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2008年11月 6日 (木)

「無痛文明論」 森岡正博

Mutu 森岡正博著
トランスビュー(456p)2003.10.05

3,990円

なんとも刺激的で大胆な問題提起と、どうにも納得しかねる異和感とを、こんなに感じさせる本を近来読んだことはない。著者によって名づけられた「無痛文明」とは、「苦しみを遠ざける仕組みがはりめぐらされ、快に満ちあふれた」社会、今日の先進国に姿を現しつつある文明 のことをいう。大都市に象徴される快適な環境に囲まれ、金さえあればあらゆる物質的欲望を満たすことができる。物理的にも精神的にも、痛みや苦しみをでき るかぎり排除しようとする人工的に管理された社会。

僕 たちはそんな社会に生きているけれど、その快適さや快楽を享受しながら、一方で、この豊かさはどこかおかしいんじゃないか、とも感じている。物質的欲望に は限りがないばかりか、資本は新しい欲望を次々に自分たちの内側に生みだす仕組みをもっている。僕たちは快適さと快楽にまみれながら、滅亡への道をひた 走っているのではないか? そんな疑問に、森岡は見事な言葉を与えてくれた。

彼は「無痛文明」という言葉を、ある大病院に勤める看護師さんの話を聞いて思いついたという。彼女は集中治療室で、意識もなく眠っている患者をケアして いた。身体を取り巻く環境を完全にコントロールされ、安らかな表情で眠りつづける、死に瀕した人間。それは都市という名の集中治療室で、快適さにくるまれ て眠っているわれわれではないのか、と。

森岡の議論を追ってみる。

われわれには、快を求め苦痛を避ける「身体の欲望」がある。「身体の欲望」は、手に入れた快の現状維持を図り、すきあらば拡大増殖し、そのためには他人を犠牲にしたり、生命や自然を管理してもよいという本性をもっている。

われわれの内部にある「身体の欲望」は、それを実現するために社会のなかに「無痛化装置」をつくりあげた。

その装置はハードウェアとしても(例えば集中治療室、都市)、制度としても(例えば障害をもつ胎児を合法的に中絶できる「胎児条項」)、サービスとして も(娯楽産業、出生前診断などの医療、ある種のセラピーやカウンセリング)、関係性としても(共同体内部での、快を維持したいという共犯関係)、また言説 としても(宗教や教育、マスメディア)働いている。

「無痛化する現代社会とは、このような無痛化装置が、社会のあちこちに潜伏して、われわれを取り込もうと待ちかまえているような社会である」

「われわれは、いくら気をつけていたとしても、気づかないうちにこれらの無痛化装置の罠にはまってしまう。ときには、みずから望んで無痛化装置に飛び込ん でいく。そしてわれわれ自身が原動力となって、既存の無痛化装置を活性化させ、新たな無痛化装置を生産し、無痛奔流をどんどん強力にしていく。そしてこれ らの無痛化装置が集結し構造化するときに、無痛文明という名の『文明』が立ち上がるのである」

そのような未来の全地球的な姿の萌芽を、森岡はヨーロッパで開発された「ビオトープ」という自然管理の手法に見ている。

それは氾濫を繰りかえす河川を改修しコントロールしながら、その流域に元の自然の姿に近い動植物の環境をつくりだし、人間の手が入った痕跡を消してしま う。「人間が設定した大枠に収まるかぎりにおいて、予期に反してもよい自由が与えられる」エコロジカルな文明。つまり全地球の動物園化、植物園化、水族館 化。

森岡の言うとおりだとすれば、僕たちの身の回りにあるものは、都市のさまざまな施設、学校も病院も、テレビや新聞も、映画や音楽も、身の回りの自然環境 も、いや恋人や家族や友人すらも、ほとんどすべてが「無痛化装置」として働いていることになる。そもそも僕たちの誰もが「身体の欲望」に突き動かされてい るのだから、その限りにおいて、出口はない。

では、どうしたらいいのか。実は僕の異和感は、このあたりから生じてくる。

森岡によれば、人間には「身体の欲望」があると同時に、「身体の欲望」が求める快の枠組みを超え出ようとする「生命の欲望」がある。「生命の欲望」と は、「苦しみを前向きにくぐり抜けることを通して、いまの自分の枠組みを解体し、所有物を捨て去る方向へと自己を変容してゆこうとする」欲望である。その ような変容と再生の果てに、自分が生まれ変わったという「生命のよろこび」がおとずれる。

しかし、痛みを避け快を求める無痛文明の世界では、「身体の欲望」が「生命の欲望」を抑え、社会の隅々に「生命のよろこび」を奪いとる仕組みが張りめぐ らされている。だから「身体の欲望」は「生命の欲望」へと解体され、「転撤(てんてつ)」されなければならない。「われわれの内部にある身体の欲望と戦う ためには、身体の欲望が進もうとする方向とは、ちょうど正反対の方向へとみずからを突き進めなければならない」のだ。

この「自己解体」「変容」「再生」のプロセスを、森岡はまた別の角度から、アイデンティティーという言葉を使って説明している。

無痛文明の「目隠し構造」にからめとられたわれわれのアイデンティティーは「表層アイデンティティー」というべきものだが、その内側には、本当の自分は そのようなものではないという「深層アイデンティティー」が隠れている。しかし「深層アイデンティティー」による自己イメージもしばしば嘘をつくのであ り、それもまた「私が私であるための中心軸」に沿って解体されなければならない。

「私が私であるための中心軸」とは、「この私が死ぬその最後のぎりぎりのときに、『私は生きてきてよかった、なぜなら私はこの一点において、自分に誠実 に生きてきたからだ』と自分に向かって心底言えて、自分の人生全体を深く肯定できるところの、その一点のことである」。そのように「中心軸」を求める自己 解体は、「ひとりで生き切り、ひとりで死んでゆく」という「絶対孤独」のなかでなされなければならない。

長々と引用したのは、森岡の文体がどのようなものであるかを紹介したかったからでもある。彼はこの本について、「宗教の道を通らない宗教哲学を書いてい るのかもしれない」と述べているけれど、たしかにこの本全体が、扱っているテーマだけでなく、文体からもある種の宗教的な匂いが感じられる(森岡は宗教家 ではなく、生命学、生命科学の研究者だが)。

僕がこの本に感じた異和のひとつは、そのような文体にある。ときに「戦士たちよ、身体の欲望渦巻く都市の中心部へと向かうのだ」といったアジテーションも含まれる彼の文章の、その匂いに僕の心はちっとも反応を示さなかった。

それは僕があまりに深く無痛文明に侵されてしまったためか、あるいはかつて別種のアジテーションに反応した経験から、いかなるものであれアジテーションに本能的に身構えるくせがついてしまったためか。

さらにまた僕の感ずる異和は、森岡の思考そのものからも生じている。「解体」「転撤」「再生」といい、あるいは「表層」「深層」「中心軸」といい、いず れも現象から本質へ、表層から深層へ、さらにその奥へと、思考がひたすら一方向に抽象化してゆく。表層あるいは現象(つまり無痛文明にさらされている僕た ちの日常)は、その「中心軸」に照らされてのみ、「解体」され「転撤」されるべきものとして意味をもつ。

そのように思考が一方向に抽象化してゆき、議論が現実に着地せずに観念のなかで完結してしまうとき、なにか豊かなものが抜け落ちてしまうような気がするのは僕だけだろうか。

例えば森岡は「無痛化装置」のひとつとして映画や音楽(娯楽産業)を挙げ、それに対して無痛文明と戦う「戦士」はどのような戦略を取るべきかを論じている。

「無痛化装置の内部に入り込んで、そこに時限爆弾を仕掛けてくるというやり方がある。……娯楽産業を消費する人々が、ふと気がついたら自分自身の頭で悔い なき自分の人生のことについて考えはじめていたという結末になるような仕組みを、娯楽産業の装置や作品の中に埋め込んでおくのである。いわば娯楽産業の非 娯楽化という爆弾を、みずから制作者となって次々と埋め込んでおくのである」

森岡が考える「非娯楽化」、「無痛文明と戦う映画」とは「私が私である中心軸」をめぐる映画、乱暴な言い方をすれば岩波ホールで上映しているような映画 のことだろうか。僕も時に岩波ホールに出かけるし、「悔いなき自分の人生」について考えさせられる映画が嫌いではないけれど、それは映画が本来もっている 豊饒さのほんの一部にすぎない。

例えば僕がこの1年でいちばん興奮した映画は「インファナル・アフェア」という香港ノワールだけれど、こんなギャング映画は、生の痛みや苦しみから僕たちの目をそらさせる「目隠し構造」の最たるものということになるのだろうか。

この本の中心テーマからはずれた些細な議論かもしれない。揚げ足取りかなとも思う。でも、そういう些細なところにこそ、著者の発想の根は表れる。「私が 私である中心軸」といった抽象的な「本質」から、現実のさまざまな「こと」や「もの」を裁断しようとするとき、無数の小さなもの、余計なもの、しかし豊か であるものが排除され、その結果あらわれるのは、『1984』的な貧しい世界かもしれないのだ。

現象から本質へ、表層から中心へ、という一方向の思考は、どこかで貧しさを孕む。それは僕の根拠のない確信に近い。

養老孟司ふうに言えば、脳内世界が脳内で完結してしまうとき、僕たちは現実とも、他者とも触れあうことができない。森岡の考える無痛文明との戦いが脳内 世界のユートピア、しかもみずから苦を求める求道者のユートピアのように見えてしまうのは、こちらが無痛文明の快に頭の先までひたっているせいだろうか。

森岡の無痛文明論が、この時代の、全地球的に進行しているある側面を、誰もがやらなかったやり方で切り取り、拡大して見せてくれたことは確かだ。

僕たちは日々、快を引き起こす無数の装置にかこまれて生活している。でもそれらの快を「解体」したり「転撤」したりするのでなく、その豊かさも貧しさも 含めありのままに受け取ること、そして無痛文明論という視点を引き受けながら、しかも快をむさぼりつづけるという「欺瞞的な」姿勢しか、僕には取るべき態 度が思い浮かばない。(雄)

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