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2015年5月11日 (月)

「書物の夢、出版の旅」ラウラ・レプリ

Shomotu_laura

「書物の夢、出版の旅」ラウラ・レプリ
ラウラ・レプリ 著
青土社(290p)2014.12.10
3,024円

『書物の夢、出版の旅』は16世紀ベネツィアの出版業と、それにたずさわる上流階級の人々を描いた「歴史ノンフィクション」だ。著者は作家養成研究所を主宰し、文学賞の審査員も務めるイタリア屈指の編集者だそうだ。僕も長年、記者・編集者稼業をやってきたので、印刷・出版に関することには興味がある。書店の棚で「書物」とか「印刷」という書名を目にすると、つい手に取ってしまう。この本もそのようにしてレジへ持っていくことになった。

この本の面白さは二つある。ひとつは、ルネサンス期のベネツィアを登場人物とともに歩いているような気分にさせてくれること。広場や街路など街の様子がていねいに描きこまれている。もうひとつは、黎明期の出版業がどんなものだったのかを教えてくれること。本書の原題は「富か栄誉か──書籍、出版、虚栄、十六世紀のベネツィア」なのだが、なんだ、印刷・出版の世界は今とたいして変わらないんだなあ、というのが読み終えての感想だった。ここでは後者の面白さを見ていこう。

この時代、ポルトガルによる大航海時代が始まって東方貿易に陰りが見えはじめたものの、ベネツィアはいまだ地中海に君臨する強大な都市国家だった。グーテンベルクの活版印刷機が発明されて約70年、出版業はドイツだけでなくイタリアでも盛んになり、ベネツィアはその中心地になっていた。

物語は『宮廷人』という一冊の書籍の出版をめぐって展開する。後にイタリア貴族階級の社交術の教養書として有名になったこの本を書いたのは、当時ローマ教皇庁大使としてスペインに赴任していたカスティリオーネ。彼の友人でベネツィア共和国書記官のラムーシオが、この原稿を出版しようと印刷所(出版社)が軒を並べるベネツィアを奔走する。結局、ギリシア・ローマの古典を出版する名門トッレザーニの印刷所がこれを引き受けることになった。

グーテンベルクが印刷して歴史を変えることになったのは聖書だった。ほかにこの時代のベネツィアで出版された本には「八行詩形式の詩」や「キリストの受難物語」、「過去の世界の恋愛と冒険と闘いの物語」、巡礼者のための「旅の本」、商人のための「トルコ語辞典」などがあった。言語はラテン語だけでなくイタリア各地の俗語(この時代、共通のイタリア語は成立していない)、ヘブライ語、アラビア語、アルメニア語などの本も印刷されていた。
 
ベネツィア最高の印刷所と言われたトッレザーニの工房は、先代の時代にさまざまな革新的な手法を導入して、現在の書籍に近いものをつくっていた。例えばグーテンベルクの聖書に使われた重厚なゴシック体に代えて、軽快なイタリック体を使ったこと。初めてコンマ(, )を使ったこと。ページ番号をつけたこと。前書きをつけたことなど。

トッレザーニの印刷所では15人ほどの職人が4~6台の印刷機を動かしていた。活字を拾ってページを組み立てる植字工は、字が読めなくてはならないから印刷工の10倍の給料をもらっていた。1台の印刷機には2人の男がついていた。活字を組んだ活版にインクを塗り、紙をあてがい、プレスをかけて印字する。1台で1日に1500枚程度印刷することができた。このような手刷りの印刷機は日本にも明治初期に輸入され、今でも小さな印刷所で使っているところがある。大日本印刷とか凸版印刷といった大きな印刷所でも校正機と呼ばれる手刷りの印刷機があって、プレスのやり方が違うけれども初期の印刷機に近い。

この時代、いちばん金がかかるのは紙だった。紙は高価で、印刷コストの50%を占めていた。ちなみに僕が5年前に定価12,000円の写真集をつくったとき、高級なアート紙を使ったが製作費(製版・印刷・製本・用紙)に占める紙代の割合は20%ほどだった。本文用紙を使う普通の書籍なら、その数字はもっと下がるだろう。当時、ふつう初版は1,000部程度だったが、『宮廷人』は初版2,000部を刷っている。それとは別に、カスティリオーネは教皇らに献上するため「最高品質の紙」で30部つくりたいと考え、家令がその紙を入手するためにベネツィア中を走りまわっている。

『宮廷人』はフォリオ(二折版)と呼ばれる「優雅で厳格な、権威のある判型」の本だった。二折版というのは現在の判型で言えばA3判(297×420ミリ)に近い。印刷用の紙の大きさは時代と国によってさまざまだが、一枚の紙(全紙)を二つ折にして裏表4ページに印刷するのを二折版という。二折版は大きくて重いから手では持てず、人々は書見台の上に本を置いて読んでいた。でも次の世代になると、二折版から四折版、さらに小さな八折版の本も出版されるようになった。八折版はA5判(148×210ミリ)に近いから、手で持つことができ、現在刊行されている単行本に近くなってくる。

本を出版するには「校正者」と呼ばれる者の介在が欠かせなかった。現在の職種で言えば、編集者と校正者、時には監修者を兼ねた存在に当たる。『宮廷人』の校正者はカスティリオーネの友人で教皇庁の大使でもあったヴァリエールという司祭だった。

この時代にはまだ写字生が一字一字書き写す手写本と活版印刷された本とが共存していた。カスティリオーネが書いた原稿は複数の手写本になって友人や関係筋に回され、さまざまな意見や修正がほどこされる。カスティリオーネ自身の加筆訂正も加わる。校正者はこれらを集めて削除や修正を行い、完成原稿を仕上げる。

共通のイタリア語がないから、地方ごとに単語の綴り方も違っていた。カスティリオーネの原稿にはいくつもの地方の綴りが混在しているので、校正者のヴァリエールはまずそれを統一しなければならず、結局トスカーナ地方の俗語に決定された。著者のカスティリオーネが遠くスペインにいるので、ヴァリエールは政治的配慮から独断で現実の名前を架空の名前に置き換えたり、文章の一部をふくらませたりしている。さらに本文中に、ある冗談の語り手としてヴァリエール自身の名前が登場するのを、勝手に削除したりもしている。

印刷所の競争は既に激しかった。職工が刷り上った印刷物を掠めとり、競争相手に渡す行為をはじめ、詐欺、盗難、偽造は日常茶飯事だった。この時代のイタリアはたくさんの都市国家があって、それぞれ別の特権や法体系を持っていたから、ヴェネツィアで出版された本を他の都市に持っていけば、自由に海賊版を出版できた。間違いだらけだったり、勝手に改ざんした海賊版も出回っていた。

活版印刷と出版業は、発明から100年もたたないうちにそんな資本主義的競争の只中に放り込まれたが、一方、印刷術はそのものが政治的でもあった。1520年から10年間でルターの文章が30万部も印刷され、ルター主義を広めた元凶は印刷術であると糾弾されている。

僕は1970年代に新聞社の出版部門に入ったけれど、新聞でも雑誌でもまだ活版印刷は使われていた。植字工が一文字一文字活字を拾っていく職人技を間近でみた最後の世代かもしれない。1980年代になると、週刊誌では既にパンチャーが文字を打ち込む電算写植が主流になっていたが、最終降版(締切)の直前になって原稿が入ってきたりすると、印刷所のなかに残された活版部門に持っていく。するとベテランの植字工さんが、パンチャーが打つよりも早く、しかも正確に活字を組み上げてくれた。

活版印刷は、電算写植やDTPが登場してグーテンベルク以来の実用としての役割を終えた。16世紀のヴェネツィアと20世紀後半の東京と、ふたつの出版の世界を行き来しながらこの本を楽しんだのだった。(山崎幸雄)

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