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2015年5月11日 (月)

「友は野末に」色川武大

Tomoha_irokawa

色川武大 著
新潮社(251p)2015.03.31
2,160円

本書は、昭和という時代を生き抜いた色川武大(昭和4年生、平成元年没)の九つの短編と二つの対談を収めている。今時、珍しい紙ケースに入ったデザインも凝っているし、本体表紙はそれを上回るインパクトがあって、彼の小説が持つ幻惑的な印象を上手く表現した装丁である。色川は「無頼派」と呼ばれた作風の通り、短編の中で綴られているエピソードは、厳格な軍人を父として持つ息子の反抗・放浪・挫折、戦後混乱期の生きるための庶民の知恵とあがき、花街の生活、ヒロポン中毒、胡散臭いギャンブル、新宿などの闇市とそこに跳梁する暴力団、常に身近にあった死、そして長期間の空白を経た突然の邂逅、といったモチーフがちりばめられている。

同世代の人達であれば体験的に共鳴することも、批判することも出来るのだろう。しかし、評者のような一世代遅れの「団塊の世代」にとっては、そこに描写されている情景の雰囲気やイメージは理解出来るものの、体験的実感ではなく親から伝え聞いた話やぼんやりとした思い出の中の時代なのだ。そうした時代背景とは別に、色川を終生悩ませた「ナルコレプシー」という病の影が作品の中に色濃く出ている。突然眠りに落ちたり、眠りと脳の活動のアンバランスから生じる幻覚に襲われる病気だが、そうした病状や薬の副作用から逃げることなく文学作品の中にそれらを表現していった。

その結果として「混乱の時代」と「病」が「無頼派」と言われたスタイルを生み出したと考えるのも一つの解答だろうが、「無頼派」というキャッチ・コピーがなにやら薄っぺらく見える程、作品群に登場する人物たちからは、時代に翻弄される人生や話される荒っぽい言葉とは裏腹に繊細な精神や血脈を超えた人間関係の濃密さを感じさせる力を持っている。

色川武大は昭和36年に「黒い布」で中央公論新人賞を受賞、昭和40年代になると週刊大衆や週刊ポストに阿佐田哲也として麻雀に関する小説やコラムを書き始め、日本テレビの「11PM」の麻雀のコーナーに登場して、所謂第二次麻雀ブームを支えてきた人間でもある。従って、評者のような団塊の世代にとっては高校から大学時代に「阿佐田哲也」をまず知ったというのが色川との出会いという人間は多いはずだ。本書に収められている短編は、昭和50年から昭和62年の間に文芸誌や「話の特集」に掲載されたものがほとんどであり、彼の時代を評者なりに区分するとそれは「麻雀放浪記の阿佐田哲也」の後の時代である「色川武大」とでも言うべき作品群なのだ。

評者は社会人になるとともに「阿佐田哲也」を卒業してしまい、「阿佐田哲也」と「色川武大」を並行的に読んだ記憶があまりない。しかし、現実は「色川武大」と「阿佐田哲也」の原稿を書体を変えて書いていたという逸話が語られていることからも、昭和50年代は「阿佐田・色川」が並行的に存在していた時代なのだ。

本書の一つ目の対談は嵐山光三郎が聴き手になってギャンブルを語っているもの。この対談はもともと色川武大ではなく阿佐田哲也として行われたものだという。しかし、本書では色川の名前で対談が収められている理由は定かではない。「字体」を変えてまで色川と阿佐田を書き分けていた色川が存命であったなら、そうした改変を行うとは思えない。そうした議論はともかくとして、この対談では色川(阿佐田)のギャンブル観がストレートに語られている。それは「強い」か「弱い」か、という二元論ではなく「九勝六敗」でギャンブルを続けられる人間がギャンブルに強い人であり、人生でも勝ち組になるというものだ。それは、ギャンブルのみならず、人生観としても勝ちっぱなしは対人関係からもまずいという思いの発露であり、ギャンブラーである以前に人間としての付き合いの良さの現れでもあると思えるのだ。

二つ目の対談は立川談志と芸人論を闘わせている。それまでの価値観というか分野を崩していく芸人たちが出てきつつあった時代(多分この対談が行われた時期は昭和50年代と思うが)を語っているのだ。それは芸人たちの活躍の場がパトロンの御座敷、演芸場、寄席そしてラジオといったものから、テレビの時代になると、芸人たちも時代の要請に従って芸風も師匠と弟子の関係も変化していく真っただ中という時代である。談志も色川(阿佐田)も古くからの芸人たちを数多く見聞きしてその良さも理解した上で、新しいメディアを活用して世に出てきた人間と言っていい。従って、例えばビートたけしに代表される新しい分野の芸人などに対して二人とも積極的・前向きであることが良く判る。それにしても、二人の口の悪さは並でなく、今の時代であればいろいろな方面からの攻撃を受けそうな語り口が許されているのも時代の成せる技と言うことだろう。

本書のタイトルにもなっている、「友は野末に」という短編は主人公の幼少期(小学生時代)の友人「大空くん」との短い期間の思い出と、戦争を挟んだ長い空白期間を超えて再会し、その死の報せに接するという話である。戦後30年、主人公はホテルの一室で仕事をしていると、そこに家からの電話で「大空くん」の死が伝えられる。持病の「ナルコレプシー」の幻覚症状が思い出をより増幅させ、亡くなった「大空くん」の面影ととともに小学校時代の授業のこと、教師のこと、大空くんの母親のことなど詳細に思い出が語られる。それが本当の話なのか幻覚なのかも定かでない物語に読者は付き合わせられることになる。詳細な思い出も小学生時代をもって終わり、以後付き合いも音信もまったく途絶える。そして「大空くん」から30年ぶりに突然の手紙が来て数通のやり取りの後、彼は東北の某県に転居してあっという間に死んでしまう。

色川のような、昭和一桁の世代は子供の頃からどんなタイミングで死んでもおかしくなったというほど死と向き合った世代ではないか。無頼派を演じつつも、友人の死さえ淡々と受け入れていることの厳しさを感じさせられる。その内容は小説としての虚構なのか、随筆としての体験描写なのかは定かでないが、どちらにしても幻惑的である表現は色川の「病」と強く結びついている。この短編は昭和58年に「オール読物」に掲載されたものだから色川の死の5年前の作品である。色川は平成元年に岩手県一関市に東京から転居し、わずか10日で心筋梗塞を発症して入院、一週間後に心臓破裂でその生涯を閉じることになる。「友は野末に」に書かれている「大空くん」が東京から東北の某県に移住してすぐに死亡した話と、色川自身の最後との相似に驚くばかりである。

色川の生きた戦前と戦後の混乱期を今の若い人達には理解し難いだろう。体験した親だからこそ子たる団塊の世代に語り継げたのであって、我々団塊の世代はもはや昭和20年代の混乱期を体験として語る力はない。従って、色川の作品群の価値や面白さを伝えていく難しさを痛感する。とは言え、本書の最後に色川の妻孝子と「麻雀放浪記」の編集者であった柳橋史との対談が収められているのだが、こうした対談の意味が有るとは思っていない。対談を読んだ結果、色川や阿佐田の作品により肉薄することが出来るとは思えないし、少なくとも評者は「色川の作品」と「読者の感性」の二元論で世界は成り立っていることで十分であり、妻が語る色川の「私」を知りたいとは思わないのだが。(内池正名)

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