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2012年7月11日 (水)

「機械より人間らしくなれるか?」ブライアン・クリスチャン

Kikai_brian

ブライアン・クリスチャン 著
草思社(413p)2012.5.24
2,940円

AI( Artificial Intelligence・人工知能 )の進歩は1950年代から営々として築かれてきた技術である。IBMのDeep Blueと名づけられたシステムが時のチェスの最高実力者だったガルリ・カスパロフと対戦して2回目の挑戦で勝ったことから、世の中の人々に人間対コンピュータという競争を知らしめることになったのはもう15年も前のことである。2011年にはIBMのワトソンと名づけられたシステムがクイズ番組で人間に勝ってしまった。チェスのAIは多くの手の中から最善手を選び出す技術であり、一方、クイズは曖昧な質問を理解した上で、多岐にわたる分野の蓄積された知識を組み合わせて正解を見つけるという技術。AIもここまで来たかという感慨も持つが、人間社会の進歩への貢献という視点に立てばこうしたAI技術をチェスやクイズのために活用すること自体に特別な意味がある訳ではなく、日常生活において実用化されている状況にこそ目を向ける必要があると思う。そして、著者は今のIT環境に対して次のような問題提起をしている。

「・・我々は、現在かなりの時間をPC画面の前で過ごしている・・・電子データを送受信している。こうしたデータのやり取りにおいて、人間であることとは、生きていることとは、そして人間らしさを発揮することとは、一体何を意味するのか・・」

本書はチューリング・テストと呼ばれているイベントに著者が参加したことによって始まる。それは、「機械には思考が可能か」という問いに答えを出すために数学者のアラン・チューリングによって提唱され、1950年に始まったイベントで、審判(人間)がコンピュータ端末を使って、姿の見えない「二人」の相手と5分間ずつチャットする。一方は本物の人間、他方はAIである。チャットが終わると審判はどちらが本物の人間かを判定する。複数の審判が各々判定した結果、一番多くの審判から「人間だろう」と判定されたAIプログラムが勝つ。

同時に一番多くの審判から「人間だろう」と判定された人間が「もっとも人間らしい人間」として表彰される。このチューリング・テストが技術のベンチマーク(水準点)であるという当初の狙いから、このイベントの根幹はAIの「コミュニケーション能力」の精度に移行して行ったというのも技術進歩による当然の帰結であろう。これはコンピュータが「人間に似ている」のか「人間に似ていない」のかを見極めようとする試みであるのだが、過去人間は自らを「他の生物」と比較することばかりを行ってきたこともあり、「道具」であるコンピュータと自身を比較するということは人間にとって劇的な事象であり、こうしたAIを巡る人々の熱狂や不安といった状況について著者はこんな風にまとめている。

「・・人間の能力とはなにか、人間は何を得意としているのか、何が人間を特別な存在にしているのか、といった疑問に答える必要がある。・・従ってコンピュータ技術の歴史を振り返るだけでは物語の半分しか見ていない。残りの半分とは人類が自分たち自身について思索してきた歴史である。・・・・・・」

本書は人間が人間らしさで機械に負けるという意味は何なのかを考え、時間が限られている中で出来る限り有意義な関係を人間同士で築くにはどういった戦略を持って会話をすれば良いのかということについて語られていく。

「人声失認」という病気が取り上げられているのだが、これは人の声を識別できない病気であり、電話で相手が男性か女性か、年配者か若者か、皮肉を言っているのか、動揺しているのか、といったことは聞き分けることは出来るが、相手がたとえ母親であってもまったく特定できないという病気である。しかし、こうした「人声失認」と同様な環境がインターネットを介したコミュニケーションの状況ではないかと指摘している。機械の世界での個人の特定はパスワード、暗証番号、社会保険番号などの「内容」に基づいて本人を認定するのだが、人間同士の世界では、顔つき、声、筆跡、サイン、話し方といった「形式」に基いて本人を認定している。私たちはチャットをしている相手がAIによって対応しているコンピュータかもしれないと疑ってみる必要はないのか、といった素朴な疑問も出てくるくらいAIは進化しているというのが実態なのだ。

AIのベースとなる機械翻訳が研究されはじめた頃の手法はアルゴリズム的でルールに基く計算が主流であった。しかし、とある問題で「解決困難」----計算して正しい答えを出すことは出来るが時間が掛かりすぎるために意味がない----という言い方がされたことから、一挙にコンピュータにおいて「出来ること」と「出来ないこと」の定義が曖昧になったと言われている。このため、時間や空間などの資源の限界を考慮に入れた「計算複雑性理論」が提唱された。そこでは、過去の計算理論は「正しい答えを出す。できれば短時間で」という使命であるのに対し、「タイミングよく答えを出す。できれば正しく」という発想であり、実生活の感覚に近く、なんとなく人間臭い判断である。

実際、私たちは「アルゴリズム的なルールに基くだけの仕事」に対して面白さを感じることは少ない。こんな例をあげている。

「・・ある高校生がバリスタのバイトをしていた。・・彼女は一日中コーヒー豆の鮮度、マシンの温度、蒸気の量に対する大気圧の影響、などエスプレッソをつくるために数え切れないほど微調整をくり返し、おそろしく器用にマシンを操りながら客対応をしていた。その彼女が大学を出てはじめて『正式な』仕事に就いたが、その仕事は厳格に手順が決められている仕事であった。彼女はバリスタをしていた頃に戻りたいと願っている。・・・」

人間は自分自身を機械やコンピータに置き換えようとしているのではない。メソッドを置き換えようとしているのであって、このメソッドを人間が使うか、コンピュータが使うかは二の次である。ただ、人間は全てルール化された仕事や生活をしたいとはけして思っていない。

会話についても同様で、人間同士の会話で頻繁に使用される「ああ」とか「うん」といったものは言葉なのかというと、どう考えてみても文法的には無意味なものだ。しかし、こうした間をつくる言い回しこそが、実際の会話とAIの会話の隔たりの大きさを最もよく示しているものだと指摘している。コミュニケーションは会話する双方が「 WIN-WIN」を目指すべきであり、それが最もよい会話であると主張している。

このように、認知科学やコミュニケーション理論など、多くの分野に言及してAI時代の「人間らしさ」を語っていて面白く読んだ。

システムの進化を想像することは楽しい、しかしその限界も正しく理解しておきたい。そんな観点から本書の中の言葉を二つ紹介しておきたい。

「近未来を描くSFの多く(ターミネーター・マトリックス)では機械が人類を滅ぼすという使命にすぐさま目覚めるという筋書きになっている。・・はるかに現実味がありそうなシナリオは機械がすぐに倦怠感を抱くようになり、自らの存在意義を疑い始めるというものだ・・・・」

「AIやCGが進化して、本物らしく見せたとしても、どうやっても本物にはならないと肝に銘じておくこと。・・・光の反射や屈折の計算は難しい・・・光りが差し込んでいるガラス食器棚の中の世界を計算することは科学者にとって悪夢である。・・・・・」(正)

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コメント

私たちは3.11で人間の限界も機械(システム)の限界も認識しました。「人間は何が出来るか」という上から目線ではなく「人間は何をすべきか」という視点からの行動が問われていると思っています。それも、システムを活用しながら。

投稿: 正 | 2012年7月17日 (火) 12時53分

興味深いですね、機械の未来はどうなるんでしょうね。

投稿: よし@お金持ち研究 | 2012年7月14日 (土) 01時31分

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