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2010年8月13日 (金)

「画家たちの『戦争』」河田明久ほか

Gaka

河田明久ほか 著
新潮社 とんぼの本(128p)2010.7.25
1,575円

東京・竹橋の国立近代美術館には153点の「作戦記録画」が収蔵されている。その一部が小出しに公開されてはいるものの、なぜかすべてが同時に公開されたことはない。 この153点の絵画は、第二次世界大戦中に日本軍から委嘱されたり、中国や南アジアへ派遣され従軍した日本人画家が制作したものだ。藤田嗣治、宮本三郎、小磯良平といった日本の絵画史に名を残す画家たちが参加している。 こうした公式の「記録画」だけでなく、民間の朝日新聞社が組織した大東亜戦争美術展などで発表されたものを含め、第二次大戦をテーマに描かれた絵画は総称して戦争画と呼ばれる。戦争画は、近代美術館に眠る「記録画」の全体像がきちんと公開されたことがないことからも分かるように、戦後、見ることも論ずることもタブー視されてきた。これらを見る機会が増え、戦争画について論ずる文章が活発に書かれるようになったのは、ようやくこの10年のことだろう。

かくいう僕も2006年に開催された「藤田嗣治展」(国立近代美術館)で、藤田の戦争画の代表作とされる「アッツ島玉砕」や「サイパン島同胞臣節を全うす」を見て衝撃を受けたひとりだ。

例えば「アッツ島玉砕」は2×2.6メートルの大作。画面は全体が暗い茶褐色でおおわれ、地をおおう死者たちの上で、敵とも味方とも判別のつかない兵士たちが互いに銃を向け剣をかざして殺しあっている。それまで見ていた小さな印刷物では、その細密描写の迫力、凄惨なすさまじさ、にもかかわらず画面に漂う静謐な気配など、この殺戮図の恐ろしいほどの魅力が伝わってこなかった。

本書は、その藤田をはじめとする戦争画の代表的な作品をコンパクトな形で紹介したものだ。表紙カバーと冒頭6ページは「アッツ島玉砕」の部分が拡大され、その迫力の一端を伝えている。

初めて見る戦争画も多い。日本画家・小早川秋聲の「国之楯」は、1.5×2メートルの真っ黒な大画面のなかにひとりの戦死した兵士が国旗を顔にかぶせられ横たわっている。これは昭和天皇に供するため陸軍省から依頼された絵なのだが、完成した作品を見た陸軍省は受け取りを拒否した。理由は明らかでないけれど、この絵を天皇に供することは天皇に戦死者を突きつけることを意味する。現在、京都の霊山護国神社に所蔵されているが、ぜひ現物を見てみたいものだ。

日本画家、川端龍子と茨木杉風の戦争画も奇妙なものだ。もともと戦争画はリアリズムを求められるけれど、日本画とリアリズムは相性が悪い。川端の「香炉峰」は画面いっぱいに描かれた戦闘機が半透明で、その機体を通して中国の廬山が見えている。山水画の象徴のような名峰・廬山を機体で隠すのが忍びなかったのだろうか。一方、茨木の「潜水艦の出撃」は、北斎描くような波間に潜水艦の一部が見え、南十字星が輝く。まるで現代浮世絵のような作品。

ほかにもシュールレアリスト小川原脩が描いた「アッツ島爆撃」の、瞬間が凍結したような画面、メキシコに長く住み壁画運動のリベラやシケイロスと親交のあった北川民次が描く、不安感あふれる「銃後の少女」などが奇妙な魅力をもっている。

もっとも、これらは戦争画のなかでも異色の作品で、大部分は勇壮な戦闘シーンや日本軍の戦勝場面をリアリルに描いたものだ。その代表的なものは宮本三郎「山下、パーシバル両司令官会見図」だろう。シンガポール陥落時に山下奉文司令官がパーシバル将軍に降伏をせまった有名な会見で、従軍写真家・影山光洋が撮影した写真をもとに描かれている。

20世紀に入り、第一次世界大戦を契機として戦争は軍隊と軍隊が戦う軍事的な衝突にとどまらず、政治・経済・思想・文化など国家の総力をあげ、兵士だけでなく全国民を総動員して戦う総力戦になった。第二次世界大戦はそれが歴史上最大の規模で繰り広げられた戦争だった。

日本では戦争を遂行するために国家総動員法が制定され、大政翼賛会をはじめとする官制国民運動が組織された。文化関係でも業界ごとに翼賛組織がつくられ、美術界では日本美術報国会が結成される。戦争画は、そうした「国民精神総動員」の一環として、国民を戦争に駆り立て戦意を高揚させることを目的に制作された。

もっとも、画家たちがいやいや戦争画を描かされたのかといえば、必ずしもそうではないらしい。公式の「記録画」の制作が始まったのは日中戦争が起こった1937年だが、やがて従軍希望の画家が急増し、陸軍(当初は陸軍が従軍画家を派遣した)は人数に制限を設けるほどだった。

また戦争画を展示した展覧会も大人気で、第一回大東亜戦争美術展は、明治以来の伝統をもつ官展の10倍にあたる380万人の観客を集めた。ちなみに陸海軍に画家を斡旋し展覧会を組織するなど、戦争美術は朝日新聞社の「独占的な文化事業」(河田明久)だったという。

その戦争画を代表する画家が「聖戦美術の巨匠」と呼ばれた藤田嗣治だった。なかでも彼の「アッツ島玉砕」は、絵画として鑑賞されただけでなく、鎮魂の図像として拝まれることすらあった。

藤田は、この作品を展示した会場で見た光景について書いている。年老いた男女がこの絵の前に「膝をついて祈り拝んでいる」、また「御賽銭を画前になげて画中の人に供養を捧げて瞑目していた」と(近藤史人『藤田嗣治 「異邦人」の生涯』)。その一方、彼はこの絵について、こうも書いている。「これは一つ、私の想像力と兼ねてからかいた腕ためしと言ふ処をやって見ようと、今年は一番難しいチャンバラを描いて見ました」。うーん、藤田にとって戦争画は「チャンバラ」だったのか。本書にエッセイを寄せている河田明久はこう書く。

「これをさして、藤田を不謹慎というのは当たらないだろう。西洋の宗教芸術を引き合いに出すまでもなく、聖なる死のドラマティックな演出が、その聖性をおとしめることはありえないからだ。軍とジャーナリズムと世論が日本兵の聖なる死をたたえ続けるかぎり、悲劇の主人公を悼む姿勢と、かれらを手ゴマのようにもてあそぶ態度は、画家の心に矛盾なく同居することができた。これ以降藤田は、文字通り敗戦にいたるまで、日本兵の悲運に胸を痛めつつ、しかし嬉々として兵士たちの絶望的な死闘を描き続けることになる」(「戦争美術とその時代 1931-1977」)

パリ画壇で名をなした藤田は西洋の歴史画や宗教画を熟知していたから、戦争画や宗教画、とくに殉教の図がどんな役割を果たすか、その「からくりに、仕掛け人である軍以上に通じていた」し、「見切っていた」(河田)

そもそも戦争画は、国家が総力戦のために画家を動員し、戦意高揚を目的として描かせたプロパガンダである。実は兵士の全滅を主題とした「アッツ島玉砕」には、発表当時から戦意高揚にならないのではという意見もあった。しかし日本軍全体が敵への打撃より「玉砕」や「特攻」という行為そのものに意味を見出すようになっていった時期に、藤田の殺戮図は戦死者の家族にとって否応なく宗教的な鎮魂画として受け取られた。その意味で歴史に残る戦争画を描くという藤田の野心と、日本軍と日本人の「国民精神」のありようが出会って生まれた藤田嗣治の戦争画は最高のプロパガンダだったと言えるだろう。
 
そういうことを知った上で「アッツ島玉砕」の前に立つとき、しかし愚かなプロパガンダと一言で片づけることはできない。見る者はこの絵から名状しがたい深い感情を引き起こされ、うろたえ、動揺させられることもまた確かなのだ。この不気味な「魅力」は何なのだろう。

それは、「この絵をして、藤田が戦争の悲惨さ、不合理さを確信犯的に描こうとしたのだとする意見もあるようだが」(椹木野衣『日本・現代・美術』)というように、戦争の悲惨を描いたという文脈で評価することではなさそうだ。(「アッツ島玉砕」だけでなく、陸軍に受け取りを拒否された「国之楯」や「銃後の少女」なども見方によっては抵抗画・反戦画と解釈できなくもない。でもこれらの絵の魅力もまた、戦争への抵抗という文脈とは異なるところにあるように感ずる。)

椹木野衣は「アッツ島玉砕」について、「ここで藤田は、戦争の記録や、戦闘の美化といった次元を超えて、もはや純粋な加害者意識の塊のようになって描写に向かっているかのようだ」と書いている。「純粋な加害者意識」とは分かりづらいけれど、日本がアジア諸国に対して加害者だったという当時の歴史的文脈にとどまらず、近代という時代が人間に強いた、他者や共同体に対するありようを指してもいるようだ。「藤田は、結果的にそれらの『歴史』や『美』そして『正義』の無根拠さを、舞台裏ごと暴き出してしまっているのではないだろうか」という椹木の文章を重ねれば、彼の言わんとするところがおぼろに見えてくる。

そのことの当否を考える準備を僕は持ちあわせていないけれど、「アッツ島玉砕」をはじめとする戦争画は、過去の残骸でなく今も生々しく生きている。この国が戦った戦争、そしてその後も世界のあちこちで絶えることのない戦争について考えるために、戦争画は僕たちにそこへ目をこらすことを強いている。(雄)

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