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2011年7月14日 (木)

「原発のウソ」「隠される原子力 核の真実」小出裕章

Genpatu2小出裕章 著
「原発のウソ」
扶桑社新書(184p)2011.06.01
777円
「隠される原子力 核の真実」
創史社(160p)2010.12.12
1,470円

喩えは悪いけれど、福島第一原発の事故は「戦争」だと考えてみる。nuclearは日本語では「戦争」なら核兵器、「平和利用」なら原子力と訳すけれど、戦争であれ平和利用であれ、ウランの核分裂反応で激しいエネルギーを発生させる「核」の本質に変わりはない。そのエネルギーを爆弾として利用したのが原爆で、お湯を沸かす(それが原発でやっていることなんだね)エネルギーの制御に失敗して放射性物質を撒き散らし、核兵器と同じ(長期にわたってという意味では、より深刻な)被害をもたらしているのが福島の事態なのだから。

HIROSHIMA、NAGASAKIは近代日本が「核」を経験した最初の戦争だったとすれば、FUKUSHIMAは二度目の核戦争ということになる。一度目は原水爆使用に関する限り加害者はアメリカ、被害者は日本という構図だったけど、二度目は加害者も被害者も日本。核の悲惨を世界に訴えてきた被害者が、今度は加害者にもなったことろがやっかいであり、だからこそ忸怩たるものがあり、第三者から見れば皮肉のひとつも言いたくなるかもしれない。

1984年に発表された大友克洋の『AKIRA』は、1982年に東京に核爆弾が落とされた、という設定になっている。核戦争後の廃墟の世界。そのような設定は『AKIRA』だけでなく、『風の谷のナウシカ』『北斗の拳』『攻殻機動隊』といったマンガ、アニメなどで繰り返し登場している。

似たような設定はアメリカやヨーロッパの映画や小説にもあるけれど、それらがどこか荒唐無稽なのに対して、日本のマンガやアニメに現れる「廃墟になった世界」のイマジネーションのリアルさ、豊かさはひときわ目を引く。顰蹙を承知で言えば、僕は「3.11」の現実とは思えない映像の数々に、こうしたアニメやマンガのイメージが重なるのを止めることができなかった。

そのリアルさと豊かさがどこから来たかを考えると、福島の事故を経験した今になってみれば、作者個人を超え、その背後に横たわる国民的無意識のレベルで、HIROSHIMA、NAGASAKIの経験だけでなく、地震列島の上に大量の原子力発電所を抱えていることの心理的不安が深く投影していたのではないか、と思うのはこじつけにすぎるだろうか。

原発の「安全神話」にだまされたと言うけれど、あらゆる原発が都市から遠く離れた人口過疎地域に建てられたことから明らかなように、原発がいったん事故を起こせば人と環境に取り返しのつかない被害を及ぼすことは誰もが分かっていた。そしてこの列島が繰り返し地震と津波に襲われることも分かっていたし、人間がつくった機械が必ず壊れることも、40年たてばその機械が老朽化することも、人は無謬でなく必ずミスを犯すことも、常識ある人間なら誰もが分かっていた。

にもかかわらず、大多数の日本人がその不安を無意識の底に閉じ込めて、政府と東電と学者とメディアの「安全神話」に異を唱えることをしなかった。僕もそのひとりだけど、それは内心戦争はいやだと思いながら結局のところ戦争に引きずり込まれていった戦前の日本人となんら変わるところがない。

戦争の喩えに戻れば、FUKUSHIMA「核戦争」では多くの住民が危険にさらされえ、多くの国土が失われた。細野豪志原発担当相も暗に認めたように、原発周辺は相当な範囲、相当な年月にわたって人が住むことはできないだろう。たとえ戻れたとしても、農業や漁業を営めるかどうか分からないし、ガン発症の恐れとも戦わなくてはならない。土地や海の豊かさを考えれば、この国は二度目の核戦争で北方領土以上に大切な土地を失ってしまった。尖閣諸島や竹島とは比較にもならない。

それだけでなく、この「核戦争」でいちばん大きな問題は、未来世代に身体的に、また経済的に膨大なツケを残したことだろう。もともと原発は、事故を起こさなくとも原発が生み出す放射性廃棄物を数百年(ものによっては数万年)にわたって管理しなければならない。そんなヒューマン・スケールを超えた時間をシステムに組み込まなければならないこと自体、原子力発電という科学技術が虚構の上に成り立っていることを物語っている。

そんな廃棄物管理のコスト(「原子力は安い」という宣伝のコスト計算には入っていない)だけでも想像を絶するのに、今まだ進行中の事故がどこで原子炉を安定状態にもっていけるのか、そのメドすらついていない。今やっている汚染水の処理、循環冷却はもちろん、今後の廃炉に向けての作業にも膨大な負担がのしかかる。避難した住民や農・漁業、製造業への補償。国際的な風評被害(工業製品にまで安全証明を求める)や、日本を訪れる外国人の激減(観光立国は未来の柱のひとつだった)。

このところの政治の救いようのないやりとりを見ていると、地震と津波も合わせて、それらの被害から発生する経済的負担は、結局のところ大部分が未来世代へツケとして回されていくのだろう。

いきなり私事になるけれど、筆者には4人の孫がいる。自らが許してしまった原発依存の失敗のツケを自分たちが支払うのは仕方ないけれど、未来世代にはなんの責任もない(震災・原発事故だけでなく、年金・保険制度などについても同様)。このままでは、彼らが成長したとき、この国はどうなっているのか。その子供たちの世代にはどうか。国の未来を憂うるというより、僕の心配は個人的なことだ。

数百年後にまだ日本という国があって、簡単な年表がつくられるとする。近代日本を3項目で記述するとしたら、どうなるだろう。1868年の明治維新。西欧列強に追いつこうとする近代化の出発点。1945年の敗戦。遅れてきた帝国主義国としてアジアへの侵略と戦争にのめりこみ、失敗。ただし短期間で復興を果たし、1980年代には近代国家として繁栄のピークを迎えた。2011年の東北大震災と福島原発事故。??

2011年を数百年後の人々がどう評価するかは分からないけれど、1968年、1945年と同様、2011年が国の姿を大きく変えることになるのは確かだ。ただ、それがどう変わっていくのかは、まだはっきりしない。設計する余地が残っているということだ。

2011年は、バブル崩壊後あらわになったこの国の衰退を決定づけ、以後、日本は没落国家になった。それがひとつの可能性だろう。今のシステムを維持したままツケを未来へ回す姿勢は、いずれ国債暴落、財政破綻を招いて、この国を没落国家にしてしまうに違いない。

でもジョン・ダワーが語っていたように、震災と原発事故はある種のスペースを生んだ。何もしなければそのスペースはすぐ閉じてしまうけれど、その空間を原発もその一部である大量生産・大量消費の従来のシステムに戻してしまうのか、効率一辺倒の近代を超える契機をはらんだ新しいシステムをつくろうとするのかは、今現在の僕たちの選択にかかっている。経済合理性が貫徹する世界市場のなかで生きていかなければならないのだから、ことは簡単ではない。でも、まずはどのような社会に生きたいのか、自分たちで考え、決める「参加と自治」(宮台真司)が求められるんじゃないだろうか。

そんなことを考えるための基礎的な材料として、小出裕章の2冊の本はとても役に立った。チェルノブイリ事故の前後、高木仁三郎や槌田敦らの書いたものを読んで原発について一応の知識はあったつもりだけど、改めて確認し、それだけでなく知らなかったことをずいぶん教えられた。今、この人が書き、語ることから目が離せない。(雄)

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