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2009年3月10日 (火)

「楽園の歳月 宮迫千鶴遺稿集」宮迫千鶴

Rakuen 宮迫千鶴著
清流出版(
144p2009.01.19
2,940

画家・エッセイストである宮迫千鶴さんから最後のメールが届いたのは一昨年9月、彼女の早すぎる死の9カ月前だった。メールには「まだ、日本は暑さと闘ってます」と題名がついている。その1カ月前、会社を定年退職した僕はニューヨークに行ってアパートを借り、1年間滞在する予定で「不良老年のNY独り暮らし」なるブログを始めていた。メールは、それへの感想めいたものになっている。

「快調ですね。ソニー・ロリンズのところ、最後がなんだかよかった。

肥満度やエスニック度のウォッチングも笑えます。

ところで、へへへ、山ちゃんの不良老人ぶりの鮮やかさについて、エッセイを一本、書きました。
もちろん、名前は書いてませんよ。
ある種のラブレターです。
いま書き下ろしている本の中の一本。
同世代の男性編集者、それを読んで(多分)嫉妬してるみたい、よ。
楽しみにしていてください。

谷川は元気で猫たちの『ニャンニャン シティマラソン』の絵本を描いています」

このメールをもらって半年後、日本にいるカミさんと電話で話しているとき、気になることを聞いた。カミさんは、宮迫さんと、宮迫さんのパートナーである画家の谷川晃一さんが中心になっている「伊豆高原アート・フェスティバル」に出かけたのだが、会場のひとつになっている谷川・宮迫家に行ったところ、「家人の介護のため今年はお休みします」と張り紙があったという。

谷川さんは、その前年に体調を崩して入院したと聞いていた。だから谷川さんに失礼ながら、また体調を崩したのかもしれない、宮迫さんも心配してるだろうな、と思いこんでしまった。

カミさんとそんな話をした2カ月後、ニューヨークが真夏の暑さになったころに、その谷川さんからメールが来た。谷川さんと会って話すことはあってもメールのやりとりをしたことはない。珍しいなと思って開くと、中身は想像もしなかった、宮迫さんが亡くなったという知らせだった。

え? まさか? 元気そのものだった宮迫さんがなぜ? どうにも信じられず、14階にあるアパートの窓から暗くなったブルックリンの街と空を呆然と眺めていた。しばらくして、あの張り紙は宮迫さんのことだったんだ、と気づいた。

僕が宮迫さんと初めて会ったのは25年前のことになる。雑誌編集者として、ある原稿を頼んだのがきっかけだった。

自由が丘の喫茶店で会った彼女は、ゆるやかにウェーブした長い髪と大きな目、明るい色のワンピースが印象的な女性で、用件が終わった後、あれこれ話し込んで気がつけば2時間以上たっていたのを覚えている。同い年(1947年生まれ)であることを知り、団塊などと呼ばれながら40代も半ばにさしかかった者同士として、同じような問題意識を抱えていることが分かって嬉しかった。

以来、個展のオープニングに出かけたり、伊豆に移り住んだ夫妻を訪ねたり、メールのやりとりをしたり、年に1、2度のたまの遭遇を楽しみにしていた。

宮迫さんと話していると、いつも自分のなかにある分析的な「男性原理」や「近代合理主義」に気づかされる。

出会ったころは男社会の鋭い批判者であり、伊豆に移り住んでからは書くものも絵も自然の摂理に従うようにゆったり変わっていったけれど、いつ会っても彼女は こちらの硬直した精神を映し出す鏡のような存在だった。時にスピリチュアルな領域にまで踏み込む勇気をもった彼女に全面的には同意できないこともあったけれど、そんな時でも笑って受け入れてくれた。

この本には2008年6月19日、腹部リンパ腫のため60歳で亡くなった彼女の早すぎる晩年のエッセイと絵画が集められている。

伊豆の穏やかで美しい雑木林の話。アトリエの庭につくった畑の話。近所の仲間とブルース・バンドを組んだ話。繰り返し訪れたお気に入りの町、サンタフェの話。そこで手に入れた「荒野の織物」インディアン・ラグなど雑貨の話。

そして、未発表のまま終わった童話のエチュードが3編。体調が急変し、入院・手術したことを知らせる担当編集者へのメールも収められている。

そのなかで、彼女はこんなふうに書いている。

「これから治療の日々が始まる。だが、さして憂鬱でもない。いつ人生が終わってもいいように生きて、人生の細部を楽しんでいこうと思うからだ。幸い、いま何を食べても美味しい。家族や友人とともに、美味しいテーブルを囲んで、そのことが最高の幸福であるように過ごそうと思う」

そんな宮迫さんの姿勢を表すように、ここに収められた絵画やイラストはどれも明るく伸びやかに、すべてを肯定して、彼女が好んだ黄色や草色やオレンジや深い青が、まるで逆光を浴びて7色に光る無数の水滴みたいに本いっぱいに散りばめられている。

彼女の死の知らせを受けて2カ月後、僕はサンタフェの町にいた。サンタフェはアメリカ・インディアン文化とメキシコ文化とアメリカ文化が入り混じった町で、宮迫さんは周囲に広がるニューメキシコの広大な砂漠とエスニックな町に魅せられてここを何度も訪れている。

僕も10年以上前に彼女からサンタフェの魅力を熱く聞かされ、いつか行ってみたいと思っていた。おまけにサンタフェの町の地図まで彼女からもらっていた。その願いが、彼女の死を知って間もなく実現したとは皮肉だった。彼女にそのことを報告できないのが辛い。

でも、サンタフェの町と砂漠のなかで宮迫さんのことを考えていると、不思議に悲しみは湧いてこなかった。

彼女はこの地の風景をこんなふうに描写している。

「唐突な隆起が続き、非情で武骨な極端な形を晒しながらそれでいて不思議に温かい『聖なる大地』、そして眺めているだけで人生を忘れてしまいそうなとりどりの雲、乾いた砂漠ならではの雨季の雨の一瞬の激しさ、そして天地を結んで輝く雷や、空が晴れたあとに希望のように出現する虹。/サンタフェの町はニューメキシコの荒野の中にできたオアシスのようなところがある」

ここへ来てみると、彼女の絵の色遣いや、「人生の細部を楽しもう」と書く彼女の心のありようがすとんと腑に落ちる。宮迫さんが描写する砂漠の稲妻や、遠く雨が降っている地域にかかる黒雲や、一転して青空のなかに沸き、一瞬も留まることなく動いてゆく白い雲を見ていると、宮迫さんがもうこの地上に存在していないことさえも、ここに流れる時間のなかでは自然のこととして受け入れられるような気がした。

僕は宮迫さんから最後にもらったメールの更に1年前、会社を辞めたときにもらったメールの一節を思い出していた。

「とにかく遊ぶこと。
最近の私はそればっかり。

……
なんでも遊びだと思うと楽しくて。

では、新しい日々に乾杯!」

ありがとう、宮迫さん。(雄)

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