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2010年8月13日 (金)

「残夢整理 – 昭和の青春」多田富雄

Zanmu

多田富雄 著
新潮社(228p)2010.06
1,680円

多田富雄は1934年生まれ、東大医学部教授から東京理科大の生命科学研究所所長などを歴任。免疫学の泰斗であるとともに、俳句・能にも造詣が深く、自ら新作能も多く書き下ろしているという多能の人。今年の4月に前立腺がんで死去、享年76歳であった。この10年間は脳梗塞から声を失い、右半身不随となったものの、「新潮」2009年新年号から2010年3月号が本書の初出であることからも判るように、病後も精力的に執筆活動を続けてきた。病の中で著者がその生涯を振り返って思い出深い6名の人物、5名の故人と1名の消息不明者についての回想であり、完結していない気持ちを自分なりに片付けようとして綴るまさに「残夢整理」である。上手いタイトルをつけるものである。

かくいう評者も、とみに人の死にかなり敏感に反応するようになっている自分に気づかされることがある。身内や知人といった間柄は当然として、興味や接点があまりなかった人の訃報にも、同じ時代の空気を吸っていた人間同士としての共感からか何かゆすぶられるものが有る。

さて、本書のポイントは「昭和の青春」と副題にあるとおり、多田自身が昭和という時代に生きたという強い意識が全面に出ている。世代的に第二次世界大戦が人生における大きな変節点として存在していること、そして、「残夢」の対象となった人々との対話というか、多田の思い起こしていく作業プロセスによって精密にその思い出を書き綴っていることにある。この二つの点に関する心象風景の原点として後書きにあるエピソードが紹介されている。それは、昭和天皇の葬儀を通して「鎮魂の儀式」としての完成度の高さを実感するとともに、自分が昭和という時代に生きた人間なのかを痛切に感じとった姿を示している。

「・・・・私はかって昭和天皇の『ひん葬の礼』に列席したことがある。真っ白な布に覆われた一室で・・・陛下のご遺体はこの真っ白なお部屋のどこかに安置されているらしかった。しばらく待っていると、音もなく電燈がすべて消された。それから小一時間、暗闇の中で私たちは陛下を偲んだ。・・・それぞれの昭和天皇を思い出し、それに付随した時間の記憶を確認し、深い哀悼と鎮魂の思いに浸った。こうして痛切に思い出しているうちに不思議な感覚に包まれた。陛下が黄泉の国から蘇って、この一室の暗闇のどこかから私たちを凝視している幻覚に襲われたのである。・・・・戦時の苦しみと戦後の復興に身近で参加されていた昭和天皇のお姿が次々に思い出されて、涙がとめどなくあふれてくるのをどうしようもなかったのである。やがて無言で明かりが点いて・・・こうして私の昭和天皇の鎮魂は完成した。同時に自分がまぎれもない昭和の子であることを確認したものである。日本には優れた回想と鎮魂の儀式があるものだと思った」

そして、回想のプロセスと自分の生についてこう言っている。
「・・・・私は執筆中に何度となく蘇った彼らと対話し、涙を流し、ともに運命を嘆き、そして深い諦念に身をゆだねた。切実に回想すればいつでも彼らに会えることを知った。・・同じ空気を吸い、一緒に語り合った。それは多少危険な体験でもあった。そのくらい死者たちの吸引力は強かった。・・・・この短編を書いている最後の段階で、私は癌の転移による病的鎖骨骨折で、唯一動かすことが出来た左手がついに使えなくなった。・・書くことはもう出来ない。まるで終止符を打つようにやってきた執筆停止命令に、もううろたえることもなかった。いまは静かに彼らの時間の訪れを待てばいい。昭和を思い出したことは、消えてゆく自分の時間を思い出すことであった」

こうして旧制中学や高校そして大学時代に出会った友人たち、特攻を志願したものの病死した年上のいとこ、大学時代の恩師、多田がこよなく愛した能の役者(能楽師)などを登場させている。その一編一編は著者が医者であったということも関係するのかもしれないが、極めて緻密で詳細に書き込まれている。読んでいると、これはフィクションなのではないかと思うほどである。自分に置き換えると、40年前、50年前の事柄をこれほどの再現性を持って表現することはとても出来ない。

しかし、そうした表現もけして楽に生まれたのではないと言っている。「私は必死になって思い出した。一行書くにも、ひどく長い時間死者と対話したこともある」と。こうしてみると、フィクションとかノンフィクションとかいう定義自体に意味はない訳で、多田が生き、そして感じた昭和の時代そのものが書かれているということだろう。そこから見えて来る、この世代の前線(リーディング・エッジ)に居た若者たちの生き様を感じ取るとすると、そこには背伸びしながらも、文化的にも教養的にも高いレベルを模索している若者の姿が見えてくる。

冒頭の短編は、茨城の旧制中学の同級生Nの話しである。卒業後、Nとはお互い文学青年として学生時代に東京で再会する。江藤淳なども加えて同人雑誌で活動していたものの、Nはその同人雑誌から去り音信が途絶えた。何年かしてNの名前を耳にしたのは、大阪西成で自転車の窃盗で逮捕されたといううわさだった。中学時代の同級生数人と嘆願書を提出してNは釈放されたが、その後もずっと音沙汰はない。そして、定年を間近にしたときにNからの手紙が舞い込む。

「・・・・Nからの手紙は、健康を害している。精神も病んで、東京の病院に入院しているが、肝臓も心臓もぼろぼろになっているという。・・ほぼ絶望だよと自嘲し、病院への不満だけがくどくどと記されてあった。あの誇りに満ちたN君の精神は、長年の放浪に砕け散ったように見えて切なかった。でも、私にはどうすることもできない。なんと返事を書いていいかさえわからなかった。・・・回復を祈っているとだけ記して投函した。それから、N君からの便りはない。でも死んだとは思いたくない。時々思い出しては、あの時ほかに何かできなかったかと反芻する。・・・彼が生きているなら、もう一度マラルメの詩を、流暢なフランス語で読んで聞かせてもらいたいと思う。・・・・これでわたしの残夢整理は終わったのだろうか。残夢は残夢のままがいいのかもしれない。・・・」

大正の末から昭和のはじめに生を受けた彼らの世代は数年の差で大きく運命が分かれる。第二次世界大戦に出征するか、しないか。出征した世代はもう少なくなってきてしまった。私の85歳の年老いた母も生まれは大正の末、実質的には昭和とともに生きた人だ。その母の女学生時代の思い出はたった一つしか聞いたことがない。それは昭和18年10月21日に神宮外苑で行われた学徒出陣壮行式である。送る側の女学生の一人として母は参加していたという。

8月が来るたびに東條英機が甲高い声で演説をしているあの映像が流れる。すると「あっ」と小さく叫んでテレビ画面を凝視している。「私もあの観客席で立っていたのよ」。そう言いながらそれ以上の言葉はない。どんな時代だったかとはとても聞けない。団扇で風を送りながらの暑い夏の日の定番の出来事である。(正)

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