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2011年4月11日 (月)

「甲骨文字小字典」落合淳思

Koukotu_2

落合淳思 著
筑摩書房(348p)2011.02.16
1,995円

本書は甲骨文字のそもそもから始まって、殷墟(古代殷帝国址)、甲骨占卜の仕組み、甲骨文字の成り立ちなどが説明されていて、字典といいながら甲骨文字の入門書としての色彩も濃い。帯に「引く、読む、楽しむ」と赤色のキャッチ・コピーが大書されているのも本書の狙いをストレートに表現している。筆者は中学校に入ったばかりの頃、みすず書房から1957年に刊行された貝塚茂樹著の「古代殷帝国」を父親の本棚で見つけて読み耽っていた。冒頭に書かれていた甲骨文字発見のエピソードが強烈に印象に残っている。それは「竜の骨」と名付けられ、北京の漢方薬屋で売られていた亀の甲や牛の肩甲骨はマラリアに効能があるといわれていた。持病のために買い求めにいったとある学者がその「竜の骨」に文字らしきものを見つけたことが甲骨文字の発見であり研究が始まったというもの。そんなこともあり一時期甲骨文字少年であった私の本棚には父の蔵書であった「古代殷帝国」が何時の頃からか鎮座している。

さて、日本における甲骨文字研究は戦前からの貝塚達の研究を第一期だとすると、1970年代に第二期があり、それまでの文字の成り立ちに関する研究成果を元に各種の漢和辞典が一斉に出版され詳細な解説がなされていった時代である。そして、今は筆者のいうところの第三期であり、「甲骨文字の資料整理は継続して進められ、新しい資料をもとに改めて分析すると旧説には誤解や曲解が多いことが分かってきた。・・・本書は甲骨文字の解説とともに、旧説の誤りをあわせて提示する・・・」という力強い宣言がされている。

ここで旧説といっているポイントの一つが古代殷帝国の王朝の系譜の解明である。第一期の研究においては紀元前91年に編纂された「史記」に記載された王朝系譜を元にして、発見された甲骨文字資料によって裏付けるといった手法がとられている。その後、資料分析が進んで、王の名において祭祀が行われているかどうかも判明してきたこともあり、「史記」では王とされていても祭祀を受けていない人物や「史記」では王とされていないが、甲骨文字資料から王として祀られてきた人物が明らかになってきた。

特に殷帝国の後期は血縁でない王位継承が行われていて、「史記」の記載は「記紀」でも見られる様に編纂された時代の施政者に都合の良い歴史改ざんや正当性の捏造が行われていたことも判明している。こうしたことから、殷王朝の系譜についての新説が提示されている。

次のポイントは漢字の成り立ちに関するものである。発見された数量が多いことや、文法が漢文とほぼ同じであることから、甲骨文字は殷王朝研究の中心資料であるとともに中国漢字史における成り立ち研究の中核として貢献してきた。この分野における三人の学者の業績を次のように評している。

「・・・彼ら(加藤常資・藤堂明保・白川静)の学説は各種の漢和辞典における文字の成り立ち解説に利用されている。しかし、これらの研究はかなり古く、その後に修正・整理された資料から誤りを指摘できるものが多い。・・・加藤と藤堂は発音を手がかりに文字の成り立ちの解明を試みたが、肝心の殷代の発音が明らかに出来なかったために後代の発音を利用しており、この方法では甲骨文字を研究するには必然的に限界があった。・・・・白川は文字を呪術に関連づける自説に拘泥したため、効率的な活用にいたらなかった・・・・・」と、かなり手厳しい。

さて、紹介されている漢字構造の四つの分類は本書のみならず、多くの漢和辞典を読んで楽しむために必要な知識と思われるので、以下に抜粋してみる。

まず【象形】といわれる文字はいわずと知れた「物体の形」を象るもの。

【指事】とは象形文字に点や線を加えて文字にするもので、例としては、「人」の下に水平線を加えて「立」という字は「たつ」という意味となっている。

【会意】といわれる文字は複数の「象形」を組み合わせて状態や動作を表すもの。例としては「人」が「木」にもたれ掛かっている姿「休」で「やすむ」といったものである。

最後の分類は【形声】というもの。意味をあらわす「意符」と発音を表す「声符」によってつくられた文字である。例としては「室」という字で、家という意味を表わす「うかんむり」と矢が地面に刺さっている姿の「至」という字を発音のために組み合わせている。この四つの分類を知っているだけでかなりの薀蓄が語れるのではないか。

字典の構造としては、まず部首別にまとめられていて、「人の姿を元にした文字」「人体の一部を元にした文字」「自然物を元にした文字」「動植物を元にした文字」「武器・礼器を元にした文字」「その他の文字」といった分類のもとに100種類近い部首と300を超す文字が示されている。各文字の説明は、見出しを「楷書」で示し、次に対応する「甲骨文字」が示されている。そして、教育漢字として教わる学年、画数、読み(漢音・呉音・慣用音)などが続き、例文や解説とともに他の学説を紹介している。こうした構造が文字ごとの標準パターンである。

たとえば「身」の解説を見てみると、
「人の腹部を強調して示した形の指事文字。周代以降の資料では『身』が妊娠の意味でも使われるため、加藤・藤堂・白川はいずれも妊娠を原義とするが、甲骨文字の段階では、身は専ら腹部を指す文字として使われ、甲骨文字では別に妊娠を意味する『孕』の文字があり使い分けられている。身に妊娠の意味が付加されたのは周代であり、その経緯は不明であるが、『腹部を強調した指事文字』を『腹部が膨らんだ形の象形文字』と誤解したのかもしれない」

「象」の解説を読んでみると、
「殷代は気候が温暖な時代であり、黄河流域にも象が生息していた。象は狩猟の対象であったが、捕らえた象を飼育することもあり、甲骨文字には、象を連れて祭祀を行う記述や象を視察する占卜などもある。・・・・」

そうか、象は黄河流域で生息していたのか。想像は果てしなく広がり好奇心を刺激する。なにやら中学時代の興奮が甦るようである。このようにとびとびに読み進んでも十分に楽しめる本に仕上がっていることと、新しい考え方を旧説と比較して記載されているのが興味深い内容になっている。(正)

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