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2010年2月15日 (月)

「原始の神社をもとめて」岡谷公二

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岡谷公二 著
平凡社新書(286p)2009.09.15
924円

3年前、韓国の済州島にはじめて行った。大学で歴史を教えている在日朝鮮人の知人──年上の大先輩なのだが──に誘われて、その人の故郷である済州島を案内していただいたのだ。その人は、近年開発されたリゾートには見向きもせず、民俗村や町の市場、旧日本軍の特攻艇「回天」が基地にした洞窟などを案内してくれたが、島の東岸にある海女の村へ向かう途中、「このあたりに本郷堂(ポンヒャンダン)があるから、そこを見ましょう」と言って車を降りた。畑に沿った狭い農道を歩いていくと、何の目印もなく、ただ木々が黒く盛り上がっている一角がある。そこが新村里という村の堂(タン)だった。小さな広場のようなそこには何の建物もなく、中心には樹齢400年という榎の大樹が黒々と枝を広げていた。

直径1メートルはありそうな太い幹から四方に伸びた枝の影が落ちる空間は、明るい畑がつづく周囲の風景と違ってそこだけ非日常的な、尋常でない空気を感じさせる。枝には赤や白の布がいくつも巻かれていた。本書で知ったことだけど、これは物色(ムルセク)と呼ばれ、人々が神に捧げた衣だった。大樹の根元には石を積み上げただけの、捧げ物のための台がある。

済州島にはシャーマニズムが生きていて、今もムーダン(巫女)を中心に祭が行われている、と大先輩は教えてくれた。本書を読んで、この本郷堂、あるいはただ堂(タン)と呼ばれるものが、どうやら日本の神社と深い関係がありそうなことをはじめて知った。

この本のサブタイトルは「日本・琉球・済州島」。長いこと沖縄の御嶽(うたき)を訪ねてきた著者は、はじめて行った済州島で、堂が「いかにも沖縄の御嶽に似ていた」のに驚く。そして御嶽が日本の古神道の面影を伝えていることは柳田国男、折口信夫以来の定説だ。ここから、済州島の堂と沖縄の御嶽と日本の神社をめぐる著者の旅と思索が始まる。

堂と御嶽には大きな共通点がある、と岡谷は言う。小さな森であること、建物がないこと、祭の主役が女性であることだ。

沖縄の御嶽の森にはクバやガジュマルが茂っており、済州島の堂は、僕が訪れた新村里の堂のように榎であることが多い。済州島で、榎は豊穣・多産の呪力がある神木とされている。また沖縄の御嶽には、日本の神社と違って鳥居も狛犬も賽銭箱もない。ほとんどの場合、社殿もない。そこも済州島の堂と共通している。御嶽で祭を主宰するのはノロと呼ばれる神女で、済州島の堂の祭りも主役は村の女性たちであり、ムーダン(巫女)も呼ばれる。

ただ韓国の場合、高麗朝、朝鮮王朝期に仏教や儒教が国教とされたために堂信仰が淫祀邪教扱いされ、戦後もセマウル運動によって前近代的と排除されたために、済州島以外では消滅しかかっている。堂の祭もまず男が主役になって儒教ふうに行われ、女性はその後といったふうに変形していることが多い。堂の信仰がいちばんよく残っているのが済州島で、「済州島の堂は、離島も含め韓半島のどの地域の党よりも沖縄の御嶽に近い」という。

済州島はもともと12世紀まで耽羅という独立国だったし、東支那海に浮かぶ島として対馬や五島列島、九州西岸、南西諸島との交流も盛んで「同一文化圏に属していた可能性もある」。そういうことも御嶽と堂に共通点が多いことの背景になっているかもしれない。

ところで日本の神社はどうか。村の神社が「鎮守の森」と呼ばれるように、そこには必ず森がある。そして、社殿など建物のない神社もある。特に多いのは熊野で、ここには70の社殿のない神社があるという。また大和の三輪神社や信州の諏訪神社のように、山や巨岩を神体とし、拝殿はあっても本殿のない神社もたくさんある。

神社が社殿を持つようになったのは、天武朝の7世紀ころらしい。これは、何を意味しているのか。岡谷は、こう述べている。

「常設の社殿を造営するとは、また、祭のときだけ『清浄の地上に』お迎えしていた神々を社殿の中に常住させることをも意味した。それは、国家の大事にあたって、いついかなる時でも神に祈願できる体制を整えておくことであり、国家による『神々の支配・統制のため』であった。……いずれにせよ、社殿の造営は世俗的な動機から出たことであって、信仰上の動機はそこには全く見られない」

天武朝が出した社殿造営令にはさまざまな抵抗があったらしく、膝元の春日大社ですら本殿がつくられたのは令から100年後。天理の石上神宮にいたっては、本殿がつくられたのは近代に入って大正2年のことだったという。神は本来、「祭の時だけ、海のかなたから、あるいは天から来臨する」のだ。クバや榎の神樹が、あるいは森そのものが、神が降りる依り代となる。

神社での女性の役割については、「古代に近づけば近づくほど、神社の祭祀に女性の影が濃くなる」という。伊勢神宮に未婚の皇女を奉仕させた「斎宮」の制が、そのことを示している。この制は記紀によると3世紀ごろ始まったとされ、後醍醐天皇の時代に廃止されるまで1000年以上つづいた。

そんなふうに、本土の神社もまた姿を変えているとはいえ、沖縄の御嶽や済州島の堂と共通するところが多い。ではその三者の関係がどうなのかといえば、実はまだ分らないことが多すぎる。

琉球に統一王朝をつくった第一尚氏は、南朝の末裔で倭寇となった名和一族が沖縄に上陸したものだというのは、折口信夫の説だ。本土から琉球へ、そうした人の流れがあったとすれば、「古神道の信仰を持った人々が、九州から奄美諸島を経て、沖縄本島に上陸」したという動きも想定できる。

では済州島の堂と日本本土の神社との関係はどうか。これまたよく分からない。しかし、渡来系の由来を持つ神社は全国にたくさんある。奈良市内には、もともと「韓国神社」と書いた漢国神社がある。京都は渡来系の豪族・秦氏の地だったから、ここにも朝鮮半島と深いかかわりを持つ神社が多い。伊勢神宮も「祭祀制度そのものまで新羅から学んでいる」との説がある。

その一方、もっと古い縄文の狩猟民の信仰を起源とする神社も多い。いちばん有名なのは諏訪大社で、ここは縄文のシャーマニズムと関係深いミシャグチ神と呼ばれる神を祀っている。ミシャグチ神は社殿を持たないのが一般的で、小さな祠に祀られることが多い。「社殿を持たず、樹叢や石に降りる神という点で、沖縄の御嶽や済州島の堂と通うところがある」という。

要するに三者には共通するところがあるけれど、歴史的に互いがどう関係しているかは、御嶽や堂について不明な点が多いこともあって、よく分かっていないのだ。

さらに岡谷は、もうひとつこの三者に共通するのは神を視覚化しないことだ、と言う。

「神社や御嶽において受け継がれてきた信仰において、神を視覚的に形象化しないこと、つまり神像を作らないことがその大きな特徴と思われる。……そこにあるのは、不可視なものを重んじ、可視のものに信を置かない心性、御嶽に典型として見られるような、社殿を含め、一切の人工物を忌避する心性である。朝鮮半島の堂信仰に関していえば、少なくとも済州島にあっては、同様の心性が感じられる」

一言でいえば、「森そのものが神」なのだ。
 
著者は民俗学関係の著書を持つ研究者。堂や御嶽や神社を丹念に歩き、その見聞と、広く文献を当たっての叙述は着実で、分からないことは分からないまま、無理な推論をしない。とても信頼できる書きぶりだけど、ただ一カ所、感情を露わにしているところがある。神社の社殿について触れた部分。彼はこう書いている。

「時をおいて神を迎える清浄な森の、少なくとも一部を伐り払って社殿を設けた時から、信仰の質が変わったと私は考える。それは聖なる神の領域に、俗なる人間の秩序を持ちこんだからである。それは、瀆神という言葉を使いたくなるほどの変質だ。実際それ以来、これまで海や山の彼方から、あるいは空から、祭の時だけ迎えてきた神を、人々は社殿の中に常在すると考えるに至ったのである」

「瀆神」という倫理的に強い断定をはらむ言葉は、研究者としてよほどの覚悟がないと使えない。琉球の御嶽や済州島の堂で、照葉樹林の「暗い森」やガジュマルの神樹の下で「神とじかに向かい合った」経験をもつ人にしか発することのできない言葉だと思った。(雄)

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