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2011年12月10日 (土)

「日本農業の真実」生源寺眞一、「日本の農業が必ず復活する45の理由」浅川芳裕

Nougyou1

生源寺眞一 著
ちくま新書(208p)2011.05.10
756円



Nougyou2浅川芳裕 著
文藝春秋(304p)2011.06.30
1,350円

TPP(Trans-Pacific Partnership Agreement)をめぐって、「参加しないと日本は取り残される」とか「参加すれば日本農業は壊滅する」とか、推進、反対の議論がかまびすしい。僕はそれぞれの立場を代弁する経団連にも全農にも肩入れする気は毛頭ないけれど、議論の焦点になっている農業には関心がある。自宅の庭でささやかながら家庭菜園をやっているし、棚田ネットワークというNPOの会員にもなっている。といって、日本の農業の現状についてちゃんと知っているわけではない。

この機会に少し勉強したいと思って新刊書の棚を探したんだけど、適当なものが見当たらない。そこで半年前に出版されたこの2冊を選んでみた。book-naviで取り上げる本は新刊を原則にしているのだが、今回はそんな事情なのでご容赦いただきたい。

日本の農業がいまどうなっているかを知るには、生源寺眞一『日本農業の真実』が役に立った。著者は農水省、東大教授を経て、現在は名古屋大学で教えている。農水省の審議会委員や生産調整(減反)に関する研究会の座長を務めるなど、実際に農業政策に関与してきた。

生源寺が言っていることを僕なりにまとめてみると、こういうことになる。

日本の農業について語るとき、よく食料自給率の低さが問題になる。政府も自給率を上げることを公式の目標として掲げている。ただ自給率の数字には注意が必要で、高ければ高いほどよいということでもない(極端な話、食料不足なのに食料を輸入する財力のない途上国の自給率はとても高い)。この数十年の自給率低下は、分子(国内農業生産の総量)の減少というより分母(消費量)の増加によるところが大きい。消費量が増えた理由の第一は肉食の増加(トウモロコシなど飼料穀物の輸入拡大)で、第二は油脂消費の増加(原料大豆などの輸入拡大)、つまり日本人の食生活の変化が自給率低下の大きな原因になっている。

もっとも、それなら日本農業は大丈夫なのかと問われれば、そんなことはない。著者は自給率の数字ではなく、「食料の絶対的な供給力」を問題にする。仮に食料がまったく輸入できないような事態になったとき、日本の農業は日本人を食わせられるのか、ということだ。その観点からすれば、「日本農業の資源と生産性は、絶対的なカロリー供給力という点で、すでに危険水域に入り込んでいる」と著者は言う。

深刻なのは耕作放棄地の拡大(埼玉県より広い面積が放棄されている)と、農業人口の減少・高齢化(65歳以上が6割)だ。しかもその危機は水田農業に集中している。高度成長の時代には「それなりに安定していた兼業農家のシステムが、農業者の高齢化によって、急速に持続性を失いつつある」。昭和ヒト桁世代や昭和10年代生まれが次々にリタイアし、その農地が継承されることなく、また規模拡大を目指す農家や法人に集約されることもなく(譲渡せず持っているほうが将来トクかも、という判断?)耕作放棄される農地が拡大している。

ところで水田農業をやって米を売っている農家は140万戸あるが(それ以外に、作った米を売らない自給的農家も相当数ある)、その7割以上が作付面積1ha未満の小規模農家になっている。その小規模農家の農業収入は、なんと年間2万円にも届かない(2006年)。日本の所帯平均収入に近い年間540万円の収入を得るには10倍以上の10~15haの水田が必要だ。日本の水田農家の大多数を占める小規模農家は兼業によって世帯を支えてきたが、定年退職などで農業外所得を失い、子供世代へ農業をバトンタッチできないとき、兼業というシステムはうまく働かなくなる。いま進行しているのは、そうした小規模農家の分解・解体の過程なのだろう。

著者は、水田農業という営みは上下ふたつの層からなっている、と言う。上層は市場経済に組み込まれている。米を売ることによって生計を立てている10ha以上の専業農家や法人経営の農業がそれに当たる。耕作放棄された農地は、一方ではこうした専業農家や法人に集約されなければならない。またこの層を担う若い農業従事者を育てなければならない。

この上層を「農業ビジネス」と捉え、その視点から日本農業の未来を考えたのが浅川芳裕『日本の農業が必ず復活する45の理由』だ。著者は月刊誌『農業経営者』の副編集長。

内容は、「食料自給率40%は大丈夫なのか」「TPP参加でコメへの影響はどれくらいあるか」など45の設問を立て、それに答えてゆくスタイルになっている。浅川の論の底に流れているのは、米を偏重することなく野菜や果実を含めて農業を考えていること、どうすればビジネスとして利益を出せるかを最大の関心事にしていることだろう。だから具体的な成功例を多く紹介して日本農業の強い部分を強調し、全体として楽観的で、農産物輸出を目指す「攻めの農業」論に近い(もっとも、彼は農業ビジネスと無縁の自給的農業、趣味の農業を否定しているわけではない。「老後も農業で働ける生きがいがあって素晴らしいことではないでしょうか」と言っている)。

例えば「TPP参加でコメへの影響はどれくらいあるか」の設問に、著者はこう答えている。農水省は「新潟コシヒカリ以外の日本米の90%が外米に置き換わる」というが、果たしてそうだろうか。アメリカの米生産量1000万トンのうち、日本人が食べる短粒種(ジャポニカ)は30万トンにすぎない。農家が短米種に切り替えようとしても、日本のような栽培技術がないので高コストで収量も不安定になる。また長粒種に有利に働く保護もあり、世界的に長粒種市場は拡大しているので、アメリカの農家が短米種の小さな市場に参入するとは考えにくい。もっともカリフォルニアの中粒種は日本人の口にもあうから、外食産業などで一定のシェアは占めるだろう。でもスーパーの米売り場に外国産の米が並ぶようになれば、「日本のコメも負けてられないぞ、ということで、コメ産業に活気が出てくるのではないでしょうか。(TPP反対のデモをする)暇があるのなら、新たな需要開拓に外食用の中粒種の栽培研究を始めてはどうでしょうか」。

「問題は零細化でも高齢化でも、ましてや自給率の低さでもありません。個々の農業者の経営課題、ならびに国民の農業界への期待の低さは、赤字、つまり『儲からない』に起因するものです。あらゆる問題を解決する道は一つしかありません。個々の農業者が黒字化を続けることであり、政治が黒字化を促す政策を講じることです」

浅川の口ぶりはいささか挑戦的だけど、この点については生源寺も同じことを言っている。

「日本の農業にいま求められていることは、経済的にも十分に成り立ち、若者や働き盛りの人材を引きつけることのできる持続可能な農業の再建である。さしあたり、この観点からの制度改革にプライオリティを置くべきことを強調しておく。日本の農業に残された時間はわずかだからである」

生源寺の言う二層構造の話に戻ろう。上層が「農業ビジネス」として捉えられるとすれば、水田農業の基層は「農村コミュニティ」と接続している。なぜなら、「基層の機能は、農業水利施設の維持管理に典型的なように、コミュニティの共同行動によって支えられている。身の回りの環境や施設は自分たちの手で保全し、自分たちのルールのもとで利用する。これが農村の伝統である」。

かつては1ha前後の水田をもつ農家が大部分でコミュニティも均質だったが、今では大規模農家が出てきたり、農業を止めた元農家が増えたり、逆に定年帰農組がいたり、外部から農業に入ってきた人間がいたりして、農村社会も多様化している。そこで新しい共同性をどうつくれるか。

著者は目指すべき新たな農村の姿を「基層のコミュニティでは新たな共助・共存の仕組みが形成されることであり、上の層には専業・準専業の農家や法人経営に牽引される農業生産が定着するかたちである」と述べている。

生源寺の言う農業の「基層」を市場経済(資本主義)になじまない部分として一般化するなら、宇沢弘文が唱える「社会的共通資本」とも重なる部分を持っている(「TPPは社会的共通資本を破壊する」『TPP反対の大義』農文協ブックレット)。

宇沢によれば、「社会的共通資本」は大きく分けて三つある。ひとつは「山、森、川、海、水、土、大気などの自然環境」。ふたつめは「道、橋、鉄道、港、上・下水道、電力・ガス、郵便・通信などの社会的インフラストラクチャー」。三つめは「教育、医療、司法、出版・ジャーナリズム、文化などの制度資本」。

これら共通資本を管理・運営するに当たっては「官僚的基準にしたがって行われてはならないし、市場的基準に大きく左右されてもならない」。

その通りだと思う。農業や漁業といった第一次産業は、いわば自然環境からその実りを頂戴することで成り立っているわけだから、政治家の恣意やごく最近の歴史的現象にすぎない市場の論理ですべてを裁断することはできない。僕たちには自然環境を未来世代に傷つけずに引き渡す責任がある(福島の原発事故でその責任を自ら踏みにじってしまった)。

その一方で、僕たちは好むと好まざるとにかかわらず、あらゆるモノが商品として流通する市場経済のなかで生きている。そのなかで農業を持続的に営み、結果として一定の(先進国の?)生活を維持していこうとすれば、市場のプレイヤーとしてのふるまいも無視できない。農業はそうした両面を考えなければならない営みとして、どこでバランスを取ったらいいのか。

答えが出せるはずもないけれど、イメージとしてはこうだろうか。

広い農地を持った大規模農家がもっと増えればいい。おいしくて安全(ここでも原発事故が傷をつけた!)な果物や野菜をがんがん輸出して儲ける農業法人があっていい(ニューヨークに住んでいたとき、白人地区のスーパーにはリンゴの富士やミカンが並んでいた)。そうした農家や法人が、土地はないけど農業を学び、やがては独立したい若者の受け皿になればいい。

家族で食べる分と親戚や友人に配るだけのコメをつくる農家も、もちろんあっていい。でも後継者のいなくなった農地は、すみやかに他の農家や法人に引きつがれるシステムが整備されてほしい。採算を期待できない棚田や山間の狭い農地は、NPOのオーナー制度などで景観や水保全機能を維持できるといい。都市生活者が趣味で農業できる官民の貸し農園がもっと増えるといい。

つまりは、今よりもっと多様でいろんな選択ができる農業のかたちがあってほしいのだ。(雄)

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