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2009年11月 6日 (金)

「倒壊する巨塔(上・下)」ローレンス・ライト

Toukaiローレンス・ライト 著
白水社(上下各386p)2009.08.20
各2,520円

タイトルの「倒壊する巨塔」とは、ニューヨークの世界貿易センタービルを指す。「アルカイダと『9.11』への道」とサブタイトルを打たれたこの本は、2007年のピュリツァー賞を得た。僕の知る範囲で、この「世界が変わった日」と呼ばれる事件にいちばん詳細に、しかも深くまで切り込んだノンフィクションだと思う。雑誌「ニューヨーカー」のスタッフ・ライターである著者は、同時テロが起きた9月11日その日に編集部と構想を練りはじめ、何度かに分けて同誌に発表した後、06年に一冊の本として刊行した。その間、取材のために各国でインタビューした人の名前が巻末にリストアップされている。その数、実に557人。大半は「ジハードを唱える急進的イスラム主義者と、各国の諜報機関関係者」で、そもそも口を開かせることすらむずかしい相手ばかりだ。しかも、彼らが事実を語る保証はない。

そのためにライトはカイロに長期滞在し、サウジアラビアには地元新聞で記者の育成に当たる名目で就労ビザを取ってもぐりこみ、スーダンやパキスタンでも多くの協力者を得た。その上で、「相対立する、信憑性に欠ける」「数百の情報源をつねに相互チェックすることが必要であり、そのような行きつ戻りつの調査活動をつうじてこそ、おおよその真実(最も信頼性の高い事実)が発見できる」という作業を余儀なくされた。

ウサマ・ビンラディンをリーダーとするアルカイダがどのような土壌から生まれ、過激なイスラム原理主義集団として成長し、どんなふうにアメリカ攻撃を実行に移していったかを一方の軸に、CIAとFBIがともに早い時期からアルカイダを追い、協力したり対立したりしながら、結果としてなぜ同時テロを許してしまったのかをもう一方の軸にストーリーが展開される。

9.11を前に、ビンラディンはテロ実行者にビデオ・メッセージを届け、こう語ったという。

「『われわれにとって明らかになったこと、それは戦いを忌避し、われわれの多くの心を満たす現世のありようを愛することこそ、この惨めさ、この屈辱感、この侮辱の源泉であるのだと』
これらの言葉は、19人の若者の心に、深く深く届いた。多くのものが技術と才能を持ち、しかるべき教育を受け、西洋で快適な暮らしをしていた(注・彼らの多くはヨーロッパに住み、大学を出ていた)。それでもなお彼らはビンラディンが歌うように語ってきかせた恥の感覚といまだに共振する心を保っていたのだった」

ここに現れる「惨めさ」「屈辱感」「侮辱」といった「恥の感覚」こそがイスラム原理主義テロリストの心の底に共通してあるものだ、とライトは言い、その源をたどってみせる。イスラム原理主義がどのように生まれたかを歴史に追う上巻が、僕には知らなかったこともありいちばん興味深い。いま、アルカイダに象徴されるテロも厭わないイスラム原理主義は決して歴史的に古いものでなく、むしろ20世紀の新しい時代が生みだしたものだった。

「アルカイダという物語は、それほど遠くない過去に、事実上アメリカという土地で始まった」と著者は書く。アメリカで生まれたアルカイダの種はその後、エジプトとサウジアラビアの2国で成長していくことになる。

イスラム原理主義思想の源となったのはエジプトのイスラム学者サイイド・クトゥブで、彼は第二次大戦後のアメリカに学んでいた。クトゥブは貧困と圧政にあえぐ故国と対照的に繁栄するアメリカを憎み、こう書いている。「(イスラムの)子供たちの心に、憎しみと嫌悪と復讐のタネを播こうではないか。子供たちに、白人が人間性の敵であること、機会があればすぐさま白人を滅ぼすべきであることを教えこもうではないか」

エジプトへ戻ったクトゥブは、政教分離の世俗政権であるナセル体制を倒しイスラム神権政治を実現しようとするが失敗し、絞首刑に処される。しかし彼の死は逆にエジプトに無数の原理主義グループを生みだすきっかけになった。後にアルカイダのNo.2となるアイマン・ザワヒリのジハード団もそのひとつだった。

クトゥブの言説がイスラムの若者たちに熱狂的に受け入れられたのは、彼が批判したのがアメリカという一国でなく、ヨーロッパも含めた西洋近代というべきもので、ヨーロッパ列強の元植民地に育った彼らは近代化がもたらす陰の部分に日々晒されていたからだった。

「近代的な価値観──世俗主義、合理主義、民主主義、個性の尊重、個人主義、男女混雑、寛容、物質主義──が、西洋植民地主義の機関を通じてイスラムを汚染すること、それこそが彼(注・クトゥブ)の懸念だった。……クトゥブが構想したのは、近代社会のもたらす政治的・哲学的全構造を破壊し、イスラムをその汚染されていない原点へと回帰させることだった。……生活や法律や政府の中心にイスラムを復権させる。……それはイスラム教徒の義務、自分自身にたいするだけでなく、神に対する義務なのだ」

ジハード団をはじめエジプトのイスラム原理主義グループは、エジプト世俗政権転覆をかかげて、サダト暗殺などテロを激化させてゆく。その過程で、後にアルカイダに継承されるさまざまな要素が付け加えられていった。

例えば、キリスト教徒殺害は認められるというファトワー(教義判断)。信仰からはずれたムスリムを破門・殺害できるタクフィール(背教宣告)。自殺を禁じたムスリムのタブーを打ち破ることになった、自爆による殉教。

「純粋」な原点へ回帰しようとする原理主義の考え方は、歴史のなかでどの地域、どの宗教をとっても繰り返し出現してくる。それは、外部の強大な力に直面させられたとき、自分たちが慣れ親しんだ生活や文化が根こそぎ破壊される(された)という不安や屈辱を、宗教的ユートピア願望をテコに一気に逆転させようとする運動として生まれたものだろう。

20~21世紀の「原理主義」は、ひとくちにいって近代化という資本主義の高度化がもたらした生活スタイルや規範の激変に対する拒否反応として起こっている。それはイスラム原理主義に限らず、キリスト教右派もそうだし、テロやカミカゼの例に事欠かない戦前のこの国の国家神道だってそうかもしれない。

ところでイスラム原理主義が過激化したもうひとつの契機は、1967年、イスラエルがシナイ半島やゴラン高原を占領した「6日戦争」の屈辱だった。

「『6日戦争』は、現代中東史における心理的分岐点ともいえる“事件”だった。イスラエルの勝利があまりにも迅速かつ決定的だったため、神は自分たちの大義を支持してくれると信じきっていた多くのムスリムは、大いに自尊心を傷つけられた。……エジプトなどアラブ各国で、イスラム原理主義が強い訴求力を持つようになったのは、この衝撃的な完敗があったればこそだった」

さらに大きな衝撃がイスラム世界を襲った。ソ連のアフガニスタン侵攻だ。この事態に直面してパレスチナ出身のカリスマ的聖職者アブドゥッラー・アッザームは、イスラム教徒に向けソ連に対する聖戦(ジハード)を呼びかける。これに呼応したのがウサマ・ビンラディンだった。

サウジアラビア最大のゼネコン「サウジ・ビンラディン・グループ」の御曹司として生まれたウサマは、十代のころから宗教的に目覚めた青年だった。「ウサマが肉欲や金銭欲にとらわれたり、下品なふるまいをしたり、酒やたばこやギャンブルについ手を出したりなんてことはただの一度もなかったように思われる」という禁欲的な生活を送っていた。

そんなウサマがサウジを訪れたアッザームに出会い、アフガン・ジハードに身を捧げるようになってゆく。もっともこの時期のウサマはテロ組織のリーダーではなく、義勇兵を募り、訓練基地をつくる「アフガン・ジハード最大の資金提供者」と見られていた。

ウサマはパキスタンのペシャワールに義勇兵のためのキャンプを設置したが、この町では、医師でもあるザワヒリがエジプト国内の拠点をつぶされて出国し、アフガン難民のための病院で働いていた。2人はここで出会うことになる。

「ふたりは互いに相手方にないものを持っていた。ザワヒリは、ビンラディンのあふれんばかりのカネとコネを必要とした。理想のため献身したいと願うビンラディンは、しかるべき方向付けを求めていたが、老練な宣伝マンであるザワヒリは、生涯かけて追求すべき大義を提供することができた」

やがてビンラディンとザワヒリは互いの組織を合体させてアルカイダ(基地の意)を結成し、まずソ連に、次いでアメリカに対するジハードを発動してゆく。その経緯は長くなるので止めるけれど、アルカイダとFBI、CIAが絡み合いながら9.11に突き進んでゆく姿をディテールを積みかさねながら追ってゆく手法はまるで映画を見ているようで、アメリカのノンフィクションの凄腕を思い知らされる(実際、著者は映画の脚本も手がけている)。

そこには政治的な動きばかりでなく、双方の家族模様まで描きこまれている。ウサマには4人の妻と多くの子供たちがいる。ザワヒリにも家族があって、彼らはウサマやザワヒリとともに故郷を離れ、パキスタンやスーダン、アフガニスタンの洞窟などを転々としている。にもかかわらず、彼らはごく普通の子供として育っていた。ウサマには水頭症の、ザワヒリにはダウン症の子どもがいる。夫としては、ウサマもザワヒリもどこにでもいる普通の男に見える。

一方、アメリカ側の主役、FBIの特別捜査官ジョン・オニールにはワシントンやシカゴに3人の愛人がいて、綱渡り的な私生活を送りながら捜査に当たっていた。CIAはアルカイダ・メンバー2人がアメリカに入国した情報をつかんだがFBIに渡さず、オニールはアルカイダのテロを疑いながら彼らまでたどりつかない。

彼は同時テロ直前にFBIを退官し、世界貿易センターの保安主任になった。9月11日、オニールは自らが捜査に当たっていた当の相手とその職場で運命的に出会うことになり、殉職する。オニールの妻と3人の愛人は、彼の葬儀の席ではじめて顔を会わせたという。著者はオニールの3人の愛人に話を聞き、内容を公表する許しを得てそれぞれの写真まで掲載している。このジャーナリスト根性!

政治的な動きばかりでなく、アルカイダ、アメリカ当局者双方のそんなプライベートな場面まで描きこんでいることが、この本の奥深さになっている。読み物としても一級品の面白さ。

黒煙を上げる貿易センタービルに2機目のハイジャック機が突っ込もうとする瞬間を捉えたあまりにも美しいカバー写真は、え、こんなのあったっけと思ったら、日本人アーチスト、クリヤ・マサトモによる「作品」だった。(雄)

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