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2013年4月20日 (土)

「さらさらさん」大野更紗

Salasa_ohono

大野更紗 著
ポプラ社(360p)2013.03.13
1,470円

著者は25歳で「筋膜炎脂肪織炎症候群」という難病を発症し、退院したもののステロイドをはじめ30数種のくすりを服用しつつ、室内での安静状態を余儀なくされていながら親と同居することなく一人暮らしをしている女性。1984年生まれ、2008年に上智大学外国語学科フランス語科を卒業後、ビルマ難民支援や民主化運動に関心を抱いて大学院に進学。ビルマでのフィールドワークの最中に発症した。本書は著者にとって二作目の本であり、評者は一作目も読んでいなかったので、この際とばかり、「さらさらさん」と一作目の「困ってるひと」をまとめて読んでみた。

難病発症でそれまで元気な若者が一転して、激痛と身体が石になったように動けなくなるという病状に陥り、検査の連続、闘病という一連の体験に基づき、一作目の「困ってるひと」を出したが、それは自身の闘病記に止まらず、社会システムや医療体制に対する鋭い批判を明るく前向きに表現している。発症当初は原因不明の難病として、検査の日々が続き疲れ果て心身ともに消耗しつつ治療に入るまでに一年間の間多くの病院を、悪く言えばたらい回しされていく。医者も原因が判らず困っているという状況も、患者の立場になれば怒り以外の何物でもない。一方、難病認定をはじめとした役所の手続きの複雑怪奇さに怒り、呆れながらも明るく読める文章に仕立てているのは彼女の優れた知性とユーモアのセンスの賜物だ。

さて、二冊目となる「さらさらさん」は作家としてのスタートとなった一作目が出版された2011年6月以降、各種のメディアで発表された文章やパネルディスカッションの書き起こし等が収められている。対談もあれば、エッセー、書評、映画評などもあり玩具箱をひっくり返したような内容である。著者の言を借りれば「『個展』「」のような本」である。対談が本書の中核で、コピーライターの糸井重里、社会学者の古市憲寿、南アジア地域研究の中島岳志、作家の重松清、東日本大震災の「遺体」を書いた石井光太、菅内閣で社会保障改革をリードした北大の宮本太郎、「五体不満足」の乙武洋匡、新生児仮死の後遺症で脳性マヒを乗り越えた小児科医の熊谷晋一郎、障害者団体NPOの川口有美子、一橋教授で医療政策の猪飼周平、など錚々たる人たちとの対談である。

内容は、著者本人の難病での苦しみをアピールするということよりも、難病に罹った実体験をもとに問題提起をし、疑問をぶつけ、議論をすることによって社会へのメッセージとして完成度を上げている。患者、医者、社会学者、政治学者といったプロ達の議論であるが、一般の健常者という立場で読んでみると、今まで気にしていなかった論点が数多く提示されている。

対談に登場する乙武洋匡は外見を含めて「困ってるひと」であることは一目瞭然であるが、難病の患者でも「困り具合」を外観的からは判断できない人達も多いと指摘されると誰が健常者で誰がハンディキャップを負った人かを正しく理解してはいないと気づかされる。彼らが周囲の人達に「自分の困り具合」を理解してもらうには、語ることや書くことによって社会に発信していくしかないのだが、そうは言ってもそうしたコミュニケーション能力や発信チャンスを持っているわけではないのだから、大野のような語る人の存在が個人の「困ってる」ことの理解を超えて重要になってくる。本書の対談においても議論される論点は多様で、社会保障、医療システム、共通番号制度、医療技術、世代論、など著者の好奇心の範囲の多様さが際立つ内容だ。
    
著者は、「悪い時代に自分たちは生きている」と理解しているように感じられるのだがどうだろう。こんな大野の発言が象徴的である。

「高度成長期やバブル時代の体験がないのでその時期に異様な空間だったんだろうな、ということは想像つくんですけど」

「異様な空間」という言い方の真意はなかなか理解出来ないのだが、こうした考え方は20代30代の人達の共通したものだとすると、彼らは所謂デフレ世代で物価も下がるが、収入も下がり続けた時代に生きてきたので、「成長期でインフレ」という時代を「想像し難い」どころか「異様」と感じてしまうということなのか。こうも言っている、「わたしたち世代は地味です。わたしは世代論が一番嫌いなので、あまりこうした話はしたくないんですが。昔、革命をしようと言っていた人はどこに行っちゃったんでしょうか」と嘆きつつ、「自分に出来ることをただやるだけです。若者は社会を変えられるか、じゃなくて、今日生存するということ自体、闘いです」

我々の20代のころは年齢分布上も圧倒的に若年層が多かった。ただ、収入を含めて社会的な影響力という観点では一人一人の力はまさに微力であったものの、数が多いだけに力の総和はそれなりの大きさを保持出来たといえる。また、それを信じて行動していたと記憶している。「生存すること自体が闘い」という表現に、今の若者が置かれた厳しさが端的に表れている。

次に、社会システムとしての福祉国家の有り方について宮本太郎との対談は興味深い。まさに二人の議論はすれ違いの連続なのだが、宮本は菅内閣の時の「社会保障改革に関する有識者検討会」の座長を務め「安心と活力への社会保障ビジョン」を取りまとめた人間。その結論というか内容に大野は疑問と不満をぶつけている。大野が現場主義で多様な「困ってるひと」を助けることに立ち位置を定めているのに際して、宮本は審議会座長として福祉国家の理想を議論するというよりは、明らかに限られた財源の割振りを、出来るだけ公正・公平に幅広い分野で行うという現実主義に立った社会保障政策の立案にポイントを置いている。

しかし、これは著者の目線でいえば「理屈で上から国家を設計する」という批判となる。個別の財源・サービス提供の優先順位を「人口」「財源」縮小の中で決定するということは、成長期の「財源の配分」の議論ではなく、「苦しみ、痛み、困っていること」をいかに分担するかという「負担の配分」の時代の議論なのだと評者は考えるのだが、とすると「負担の配分」であるからこそ「理屈」が必要であり、「上から設計」する必要が有るという宮本の立場に理解を示したくなるのだ。

これは同じく、共通番号制度に対する議論も同様である。大野は「家庭内暴力」や「家族の概念の変化」を考えると世帯という考え方を変革させていかなければいけない時代にもかかわらず、共通番号制度によって世帯概念を温存させてしまうことになるのではないかとの危惧を持っている。それは共通番号制度の論点の一部であると思うが、税と保障を一体的に考えると、確実に収入を補足して適切な課税を達成するためにも共通番号制度による追跡は必要であり、社会保障制度の確立にも必須の仕組みだと思うのだが、その考えが硬直的と著者には言われそうだ。

議論の賛否は別として医療、福祉、社会保障に関する実情を理解し、論点を深めるためにはおおいに役に立つ本だ。著者の精神力と努力には頭が下がる。それだけに、難病という障害を抱え、苦労しつつ、挑戦している著者を体制やマスメディアが必ず利用しようとするのは目に見えている。加えて、著者の「難病・女性・福島」という二重・三重のブランドを見逃さないのが社会なのだ。フィールドワークで培った地道な現場意識を持ち続けて、根気よく泥臭い意見を発信してほしいと切に期待する。慌てるとその才能と根性を食い物にされるだけだから。 (正)

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