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2011年6月 8日 (水)

「拙者は食えん! 」熊田忠雄

Sesya

熊田忠雄 著
新潮社(234p)2011.04.18
1,575円

東京は世界中の料理を食べることが出来る世界で唯一と言って良い都市である。加えて、中華料理をとってみても北京料理・広東料理・上海料理・四川料理、はたまた湖南料理といった地方毎にレストランが細分化されている。しかし東京がいくら大都会といっても母国出身の客だけで各国料理レストランの経営が成り立っている訳ではない。日本人が世界各国の食べ物を楽しんでいるということだ。食材、調理の仕方、味付けなど千差万別な料理を日々の食生活に取り込んでいるわたしたちの味覚のグローバル化ともいうべき状態はいつごろから始まったのだろうか。

そんな疑問に答えるかのように、「・・・開国前後から明治に至るまでの間に海を渡った幕府の各使節団や幕府および西国雄藩が派遣した留学生など、いわゆる初期渡航者に絞って彼らの洋食との格闘シーンを辿ってみた。どんな場面で、何を食し、その時どのように反応し、日本と異なる食文化に何を思い、そしていかに受容していったかを紹介する。・・・」という本書の狙いは明確で、食に関するマニアックな記録である。西洋料理を口にしてからたかだか150年。それを考えても日本の食に関する現状は是とすべきかどうか。

1860年の日米修好条約批准書交換の遣米使節団に始まり、明治維新までの8年間に延べ400名を超える日本人が欧米に渡った。しかし、彼らの中で初めて出会った洋食に対して肯定的な言葉を残した人は殆どいない。食べ物という嗜好に大きく左右されるものだけに個人差はあるとしても、その西洋料理に馴染めなかった理由を大括りにまとめられている。

「・・第一はパンや獣肉、バターといった日本では見たことも、味わったこともない食物が出てきたことへの不安感と警戒感。第二は料理の臭い、特に油臭さであった。『臭気』という言葉が多く記録されているのだが、それはバターであり豚脂に起因している。第三は味付け。『塩気淡し』とか『塩気甚だ少なし』といった記述が多く残されている。・・・」

初期渡航者の殆どがやせ我慢の代表たる武士階級だったので、食べ物や食事といった下世話な話題に関する記録がそんなに残っているものなのかと思いつつ読み始めたが、意外と多数の渡航者が個人の日記や旅行記といった形でその感想や想いを書き残しているのには驚いた。その中でも、西洋料理に対する忌避感覚をストレートに表現した例として遣仏使節団に随員として加わっていた青木梅蔵の日記が紹介されているので引用してみると、

「パン、牛肉の焼き物様々、ことごとく嘆息なしたり。パンは別段臭気なけれども何やら気味悪く、牛は猶さらなり。さればとて二日三日此かた食事とては一切いたさず、空腹も亦堪えがたし。・・・この処へ至り、空腹飢餓に陥ることいかなる事のむくいかと世に馬鹿馬鹿しく、只々嘆息のはてはなみだにくれ、神仏に祈る外なかりけり・・・」

著者はこの文章に触発されて本書を書いてみようと思ったと記している程の、まさに流れるような名文であるが、その内容を読むと辛そうな状況がひしひしと伝わってくる。

さて、日米修好条約批准書交換使節団は外国奉行の新見豊前守正興が正使として総勢173名が渡米した。この旅の中で、新見の従者だった玉虫左太夫は、食事について何かと文句をつける武士たちに厳しい視線を向けていた。

「・・・・今回のアメリカ行きの意味を考えたら、食事のような些細な事にとらわれる暇などない。・・・・そういう彼らは日頃、どれほどの贅沢な食事をしていたというのか。・・自分の家では一汁一菜でつつましく暮らしているのに、官費の旅行となると贅沢な発想をするとはどういう料簡なのか。情けない・・」と言い放っている。「情けない」という言葉に全てが集約されている。

かたや、同じくこの使節団の一員であった福沢諭吉は彼の優れた異文化適応力を示している文章を残した。
「・・食堂には山海の珍味を並べ立て、いかなる西洋嫌いも口腹に攘夷の念はない・・・」
もとより、福沢は攘夷論者ではないが彼の開明的で合理的な発想からすればうまいものはうまいと割り切って口にしたのだろう。

こうした立場の違いや個人の感覚の違いがある中で福沢のような人間は例外的であった。異文化や文明を取り入れ、日本化を進めていった歴史のリーダーの一人の姿が見えるようだ。

航海中、この遣米使節団の正使と副使・目付など主な17名はアメリカ側の提督や士官とともに米海軍が提供する食事をして米国到着後、西洋料理に困惑せぬように「訓練」をしていたという。その甲斐もあって、ワシントンでの大統領主催の晩餐会について、副使の村垣淡路守範正の記録を読むと苦労しながらも心のゆとりさえ感じられる。

「総じて三十人ばかり食盤(テーブル)につき、通詞二人ををのれ等の後に立てたり、やがて羹(スープ)を出し、さまざまの肉など、例のサンパン酒(シャンパン)その他種々の酒などをすすめ、さすがに大統領も対食せしことなれば、少しはつつましげなるが、様子も知らねばかたはらの婦人の食せしを見て真似するもいとおかし・・・・」

慣れぬ食事に耐え、夫人同席というカルチャーギャップに戸惑いながら米国大統領を前にして一同神妙に食事をした様子もわかるし、食べ方のわからない料理については横にいる夫人達の手つきを見て真似をしたという、なんともほほえましい状況が綴られている。

本書の中で、味覚表現について多くの記述が集められ分析されているのも興味深い。肉料理などに対する味覚表現が「不味し」とか「口に合わず」といった単純な言葉しか使われていないのに比べると、渡航者の多くが肯定的な反応をした食べ物である果物や氷菓(アイスクリーム)については味覚表現も変化に富んでいて、その違いは歴然としている。

「其の味、甘くして我国の乾柿を思い出される(ナツメヤシ)」
「栗の如き味にて少し苦味ある様に覚候(椰子)」
「パナニの味、西瓜と梨子とを一つにしたる如くなり(バナナ)」
「形大にして皮薄く汁多くして味は他に勝る(オレンジ)」
「珍しきものあり。氷を色々に染め、物の形を作り、是を出す。味はいたってあまく、口中に入ると、たちまち解けてまことに美味なり。是をアイスクリンと云う・・・・」等

当然のことであるが、美味いものは多様な表現になるということだろう。総じて、甘いものは評価高く賞味されたようで、当時の日本における甘味の少なさからすると圧倒的なインパクトがあったと思われる。

読み進むと、たかだか150年前の西洋料理との出会いの記録からは苦しみや悩みがほとんどであったことがわかる。しかし、明治維新の肉食解禁を経て、非常なスピードで日本人の食に対するタブーは殆ど無くなっていった。財一代、衣二代、食三代という言葉が真理だとすると、開国からもう日本人は五代ぐらい経過している計算になるのだから、われわれの「雑食文化」もしっかりと根付いたということだろうか。それにしても、本書の最後に記載されている参考引用文献の数の多さを見ると本書の特徴がよく判る。こうした地道な仕事は好感が持てる。(正)

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