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2013年12月15日 (日)

「流星ひとつ」沢木耕太郎

Ryusei_sawaki

沢木耕太郎 著
新潮社(323p)2013.10.11
1,575円

2013年8月22日、藤圭子投身自殺のニュースが流れた。ニュースを聞きながら、自分の体内時計が1970年代にゆっくりと戻っていく感覚を抑え切れなかった。彼女が1979年末に引退した後は、評者自身が仕事に追われていた時期でもあり、藤圭子の名前はTVや新聞のニュースから、海外の空港で法外の現金を没収されたとか、宇多田ヒカルの母親として聞くぐらいなものであった。そんなこともあり、沢木耕太郎が彼女の死後、間をおかずに藤圭子に関するノンフィクション本を刊行したと聞いて少なからず驚いた。やっつけ仕事で何を書いたのかという疑問である。しかし、本書の「後記」を読むことでそうした疑念も的外れであったことが判った。

本書は、1979年の秋に藤圭子が引退を表明した直後から同年12月26日の引退コンサートまでの短い間に、彼女と沢木によって行なわれたインタビューを記録したものである。そもそもこの原稿は「別冊小説新潮」に掲載し、その後、単行本として刊行される予定になっていたものだが、この原稿を書き終えたところでその計画に不安を持った。

「藤圭子が引退する理由も判った。それが並みの決意でないことも理解できた。とはいえ、これから先、芸能界に『復帰』せざるを得なくなるかもわからない。その時、この『インタビュー』が枷にならないだろうか。・・・藤圭子は自分の周囲の人たちについて、あまりにも好悪をはっきりと語りすぎる。・・・要するに、これから新しい人生を切り拓いていこうとしている藤圭子にとって、この作品は邪魔にしかならないのではないかと思ってしまったのだ」

こうして出版を断念し、沢木はこの手書き原稿を一冊の本に装丁して、引退してアメリカに渡っていた藤圭子に「流星ひとつ」というタイトルをつけて送り届けた。彼の手元にはコピーが一部だけ残り、以後、陽の目を見ることは無かった。そして、このタイムカプセルが藤圭子の投身自殺という事象によって「34年後の今」解き放たれたというのが実態だ。

加えて、沢木はこのインタビューを文章表現する方法として、極めて挑戦的な手法をとっている。それは、いっさいの地の文を加えずに、全てを会話体で表現するという手法である。説明なしで、会話だけで表現するというのは、聞き手としての沢木の力量が求められるのは当然として、読み手にも高い想像力を要求することになる。結果、語り手たる藤圭子の人となりを立体的に彫り出して見せる手法として、この試みは成功したと思う。

畳み掛けるような沢木の質問にぽんぽん答える藤圭子もいれば、無言を続ける彼女もいる。会話の流れからは二人の息遣いが聞こえてくるようだ。それは映像や音声を超えた臨場感を作り出しており、藤圭子28歳、沢木耕太郎32歳の会話が十二分に体感できる。デビュー以前の子どもの頃の貧しく厳しい生活、浪曲師であった父親の暴力、成績も良かった学校生活などが語られ、そして東京に来て数年の後のデビューと続いていく。会話の時間軸はときに、往きつ戻りつし、話題もスッと変化したりするのだが、自然の会話の流れとして許される無駄とでも言えるこうした横道も現実感を深めている。

それにしても、読了すると、藤圭子が歌手として駆け抜けていった時代は一瞬の間であったということが再認識させられる。1969年9月に「新宿の女」でデビュー、1970年2月「女のブルース」同年5月「圭子の夢は夜ひらく」、同年7月「命あずけます」。わずか一年に満たない間にこれだけの楽曲をリリースしているのだ。そしてその年のNHK紅白歌合戦に出場し、あっという間に歌謡界の頂点に駆け上がった。1971年前川清との結婚。翌1972年に離婚。1973年には肉親同士の摩擦やプロダクションの移籍などでマスコミをにぎわす。結果1973年の紅白歌合戦に不出場となった。そうした激動の時間を語る中で、沢木の言葉を借りれば「想像をしていなかったほどの純粋さを持った女性の姿」として藤圭子は存在している。

このインタビューに臨んで、沢木は大宅壮一文庫に赴き、藤圭子のデビュー以来10年間の週刊誌・月刊誌など雑誌に掲載された全ての記事を読み、片や、藤圭子は沢木の「敗れざる者たち」を読んでいる。「何故引退するのか」と詰め寄る沢木に対して藤圭子はこう言い放つ、「一度どこかの頂上に登っちゃった人がそのあとどうするか・・・あの本の中に出てきた人たちの気持、あたしにも良く判った。でもね、沢木さんには、あの人たちの気持が本当にはわかっていないんだ」

こうした藤圭子の正直でストレートな発言は随所に出てくるのだが、インタビュー嫌い、マスコミ嫌いの理由を語っている中にもそれらが垣間見られる。

「いつでも記者の質問は同じなんだ。・・・同じように心をこめて二度も同じようにしゃべることなんかできないじゃない。・・・自分のことをわかってもらえるのかもしれない、なんて思って真剣にしゃべろうとすると、もう記事のタイトルが決まっていたりして」

結果、誤解や悪意に彩られた記事が紙面に踊ることになるのだが、
「別に大した事じゃないよ。・・・読まなければ腹も立たなくなるよ。そのうち。・・・それでも、嘘をつきたくないから、いつでも本当のことを言ってきた。正直がいいことだと思って、自分のこともさらして出してきたけど、・・・」

昭和48年の紅白歌合戦に選ばれなかったことだ。多くのマスコミに叩かれた結果とはいえ、身内のスタッフの不甲斐なさに苛立ちを表すとともに、歌は好きだけれど、業界とそのビジネスには馴染めなかった藤圭子の純粋さもよく現れている。

「そして、紅白に出場できなかった。それはどうしてなの」
「知らないよ。そんなの向うが勝手に選ぶことだから。・・・口惜しかった、だけど
自分が納得できさえすれば、どんなことでも平気な性分でしょ。マネジャーが紅白落ちましたけど別にいいじゃないですか、来年からNHKに出なければいいんですから、と言ってくれるようだったら、良かったの・・・そんなふうに頑張ってくれるマネジャーがいたら、そのことで落ちぶれても、駄目になっても満足だった」
「女にしておくのはもったいない性分だね、まったく」

1977年にリリースされた玄人筋には名曲と評価されたもののヒットしなかった阿木耀子作詞、宇崎竜童作曲の「面影平野」という曲について、沢木は何故と問いかける。藤圭子は、好き嫌いというより、阿木の歌詞のもっている心がわからなかったと語りながら、「ただ、それだけじゃない。やっぱり藤圭子の力が落ちたからかもしれないんだ。・・・喉の手術をしてしまったときに藤圭子は死んでしまったの」と1974年にポリープ摘出手術をした結果、声が変わってしまったことが引退に向けての引き金になったことを語っている。デビューしてわずか5年のことである。

この長いインタビューはこんな会話で最後となる。
「みんなには引退して少しのんびりしたいからと言ってあるんだけど、英語の勉強したいんだ。でもそんなこと言えないでしょ、恥ずかしくて・・・とにかくひとつのことに熱中して勉強したいから」
「いま、あなたはとりあえず仕事をもっているでしょ? たとえ、それに満足していなくても。ぼくたちから見れば、歌っている瞬間にあなたがキラキラするのを感じることができる。しかし、その仕事をやめたとき、その生活の中で煌く何かをもてるだろうかという・・・」
「そんなこと、少しも心配していないんだ、わたし。・・・藤圭子をやめたんじゃない。歌をやめただけなんだよ」
「そうだね。次の何かを見つければいいんだろうな」
「うん、そうする。また何か・・・」

藤圭子の死後、宇多田ヒカルのオフィシャル・サイトに発表された「わたしは幼い頃から、母の病気が進行していくのを見ていました」というコメントや多くの報道に接し、沢木は本書の刊行を決意したという。

「私はあらためて手元に残った『流星ひとつ』のコピーを読み返した。そこには、『精神を病み、永年奇嬌な行動を繰り返したあげく投身自殺をした女性』という一行で片付けることのできない、輝くような精神の持ち主が存在していた」

そして、現在の新潮社の担当者である、宇多田ヒカルと同年代の女性からの「これを宇多田ヒカルさんに読ませてあげたい」という言葉も大きな後押しになったという。沢木耕太郎32歳。その34年前の仕事が現在も新鮮なものであることに驚く。藤圭子と沢木耕太郎というふたりの相乗効果で、1970年代をまさに「流星」のように駆け抜けていった藤圭子の当時の実像に接近することが出来る好著である。(正)

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