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2008年11月 8日 (土)

「焼身」宮内勝典

Shousin 宮内勝典著
集英社(272p)2005.07.10

2,100円

素手で世界に立ち向かっている──それが宮内勝典の書くものを読んで喚起される作者のイメージだ。彼は、ある「もの」や「こと」に相対するとき、武器になるようなものを何ひとつ身につけない構えを、意識的に取っているように見える。武器とは、たとえば知識だ。「もの」や「こと」に対する知識を持っていればいるほどに、そのことに対する理解は早く、広く、深くなるように見える。それは 確かだけれど、一方で、知識は「もの」や「こと」を歴史的また空間的に整序された世界のなかに位置づけ、その居場所を指し示すことによって、「もの」や 「こと」が持つ一回限りの原初の力、その熱や光を剥ぎとってしまうことにもなる。

宮内勝典は40年にわたって世界を放浪してきた。本書から伺える限りでも、諏訪瀬島のヒッピー・コミューンに暮らし、ニューヨークで不法滞在者として働き、 イスラム諸国を巡り歩き、中南米で先住民の反政府ゲリラ活動に身を投じてきた。そのひとつひとつが素手で世界に立ち向かう行為だったことは、例えば『グリ ニッジの光りを離れて』ひとつ読んでもわかる。

著者自身が小説ともノンフィクションとも名づけていない『焼身』の冒頭にあるのは、9.11の記述。「あの超高層ビルがくずれ落ちたときから、世界が裏 返って、なにかリアルなものが噴き出してきた」と感じた「私」は、ある記憶を呼び起こす。1963年、ベトナムで仏教僧がアメリカの傀儡、ゴ・ディン・ ジェム政権に抗議して焼身自殺した映像。

路上に蓮華座を組んだ僧が、不動の姿勢のまま炎に包まれている写真は世界中に配信された。ベトナム戦争を主題にした本のなかで必ず言及される有名な写真。 それを不法滞在していたニューヨークで見た(と信ずる)「私」は9.11の衝撃から、僧の姿勢に「なにか、信ずるに足るもの」を見いだし、「過激なまでに 開花した蓮の花のようなアジアの思想」をたどりたいと、僧の名前もわからないままホーチミン市に飛ぶ。

手がかりは、フエのティエン・ムー寺は「住職が政府に抗議して焼身自殺したことで有名」というガイドブックの記述のみ。通訳もガイドもなく、無論アポイントなどなしに、「私」はここでも素手で「X師」(と彼は呼ぶ)を求めて動き回る。

実はガイド・ブックの記述は誤りだったのだが、X師を知る僧を求めて闇を手探りで進むような探索のなかで、「私」に次々に扉が開かれる。ティエン・ムー寺 の住職。X師の寺だったホーチミン市観世音寺の、師の甥に当たる住職。X師の恋人だったかもしれないと「私」が妄想する信仰厚い、ある夫人。焼身自殺の影 の演出者だった仏教大学の教授。

「私」はインタビューを重ねてX師の生涯と焼身にいたる足跡を知ろうとするのだが、「生まじめで愚直」である以上の師の実像はなかなか見えてこない。そのかわり「私」には、この国で仏教が占めている位置と、それを取りまく風景が徐々に見えてくる。

仏像の光背にネオンが光り、塔の頂上に巨大な金色の蓮の花が咲く、「キッチュで遊園地のような」寺。しかしそこへ出入りしているうちに、「私」は公安にマークされていることに気づく。

ゴ・ディン・ジェム政権下で仏教界は最大の反政府勢力だったけれど、社会主義体制になった今も寺と僧侶は警戒され、当局の監視下にあるらしい。いきなり飛び込んだ「私」に僧たちが最初、取りつく島もなかったのもそのせいらしかった。

『焼身』はX師の実像を求めて「私」がベトナムやカンボジアを歩きまわる、一見ノンフィクションふうの体裁を取っているけれど、宮内がここで目論んでいる のは、X師が実際にどんな僧侶だったかを解明することではない。むしろ読む者にくっきり見えてくるのは、X師ではなくX師を求めて歩きまわる「私」の一歩 一歩の足取りのほうだ。例えばホーチミン市の喧噪に身をおく「私」に熱帯のスコールが襲いかかる、官能的な描写。

「ほんの二、三分、雨に打たれただけなのに、もう下着までずぶ濡れだ。足もとは浅い濁流だった。肉厚のピンク色の花が流れていく。果実の皮、野菜くず、ゴム草履、コンドームも流れてゆく」

「雨は一気に吐きだされて、黒雲が消えていった。……街はふたたび乾きはじめ、もうもうと水蒸気がたち昇っていく。濃い霧がたちこめる密林のようだ。こう して一夏、あなたの足跡を追ってきたが、私にはまだ何もわかっていない。X師よ、あなたはいったい何者なのか」

「私」はX師を知る人たちを求めて対話を繰り返すが、対話しているのは実は彼らとだけではない。「私」は、「私」が身を置いている熱帯の都会の「ピンク色 の花、野菜くず、コンドーム」とも身体のレベルで対話している。そして「私」は、意識のなかで過去の「私」のさまざまな記憶の海とも対話している。

「人の心というやつは、おぞましく醜悪な暗黒部から、グレーゾーンや、きよらかに澄みきった領域まで、広大で、複雑なグラデーションをなしているはずだ。 そして、わたしたちは日々、その濃淡のなかをふらふらと揺れながら往き来している。少なくとも私はそうだ。灰色の日もある。淡いグレーや、暗黒の日もあ る。稲妻が光る夜もある……私もまた地雷原を歩きつづけているのだから」

ここまで来て明らかになるのは、探し求められるべきはホーチミン市の路上で炎に包まれたX師ではなく、X師に9.11以後の生きる根拠を幻視した「私」であり、そんな「私」の彷徨の過程こそが『焼身』の主題であることだった。

ベトナムを発つ前日、「私」はX師が炎に包まれた十字路に行き、「小便で黄色く染まったポルノ雑誌やピンク色した肉厚の花びら」が散乱する歩道の片隅に、 X師がそうしたよう座りこむ。すぐに警官や公安が駆けつけて「私」を尋問しはじめる。おばあさんがやってきて、座りこむ「私」の足の間に500ドン札を押 し込み、合掌して去ってゆく。

ここでもまた素手で世界と相対している宮内勝典の鮮やかな姿がある。(雄)

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