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2010年12月 9日 (木)

「超マクロ展望 世界経済の真実」水野和夫・萱野稔人

Tyo

水野和夫・萱野稔人 著
集英社新書(240p)2010.11.22
756円

水野和夫というエコノミストの存在を教えてくれたのは、わが隣人の I さんだった。 I さんは川柳をたしなみ、落語は古今亭志ん朝が朝太と名乗っていた二つ目時代から聞いている年季のはいった通人なのだが、しばらく前に早期退職するまで、さる都市銀行の幹部だった。I さんは現役時代から毎日の株価や為替の動きを大学ノートにつけていて、それは退職した今も変わらない。月に一度くらいの割でお茶を飲みながら、落語や映画や本などの趣味的な話題から政治経済の床屋政談まで、雑談をかわすのが互いの楽しみになっている。あるとき、われら団塊の世代の将来みたいな話をしていて、

「成長戦略なんていうけど、みんな本当にもう一度成長できる時代が来ると思ってるんだろうか」
「少子高齢化、人口減という基本的な条件がある以上、経済のパイが小さくなるのはどうしようもないよね。それなのに政治家も企業家や経済学者も、これからはゼロサム、あるいは縮んでいくという前提でやっていこうという人がいない」

なんて話をしていたとき、 I さんが「いや、面白いエコノミストが一人いましてね」と言って教えてくれたのが、当時三菱UFJモルガン・スタンレー証券のチーフ・エコノミストをしていた水野和夫だった。さっそく彼の著書『人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか』(日本経済新聞出版)を買って読んだら、これがとんでもなく刺激的で説得力がある。

なぜかと言えば、現役のエコノミストだから日本の長期デフレやアメリカの金融バブル(この本が出たのはリーマン・ショック前年)といったその時々の現象を追いながら、それを中世から近代へ、さらにその先へといった世界史の流れのなかに、しかもエコノミストらしくデータを駆使して位置づけようとする歴史意識に裏打ちされていたからだ。

この『超マクロ展望 世界経済の真実』は、若い政治哲学者である萱野稔人との対談。水野は、『人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか』の認識を基に、その後の日本と世界の経済の動きを織り込みながら、「500年におよぶ近代資本主義を駆動させてきた諸条件は、現在、急速に失効しつつ」あり、「中世封建社会の崩壊と匹敵するような局面にわれわれは立たされている」という議論を展開している。書名の「超マクロ」は、ここからきている。

一方の萱野は政治哲学者として、資本主義は新自由主義者が言うように「国家と無縁」ではありえない(金融危機を国家が税金を投入して救済したように)という立場から、水野の話を引き出しつつ「資本主義と国家の関係」について別の視点を加えている。

対談は「先進国の超えられない壁」「資本主義の歴史とヘゲモニーのゆくえ」「資本主義の根源へ」「バブルのしくみと日本の先行性」「日本はいかに生き抜くべきか」の5章からなっている。どの章でも、まず水野がデータを提出し、それを読み解くことで議論が始まる。

例えば第1章。水野は1950年代から現在までの先進国と途上国の「交易条件の変化」のグラフを提示する。交易条件とは輸出物価と輸入物価の関係で、企業で言えば「仕入れと販売」の関係に当たる。輸出物価を輸入物価で割った数字が交易条件で、「国として一製品あたりどれくらい利ざやを得ているか」を示す。

先進国は資源(原油)を安い価格で仕入れ、加工した工業製品を高い価格で輸出してきた。1960年代まで、先進国の交易条件は良くて多くの利益を上げ、一方、途上国、資源国の交易条件は悪かったが、1973年の第1次オイルショックを機に途上国の交易条件は急激に改善し、先進国の交易条件は悪化した。要するに「先進国は資源を安く買い叩くことができなくなって」「先進国の企業が儲からなくなった」のだ。この年が、現在の世界経済の出発点となる、と水野は言う。

水野はさらに「景気の変動と一人当たりの賃金」「日米の人件費の弾性値」「アメリカの全産業における金融機関の利益シェア」といった図を示して、物づくりで儲けられなくなったアメリカがマネーゲームで利益を生む「金融空間」をつくりだし、資本主義の構造を変化させたことを示す。

第2章の「資本主義の歴史とヘゲモニーのゆくえ」では、いかにも水野らしい「超マクロ」な展望を語っている。彼がまず提出するのは、前著でも実に面白かった「経済覇権国の金利の推移」の図だ。

これは「資本主義500年の歴史を利潤率の変化からみていく」データで、14世紀から現在までの「覇権国」イタリア、スペイン、オランダ、イギリス、アメリカ(そして日本)の利子率がどう推移したかを示す。

利子率と利潤率の関係について、水野は「資本の利潤率は長期的には利子率としてあらわれる」と言う。経済の専門家には自明なのか、水野はそれ以上説明していないけれど、素人なりに推測するとこういうことだろうか。長期金利は主に企業の設備投資に使われる。企業家はその投資から生まれる利潤の予測を上回る金利で金を借りることはしないから、長期に見れば、その国の利子率は国全体の企業の利潤率にほぼ等しくなる。

例えばイタリアの都市国家、ジェノバ。その利子率は15世紀まで8%の高率を保っていたが、都市国家の衰退、オランダの躍進とともに下がりつづけ、17世紀初頭には、4~5年もの国庫貸付金の利子は史上最低の1.125%を記録する。同じようにどの覇権国も、勃興期には高い利潤を上げるので利子率は高いが、次の覇権国が登場してくると資本の利潤率が低下して「高度成長から低成長」への道をたどる。

「そのサイクルをみると、どの国のヘゲモニーにおいてもまず実物経済のもとで利潤率が上がって、それがつぎに低下することで、金融化というか、金融拡大の局面になっています。そしてその金融拡大の局面で、ある種のバブル経済が起こる。つまり、どのヘゲモニーの段階においても、実物経済がうまくいかなくなると金融化がおこる。そしてその金融化が進むと、同時に、その国のヘゲモニーも終わりに向かう」

日本は、20世紀の覇権国であるアメリカと似たような利子率をたどっているが、金融経済化したバブルの崩壊後、2003年にジェノバの記録を破って「人類史上最低」の10年もの国債の利子率0.43%を記録した。これは日本の「近代化のスピードが極端に早く」、「実物経済で安く仕入れて高く売るというしくみでもっとも利潤を獲得できた国」なので、同時にその矛盾が集中し、「資本主義の極限状態が日本でもっともあからさまにあわられている」からだ。

水野は「バブル以降の日本には、21世紀の利子率革命が起こっていることも含めて、資本主義の歴史におけるある種の先行性があると考えています」と言い、萱野も「日本は世界にさきがけて低成長社会の課題に直面したということですね」と応じている。一言で言えば、「成長で物ごとが解決できる時代は終わった」ということだ。その課題をどう解決するかは、「自分たちで考えだす。先頭を走っている以上、ほかの国はモデルになりません」。

現在と未来について、水野の基本認識は次のようなものだ。

「歴史を参照すれば、荘園制経済と封建制という中世のシステムに固執して没落したのがスペインです。これに対して、オランダやイギリスは資本主義と国民国家という近代のシステムへと移行することで、古い社会の限界を突破し、新しい時代のヘゲモニーを獲得していった。これをいまの先進国にあてはめれば、低成長を前提とした脱近代的な社会システムをつくらないかぎり、財政赤字などの問題はおそらく根本的には解決されえないのではないでしょうか」
「近代社会というのは膨張の時代だということを考えるなら、低成長社会ではいかに膨張しないで豊かでいられるかを考えるしかありません」

「低成長を前提とした脱近代的な社会システム」とはどういうものか。この本ではそれ以上具体的に話されていないけれど、いずれ景気回復して成長することを前提にした現在の民主党や自民党のプランより厳しいものになることは間違いない。財政再建についても、人民元が自由化されて日本から資本が流出し、日本の銀行が国債を買い支えられなくなる十数年後がリミット、と述べている。

対談の最後で萱野は、「結論が『低成長の現実を直視して財政再建にいそしむ』ということだけではちょっと寂しいですよね。ですのでここでは、市場が飽和してしまった低成長時代においてなおどのような経済戦略がありうるのか、ということを議論したいと思います」と切り出している。

一言で言えば、規制緩和とは逆に、環境規制が新しい市場をつくりだしつつあるように、「規制こそが市場をつくりだし、新しい利潤をうみだす回路になっていくだろう」と萱野は言う。イギリスが海洋を支配するとともに「自由貿易」というルールを策定して覇権国となったように、「ルール策定がいかに富をもたらすのかという資本主義の基本」に立ち返って、「技術と知識を生かす知的フレーム」「ルール策定能力」を高めることがこの国の生きる道だとしている。

水野和夫という名前を教えてくれた I さんとの床屋談義は、とりとめもなくつづく。

「まあ、われわれも価値観を変えて、中くらいの日本も悪くない、と。今まであまりに忙しすぎて、ぎらぎらしてたから」
「内田樹の言う『温泉国家』というか、小日本主義というか、少し貧しくなっても楽しく暮らしていければいいよね」
「アメリカや中国と対等に張り合おうなんてのがそもそも間違いで、ヨーロッパとはまた別の成熟した国になれるといい。日本は今でも世界で最も恵まれた国のひとつなんだから」
「その共通認識があれば、そこにいたるまでの痛みも分かち合えると思うんだけどね」(雄)

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