「旧石器時代の型式学」竹岡俊樹
捏
造事件を許してきた日本考古学界の考え方はある原則に囚われてきた。「層位(地層)は型式に優先する」というものだ。それは出土した地層の年代によっての
み、その石器の時代を決定出来るという考え方だ。その原則の提唱者である米国のH.L.モヴィウス氏の言いたかった本来の意味は「いかにも、古そうな石器
が発見されても、埋まっていた地層がはっきりしていなくては年代は特定出来ない」ということであった。
しかし、「古い地層から発見された石器は古い石器である」という論理的飛躍をフレームワークが東北大学の芹沢長介氏とその弟子たちによって提唱され、藤
村の捏造の恒常化を許容していったとともに、芹沢を中心とする学派のいう「前・中期旧石器時代の存在」という論を補強していった。不幸なことは、その間、
藤村の石器発見に疑問を示したある学者は考古学界を追われたといわれているし、1980年代から発表されてきた、竹岡の石器分析や型式学の必要性は学界で
受け入れられることはなかったことである。
1981年の第二次・座散乱木遺跡発掘での捏造開始以降、マスコミも地方自治体も旧石器時代が遡る遺跡発見のたびに沸いたのは事実であるし、専門家も結
果的に藤村の発見を事実として受け入れていった。捏造問題発覚とともに、一連の混乱の中で問われているのは科学として旧石器時代とその文化の解明である
が、その一翼を担うのが石器の科学的分析法であり、石器文化を再構築して遺跡間の関係を提示するという型式学の提唱である。竹岡は本書を自著三部作の最後
といっている。
石器の分析については、その技術的裏付と各遺跡における石器の作成手順・構造を示している。その考察は28カ所以上の遺跡に及ぶ。門外漢の私にはとても
全て理解できるわけではないが、少なくとも分析手法と論理展開は精緻であり隙はない。情念の部分はそぎ落とされているだけに、逆に文化を想うロマンは駆り
立てられる。それは理論物理学の成果が果てしない宇宙に夢を馳せさせるのにも似ている。
「私たちが詳細な技術論を必要とするのは、石器から把握することが出来る製作者に関わる唯一の情報が製作技術であるからで、それこそが私たちが確実に知ることができる旧石器時代の文化なのである・・・・・」
このような、技術論から文化を考えていく新しい構成化は確実に進んでいる様に思える。
本書最終章において日本の旧石器時代研究における過去の主要な論文について竹岡は言及し、評価している。
「・・・論理的でなく、推定に推定を重ねるという形で、またその有効性も定かでない「思想」や「理論」に寄りかかって論が進んでいき、その作業はしばしば極めて恣意的である。その結果として検証のしようもない結論に導かれる。・・・・」
学術論文としては表現として過激すぎるきらいもあるが、1960年代後半の調査に端を発した層位学的な編年研究と遺跡構造論とよばれる研究についての反論である。
このように、本書は日本考古学界の既存権威に対する挑戦であるが、異論・反論が起こることも期待したい。そうした、議論こそが崩壊した旧石器時代の再構
築につながるし、その議論が当学界の持つ歴史的因縁や学閥からだけではなく、科学的・実証的なものであることを祈らずにいられない。
私が持っている縄文時代の5センチほどの石英岩系統の石器を手の平に乗せていると技術論としての剥離面とか剥片剥離角そして特徴の分類にも興味は湧く
が、このやじりをコツコツと叩きながら作っている縄文人の姿を思うと技術論を超えた歴史のロマンも感じるのは事実である。技術とロマンを結ぶものこそ竹岡
のいう文化なのだろう。(正)
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