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2008年11月 4日 (火)

「司馬遼太郎が考えたこと1」 司馬遼太郎

Shiba 司馬遼太郎著
新潮社(400p)2001.9.25

1890円

司馬遼太郎のエッセー1100本余りを集大成した「司馬遼太郎が考えたこと」全15巻が完結した。なかでいちばん面白かったのは、なんといっても第1巻だ。なぜか。ここには1953年から1961年までの8年間に発表された87編が収められている。その8年とは、司馬遼太郎の筆名を用いる以前に本名で書かれた新聞記者時代のものから、「梟の城」で直木賞を受賞する前後までに当たる。

司馬遼太郎のエッセーのうち主要なものは、当然のことながら生前に単行本化されている。この15巻のシリーズは、単行本に収録されていないエッセーのほとんどを集めているが、なかでも第1巻は87編のうち実に65編が未収録だ。

単行本未収録とは、自らが書いたものではあっても、作家自身がそれを自分の作品として後世に残すことをよしとしなかったことを意味する。むろん版元の事 情や出版情勢もあるけれど、司馬遼太郎の場合、望めばどのようなかたちであれ出版できたに違いないから、やはり作家が意識的に選んだ結果と考えてよいだろ う。

司馬遼太郎は、作家としての出発の前後に書いたもののうち後世になにを選び、なにを選ばなかったのか。選ばなかったものには、なにが書かれているのか。 そこには、司馬遼太郎という作家を考えるについて、ファンの興味以上のものがあるのではないか。その意味で、職業的な作家として出発する以前に書かれた初 期短編集「ペルシャの幻術師」(文春文庫)と対をなすものといえる。

僕のみるところ、この巻に収められていて後の司馬遼太郎にないものが大別して三つある。「食」と「大阪」と「青春」だ。

司馬遼太郎は、食に関するエッセーをいっさい書かなかった。食に触れるとしても、それは文化人類学的な興味からで、グルメとか食通といった雰囲気をかもしだす文章を意識的に避けていたことははっきりしている。

本人も子供のころから「食痴」だったと書いているが、食に興味がなかったという以上に、作家としての構えにかかわることとして食のエッセーを書かなかっ たのだと思う。司馬遼太郎の小説やエッセーからは常に「志」の香りが立ちのぼることと、それは無関係ではないだろう。

この巻には、例外的に食に触れたエッセーが2本、収められている。といっても、タイトルからして「魚ぎらい」「山賊料理」と、いわゆる食のエッセーの常 道からは遠い。いずれも直木賞受賞前後のもので、なんらかのしがらみで断りきれなかったのだろう。そのなかで、僕は次のような描写に惹かれた。

「私は生まれついての魚嫌いで、料理屋で出される純日本式の料理などはまったく手がつかないし、タイの焼死体などをみると、もうそれだけで胸がわるくなるのである」(「魚ぎらい」)

「皿の上の魚の死ガイは、生前そのもののカタチをとどめている。その死ガイをハシで毀損し、皮をはぎ、骨を露出させてゆく作業を、もし私の隣席の女性がやっているとしたら、彼女が美人であればあるほど、ぶきみな夜叉にみえてくる」(「山賊料理」)

魚ぎらいの日本人はいくらもいるだろうけれど、焼き魚を「焼死体」とか「死ガイをハシで毀損し、皮をはぎ」という目で見ている人間はそうたくさんはいま い。日本と日本人の文化にくるまれて育てば、いくら魚ぎらいといっても、そのような感性が育つことは稀なはずだ。

その稀な感性が、ここでは表れている。僕たちが常識にとらわれて見ているものごとを、異文化の目で、あるいは異なる時代の目で相対化し、人間という生き もののふるまいの面白み、おかしみを伝えるのが、司馬遼太郎のエッセーに共通する視線だと思う。「魚ぎらい」は本名で発表されたものだが、この視線は既に 司馬遼太郎のそれだ。

ところで僕は司馬遼太郎のエッセーで大阪に触れたものが少ないのを不思議に思っていた(小説はある)。司馬は大阪に生まれ、育ち、名をなしてからも大阪 を愛して住みつづけた作家なのだから。その疑問が、この本を読んで解けた。彼はこの時代に大阪と大阪人を司馬流に書きつくしていたのだ。なかで「風狂ぜん ざい」というタイトルで週刊誌に連載された連作は、田辺聖子や藤本義一も真っ青の“大阪モノ”である。

船場で足袋企業が不渡りを出した瞬間、近くに集まった100人ほどの債権者が社屋に侵入し、あっという間に在庫品から応接間のじゅうたんまで持ち去って しまう「丼池の鳥葬」。横山大観のニセ者として田舎回りをし、ささやかな画料を得て「大観業ひとすじでこどもを三人も東京の大学を卒業させた」人物を主題 とした「大観屋さん」。

いずれも、大阪と大阪人を描いて温かく、しかも自慢にも自虐にもならずに笑いを取る。作家に失礼な言い方ながら、うまい、と思わせる。古い読者なら雑誌 掲載時に読んだ記憶もあろうが、せいぜい「坂の上の雲」連載時からの読者である僕には、司馬遼太郎はこんなものも書いていたのか、と驚きだった。

それだけに、なぜ司馬はこれを単行本にしなかったのか、自分の作品として残そうとはしなかったのかという疑問は残る。生活人として大阪を愛する自分と、 やがて「竜馬がゆく」から「坂の上の雲」へと至る、地域性にとらわれない作家としてのフィールドとを峻別しようとしたのか。あるいは読む者に、うまいと感 じさせる筆の遊びを、よしとしなかったのか。そのあたりはよく分からない。

「大阪」とともに司馬遼太郎が選ばなかった素材は「青春」である。ここに残された「青春」と「ペルシャの幻術師」などの初期短編を併せ読むと、司馬遼太郎の青春の風景がぼんやりと浮かび上がってくる。

生前、単行本に収録された、ということは彼自身が選んだ、作家の若き日の原点に触れたエッセーが二つある。

ひとつは、この本にも収められた「一枚の古銭」で、学徒出陣で行った旧満州の荒野で蒙古文字の書かれた古銭をひろい、「私の生命が戦いの後にまで生き続 けられるならば、彼らの滅亡の一つ一つの主題を私なりのロマンの形で表現していきたいと、体のふるえるような思いで臍を決めた」体験。

いまひとつは「戦車、この憂鬱な乗物」で、自国民である自分たちをブリキ板のようにちゃちな戦車に乗せて戦場に放り出す、この日本という国はなんなのか と問いかけた戦争体験。特に後者は極めつきの名エッセーで、これらが言葉は悪いが司馬遼太郎公認の「青春」だとすれば、ここにはもう少し別の青春の顔があ る。

例えば「車中の女性」は、司馬遼太郎の初恋ともいえない淡い恋をスケッチしたもの。内気な青年の、誰にも覚えのあるためらいの感情をさらりと描いて、この巨大な作家にもこんな当たり前(?)の体験があったのかと、微笑ましい気持ちにさせられる。

また「わが愛する大阪野郎たち」や「あるサラリーマン記者」では、戦場から帰った司馬の彷徨と新聞記者時代が明らかにされる。その後の司馬遼太郎のイ メージからは想像しにくいが、戦後の混乱のなかをアプレゲールとして精神の荒野をさまよっていた姿がユーモラスに、ということは過去の自分が突きはなした 目で描かれている。

司馬遼太郎は、近代小説が「私」の内面を描くものとすれば自分のなかには描くに値する「私」を認めない、と書いている。確かに「燃えよ剣」以後の小説 に、ロマンに昇華した作家の思いの核は感じられても、いわゆる「私」性は感じられない。主人公や他の人物に「私」の内面が仮託されていると感ずることはほ とんどない。

それが司馬小説の特徴なのだと思うが、初期の幻想的な短編や「梟の城」までの忍者小説の背後には、文学的な常識に沿ったかたちでの「私」性がひそんでいることを、これらのエッセーを読んではじめて理解できた。

「実力はあっても、その社の秩序のよき部品となりえない記者は、無用の長物という時代なのだ。……スジメ卑しき野武士あがりの悲しさ、どうも無意味な叛骨 がもたげてくる。そいつを抑えるのに苦しみ、苦しんだあげく、宮仕えとは、サラリーマンとは一体何であろうかと考えることが多くなった」(「あるサラリー マン記者」)。

新聞記者としての会社勤めの体験を語ったこれは、ほとんど「梟の城」のテーマではないか。

「彼ら(忍者)は技術を金穀に代えるだけの関係で諸国の武将の用をつとめ、用がすむとその武将の敵国にさえやとわれた。封建的な武家のモラルからみれば、 まことに、人間の皮をかぶった獣類のようにみえたろうと思う。……彼らのモラルの中心は、自分の職能であり、やとい主との契約であった」(「忍術使 い」)。

ここからは、戦場から生還し、生活のために新聞社を転々としながら、職能への自負を持ちつつ、しかし精神の空白に苦しむ戦後の司馬遼太郎の姿が浮かんで くる。そんなアプレゲールの像に、その後の彼が触れることはなかったし、単行本に収録することもなかった。それは隠したということではなく、「私」の内面 に書くべき価値を認めないという文学的な覚悟からごく自然に導かれた結論だろう。

「新聞社は、きょうの『現実』を切りとっては販売している。その仕事に従事していた私は、夜、帰宅して小説に思いをひそめようとするとき、すでに『現実』 に倦いていた。……ひる間の仕事から断絶するためにも、私の夜の想念は、現実から抜け出して、古代地図の上を歩かねばならなかった」(「『豚と薔薇』あと がき」)。

「古代地図の上」とは、西域を舞台にした「ペルシャの幻術師」にはじまる幻想的な短編群のことを指す。そのなかに、登場人物に仮託したこんな一節がある。「戦場での体験は、彼を一人の夢想家に変えた。いや正しくは、歴史という死者の国の旅人にかえた」。

このようにして、作家・司馬遼太郎が生まれた。しかし司馬遼太郎は、子どもが大人になるように自然に育って大きな作家となったのではなく、ある強い決意のもとでの取捨選択をへて、意思的に構築された存在として成立したのだと思える。(雄)

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