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2012年1月10日 (火)

「暇と退屈の倫理学」國分功一郎

Hima_kokubu

國分功一郎 著
朝日出版社 (402p) 2011.10.18
1,890円

仕事の時代を終えた団塊の世代にとって「暇と退屈」は概念だけでなく、極めて日常的なものとして捉えなければならない年齢になっている。そんな「暇と退屈」が「倫理学」になるものなのかとタイトルに惹かれてこの大著を手にした。「倫理学」であるためにはいかに生きるべきかを問う内容になっていなければならないのだが、「暇と退屈」から「倫理」が導き出されるという期待と疑問が相半ばしての読書であった。

序章からバートランド・ラッセルの「幸福論」が俎上に上がり、ジョン・ガルブレイスの「豊かな社会」を問い、カントの「認識論」、ジュパンチッチの「大義に殉ずる価値観」などが続々と紹介されるに至り、重いなと感じつつも、ここで挫けたり、気後れしてはいけないと読み続けた。読了してみると、なんと多くの論客が「暇」とか「余暇」とか「退屈」「気晴らし」について熱く語っていることに驚くとともに、「論点の多様性と深さ」に驚くばかりであった。

評者は休日の土日と翌月曜日の大阪出張の新幹線の往復という時間を使い三日間で本書を読んだが、「まず注は読まずに一気に通読してほしい」という著者のガイドはなかなか的を射ていると思った。緻密な内容であるだけに、文章・言葉の一つ一つにとらわれていては思考の迷路に迷い込みがちになりかねないことは十分想定される。従って、逐一教科書的に読んでは、読み疲れしてしまうというか、読むことだけで終わってしまうに違いない。

本書の第一のポイントは「暇と退屈」をどのように考え、その構造や原理を理解することにある。いろいろな論が紹介されているが、パスカルの「パンセ」からの「欲望」についての論考とハイデッガーの「退屈論」が双璧と理解した。

さて、パスカルの論のさわりは、「・・狩りに興じる人たちについてパスカルはこんな意地悪なことを考える。ウサギ狩りに行く人がいたらこうしてみなさい。『ウサギ狩りに行くのかい? それなら、これをやるよ』。そう言って、ウサギを手渡すのだ。さて、どうなるだろうか? その人は嫌な顔をするに違いない。なぜ、ウサギ狩りに行こうとする人はお目当てのウサギを手に入れたというのに、イヤな顔をするのだろうか? 答えは簡単だ。ウサギ狩りに行く人はウサギが欲しいのではないからだ。・・・・退屈から逃れたいから、気晴らしをしたいから、狩りに行くのである。・・」。

ここで「欲望の対象」はウサギであり、「欲望の原因」は「気を紛らわせてくれる騒ぎ(狩り)」であるが、人は時としてこうした「欲望の対象」を「欲望の原因」と取り違える。自分はウサギを欲しいから狩りをしていると思い込むというのだ。この原理は賭け事の例でも明確になる。

「賭け事をしたいという欲望は儲けを得ることを対象としている。だがそれは、賭け事をしたいという欲望の原因ではない。・・・『毎日かねをやるから賭け事を止めろ』と言うなら、あなたはその人を不幸にすることになるのだ。その人は儲けを欲しいから賭け事をしているわけではないのだから・・・・」

なんだか、某製紙会社の三代目の話のようだが、「気晴らし」も本書におけるキーワードの一つである。ラッセルが「気晴らしは熱中できるもの」でなくてはならないという考え方はもっともだ。熱中できない活動は「気晴らし」ではなく「苦痛」以外の何物でもないだろう。そうでなければ100億円を賭け事で失うこともない。

また、著者が「退屈論」の最高峰と評しているハイデッガーの考え方もすごい。なにがすごいかというと、「退屈」をそこまで緻密に考えるかということがすごいのだ。彼は退屈を三つの形式に分類していて、第一形式は「何かによって退屈させられること」。これは受動形であって、はっきりと退屈なものがあって、それが人を退屈という気分に引きずりこんでいる状態。第二形式は「何かに際して退屈すること」。これは何か特定のものに退屈させられるのではなく、何かに立ち会っているとき、自分が退屈してしまう。なにがその人を退屈にさせているのかが明確でないことである。第一形式よりも第二形式の退屈は深化しているとともに「気晴らし」が成り立つと言っている。おのおのに具体的な事例が書かれているのでそれなりの納得感を持って読んでいけるが、最後の第三形式である究極の退屈とは「なんとなく退屈」という結論には戸惑ってしまう。ここがスタートとなって退屈論は展開していく。

二番目のポイントは、「退屈」をキーワードにして人類史の展開を考えているところだ。まず、人類学者である西田正規の「定住革命」が紹介されている。それは人類が遊動生活から定住生活に移行した後の一万年間と遊動生活の数百万年間の変化を比較すると定住化後の一万年間の変化がいかに大きなものであったかにを注目している。その後の農耕や牧畜の出現、人口の増大、国家や文明の発展などに象徴される人類史上の大変化の決定的なトリガーとして定住化を位置づけている。

「・・・遊動生活者は常に新たな環境での生活をする必要がある。そのために人の持つ優れた探索能力は強く活性化され十分に働くことが出来る。集められた情報は巨大な大脳の無数の神経細胞を激しく駆け巡るだろう・・・一方、定住者は環境が安定的であるがゆえに、己の能力を集中させ、大脳に適度な負荷をもたらす別の場面を求めなければならなくなった。・・・・・その結果、退屈を回避する場面を用意することは、定住生活を維持する重要な条件であるとともに、それはまた、その後の人類史の異質な展開をもたらす原動力として働いてきたのである・・・」

暇を手にしたことから人類は進歩したと言っている。以降の歴史を語る著者の目線もぶれはない。社会の進歩とともに格差が生まれ、富の集中は「有閑階級」を生み出し、貴族を含め「尊敬される暇人」は「品位ある閑暇」を過ごすブルジョワジーとなる。かれらは暇ではあるが退屈しない生き方の術を知っていた。その後の社会の変化も「暇と退屈」の観点から問題はさらに広がっていたということだろう。

「・・・さらに、二十世紀の大衆社会は、より大きな問題をもたらすことになるだろう。ブルジョワジーのみならず大衆もまた暇を手にすることになる。幸か不幸か、労働者に余暇の権利が与えられたからだ。・・暇を生きる術を知らないのに暇を与えられた人間が大量発生した。・・・」

いささか、斜に構えた見方と思うが、資本主義の進展とともに「労働者の余暇」が「退屈」を生み出して社会問題化したという発想も新鮮に感じるのは事実だ。まだまだ、興味深いテーマは続く。人間以外の生物における「退屈」や、盲導犬が持つ、犬としての認識世界と人間の認識世界の移動能力、生物の時間感覚、テロリストの必然など。「暇と退屈」を語るネタ満載の一冊である。

そして、読み終えてみれば、この読書自体が「暇」をつぶし、「退屈」を回避した時間であったということを体感することになる。本書を読むことこそ「暇と退屈の倫理学」の実践の一つという著者の思いも巧みに仕組まれているということか。(正)

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