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2009年9月 4日 (金)

「ノモンハン戦争」田中克彦

Nomonhan 田中克彦
岩波新書
248p2008.06.19
819
 

 「ノモンハン戦争」というのは、僕らが普段「ノモンハン事件」と呼出来事を指している。 1939年夏、満洲国とモンゴル人民共和国の国境地帯で日本軍とソ連軍が4カ月にわたって激突し、それぞれに2万人前後の死者・行方不明者を出した。 この出来事はロシア(ソ連)側では「ハルハ河の勝利」とか「ハルハ河の会戦」と呼ばれている。大量の戦車と航空機が出動し、両軍で4の死者・行方不明者を出した長期の戦闘は「事件」や「会戦」というより「戦争」と呼ぶにふさわしいけれど、日本もロシアもそう呼ばないのは宣戦布告なしに戦われた「非公式」の戦争だからだ。

ところで、これを「ノモンハン戦争」と呼んのはモンゴルの軍人だった。著者はそれに従って「戦争」としたのだが、「モンゴルと満洲国」とサブタイトルの打たれたこの本は、モンゴルと満洲両国に居住していたモンゴル人の視点から、彼らにとってこの戦争は何だったのかを描いている。

従来、日本でノモンハンが話題にされるときは、戦闘がどう推移したかとか、こうすれば勝てたのではないかとか、戦史的な興味で言及されることが多かった。そこには興味がないという著者は、ソ連崩壊後のロシアとモンゴルで明らかになった事実をもとに、「どうすればあのような戦争にならずにすんだか」を考えたいという。

戦争の発端となったノモンハン国境地帯での小競り合いは、モンゴル人民共和国軍と満洲国警備軍によるものだった。モンゴル軍はモンゴル族の中心をなすハルハ族からなり、満洲国警備軍はモンゴル族の支族であるバルガ族とダグール族からなっていた。モンゴル族同士の戦闘だったわけだ。

当時、モンゴル人民共和国はソ連の傀儡(かいらい)国家、満洲国は日本の傀儡国家だったから戦闘が激しくなるとソ連軍と日本軍(関東軍)が前面に出ることになり、関東軍の国境越えの攻撃もあって小競り合いが本格的な戦争へと発展していった

このとき満洲国警備軍となっていたバルガ族はブリヤート系に属し、もともと帝政ロシア領内に住むモンゴル族の一派だった。彼らは早くからロシア文明の影響を受け、近代的な民族解放思想をもった知識人も多かったという。バルガ族はロシアのシベリア進出に押されて南下し、20世紀に入ってロシア革命が起きると、白系ロシア人・ユダヤ人とともに革命逃れ満洲国に移動してきた。

満洲国興安北省司令官のウルジン将軍もそんな一人で、だからソ連側から見れば満州国とモンゴルのブリヤート人は反ソ、汎モンゴル活動の拠点なのだった。一方、モンゴル族にとって遊牧地に侵入して農耕を営む漢族はロシアよりさらに大きな敵だったから、バルガ族は反ソだけでなく反漢独立運動の拠点でもあった。

ノモンハンで満洲国軍と衝突したモンゴル軍の中核になったハルハ族はモンゴル一帯に暮らしている。やはり反漢の機運が高かったハルハ族は革命ロシアの援助を得てハルハ・モンゴル国をつくり漢民族からの独立を達成した(やがて人民共和国としてソビエト化を強制され、大粛清が行われるのだが)。

内外モンゴルから満洲に住むモンゴル諸族は当時こんなふうに中国、ソ連、日本に分断され、反漢、反ソ、反日の動きを混在させながら、一方でソ連や日本(満洲国)を利用してモンゴル族の統一を実現しようとする汎モンゴル運動盛んという、きわめて複雑な状況にあった。

ノモンハン戦争に先立つ1935年、満洲国とモンゴル人民共和国の間で外交関係の樹立や国境線画定などを議題とするマンチューリ会議が開かれた。モンゴル側からはサンボー総司令官副官らのモンゴル人が、満洲国側からはリンション興安北省省長、ウルジンらのモンゴル人が会議に臨んだ。ところが会議の後、彼らは関東軍とソ連によって次々に粛清されていく。

満洲国側の首席代表リンションは「蒙古独立運動の陰謀」が発覚したとして関東軍によって逮捕・拷問され、軍法会議で死刑になった

一方、モンゴル側首席代表のサンボーは日本のスパイとして処刑される。そればかりでなく、モンゴル人民革命党の最高指導者・ダンバドルジが追放され、モスクワに「病気入院」させられた後に急死する。続いて多数のモンゴル要人が国家反逆罪で摘発、処刑された。

田中克彦はこの一連の出来事について、「蒙古独立運動の陰謀」はでっちあげではなく、実際にあったのではないかと見ている。

「私 はノモンハン戦争に発展する一連の国境衝突は、満洲国とモンゴル人民共和国の間に分断されたモンゴル諸族が、統一を回復するための試みから発展したもので あろうと推定している。そしてかれらがマンチューリ会議という絶好のチャンスにたどりついたところで、今度はコミンテルンがそれを察知し、この動きを阻止 するために大胆な方策に出たものと考える」

日本とソ連が争ったノモンハンの国境線は、もともとバルガ族とハルハ族の部族間の境界で、近代国家のようにきっちりと線引きされたものではなかった。だからモンゴル族にとっては、ノモンハンの土地がどちらに属するかということは大した問題ではなかった。

「かれら双方は、何とかしてそれぞれの支配者、ソ連と日本の目をあざむいて、ハルハとバルガが手をつなぐ方途を考えていたと見ていい。/かれらは辛亥革命で清朝が倒れたのを機に、ともに1912年、 独立と統一を求めて立ち上がったのだが、その悲願はロシアと中国の介入ではばまれ、その後も未完の独立運動としてくすぶり続けることになった。/外モンゴ ル、すなわちハルハ族は、ソ連のかいらいになることによって、からくも中国からの分離を果たし、満洲のバルガ族は、満洲国というかたちで、おなじく中国か らの分離を実現したのである。……しかしかれらの理想はさらにその先にあった。何らかのチャンスをつかんで、ソ連を利用しながら、最終的にソ連のくびきからも離脱することであった」

ハルハ族が最終的にこの「ソ連のくびき」を脱して名実ともに独立を達成したのは70年後、ソ連崩壊によってだった。もっとも、その間の犠牲はあまりにも大きかった。ラマ教(チベット仏教)は弾圧され、寺廟の財産は没収され、農業は集団化された。ノモンハン戦争でのモンゴル人兵士の死者は270人だったが、スターリン時代の粛清で少なく見積もってもその100倍のモンゴル人が命を落としたという。

一方、満洲国ではバルガ族、ダグール族などの遊牧を保護し、伝統的な行政組織には手をつけず、興安省はウルジンを長とする独自の軍隊組織をもっていた。だからノモンハン戦争の時点でモンゴル人民共和国のモンゴル人から見れば、満洲国のモンゴル人は「まぶしいような自治を享受し、理想に近い生活を送っているように見えた」という。それが日本の敗戦とともにこの傀儡国家も消滅し、漢族(中華人民共和国)の支配に復することになったのは歴史の皮肉というべきか。

だから『ノモンハン戦争』は過去の歴史的出来事を検証するだけの本ではない。田中克彦が『ことばと国家』(岩波新書)以来もちつづけている、民族と国家についての極めて今日的な問題意識に貫かれている。ソ連崩壊後のロシア、ユーゴスラビアで火を噴き、最近はチベット、ウイグルでも燃え上がった民族のマグマが帝国的国家とどう渡りあってゆくのか。ハルハ族が70年かけて独立を達成したように、数十年、100年の時間のなかで見ていく視点も必要だと思った。(山)

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