアにある。そして、日本の若い層は、関東大震災当時とはくらべものにならないほどの海外体験を積んできた。
一つの憂鬱は、現在すでに憂わしい徴候として存在する。それは政治難民の認定に一端をみることができる」
中井は、たとえば東アジアに動乱が起こり、ボートピープルが大挙して押し寄せたらどうなるだろうか、と問う。
「アジアに対する日本の今後の貢献は、一七世紀のヨーロッパにおけるオランダのように、言論の自由を守り、政治難民に安全な場所を提供することであると私は考えている」
「政治難民が数万、数十万人に達する時に、かつての関東大震災の修羅場を反復するか否かが私たちの真価をほんとうに問われる時だろう。それは日本が再び世
界の孤児となるか否かを決めるだろう。難民とは被災者であり、被災者差別を論ずる時に避けて通ってはならないものである」
このエッセーのなかで中井は、被災中心地の一つで、長田区と並んで死者が多かったにもかかわらず、「絵にならない」ために報道されず「忘れられた」西宮市の風景を、鎮魂の心を込めてこう記している。
「火災を起こさなかったために、倒壊した家々はひっそりと圧死者を中に秘めて静かだった」
データと論理を追いながら、さらりとこんな一文を、しかも感情を表に出すことなく差しはさむ。中井の文章の見事な例だと思う。
『分裂病と人類』は予感と予兆に敏感な「森の人」を主題にした本だったが、それは中井久夫自身のことでもある。そのような感性に満ちた文章が、この本の至るところにちりばめられている。もうひとつ、「『祈り』を込めない処方は効かない(?)」から。
「特定の宗教に帰依していなくても、祈りはありうる。実際、祈りを込めない処方は効かないような気がするのは私だけではなかろう。これは心構えの問題であって超心理学の問題ではない。
来世を私は願わない。……死後は無であろうが、ただ、勝手に『明るい無』であると思うことにしている」
この本の「あとがき」で、彼は「長年の精神科医生活からほぼ引退した」と書いている。また「精神科医の栄光は、もとより印刷物や肩書きにあるのではない。
その栄光の真の墓碑銘は患者とともに過ごした時間の中にある」とも書いている。にもかかわらず、中井久夫の書いたものをもっと読みたいと我が儘な願望を抱
くのは、僕だけではないはずだ。
ところで、第1刷に24カ所に及ぶ正誤表がはさまれていた。誤りの中味から察するに単純な校閲ミスではなく、著者の入れた朱をなんらかの事情で反映させそ
こなったのだろうと推測する。とすれば編集の基本にかかわるミスで、みすず書房の本への厚い信頼がかなり損なわれた。(雄)
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