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2008年11月10日 (月)

「アメリカ第二次南北戦争」佐藤賢一

America2 佐藤賢一著
光文社(443p)2006.08.22

1,785円

2013年のアメリカで第二次南北戦争(The Civil War ・)が勃発するという近未来小説である。この内戦の物語が示唆しているのは伝統的なアメリカ内部の抗争の諸問題であり、世界の構図の中での存在の意義と いったものである。そうした、現在のアメリカの混迷を炙り出すために現代の南北戦争という場の設定はなかなか巧みだと思う。そ もそも、戦争が起こる原因は社会のひずみやゆがみを国家自身で是正できなくなったとき、その蓄積されたパワーを解放する手段だと思っているのだが、建国以 来のアメリカという国家を考えてみると、その内在する問題を本質的に解決することなく現在に至っているのではないかと思わざるを得ない。

例 えば、この小説の中でも重要なプロットとして取り上げられているものに、欧州大陸からのフランス人、イタリア人に代表されるカソリックとイギリスからの移 民であるプロテスタントとの関係(軋轢というべきか)、白人主義というか人種差別の典型とも言えるKKK(クー・クラックス・クラン)といった極右団体の 存在と活動、銃保有に関するルーズさ(柔軟さ)のもたらす倫理的ゆがみ、自国の環境問題にはまったくといっていいほど関心を持たない姿勢等。こうした未解 決な混迷の存在は、小説の舞台である2013-16年という近未来でも、それが100年後という設定でも、アメリカおよびアメリカ人は抱え続けているので はないかと感じてしまうのだ。

さて、話しの主人公は日本人のジャーナリストと称する外交官という設定で、アメリカ合衆国(北)で知り合ったイタリア系アメリカ人の娘とともにアメリカ国 内で起こっている事態把握のために、南部中心都市ニューオリンズを目指す。この主人公ペアーに対して、アメリカに根ざしていた職業軍人ともいえる日本人と 南部に来て知り合った生粋の南部アメリカ女性とのペアー。

この二つのチーム設定もなかなか意味深長で深読みをしてしまうときりがないのだが、ジャーナリストとイタリア系アメリカ人のコンビは第二次世界大戦時の日 本と世界の象徴。日本とイタリアとの同盟関係を彷彿とさせるし、職業軍人の日本人とアメリカ娘の組み合わせは第二次世界大戦後の日米の象徴として書かれて いるとして考えると、この二つのチームが力をあわせたり、反発したりしながらの展開とフランスをしたたかな役割で登場させている。

この第二次南北戦争は、2013年ダラスで時の大統領が射殺されたことに端を発している。まさに1963年にケネディが暗殺された場所とまったく同じとこ ろで暗殺されるという筋書き。ただ、その大統領はアメリカ初の「女性」大統領であり、彼女の暗殺の結果大統領になる男は「黒人」。そして女性大統領が法案 として通過させたかったものが「銃規制法案」。となると、話しの発端から米国の象徴の揃い踏みといった舞台仕掛けである。

この暗殺の真の犯人探し、それに連なるカルト教団の動き、最後はフランス人がプラスティク爆弾を日本人に運ばせて、そのカルト集団の本部を爆破する。結 果、安定していた北と南は再度混乱を極めていく。といった話なのだが、根底にある発想の一つは「アメリカ合衆国は一種のカルト集団である」というもの。作 中でこんなことを語らせている。

「・・オウム真理教とアメリカ合衆国の類似性は第一にネーミングの幼稚さ、第二にハイテク指向、第三に行動の粗雑さに表象している・・・1990年の湾岸 戦争でも「砂漠の盾」「砂漠の嵐」「砂漠の剣」と矢継ぎ早に命名し・・「まるでデザート三部作だ。映画をプロデュースする気分で戦争が行なわれていたとい うことだ。(ル・モンド1990/12/6) 」・・・・両者とも要すれば安易なのだ。その根底にはある種の選民意識を伴わせる、独善的な世界観しかありえない。十代後半の若者さながらの、自らが特別 だと思う、誇大妄想と、それゆえに自らを害するものは悪だと断じる被害妄想がオウム真理教の、アメリカ合衆国の、行動を規定していた。・・・両者とも神を 愛するのではなく、愛する自分を肯定せんがために神を用いようとする。それが神である限り、なにものにも否定されることがないからである。・・・・」

もう一点、主人公に語らせているのは「アメリカ」という記号の意味である。その記号を取り払わない限り変わらないと言っている。

「・・・アメリカの国土分割に際して国名にアメリカを使わせない。・・・このアメリカという名前は、それ自体が特殊な意味を付与された記号であり、一種の 呪術性さえ帯びているからである。・・・すなわちアメリカ人は「アメリカ」は特別だと考えている。一番の国であるからには、他のなにものにも屈するべきで はないと身構える。かかる高慢な思いこみこそ、二十世紀を通じて世界を圧迫してきたものであり、かつまた二十一世紀の今にして、アメリカ自らに首を絞めさ せているものである。・・・・」

「アメリカ」が過去「正義」と言い張って世界で行なってきた行動や戦いの全てを「アメリカ合衆国」の中で行った時なにが起こるのかをこの小説は描いている のだが、同時にそれは日本という国・国民が「世界の警察」と考えているアメリカが「世界の混乱の中心」になった際どう対峙すべきかという問いかけでもあ る。

最近、強烈なデジャ・ヴュを覚えた映像がある。それは、ジヨンベネ・ラムジ殺害の容疑者がタイで拘束されたというニュースで、容疑者の焦点の定まらない視 線、生気のかけらも感じられない青白い顔を見たときである。その感覚をゆっくりと戻していくと、1963年ケネディ暗殺の犯人として拘束されたリー・オズ ワルドがダラス警察の地下で両脇を抱えられ連行されていく映像を思い出していた。

40年の時空を越えて、アメリカの犯罪史の中で社会の暗部を垣間見ることとなったケネディ暗殺とジヨンベネ殺害の両容疑者の映像が重なってしまった。ある種のアメリカが私の中で弾けた。「アメリカ」とは一体なんなのかと思わず自問してしまう瞬間だった。(正)

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