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2008年11月12日 (水)

「ブラッサイ パリの越境者」 今橋映子

Bura 今橋映子著
白水社(410p)2007.03.15

4,725円

写真家のブラッサイといえば、1930年代パリの夜景や夜の街にうごめく人々を撮った『夜のパリ』(1933)があまりにも有名だ。もっとも、戦前に少部数で出版されたこの写真集を日本で見る機会はなかなかなかった。戦後の1970年代になって、『夜のパリ』に収められた作品を含めて 「パリ写真」を再構成し、さらにブラッサイ自身の文章を加えた『未知のパリ、深夜のパリ』(1976)が刊行、翻訳されている。

僕自身もこの版でブラッサイの作品をはじめて見て、それ以来、折りに触れページを開く愛読書になった。『夜のパリ』を見たのは、みすず書房から復刻翻訳版が出版された1980年代のこと。

ともかくこの2冊の写真集に収められた夜のパリの魅惑的なことといったらない。カフェでたわむれる恋人たち。ダンスホールの女たち。客を待って街角にたた ずむ娼婦たち。闇のなかに光る公衆便所の広告塔。なかでも、クリスマスツリーみたいにネックレスや指輪を何重にも身にまとい、濃い白塗りの化粧でひとり酒 場に座る「宝石の女」のポートレートは忘れがたい。

……といった感じで、「古き良き時代を記録した写真家」というのが、この国のブラッサイ理解の典型であり、定型でもあるだろう。僕自身もそうだった。

本書『ブラッサイ パリの越境者』は、そんなパターン化したブラッサイ像に対して、それではブラッサイの全体像はつかめない、ブラッサイが活動したジャンルも、その精神も、もっと多岐にわたり複雑なのだと言っている。

確かに僕自身も2005年に東京都写真美術館で大規模なブラッサイ展を見たとき、「パリ写真」にとどまらず壁の落書きを撮ったシリーズ、写真を加工した版 画、デッサン、彫刻など多彩な作品群に驚いた記憶がある。それに『語るピカソ』『作家の誕生 ヘンリー・ミラー』といった、ブラッサイの文章中心の単行本 も次々に翻訳されている。ブラッサイの全体像がようやく日本でも知られてきたこの時期に、だからこれは出るべくして出た本だといえるだろう。

サブタイトルに「パリの越境者」とあるように、今橋はブラッサイの多様さ・複雑さを「越境者」という言葉で言いあらわしている。それは彼自身が多彩なジャ ンルで活動した事実に限ったことではなく、そもそもブラッサイ自身が文字通りの越境者だったという意味でもある。

ブラッサイ(本名ジュラ・ハラース)は東欧のトランシルヴァニア(現・ルーマニア)を故郷とし、ハンガリー語を話すマジャール人(ハンガリー人)だった。

1919年、ロシア革命を受けて成立したハンガリーの社会主義政権が崩壊し、ファシスト政権が生まれるなかで、「1900年世代」と呼ばれる多くのハンガリーの若者たちがベルリンやパリに亡命した。

作曲家のバルトークやコダーイ、文学者のアーサー・ケストラー、哲学者のルカーチ、そして写真家ではアンドレ・ケルテス、ロバート・キャパ、モホイ=ナ ジ、ムンカーチ、そしてブラッサイ……この時代のヨーロッパ文化をになったきら星のような名前が「1900年世代」には並んでいる。

ベルリンを経由してパリに到着したブラッサイは、雑誌に写真を載せるフォト・ジャーナリストとして活動をはじめた。写真家として名をなしてからは、ドイツ 語、フランス語に加えて英語を習得して、ピカソやヘンリー・ミラーらとの対話を素材に、次々に著作を世に問うた。

「ブラッサイは越境者である──中央ヨーロッパからパリへという地域的亡命者。上流社会からどん底まで社会的に渉猟するジャーナリスト。そして写真/彫刻/デッサン/版画/映画/バレエ/文学、と多領域を跨ぐアーティスト」

「彼は、二十世紀パリのフォトジャーナリズムという仕事環境、あるいはドイツ占領下という時代環境、そして何よりも卓越した技量をもつ友人アーティストたちの中でこそ生きた存在なのである」

そんなふうに多ジャンルを横断したブラッサイの仕事を、今橋は18枚のイメージ(必ずしも写真のみではない)を18の章扉に配して、「昼のパリ」写真から彫刻、版画、落書きにいたるまでの作品を論じている。

なかで興味深いのは、ナチス占領時代のブラッサイら写真家の生き方を扱った「割れた鏡」の章だった。

1944年、ナチスがパリを占領する2日前に、ブラッサイは南仏へ脱出したが、4カ月後、残したネガを守るためにひとりでパリへ戻る。ブラッサイはナチス 占領軍から「撮影許可の申請を促されたが、これを拒否したため、事実上、撮影も出版も一切不可能になった」という。

ナチスに協力しない姿勢は、パリにいたほかの写真家も同様だった。フランス人のカルティエ=ブレッソンはドイツ軍の捕虜になり、ロベール・ドアノーは地方 で逃亡生活を送っていた。ポーランド人のクルルはドゴールと行動を共にし、ハンガリー人のケルテスとアメリカ人のマン・レイはアメリカに出国、リトアニア 出身のユダヤ人写真家イジスはドイツ軍に逮捕された。

「(ナチスによるパリ占領)以前にパリで活躍していた有能な写真家たちは、見事に誰一人、ナチスおよびヴィシー政府の仕事に協力するものはいなかった」のだ。

もちろんこれは美しい「抵抗」というより、ユダヤ人を含めて「越境者」が多かったパリの写真家たちが「生か死かの選択の中でその人生と仕事において否応なく下した決断であった」と今橋は言う。

それに加えて、フランスのメディア状況もあった。「両大戦間フランスにおける写真家たちが、極度に美的なシュルレアリスム写真か報道写真に集中したため、 元来、同時代ドイツのような、革命的告発の道具として活用するアヴァンギャルドな造り手が存在しなかったことにも気づく。つまり良くも悪くも、両大戦間フ ランスの写真界は、政治と直接結びつくメディアではなかったのである」。

この時期、日本の写真界でも同時代の先端的な写真表現に敏感な写真家が次々に生まれていた。ドイツからフォトジャーナリズムの方法を持ちかえった名取洋之 助、小型カメラによるスナップショットを自分のスタイルとした木村伊兵衛、その木村と雑誌『LIFE』への写真掲載を競った土門拳。

彼らは、まず日本の姿を外国に紹介する文化的宣伝写真の撮り手として、やがて戦争が始まると国策的宣伝写真の撮り手として、デザイナーの原弘や亀倉雄策ら とともに、当時の世界水準を見据えた、その意味では見事なできばえの国策雑誌をつくりだして戦争に協力していくことになった。

そうした日本の写真家たちと、ナチスに協力しなかったパリの写真家たちを単純に比較して、あっちは良くてこっちは悪いといっても、戦争直後ならともかく、それから半世紀以上たった今ではほとんど意味がない。

でも、日本の有能な写真家たちがなぜ戦争に協力することになってしまったのか。

善悪の判断はさておいて、この国の写真文化の受容の仕方や、デザインをはじめとする他ジャンルとの関係、メディア状況など、細かくいろんな視点から分析す ることが必要だろう。「戦後が終われば戦前だ」と言ったのは竹内好だけど、「戦後レジームからの脱出」が声高に語られる時代だからこそ、それは過去の問題 ではありえない。

そのことを考えるツールのひとつとして、今橋が提出した「越境性」(身体的な意味でも文化的な意味でも)という考えが参考になるのではないかと思った。(雄)

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