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2015年7月12日 (日)

「動物記」高橋源一郎

Doubutu_takahashi

高橋源一郎 著
河出書房新社(276p)2015.04.09
1,728円

本書に収められている9つの短編は全て雑誌「文藝」に掲載されたもので、動物に係わる小説がずらりと並んでいる。各々は高橋の作品らしく、一ひねりも二ひねりもされていて、表現に仕組まれているユーモアを理解するための知識、それは文学的や動物学的そして極めて現代風なカルチャーというか風俗にまで及ぶ多様な事柄に理解と共感を持っていることを読者に対して要求している。そうした実験も、ある一定の読者層が想定される文芸雑誌を土俵にしているが故に可能なのかもしれない。動物に係わるといっても、「人間」の形に変えられたり、人間の「言葉」をしゃべる様になった動物たちの言葉や行動といった自由な表現に対し、読み手としての心の柔軟性が問われるようだ。

それは、通常の小説のように人間を描写し、人間の感性を表現する限りにおいては、読者としての知識と常識の中でその表現を読み解いたり、感動したりすることが出来るものだが、話の冒頭から、突然人間の形になったオオアリクイが出てくると、そもそもなにを考えて生きている動物なのかも良く判らないという不安感から読書が始まるわけで、甚だスリリングな時間を過ごすことになる。そして、人間の形に変った彼らは動物の視点から「人間」同志ではけして理解できない、人間の不器用さや狡さについて指摘をする。

それは視点を変えれば、我々人間を客観的に見たときにのみ気付かされる滑稽さがそこにある。著者のこうした小説手法について、「伝統的な過去の小説に比較して、もう少し広い範囲にちらばっている言葉の集合を小説の素となる『小説』といい、・・・それらが小説の芽としてひっそりと息づいているものを表現する」と言っている。「言葉」がキーワードとして位置づけられていることが良く判る。

例えば、「変身」という短編では、一匹のオオアリクイが目覚めてみると「人間」になっていたという話で、主人公のオオアリクイは突然毛が無くなってしまったことに戸惑い、そして寒さをひどく感じるというところから始まる。そう、あのカフカの「変身」は男が朝起きるとベットの上で昆虫になっていたという話で「人間の心を持った昆虫」が主人公であるが、高橋の「変身」は「オオアリクイの心を持った人間」が主人公なのだ。

その他、登場人物(動物)はアンデス高地に生息するピクーニャというその毛を織物に使う多毛動物や唾をまき散らすヒトコブラクダたちなのだが、読者が未知の感覚世界に引きずり込まれていくのだ。なにしろ各々の動物固有の精神を持ちつつ人間の格好になっただけなのでドタバタは永遠に続くのだが、最後に奇怪な格好をした女(キャパクラ嬢のような)が現れたところで「人間の格好」の裸でいる「自分」に恥ずかしさを覚える。女は一言「輪廻転生」と叫び、暗転するかのように小説は終わる。ここに登場している人間(動物)は前世である「動物」時代を覚えているので複雑だ。「言葉」がなければ「輪廻転生」という呪いのような言葉に惑わされることもなかったろうに。そこにいくと「人間」は気楽なもので「輪廻転生」といっても「前世」を覚えていないで、概念としての「来世」を気にしているだけなのだから。

また、「そして、いつの日にか」と題された話は、柴犬(タツノスケくん)が滞在中のロシアで結核に罹り高熱をおしてロンドンから日本に帰国するための船旅を描いたもの。タツノスケ、結核、ヨーロッパから船で帰国、というキーワードで二葉亭四迷(本名長谷川辰之助、ロシアで結核に罹りロンドンから日本への船旅の途中ベンガル湾上で死亡、シンガポールで荼毘に付され当地の日本人墓地に埋葬)を’想起できるかどうかに掛かっている短編。読み進むとヒントは数多く出てくるのでそう難しいことはないのだが。こうしたちょっとしたひねりが多用されているのだ。登場人物(登場犬)は犬の姿のまま、人間の言葉を操るようになったという設定。二葉亭四迷が日本に言文一致体の近代小説を成立させ、また翻訳文学を紹介したように、タツノスケくんは人間が突然消滅した日から、犬の鳴き声の翻訳に取り組み混迷する犬社会に秩序をもたらして周りからも高く評価されて来たという経歴の犬だ。

病の重体化で気弱になったタツノスケくんがデッキでうとうとすると夢の中にナツメさんという秋田犬が登場し、タツノスケくんが始めたニッポンの犬たちに新しい言葉を与えると言う仕事についてまだまだ緒についたばかりであることなどと指摘して称えつつ元気づける。タツノスケくんも人間(餌をくれる主人)が突然いなくなった時に新しい時代の到来とともに犬には言葉が必要だと思った。しかし、お互いの尻に鼻づらをくっつけて嗅ぎ合うのが野蛮で、服を着たり、ビールを飲んだり、肉球で持ちにくい指に無理やりペンを握らせて文字を書くのが文明なのだろうかと思い、言葉を手にしようとしたことは傲慢だったのではないか、犬たちが言葉を手に入れて幸せだったのだろうかと回想するのだ。

タツノスケくんは犬の吠える声は一種の音調がある。それをきちんと言葉に移し替えることによって、「人」が作り上げた「世界」を継承しようとしたのだが。インド洋上でタツノスケくんが最後をむかえようとしているとき夢を見る、「子供の頃に出会った犬をはじめ、多くの犬たちが名残惜しそうに見送ってくれている中で柴犬のタツノスケくんは、犬の言葉で、さようなら、と言おうとした。だが、その言葉が、あるいは、叫び声がなにであったか、彼には、思い出すことができなかった」

言葉とは何かを問い掛け、また明治期の西欧化は言語の面でも大変革をもたらしたのだがそれが日本にとって幸せだったのかと問い掛けている。つまり、進歩によって手に入れるものと失うもののバランスを「言葉」によって考えさせられる。

動物記という本書のタイトルにもなっている掌編は主人公が子供の頃から遭遇した動物や肉親の死にまつわるエピソードを綴ったもの。最後に、自分の死に際について思いをはせるのだ。

「家族に囲まれて手を取って『おとうさん』とささやかれるのも悪くないのだろう、・・・ほんとうのところ、わたしは、ひとりで死んでゆきたい。・・家族は不要だ。周りに人間はいらない。もう十分に人間には会った。・・・私の希望は、意識がとぎれる前に、一匹の動物が、なにか獣のような生き物が現れることだ。その生きものが、わたしを見つめている。なにも映っていない、なにを考えているのかわからない、真っ黒な瞳で。・・・それは、わたしが動物たちを見ていた視線でもあるのだろう。わたしが意識を失う前に、その生きものは立ち去るかもしれない。だとすると、わたしは、少しだけ寂しいと感じるかもしれない。けれど、最期を見届けてくれた、その生きものに感謝したいと思うだろう。もちろん、意識が残っていればだが」

これは私たちが人間である以前に動物であることを強く意識させられる物語だ。動物はひとりで死んでいく。しかし、人間として多くのしがらみを抱え、苦労しながら、時として、そのしがらみを活用したりして生きている。「生き様」と同様「死に様」も個人の自由になるわけではない。それだけ生活も社会も一人の人間としては複雑になりすぎた。一匹の動物がじっと見ていてくれれば感謝したという死に際への期待は、同時に日頃の動物との付き合い方にもまた一つ新しい視点を読者に提供していると思った。(内池 正名)

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