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2010年3月 7日 (日)

「平凡パンチの時代」塩澤幸登

Heibon

塩澤幸登 著
河出書房新社(501p)2009.12.04
2,940円

著者塩澤は1947年生まれ、1970年に早稲田大学文学部を卒業して「平凡」「週刊平凡」「平凡パンチ」「ターザン」などの編集に携わってきた編集のプロ。評者とまったく同じ時代を過ごしてきた男だ。われわれが物心ついた頃には、団塊の世代を対象とした商品やサービスが巷に溢れており、人数が多いこともあって商売のネタとしてターゲットとされるのはいたしかたないことだった。雑誌でいえば、1959年(小学校高学年の頃)に「少年マガジン」「少年サンデー」が週刊誌として創刊された。それ以前の漫画雑誌は「少年」など月刊誌だったのに比較するとマンガのテンポや展開も圧倒的に早くなり、漫画家も新人がどんどん出てきて、世の中が変わりつつあることを子供ながらに感じていた。

そして、高校生の時代(1964年)に「平凡パンチ」が創刊された。若者向けの雑誌は「平凡パンチ」に続いて、「F 6 Seven」(1965年創刊・恒文社)、「週刊プレーボーイ」(1966年創刊・集英社)という三誌がしのぎを削ることになる。個人的には「平凡パンチ」に目を通していたのはその創刊から1966年(高校1年から3年生)ぐらいの時期だと記憶している。そう考えると、極めて限定された時期の「平凡パンチ」しか体感していないのだが、その印象はかなり強い。本書で紹介されている創刊時の新聞広告もそのデザインやコピーを鮮明に思い出すことが出来た。結果的とはいえ、わたしが読者であった1964-1966年という3年間は「平凡パンチ」が格別に挑戦的であった時代だったということなのだろうか。

本書は「平凡パンチ」の創刊から休刊までの25年を総括すると同時に塩澤自身の編集者としての総括でもある。構成は「平凡パンチ」と同様で、第一章は「巻頭グラビア」第二章は特集Ⅰとして横尾忠則を取り上げ、第三章は定例コラムとして奈良林祥のセックス・コラム、第四章は連載小説とエッセイとして、三島由紀夫と野坂昭如を取り上げている。第五章はイラスト・ルポの小林泰彦、第六章は「パンチ・メンズモード」として堀内誠一と立木義浩、第七章として特集Ⅱはカーレーサーの生沢徹、第八章は「表紙」と題して大橋歩、などと続く。

編集という雑誌の作り手の立場からの「平凡パンチ」の独創性というか創造性について興味深い視点を多く発見。当時は読者として「真新しい感覚」という捉え方しか出来ていなかったのだが、そこに至る作り手の努力は大変なものだ。それは「平凡パンチ」の読者への訴求ポイントが「女・車・ファッション」だったとしても、他に追従しないフロントランナーであったことと、数多くの若い才能が登用されていたというところにそのすごさが見て取れる。そして、プロとしての編集者たちの競争というか生き様の激しさも十分楽しめる内容だ。

巻頭グラビアは、ピンナップを撮っていた立木義浩がもっと語られても良いと思ったりもしたが、長濱浩に焦点を当てている。長濱は1964年に多摩美術大学を卒業して制作会社(アド・センター)に入社。アカウント・エグゼクタィブが石津祐介。ディレクティングがイラストレーターの小林泰彦。写真部のエースカメラマンが立木義浩というチームが「平凡パンチ」創刊時のグラビアを受け持った。しかし、塩澤としては「平凡パンチ」創刊時にすでに世に出ていた立木よりは「平凡パンチ」とともに育っていった長濱こそ、巻頭グラビアの章で語るべきカメラマンと位置づけているのだろう。

また、横尾忠則を1967年にはじめて紙面に登場させて以降、イラストのあり方に新しい形を提示したのも「平凡パンチ」。それに対する横尾の言葉である。
「当時、雑誌の世界でのイラストレーションの役割というのはなにかの文章の挿絵としてしか存在しないという考え方が普通で、文章の添え物・・というような仕事しかわれわれには来なかったんですよ。それが、・・ジローさん(石川次郎)から『なんか、すごいやつを描いてください』とかいわれて見開きでカラーの絵を描いて載せたのは、それまでどこもやっていなかったと思う。あの時、日本の文化の中でイラストレーションという言葉が自立してそれ自体がひとつのジャンルとして成立した。・・・」

「平凡パンチ」が見出したもう一人の才能は表紙を描いた大橋歩だ。1963年の年末(創刊半年前)の時点で大橋はまだ多摩美術大学油絵科4年の卒業を間近に控えながら就職が決まらずに途方にくれている女子大生だったが、ひょんなことから「メンズ・クラブ」に描いた一枚のイラストが平凡出版の清水達夫の目にとまり新しい週刊誌の表紙を任せることになったのである。

こうした新しい才能を見出すとともに過去の形にとらわれない発想で創刊された「平凡パンチ」というか平凡出版(マガジンハウス)が持つ創造性について筑紫哲也の発言(1985年4月 朝日ジャーナル増刊号)はきわめて直接的に彼らを評価している。

「・・・優れた編集者というのは確かにいるんですね。たとえば、戦後の雑誌は大雑把な言い方をすれば平凡出版、今のマガジンハウスが作ってきたと思うんですよ。で、集英社とかのメジャーがそれをフォローして広がっていった。・・・・業界の中で評価のある編集者や編集長は、絶えず世の中について仮説を組み立てながら雑誌をつくっている。・・・その仮説を最初に組み立てて積み木を積んでみせる人は確実に少数でして、一人がうまく積んだことを後の人が真似る。ほとんどの場合、真似をすることによって雑誌が出来ていく。・・」

作家の領域で「平凡パンチ」を支えた才能は三島由紀夫と野坂昭如の二人だろう。1996年、野坂昭如66歳の時の発言はやや切ない。

「僕なんかは・・・平凡パンチと一緒に生きて、一緒にダメになったと思うよ。時代っていうのだろうね。いや、俺はやっぱり歳をとったからね。だから、非常に懐かしいというか。あのころの平凡パンチのあの熱気の喪失は『パンチ』にとっては時代が背景にある。僕のほうは年齢としてあるわけだよ。・・・僕は1930年生まれでね。1970年をノスタルジーで語ることもしかたないんじゃないかと思う。俺のなんていうか、一番盛りの時とちょうど『平凡パンチ』は一緒だったなっていう気がしますよ。『平凡パンチ』があってよかったというような意味じゃないですよ。ただ、ちょうど一緒だった。ある雑誌といっしょに生きられたってことを、そしてその雑誌が『平凡パンチ』だったってことを、俺は大変幸せなことだったと思っているよ。」

微妙に交錯している三島由紀夫と野坂昭如であるが、三島が仮に生きているとしたら、「平凡パンチ」に対するコメントはどんなものだろうかと想像したりする。

団塊の世代にとって10代後半の時代をノスタルジーとして語るための道具という意味で「平凡パンチ」は相応の役割を必ず果たしていくだろう。もう自分たちも1996年当時の野坂の年齢に近づきつつある。「平凡パンチ」的なことや「朝日ジャーナル」的なものに反応し難くなっている自分に気づくことがある。悲しいことだ。もう一度、あの頃の熱気を思い出しつつ大部を読み通した。(正)      

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