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2010年5月 6日 (木)

「巡礼」「橋」橋本 治

Junrei

橋本 治 著
「巡礼」新潮社(240p)2009.08.25
1,470円
「橋」文藝春秋(240p)2010.01.30
1,470円

2009年は、戦後生まれの作家たちが自分たちの生きてきた時代に正面から向き合った小説を、それぞれのスタイルで世に問うた年として記憶されるだろう。そのうちの村上春樹『1Q84』と宮本輝『骸骨ビルの庭』については、このbook-naviで感想を書いた。ここに、もう1冊(いや、2冊)の本が加わることになった。去年の夏に刊行された橋本治『巡礼』と、今年1月に刊行された『橋』。この2冊はそれぞれ独立した小説なのだが、戦後という時代を舞台にしていることで明らかに対をなしている。

僕は橋本治のエッセイを愛読してるけど、小説のほうは敬遠してきた。以前、実験小説ふうな『暗野』や流行語にもなった『桃尻娘』をちょっとだけ読んで、僕の好みとは違うなあ、と思ってそれきりにしてしまった。こんど『巡礼』と『橋』を読んで、おや、こんな面白い小説を書く作家なのか、と改めて見直すことになった。

橋本治のエッセイの魅力は、彼がすべて体感を通して、橋本治という肉体を通過したことしか語らないことだと思う。逆に言えば、橋本治は外部から来た論理を、それが正しかろうが間違っていようが、いっさい語らない。

江戸時代を論じても(『江戸にフランス革命を!』)、90年代を論じても(『ナインティーズ』)、あるいは宗教を論じても(『宗教なんかこわくない!』)、そのスタンスはまったく変わらない。その姿勢が橋本治以外誰にも使えない独特の論理や言い回しになり、それゆえの説得力を生んでいた。それは『巡礼』『橋』という2冊のフィクションでも変わらない。

とにかく、悲しい小説なのです。

『巡礼』の主人公・忠市は、戦争が終わったとき国民学校高等科1年生(後の中学1年生)。それから60年たって、彼は家屋と庭にゴミを山のようにためこんだゴミ屋敷の独居老人になっている。

『橋』の主人公は、団塊世代の親から生まれ、ピンク・レディーのものまねをする小学生だった雅美とちひろ。30代になって、雅美は娘を「事故」で失い、近所の幼い子供を殺して川に捨てた。ちひろは年下の夫をワインボトルで殴り殺した。

忠市は、なぜゴミ屋敷の主になってしまったのか。雅美とちひろは、なぜ殺人を犯すことになってしまったのか。橋本治は、彼らの「敗残と自滅への道」を主人公たちへの思い入れなしに語ってゆく。

といって、主人公たちが特別に変わった人生コースを歩んだわけではない。いやむしろ、誰とも区別がつかないような道をたどってきた。その結果がゴミ屋敷であり殺人であるからこそ、この小説は悲しいのだと思う。

戦後間もなく、商業高校を卒業した忠市は荒物屋(鍋、釜など日用品を売る店)を営む父のツテで、取引先の荒物問屋に就職する。実態は、昔ながらの住み込みの小僧に近い。そこを実直に勤めた忠市は、実家が駅前整備のため移転し、瓦屋に転業したのを機に家を継ぎ、結婚する。

東京オリンピック後の高度成長で家業は順調だったが、生まれた子供が病死し、妻も家を去る。やがてマンション・ブームが起こり、瓦屋の仕事は少なくなってゆく。忠市が初めてゴミをひろったのは、幼児が押して歩くと木製のウサギや熊がカタカタ鳴る玩具で、それが死んだ子供を思い出させたのだった……。

雅美とひちろの父母は団塊の世代に属している。ダンプカー運転手の父と元ホステスの母から生まれた雅美は、母親のことで小学校のクラスメートにいじめられた。公立高校の商業科に入った雅美は、いつもジャージ姿のがさつな大女になっており、不良グループに加わる。卒業して隣県の温泉地で旅館の仲居になるが、長続きしない。地元へ戻った雅美は花火大会で知り合った男と結婚し、子供を産むが、やがて夫と別れ、生活保護を受けて家事も放棄してしまう……。

忠市と雅美は、東京へ出て大学へ行くちひろも含めて、年齢は親子以上に離れているけれど、同じ戦後と呼ばれる時間を生きてきた。忠市は都市近郊の新興住宅地に住み、雅美とちひろは日本海側の水田地帯に位置する地方都市に住んでいる。

物語の背景をなす戦後の貧しさや、東京オリンピックを契機にした高度成長、バブルとその崩壊といった時代の変転を、橋本治は社会科学用語ではなく彼らしい独特の言葉づかいと論理で解説している。もっともそれは読者である僕たちに語りかけているので、そうした時代の大きな動きによって忠市や雅美ら登場人物を動かしているわけではない。忠市や雅美もそんな「大きなニュース」にはまったく関心を持たない。

時代の変転はもっぱら、忠市や雅美の親の家業がうまくいったりダメになったり、彼ら自身の仕事がうまくいったりダメになったり、自分と家族と周囲の身近な世界のこととして表わされる。彼らの暮らしている空間は、政治的あるいは経済的な「社会」というより、人と人が袖振りあう「世間」というほうがふさわしい。いわば「世間」の戦後史なのだ。

例えば、忠市の実家がある都市近郊の鄙びた駅が新興住宅地に変わってゆくありさまは、こんなふうに語られる。

「南口しかなかった駅には『北口』も出来て、町は同心円を描くように広がり、広がったその隙間を埋めるように密集して行った。かつての『なにもない所』は、そのなにもなさゆえに、『なんでも作り出すことが出来る余地のある場所』に変わっていた。当然、丸亀屋(注・忠市の瓦屋)の景気もよくなって、忠市の金回りもよくなった。しかし、その家にいるのは、母親のすみと忠市の二人きりだった」

「なにもない所」とか「なんでも作り出すことが出来る余地のある場所」といった言葉遣いが(それにカギかっこがついていることも含めて)、いかにも橋本治だ。橋本と同世代で都市近郊に住んでいた僕も、昭和30年代前半に駅前が「なにもない所」から「なんでも作り出すことが出来る余地のある場所」に変わっていったのをよく覚えている。

こんなふうにカギかっこの多い文章は橋本治のエッセイの読者にはおなじみだけど、彼はフィクションにもこの文体を持ち込んだ。それが『巡礼』と『橋』をユニークなスタイルの小説にしている。言ってみれば、橋本治「『世間』の戦後論」というエッセイのなかで、フィクショナルな登場人物が泳いでいる。あるいは、フィクションのなかにエッセイがまぎれこんでいる。もっとも、だからといって登場人物が死んでいるわけではない。

その文体が登場人物に向かうと、こんなふうになる。

「穂菜美(注・雅美の同級生)はただ、田村雅美を無視していた。無視していることを人に悟られないように、時折は『雅美のためを思う発言』をした。それをしてしかし、雅美が穂菜美に近づくようなこともなかった。他は鈍感であっても、雅美は『空気』にだけは敏感だった。
 雅美は、クラスの中では『おとなしい子』で、だからこそただぼんやりと、一人で突っ立っていた」

いわゆる心理描写はしない。言わば天上から見下ろしている作者が、登場人物の心理を自ら解剖してみせている感じ。それが、読者が登場人物に思い入れすることを良くも悪くも阻んで、叙事的というのとは少し違うような気もするが、登場人物に容赦ない眼差しを向ける独特のスタイルを生んでいる。この小説の悲しさは、そこから来ているのではないか。

僕には、忠市のほうが年齢的に近く、高度成長以前の「世間」の空気を感じさせるからだろうか、『橋』より『巡礼』が身に沁みた。(雄)

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