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2014年8月11日 (月)

「この写真がすごい 2」大竹昭子

Konosyashin_otake

大竹昭子 編著
朝日出版社(172p)2014.05.25
1,944円

『この写真がすごい 2』には70点の写真が収められている。撮影者にはプロもいればアマチュアもいるけれど、撮影者が誰か、どんな状況でどんなふうに撮られたのか、テーマやタイトルは何か、文字情報はいっさいない(巻末にまとめられている)。読者は何の先入観もなく、まず写真と向き合うことが求められる。

「すごい」と銘打たれているが、「ナショナル・ジオグラフィック」みたいに驚異的な自然とか、人間がつくった目新しい創造物のような、ひと目で「すごい」写真は実はほとんどない。誰も撮ろうと思わない変哲もない街角や、開きかけたビニールの衣装ケースをただ撮ったものなんかまである。でもじっと見ていると、たしかになにか変だ。ページをめくると、その「変」をめぐって、大竹昭子が短い文章を書いている。

6年前に出て、実に面白かった『この写真がすごい』の第2弾。70点のうち、僕が「すごい」と思ったものをいくつか挙げてみよう。

都会の路上で、女性が大きなスーパーの買い物袋を3つも抱えて携帯をかけている。それだけならどこにでもある風景だけど、女性は腰まで水につかっている。町が洪水に襲われたらしいのだが、電話をかけている女性の表情からは切迫した気配がまったく伝わってこない。電話の相手は家族で、「いま野菜とお肉とポテチ買ったから、これから帰るね」なんて言っていそうだ。非日常の日常。これは、穏やかな表情に見える瞬間を狙った写真の詐術というより、実際に日常営まれている当たり前の風景なんだろう。どうやら数カ月も水が引かなかったタイ洪水の写真らしい。東日本大震災を例に引くまでもなく、おだやかな水(海や川)もひとたび牙を剥けば途方もない凶器に変わる。バンコクを襲ったその凶器に対しても、時間が経つにつれて人は慣れ、腰までの水もいつもの穏やかな自然として、町はもともと水のなかにあるのだと人々は思っている、ように見える。

東北新幹線E5系「はやぶさ」。日暮れ時、闇が優勢になるなかオレンジ色の斜光を受けて疾走する姿が超望遠レンズで捉えられている。ライトを反射して光る運転席の窓はまるでトンボの目のようだ。先頭車両はあらゆる部分が曲線的に設計されているので、反射するものの形はすべて変形され、蝶か昆虫の奇妙な模様のように見える。まるでハリウッドのSFX映画で、機械とエイリアンが合体して奇怪な生物に変身する瞬間のように感じられる。また望遠レンズで黒棒が並んでいるように変形された客車の窓の列は、生物の肌に刻印されたバーコードのようだ。

セーラー服の女子高生が生まれたばかりの赤ん坊を抱いている。彼女はかすかに微笑んで、そばの電柱に隠れるようにもたれかかり、赤ん坊を撮影者に、ほら、と見せるように不自然な姿勢で抱いている。どういう状況の写真なのか、女子高生と赤ん坊がどういう関係なのか、まったくわからない。そのわからなさが「変」であり、その「変」からあらぬ妄想が引き出されてくる。赤ん坊はこの女子高生の子供なのか。そう思って見れば、彼女の表情にはどこか秘密と隠微な気配が漂う。セーラー服も、言うまでもなくその気配に加担している。いったん妄想が走り出すと、あらゆる要素がそのように感じられてしまうのだ。

もうひとつ妄想系の写真。樹木に囲まれた土の道の先に小さなトンネルがある。闇夜。僕は見た瞬間、鎌倉かなと思った。鎌倉の切通しはトンネルではないけれど、それに近い雰囲気。トンネルの手前に小型のバイクが止められ、ライトがトンネル内部を照らしている。周囲は闇で、木の葉や枝が影になっている。大竹は慎み深く「体内写真」と書いているが、男がこの写真から連想するのはありていに言って女性性器だ。トンネルの入口に停められたバイクが太く黒い棒のように映っているのも意味ありげ。撮影者は写真から生まれるこんな妄想を意識していたのだろうか。意識していた、と僕は思う。その意味では、作者の仕掛けにまんまと嵌まった。

電柱に取り付けられたプレートに「渋谷」と書いてあるから、渋谷駅近くなんだろう。高架を電車が走っている。道路脇にはマンションとオフィスビル。「会計士・税理士資格」といった看板が見える。高架下を人が2人歩いている。とりたてて特徴のない、どこにでもある街角。目を引く人も物も色彩も文字情報も見当たらない。どこにも目がいかない。撮影者は何に惹かれてこの写真を撮ろうとしたのか、それがつかめない。しかも中央には電柱がでんと立って、画面を左右に分割してしまっている。まるで素人が撮った写真みたい。いや、素人でもこうは撮らないだろう。ところがこれ、プロの写真家が撮った写真なのだ。ということがわかると、では写真家は何を撮ろうとしたのかと、もう一度考えることになる。季節は夏らしい。午後の日差し。といって、とりたてて感ずる街の空気や気配もない。誰もがふだん目にしていながら、誰も記録しようと思わない風景。それを撮ろうとしたのか。果たして本当にそうなのかどうかも、よくわからない。「変」な写真である。

僕たちはふだん、新聞や雑誌やネットや広告で数え切れないほどの写真を目にしている。でもそれらの写真はたいてい状況説明やら商品や物の名前やら人の名前やら、何らかの文字情報が添えられていることがほとんどだ。だから写真を見るときには、それがどんな文脈に置かれた写真なのか──どんな事件・事故なのか、どんな物なのか、誰なのかなどなど──が分かった上で眺めることになる。僕たちが目にする写真のほとんどは、はじめからある文脈のなかに置かれている。

そうした文脈は文字だけでなく、例えば複数の写真を並べることからも生まれる。よく知られたクレショフ効果というのは、同じ男の顔の写真の脇に、棺の写真、食べ物の写真、ソファに横たわる女性の3種類の写真を並べる実験。そうすると同じ男の顔が、それぞれ「悲しみ」「空腹」「欲望」の表情に見えてくる。「編集」と呼ばれる作業で、こんなふうに写真をある意図のもとに組んだり、文字で写真説明を加えることによって、一定の文脈をつくることができる。

僕は現役時代に写真雑誌の編集をしていたことがある。だからかなりの数の写真家の写真を見ているし、写真の歴史についても多少の知識はある。そうすると、撮影者は誰か、その写真が表現の歴史のなかでどんな系統のどんな位置にあるのか、意識しなくともそうした文脈のなかで写真を見てしまったりする。この本でも、見た瞬間に、あ、誰それの写真だな、と分かるものがいくつかある。でもそれが分かっても、この本を読む楽しみが減りこそすれ、増えるわけではない。

僕たちが写真を見るとき、たいていはある文脈の下で「見る」というより「読む」ことを強いられている。それは写真というメディアの高度の使い方ではあるけれど、往々にしてある文脈にからめとられてしまう。そうした文脈から自由に、まずは写真そのものに向き合ってみること。大竹昭子はそういう場所から写真の原初的な面白さを引き出そうとしている。(雄)

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