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2011年3月10日 (木)

「きことわ」朝吹真理子、「苦役列車」西村賢太

Kiko

Kueki

「きことわ」朝吹真理子 著
新潮社(144p)2011.01.25
1,260円
「苦役列車」西村賢太 著
新潮社(152p)2011.01.25 
1,260円

第144回芥川賞を同時受賞して話題になっている2冊を読んでみた。「きことわ」は新しい文学の最前線として、「苦役列車」は古風な私小説として、対照的な作品の受賞に話題づくりの意図を感じないでもないけれど、新人賞はできるだけ多くの才能を見出し、育てることに意義があるのだから、賞に値する作品でさえあれば目くじらを立てることもない。

読後感をひとことで言うなら「きことわ」はひらがなの小説で、「苦役列車」は漢字の小説だった。どんなふうに? ふたつの小説から、それぞれ特徴的な文章を抜きだしてみる。

「幾億年むかしのことも幾光年さきの場所も夢のなかではいつもいまになり、ひかりなどがのろいものにおもえる。……いまとなってはほんとうのことかたしかめようのない記憶だった」
「春子はどうしてそんなにふたりともからがるのかとふしぎそうにしていた。春子が髪をとかすときはからまることはなかった」(「きことわ」)

「曩時(のうじ)北町貫太の一日は、目が覚めるとまず廊下の突き当たりにある、年百年中糞臭い共同後架へと立ってゆくことから始まるのだった」
「ひと月を過ぎても、依然貫太の黽勉(びんべん)たる連続労働は止まらなかった」(「苦役列車」)

「きことわ」のひらがなも、「苦役列車」の漢字も、ともに意識的に使われている。

「きことわ」の「いまとなってはほんとうのことかたしかめようのない」も「どうしてそんなにふたりともからがるのかとふしぎそうにしていた」も、いちど読んだだけではすんなり意味が取れない。「ほんとうのことかた・しめようのない」とか、「とかすとき・はからまる」などと読んでしまう。学校の作文なら、「今となっては本当のことか確かめようのない」といった具合に直されてしまうだろう。明らかに、どこまでが名詞でどれが助詞なのか、どれが助詞でどこからが動詞なのか、言葉と言葉の境界が意図的にあいまいにされている。

そもそも「きことわ」とは何なのか。この物語の主人公は貴子(きこ)と永遠子(とわこ)という二人の女性。だからこのタイトルは「きこ」と「とわこ」で「きことわ」なのだろう。でもそういう絵解き以前に、「きことわ」というひらがなの連なりと声に出して読んだ音が、言葉遊びの面白さ音楽性を感じさせる。

貴子と永遠子は7歳違いの幼なじみ。永遠子の母親は、貴子の実家が持つ葉山の別荘で管理人をつとめていた。その別荘で二人が最後に会ったのは貴子8歳、永遠子15歳の夏休み。それから25年後、二人は久しぶりに顔を合わそうとしている。永遠子と貴子が夢を見、また最後の夏休みの記憶をたどるかたちで物語が進む。

二人の夢や記憶のなかで、自分の輪郭と相手の輪郭とが次第にあいまいになってゆく。

「貴子の寝息が永遠子には自分の寝息に思えていた。ふれあううちに、自分の息づかいもからまってしまったようだった。永遠子は貴子ともつれあったままいっこうにうごけなかった。腕も足もからまりあい、髪も影もほつれているのか、うまくみうごきがとれない。……髪がからがりあい、つなぎあう手も、自分のものであるはずの手がどれなのかわからなくなっていた」

こんなふうに貴子と永遠子は「きことわ」になってゆく。あいまいになってゆくのは貴子と永遠子の輪郭だけではない。二人のいた場所も、「自分は葉山の海岸沿いにいながら、また東京の渋谷にもいたのかもしれない」とあいまいになる。過去・現在・未来の時間も、「幾億年むかしのことも幾光年さきの場所も夢のなかではいつもいまに」なってしまう。どこまでが貴子でどこから先が永遠子なのか、どこまでが夢でどこからが記憶なのか、どこまでが現在でどこからが過去なのか、すべての輪郭があいまいになる。その浮遊する感覚がこの小説の命だ。

一方、「苦役列車」である。「曩時(のうじ)」とか「黽勉(びんべん)」とか、まずたいていの人は読めもしないし意味も分からない難しい漢字が使われている。曩時とは「さきごろ」、黽勉は「努め励むこと」といった意味らしいけれど、これは私小説作家を自称する著者が、「没後弟子」と私淑する藤澤清造はじめ明治大正昭和の私小説を読みこむなかで我がものとした語彙なのだろう。

ほかにも「年百年中糞臭い共同後架」とか「結句(けっく)相も変わらぬ人足の身」とか「学級委員も番度(ばんたび)つとめ」などと、普段お目にかからない漢字語が多用されている。

この漢字語の多用は、どこから来ているのだろう。ひとつには、私小説作家と自称する西村賢太が、私小説という古風なジャンルに殉ずることの反時代性の宣言みたいなものかもしれない。

僕はいわゆる私小説をそんなに読んでいないけど、葛西善蔵、嘉村磯多、川崎長太郎といった作家たちの小説の空気を再現するためには、私小説作家に限らず戦前の小説家が多用したこうした漢字語を散りばめるのが、いちばん分かりやすい方法だったのだと思う。同時にこんな時代遅れの言葉を使うことが、日雇い稼業の日々を送る主人公・貫多の時代から取り残された生きざまに対応して、貫多というキャラクターに戦前私小説の主人公のパロディめいた、自虐的なユーモアを漂わせることにもなる。

「斯くして、最も手っ取り早い日銭の稼ぎ先を失った貫太は、たちまち次の日より困窮状態に追い込まれる次第と相成った。/飲み食いの方の不如意は無論、買淫どころか煙草銭にさえ事欠く有様となってしまった。/そうなると当然、家賃の支払いはまず念頭よりイの一番に消え去ることにもなる。だが、かの板橋の家主は、鷹揚な精神は毫も持ち合わさぬ人物らしく……」

平和島の冷蔵団地で日雇いの肉体労働に従事する貫多は、1日5500円の日当を得ると、次の日の電車賃を残して飲み食い風俗に使い果たしてしまう日々。それは著者・西村賢太の体験と重なるらしいけど(私小説だから)、漢字語の多用は貫多というキャラクターの輪郭に鎧を着せる役割を果たしているように感ずる。
 
日雇いから抜け出せない生活不能者の自分。仲間のガールフレンドに、僻みから性的いやがらせをする自分。そんなことをしたそばから、女友達を紹介してとぺこぺこ頭を下げる卑屈な自分。でもどんなに時代に取り残された自分でも、否、だからこそ落伍した自分という存在だけは確かにここにいる。漢字という視覚的にソリッドな文字が、そんな貫多の精神の外殻を否が上にも厚くする役割を果たしていると思う。漢字という硬い外殻に守られた貫多の内部で、孤立した精神の濃度はどんどん濃くなってゆく(同じ私小説作家・車谷長吉の濃さには及ばないけど)。

それに比べると、ひらがなに覆われた「きことわ」の貴子と永遠子の皮膜はいかにも頼りない。もともとひらがなは女文字だけど、貫多の漢字が鎧なら、きこととわこのひらがなは薄絹のようなものだ。貫多の「自分」は内部として屹立しているけれど、きこととわこの「自分」は薄い膜を通して内部と外部が浸透しあっている印象を受ける。自分は自分であって自分でない。きこはとわこかもしれないし、とわこはきこかもしれない。

「肉体は外界と隔てられた実体を持つと感じられるが、生命体は密度の高い分子の『淀み』でしかない。しかもそれは高速で入れ替わり、入れ替わることこそが『生きる』ことだ」という福岡伸一の言葉を思い出す。そういうポスト・モダン(?)な知見を多分に意識しているところがこの小説の新しさであり、感性と知性の絶妙な絡まり具合はとても26歳の手になるものとは思えない。

この対照的なふたつの小説が生まれた背景を、中卒でフリーターのまま生きてきた文学中年と、その日のたつきを意識したことはないだろう豊かで優秀なお嬢さんと、作者の実生活レベル(本当にそうかどうか知らないけど)に還元しては身も蓋もない。でも、この国のこの時代の精神風景が持つ幅と深度を測る測量器の役を果たす組み合わせであることは確かだ。(雄)

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