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2010年10月 8日 (金)

「菊とポケモン」アン・アスリン

Kiku_2

アン・アスリン 著
新潮社(412p)2010.08
2,415円

日本語版を出すに際して出版社から「菊とポケモン」というタイトルを提示されてショックを受けたと著者は書いている。いわずと知れた「菊と刀」は「日本と日本人」の文化の特殊性を徹底して指摘しているものであるが本書は日本発信の文化がグローバル化されていくプロセスを明らかにするという狙いであることを考えると対極にあるものと思う。したがって、「菊と刀」をパクッたようなネーミングに違和感を覚えるのも著者だけではないだろう。原題の「Millennial Monsters : Japanese toys and the global imagination」は強いていえば「千年紀のモンスター達」とでも訳すのだろうが、モンスターという言葉をアニメやゲームの主人公たちを示すとともに現実世界と想像世界を繋ぐものの総称として表現している。

第二次大戦後から2005年に至る日本の玩具・マンガ・アニメ・ゲーム文化を通して、米国での日本化現象の浸透と日本のソフト・パワー「ジャパン・クール」の成り立ちを主として三つの観点で考察している。一つはファンタジーという概念で、日本で製作された独自のエンターテインメント製品におけるキャラクターと想像世界の関係性。二点目はそうした製品が日本国内と米国での文化差から内容や表現をどのように変更していったか。三点目は、日本のキャラクター製品がどのように米国のグローバル化された市場に進出したかというビジネス・モデルに関して。

「ジャパン・クール」の象徴的な事件として取り上げられているのがANAのキャンペーンである。

「・・・1999年秋、LA空港の窓の前に大勢の子供たちが集まっていた。窓ごしに滑走路を見つめる彼らの前に巨大な空飛ぶモンスターに変身した747が日本から到着した。・・・1996年から日本でゲーム・ボーイのソフトの一つとして地味にスタートしたポケモンのメディアミックス型事業は巨大化し世界市場でもっとも売れている子供向け商品になっていた・・・注目すべきは大人向けサービスを『まじめ』に提供することを旨とする航空会社が機体に広告をのせ子供向け大衆キャラクターを伝播する役目を積極的に引き受けたことである。

もうひとつの注目は米国を魅了したおとぎの世界のキャラクターがディズニーやハリウッドではなく日本からやってきたことだ。・・・そしてその飛行機に乗った子供たちには飛行体験の全てが『ポケモン』一色に染まってしまう。CAはポケモンのエプロンをつけ、シートのヘッドレストから食器にいたるまであらゆるものにポケモンが現れてくる。・・航空会社の大人に向けられた広告でもピカチュウが使われている。このキャンペーン・メッセージは『日本を楽しくします!!』というものだ。日本を紹介し、売り込み、体験してもらう媒体となっている。・・・」

GNC(グロス・ナショナル・クール=国民総文化力)という言葉を生み出すトリガーになったポケモンは世界市場から150億ドルを稼ぎ出すというメディアミックス ビジネスとして大成功した。著者の指摘を待つまでもなく、経済大国になった日本といえども日本発の文化がビジネスとして世界に影響を与えたものは過去を振り返ったとしてもけして数多くはない。その理由は文化が浸透していくプロセスで本来の日本的なストーリーやシナリオが米国的もしくは共通文化的なものに十分対応できなかったことや、事業としての経済的利益の確実性が見えなかったということを指摘しつつも、両方の観点からの成功例として「千と千尋の神隠し(米国版 : スプリテッド・アウェイ)」が取り上げている。日本ではこの映画の評価は失われた文化的価値に集中していたという見方に対して、米国で「スピリテッド・アウェイ」が興行的に成功した理由を次のように語っている。

「・・この映画鑑賞者の多くが大人だったことで、子供と同様に大人もこの記号化された異文化に興味を覚えた。・・・怖いけど覗いてみた精霊の世界が近代化された馴染み深い現代世界と混合されたことに魅力を感じたのだ。・・・この映画のファンタジーは失われた伝統ではなく異世界への誘いである。・・このように日米の観客はこの映画のファンタジーで理解したことには文化の違いがあったが、それでもポスト産業化社会とグローバル資本主義、その結果起こる混乱と不安や激動する社会に生きているという共通認識である・・・・」

ここでは、そのストーリーが文化の違いを超えて「共通認識」に達していたことが成功の要因になったという指摘はそれ以前の日本発のエンターテイメント商品との大きな違いとなっている。時代をさかのぼって、1950年代に生まれた「ゴジラ」(米国風に言えばゴズィラ)と「鉄腕アトム」はこう分析されている。これらのヒーローはどちらも恐ろしい出来事から生まれているという共通点を持っている。アトムはある科学者が息子を事故でなくした代替物として生まれたし、ゴジラは核実験の結果の創造物だ。

このコンセプトはフロイトの言う父性的表象の相反するもので、第二次大戦によって日本の身体的・心理的・社会的な分断が生じ、権威の崩壊によって手ひどく痛めつけられた登場人物たちが再構築されて移り変わっていく不安定な世界を象徴していて、このファンタジーを生み出したというのが著者の考えである。

一方同時期の米国ではTV番組でいえば「パパは何でも知っている」に代表される戦勝国の誇りや家族の完全性そしてゆるぎない父権の物語り全盛の時代であった。こうした中で、ゴジラとアトムのファンタジーはストレートに米国社会で受け入れられることはなかった。「ゴズィラ」は単純な悪役として変身させざるを得なかったし、アトムは手塚治虫が頑なに原作に手を加えることを拒否することによって米国風に変化させることが出来ず成功を納めることは出来なかったといわれている。しかし、この二つのキャラクターは日本の娯楽製品の際立った特徴の先駆でもあった。過去と未来、機械と有機体といった、まったく別の要素の「つなぎ合わせ」と結果としての「変身」がその特徴であり、こうした対比と融合の文化こそ日本の戦後にそもそも内在していたものだとの論が紹介されている。(Figal 1999)

「・・近代化された日本には矛盾や流動性がそのまま残した空想世界が存在しているのを感じる。・・ある意味で近代化はファンタジーから生まれ内部に『現実』の近代化と『空想』の近代化の『二重構造』があるのではないか。・・・・近代化とは意識的に過去のものとは違うものを想像してたえまなく流行を生み出していくことだからだ。変容を具現化し形態を変えるという意味で近代化は『異形のもの』という化け物の原義が存在している。・・・」

こうした現実と空想の二重構造とともに、もう一ついわれている特徴は、アトム、ドラエモン、ポケモンといった各時代の想像上のキャラクター達が過剰なほどメカが詳細に紹介されているとともに、どれも機械に人間的な性質が融合されているという指摘だ。この点を著者は「日本の戦後の特性である科学技術と日本人の勤勉の融合そのものだ」と喝破する。アトム人形のパッケージにはこう書いてあるという「一番大切なことはアトムが人間のような優しい心を持っていることです」

さて、ポケモンについては詳細な分析をしているのだが、日本が生み出してきた戦後の娯楽製品とまったく違うところとして「最初から日本らしさを捨てて文化的に中立」という戦略をとったことだと指摘している。最初から日本人が文化的中立の製品を作り出したとすると、われわれ自身の持つ文化そのものが中立化しているということだがはたしてそうだろうかと思いつつ、アメリカ人の地道なフィールド・ワークを通してポケモンをはじめ日本が過去生み出してきたエンターテイメント商品を評価・分析したものとして面白く、新鮮に感じるところが多かった。(正)

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