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2009年12月 4日 (金)

「環境世界と自己の系譜」大井 玄

Kankyo大井 玄 著
みすず書房(308p)2009.07.24
3,570円

大井玄という名前をはじめて知ったのは『「痴呆老人」は何を見ているか』(新潮新書)の著者としてだった。認知症にかかった老人が、なぜ看護師を娘と間違えたり自分を思春期にいると思い込んだりするのかという疑問から発して、彼らには現実がどう見えているのか、その背後にある人間の認識構造がどんなにあやふやなものなのかに迫った、とても面白い本だった。

著者は内科を専門とする医師で研究者。認知症の治療やエイズ研究などにたずさわり、国立環境研究所所長を務めて、今も臨床医として終末期医療に取り組んでいるそうだ。『環境世界と自己の系譜』は、そんな医者としての経験に加えて社会心理学や歴史学、環境論や仏教の唯識論まで踏まえて、『痴呆老人…』の問題意識をさらに深く発展させた文明論になっている。その大胆さが刺激的だ。

生物は自分が生きている環境をどう認識し、そこから現実(著者の言葉を使えば「環境世界」)をどう構成するのか。たとえばゾーリムシは、繊毛を動かしながら淡水のなかを浮遊している。ゾーリムシは何かにぶつかったとき、それが食べられるものなら食べ、食べられないものなら離れてゆく。ゾーリムシにとって水環境は、「食べられるものと食べられないものによって構成された環境世界」なのだ。だから水中の小石や水草や魚はすべて「食べられないもの」であり、ゾーリムシにとってその区別は存在しない。

そのように、生物は無数の情報をもつ環境から限られた情報(ゾーリムシなら、食べられるか食べられないか)を選択して主観的現実を構成する。環境世界とは「仮構された」ものなのだ。人間の場合、環境のなかの刺激からなにを選択するかについては、刺激と知覚をむすびつける「期待」が先行する。どんな「期待」を持つかは、その人の過去の経験に基づいている。「だから期待が強いと、そこにあるはずのないものが見える気がしたり、期待に合致しないと、あっても見えない現象が起こる」。

人間は社会生活を営んでいるから、場所・時間・モノなどの見当識が周囲の人たちと一致しないと普通の生活を送れない。ところが認知症の老人は、彼(彼女)がつくりあげる「仮構された現実」が、周囲の普通人の「仮構された現実」とズレてしまっている。そうしたズレを引き起こすいちばんの原因は、認知能力の衰えからくる「不安」の感情だ。

「外部環境が不安と恐怖に満ちた状況である場合、認知能力の衰えた者にとって、求めるべき情報は外界ではなく、過去の幸せな体験の古層にかぎられてくる」。過去の記憶によって「現実」を仮構するから看護師が娘に見えたり、自分が子供や青年であると錯覚することが起こるわけだ。

ところで著者は、こんな例も挙げている。延命措置を行う対象に認知症を含めるかどうかを日本人に聞いたあるアンケートの結果、延命措置を行わないでと答えた人の圧倒的多数が、その理由を「周囲の人に迷惑をかけたくない」からと答えた。「つまり『痴呆』という状態は、他者に迷惑をかけるから怖れられ、忌避された」。

ところがアメリカを中心にした英語圏でアルツハイマーが恐れられるのは「自分が自分でなくなる」「自分の能力が失われる」「自分が自立できなくなる」という理由で、「『周囲に迷惑をかけるから』という感覚はほとんど見られない」。

ここから大井は文化心理学の研究に拠って、人間の二つの自己認識の型を取り出している。ひとつは「自己と他者とは画然と切り離された存在である」と考える「アトム的自己」。もうひとつは「自己と他者とは切り離すことができないつながりをもつ」と考える「つながりの自己」。いずれも深層意識での働きで、当人にはそれと自覚されない。「アトム的自己」が優勢なのは北アメリカの白人とヨーロッパ圏で、「つながりの自己」が優勢なのは日本を含んだそれ以外のあらゆる地域だという。

相手への共感や負い目といった「他者中心的感情」に動かされ、状況に応じて自分の欲望を制御できる「つながりの自己」のほうが世界では一般的で、何らかの判断や意思決定をする場合に他者を意識せず「自己」を中心に考える「アトム的自己」のほうが「特殊」なのだ。ところが現在は「アトム的自己」を前提に、個人が自己利益を追求する経済活動が総体として世界を豊かにするという建前の(現実には貧富の差が拡大する)市場経済が世界を覆っている。

このあたりから、論は著者の専門を離れていく。仏教の唯識論や比較文化、江戸時代の歴史や環境論を引用しながらの文明論は、部分部分はどこかで読んだような気もするし、そのデータを一般化できるの? と疑問に思う箇所もある。でもゾーリムシや認知症にはじまり、江戸論からグローバリズム批判に至るジェットコースターに乗っているような知的冒険には読む興奮がある。大きな見取り図には説得力もある。

大井は「アトム的自己」がどのような環境世界のなかで生まれ、発展したのか、歴史のなかから2つの例を挙げている。古代ギリシャと北アメリカの開拓だ。

古代ギリシャ人は紀元前20世紀ごろ中央アジアから南下してきた。前8世紀に入るとエーゲ海沿岸から地中海の島々に植民活動を行い、先住民の男を殺し、子供を奴隷にし、女を妻とした。競争と闘争のなかから誕生したアテネの民主政は「アトム的自己」をもった自由人の共同体だったが、それを維持するには膨大な数の奴隷を必要とした。

先住民虐殺の上になりたった北アメリカ開拓については触れるまでもないだろう。「アトム的自己」は「生存の場の拡大、移動と欲望追求の自由、競争と他者不信という物理的心理的諸条件」のなかで生まれ、育まれてきた。どちらの場合も、「アトム的自己」にとって世界は「開放系」と見えていた。「開放系」、つまり場所も資源もエネルギーも無限であるという錯覚の上に成り立っていた。

これと反対に、「閉鎖系」の世界で「つながりの自己」が抑制的な倫理意識をつくりあげた例を、大井は江戸時代に見る。例えば江戸幕府の森林管理。江戸時代初期、戦乱で焼き払われた都市の再建や新田開発の結果、大量の森林が伐採され、森は「天下の山林十に八尽く」という荒れようだった。幕府は「諸国山川掟」を出して森林伐採を禁じ、「木一本、首一本」と言われた厳しい森林管理を行った。山林奉行は世襲とされ、専門家が長期的な視点から森を育て、利用した。

森林管理に象徴される江戸時代の文明は「閉鎖系における平和で持続的、しかもエコロジカルな生存」であり、それを支えたのは「分を超えた欲望の自制、勤勉、そして争いの回避と協調」の倫理意識だった。

こう見てくれば、大井が現在の世界にどんな危機感を抱いているかは明らかだろう。彼は言う。「世界が閉鎖系であることを前提としない生存戦略は、究極には自己破滅的である」。いま必要なのは地球という閉鎖系での「生存感覚」、つまり「容量制限があり、狭くて壊れやすい環境でみなが生きざるをえないという感覚」なのだ、と。

著者が言う「アトム的自己」と「つながりの自己」の対立はあくまで意識下のもので、欧米の白人とそれ以外の人種の対立といった社会的な対立に置き換えられるものではない。誰の意識下にも「アトム的自己」と「つながりの自己」はあり、置かれた環境によってどちらかが優勢になったり退いたりする。

江戸時代に「つながりの自己」が優勢だった日本人も、明治以後は「アトム的自己」を必死に身体化しようとしてきたように見える。エコロジーという学問と視点が白人世界から生まれてきたように、ヨーロッパやアメリカでも「アトム的自己」に対する懐疑がある。ともすれば前近代的な心性として否定される「つながりの自己」を、どう再建してゆくのか。まずは自分のなかの「生存感覚」をじっくり吟味してみたい。(雄)

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