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2010年2月15日 (月)

「ジミーの誕生日」猪瀬直樹

Jimy_3

猪瀬直樹 著
文藝春秋(360p)2009.11.25
1,500円

「天皇の影法師」や「ミカドの肖像」といった天皇に関する著作を出版してきた猪瀬直樹の最新作。謎解き小説とでも言うのだろうか。話は、猪瀬宛に或る女性から祖母の日記についての質問が寄せられたことに始まる。その日記とは昭和20年の5月から昭和23年の12月という短い期間に書かれたもので、女性はその日記の最後の文章が気になっているという。「・・・最後のところが昭和23年12月7日で終わっている。『ジミーの誕生日の件、心配です』。年末までの三週間あまり、空白のまま。ジミーって誰? 祖母は何を心配していたのでしょうか。・・・・・」

こうして謎解きは始まるのだが、この日記の期間は、日本にとって激動の時間である。東京大空襲、沖縄戦の終結、原爆投下、ポツダム宣言の受諾、玉音放送、マッカーサーの厚木到着、降伏文書の署名、天皇のマッカーサー表敬訪問、極東軍事裁判の実施、憲法改正といった、現在の日本の姿を規定していく重大な決断や事象が多くの人々を巻き込みながら進んでいった時代。この敗戦直前から占領期間の時間の流れの中で、なぜ「その日」が選ばれたのかを描いている。

あくまで狂言回しは子爵夫人ではあるが、猪瀬が執拗に記述する社会・軍事・政治状況は現在においても、まだまだ客観化されていないこの時代の混乱も十分感じさせてくれる。この期間の人々の証言や言い分も保身だったり、手柄話だったりで冷静な構成・理解にはまだ遠いと思う。

本書は、この時代に生きた一人の女性のたった3年半ほどの時間の生き様から、その人生全体を表現しているようだ。華族である子爵の夫人として戦前の生き方、敗戦とともに夫の無気力さやふがいなさに直面することで夫の本質をいやというほど見せ付けられて幻滅していく様、息子は皇太子明仁(平成天皇)と学習院で同級生であり、そこから垣間見える天皇や皇太子の置かれた状況。占領軍の進駐とともに戦前の高等教育を受け、海外との交流に抵抗感の無い性格や英語力も生かして行動していく女性として描かれている。そうした目線から、天皇と軍や政治の動き、そして皇太子の動きを巧みに組み合わされている。

もうひとつのポイントは、この時代の核となっていた人々(日米を問わず)の中に重く存在した天皇や天皇制に対する認識と、現在の日本における国民目線から見た天皇や天皇制の意識変化を強く示しているところである。

マッカーサーは8月30日の午後に厚木に降り立ったが、日本の敗戦からさほど日が経っていないことや、治安が十分に確認されていない中でのこの素早い行動についてはある種のギャンブルという意見が多かったようだ。確かにほとんどの連合国側の政治家や軍人は日本全土はゲリラ化するのではないかと考えていた時期である。しかし、マッカーサーは日本における天皇の力を信じ、その力を活用して占領統治することが連合国にとって有利であると確信して賭けを行ったとしか考えられない。天皇責任論や天皇退位論など日本国内でも意見が揺れた中でも、マッカーサーの天皇を活用した占領政策推進の根幹は揺らぐことはなかった。

どこからその確信が生まれるのかとも思うのだが、戦争中の特攻や白兵戦の体験から日本人の中にある確固たる天皇至上主義ともいえる心情にある種の恐怖を覚えるとともに、その力を逆に利用するという政治的戦略眼だったはずである。

東條英機の逮捕と自殺未遂の発生からのGHQの動きも書かれているのだが、肝心の東條が死んでしまっては、戦後の責任について昭和天皇が矢面に立たされるという危機感に突き動かされている様子も書かれている。9月12日の東條逮捕の翌日から、昭和天皇のメディアとのインタビューが素早く計画され、9月25日のニューヨーク・タイムズ紙との会見、9月27日のマッカーサーとの会見といったように、矢継ぎ早に「東條に責任を負わしていく」シナリオがGHQによって実行されていったという見立てはそれなりの納得感もある。

一方、天皇制維持の前提となる「戦争放棄を謳った憲法の実現」についてはかばかしい進捗がなかったことから、日本の憲法制定の大きなターニングポイントが訪れる。連合国側による憲法素案の作成という決定である。GHQの中心人物であるホイットニー准将から、こんな指示がGHQの中に響いた。

「日本の憲法を今週中に仕上げるんだ。いいか、リンカーンの誕生日(2月12日)までだぞ。・・・・」

しかし、日本政府は日本語訳の遅れや、閣議のスケジュールやらを理由になかなか閣議決定をしないことに業を煮やしたホイットニーは終戦連絡事務局次長の白洲次郎を呼び出しこう迫った。「2月22日をタイムリミットとする。ジョージ・ワシントンの誕生日だ。烝治(ジョージ)さん(松本烝治国務大臣・憲法問題調査会会長)も忘れませんよね。・・・・・」

GHQのマッカーサー執務室には二人の大統領の肖像画が掛けられていたのだが、それはワシントンとリンカーン両大統領だったのは誰もが知っていることだった。

そして、夫人の日記、
「・・・東京裁判が開廷するのは1946年5月3日(後の憲法記念日)、巣鴨プリズンに収容されたA級戦犯二十八人に起訴状が伝達されたのは同年4月29日でした。判っているな、昭和天皇の誕生日だぞ。あなた方は代わりに罰を受けるのですよ。そう読み取ることが出来ます。・・・・」

昭和天皇の誕生日を期してA級戦犯を告訴することで武装解除を日本国民に刻印させることとした。そして二幕目もマッカーサーは周到に準備していた。本書のタイトルである「ジミーの誕生日」である。
「ジミーという呼び名は、連合国軍による日本占領後、学習院に赴任したアメリカ婦人の英語教師エリザベス・バイニング夫人が、英語の授業を開始するにあたり同級生の全員にニックネームをつけたとき、皇太子には『あなたはジミー』としたからだ。」

昭和23年12月23日、皇太子(ジミー)は東宮御所が空襲にあったこともあり2年9ヶ月の間小金井の旧国民練成所にその住まいを移していた。この日も15才の誕生日の報告をするために小金井から皇居に出向き天皇に面会している。しかし、天皇は不機嫌に終日自室に引きこもってこの日を過ごしたという。この日の未明に、極東国際軍事裁判で死刑判決を受けた7名の絞首刑が巣鴨刑務所で執行されていた。

マッカーサーは日本における天皇と天皇制の力に賭けていた。だからこそ、永遠の戦争放棄を日本国民に刻印するために考えた仕掛けは「死刑は一度だが、誕生日は毎年来る。・・・・」というものだ。

しかし、昭和の戦後は長く続いたこともあり、国民の多くにとって天皇誕生日は4月29日であると染みついてしまった。平成の世になり12月23日が天皇誕生日といわれてもなかなかしっくりこないだけでなく、ましてや、その日がA級戦犯の処刑の日であったという感慨を持つ国民は皆無といってよい。
この現状をマッカーサーは想像すら出来なかったはずだ。そう考えるとこの小説の持つ恐ろしさが見えてくる。そして、「12月7日」で夫人の日記が終わっている理由は、ぜひ本書を読んでいただきたい。(正)

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