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2014年10月13日 (月)

「帝国の構造」柄谷行人

Teikoku_karatani

柄谷行人 著
青土社(266p)2014.08.12
2,376円

「下部構造が上部構造を決定する」というのはマルクスの有名なテーゼだ。この場合、ふつう下部構造とは経済的な生産様式のことだと理解されている。近代の資本主義社会ならブルジョアジーが生産諸関係を独占的に所有している、といった具合に。ところがこの本で柄谷行人は、下部構造の中身を生産様式でなく交換様式と読み替えようという。そうすると上部構造である国家と下部構造である交換様式との関係は大雑把に言えばこんなふうになる。

国家以前(氏族社会)─互酬(贈与とお返し)
専制国家(帝国)─支配と保護
近代国家(資本主義国家)─商品交換(貨幣と商品)

その上で柄谷は、マルクスに倣って近代国家─商品交換を否定(マルクス用語なら止揚)した、来るべき上部構造と交換関係の姿をXと仮定する。そのXがどのようなものになるかを考えたのが本書『帝国の構造』だ。そしてそのXを考えるとき、いちばん重要なのは近代国家以前に広域を支配した世界帝国──古代のペルシア帝国やローマ帝国、近世のオスマン帝国や清帝国──のあり方だという。

例えば紀元前6世紀に成立したペルシア帝国の「構造」を柄谷はこんなふうに取り出す。ペルシア帝国は黒海から中央アジア、インドからリビアにいたる大帝国だった。ペルシア帝国は交代制の州総督制度を設け、貨幣制度や度量衡を統一した。王道や宿駅を整備し、通信システムを整備した。また法治主義を確立し、暴力による部族的な報復を越える統治を確立した。ゾロアスター教を国教としながら、被征服民族の宗教・慣習を尊重した。

「(帝国の原理は)多数の部族や国家を、服従と保護という『交換』によって統治するシステムです。帝国の拡大は征服によってなされます。しかし、それは征服された相手を全面的に同化させたりしない。彼らが服従し貢納しさえすれば、そのままでよいのです」

ところで柄谷は帝国を考えるとき、もうひとつの軸として「中心」「周辺」「亜周辺」という地政学的構造を導入している。中心とは帝国の本体部分。周辺は帝国に朝貢、あるいは服属する国家。亜周辺は周辺のさらに外側にあって、帝国の圧力を直に受けなくてすむ国家。たとえば中華帝国を中心とすれば周辺は朝鮮やベトナム、亜周辺は日本ということになる。またギリシアはペルシア帝国の亜周辺であり、イギリスや西ヨーロッパはローマ帝国の亜周辺に当たる。周辺の国家は中心に服属せざるをえないが、亜周辺の国家は中心である帝国から必要なものだけを取り入れる「選択的態度が可能」だった。その意味では帝国の圧力から比較的自由でいられた。

帝国の亜周辺にあるイギリスや西ヨーロッパでは自立的な都市が栄え、商品経済が発達し、そこから資本主義経済と近代の国民国家が生まれてくる。国民国家は、帝国が多民族をそれぞれの固有性のまま統治しようとするのに対し、成員が同じ言語をしゃべり、同じ文化を持ち、時に同じ宗教を信ずるよう全員を同質化する。

19世紀に帝国主義化(帝国化ではなく)した西ヨーロッパの国民国家は、オスマン帝国や清帝国を解体しようとした。20世紀の民族問題の多くは、多民族が複合的に統合されていた旧世界帝国が本来ヨーロッパの内部ルールである「民族自決」というイデオロギーによって解体されたことから生まれた。

……と、『帝国の構造』のなかで僕が理解でき、しかも面白いと思ったところを抜き出してみた。僕らの世代は世界史を柄谷によれば亜周辺にすぎないヨーロッパを中心に勉強してきたから、歴史をどうしてもそのように見てしまう。そこをこの本は、先進国の視点からは近代に乗り遅れた旧世界帝国を中心に据えて歴史を考えていく。そこが新鮮だった。

なるほどなと思わせる指摘もいろいろある。たとえば「旧帝国が民族主義によって分解せず広域国家として存続したのは、民族よりも階級を重視したマルクス主義者が革命を起こしたところ(注・ソ連と中国)だけだった」というところ。あるいは中国について「王朝の交替期には、必ず農民・流民の反乱があった。それらに支持され、また、土地改革を掲げることによって新たな皇帝が出てきたのです。孫文や(都市プロレタリアートを重視した)陳独秀らが西洋モデルで考えていたのに対して、(農村が都市を包囲する戦略の)毛沢東は帝国の経験に立脚していたといえます」といったあたり。

そこから「中国に必要なのは、近代資本主義国家に固有の自由民主主義を実現することでなく」「国民国家の観念を超えて、積極的な意味で『帝国』を創出する方向をめざすことです」という極めてユニークな論が出てくる。

このことからも分かるように、柄谷が言うX、行き詰まった国民国家と商品経済を超えるXは「旧世界帝国がはらむ可能性」を考えることからその方向が見えてくる。また国家以前の社会にあった互酬性(贈与とお返し)や、定住以前の狩猟採集社会にあった遊動性(自由)をどのように高次元で回復するかといった課題も出てくる。

過去現在の社会を止揚し来るべき社会Xを設定するという弁証法的な論理は、いかにもカント、ヘーゲル、マルクスといったドイツ哲学を読んできた柄谷行人らしい。それが妥当かどうか僕などには判断できない。マルクス主義が力を失って以来、リアリズムという名の現実追従が幅をきかせる今のこの国では、こういう姿勢は観念的で時代遅れとされてしまうだろう。でも来るべき社会の理想を求めつづける反時代的な姿勢にこそ、この本の真骨頂があると思う。柄谷の哲学的な著作は『探究』なんて最後まで読み通しても何をやろうとしているのかさっぱり理解できなかったけど、こういう歴史哲学ならなんとかついていける。

反時代的な姿勢を貫く柄谷らしく、来るべきXについて参照するのはカントが『永遠平和のために』で論じた「諸国家連邦」とその完成形としての「世界共和国」である。第一次世界大戦後にできた国際連盟が、カントの構想に基づいていることはよく知られている。第二次世界大戦後の国際連合もこの流れの上にある。国際連盟も国際連合も、その理想主義にもかかわらず現実には有効に機能していないとして歴史的な評価は高くない。

にもかかわらず柄谷がそこに可能性を見るのは、国際連盟(連合)が「近代主権国家以前の思想」にルーツを持ち、それだからこそ来るべき社会Xの今ここにある徴候として国民国家を超える可能性を孕んでいるからだろう。そして柄谷がもうひとつ「世界共和国」の徴候として挙げているのが日本国憲法第9条である。

ところでこの本は、北京の清華大学に招かれてした講義に手を入れたものだ。それ以外にも中国の社会科学院や上海大学でも同じテーマで講演している。「中華民族の復興」を唱える中国が柄谷行人のような問題意識をもった著作家に声をかけるという事実は興味深い。チベットやウイグルへの弾圧、あるいは東・南シナ海でのふるまいを見るにつけ「帝国の可能性」ではなく「帝国主義化」しているように見える中国だが、こうした世界史的な問題意識も併せ持っているとしたら、一党独裁の強権国家とだけ切り捨てるわけにはいかない奥の深さを感ずるべきかもしれない。(雄)

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