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2015年10月18日 (日)

「満映とわたし」岸冨美子/石井妙子

Mannei_kishi

岸冨美子/石井妙子 著
文藝春秋(312p)2015.8.5
1600円+税

満洲国の国策映画会社だった満映(満洲映画協会)については、さまざまな角度から語られ、単行本や雑誌の特集も出ている。最大のスターだった李香蘭について、あるいは大杉栄虐殺の首謀者として服役・出獄して満映理事長になった甘粕正彦について、戦前は満映、戦後は東映の幹部として活躍したプロデューサー・牧野満男を中心とした満映人脈について、そのなかで最も知られた名前である内田吐夢、加藤泰といった映画監督について……。

そうしたものを読むとき、岸富美子という名前が随所に出てきて記憶に残った。満映の編集者として活躍した女性エディターのパイオニアである。『満映とわたし』はノンフィクション作家・石井妙子の協力をえて書かれた、岸が満洲から帰国するまでの前半生を回想した自叙伝。岸の手記に石井が解説と注をつけている。

岸は1920(大正9)年に中国奉天省の港町・営口で生まれた。父はアメリカや満洲に渡って事業を起こした起業家だったが、岸が生まれた直後に亡くなった。母親が苦労して四人の兄弟を育て、兄たちが日活に入社して映画キャメラマンになった縁から富美子も映画界に入ることになる。

岸は編集助手として働くうち、日独合作映画『新しき土』で女性編集者アリス・ルートヴィッヒの下について大きな刺激を受けたことから編集者を志すようになった。満映のキャメラマンになった兄から誘われて満洲に渡ったのは19歳のときだった。

満映時代についてもいろんなエピソードが語られて面白いけれど、いちばん興味深いのはその後、満洲国と満映が崩壊した後に岸たちがたどらねばならなかった苦難についてだろう。

1945年8月、ソ連軍が満洲に侵攻した直後に甘粕理事長は青酸カリで自殺した。岸は甘粕のことを「卑怯だと思った」と記す。満映で働いていた中国人社員たちは国民党派と共産党派に分かれ、どちらが満映を手に入れるか、激しい抗争が起こった。ソ連軍の立会いのもと、新会社として共産党色の濃い東北電影公司が発足したが、日本人技術者ぬきでは映画がつくれないことから富美子や兄、富美子と結婚したキャメラマンの岸たちは会社に残ることになる。

やがて国民党と共産党の内戦が激しくなり、撮影所のあった長春でも戦闘がはじまったことから、社員は東洋一と謳われた最新鋭の機材とともに疎開することになった。新しい撮影所はハルビンからさらに北へ行った鶴崗につくられることになる。そのころ引揚げが始まり日本人の半数ほどが帰国したが、岸の一家や監督の内田吐夢、木村荘十二ら40~50人は残留の道を選んだ。

やがて共産党系の映画人たちが延安から鶴崗にやってきて、会社を指導するようになった。人間関係の序列は延安の共産党系映画人‐元満映の中国人‐日本人技術者となるが、技術的な序列となるとまったく逆だった。「抜きんでた映画技術を持っているのは、私たち日本人技術者である。だから鶴崗での上下関係は複雑だった」。

やがて「精簡」が始まった。「精兵簡政」の略で、要するに人員整理のこと。内田監督も木村監督も「精簡」組に入れられた。「延安から監督たちがやってきたので……敬遠されたのだろう」と岸は書いている。人選は日本人がやったらしく、元満映の日本人従業員・家族の間に深刻な亀裂が生じた。岸夫婦やキャメラマンの兄は「苦しい思いをするのも、死ぬ時も、家族一緒」と精簡組を志願した。こうして内田吐夢を団長とし、木村荘十二を副団長とした、家族を併せ約120人の精簡組は鶴崗から南へ下った地域に移動させられた。冬は零下30度を超す環境のもとで、石炭採掘など過酷な肉体労働に従事することになる。
 
その合間には、精簡組のなかで帝国主義者を糾弾する「闘争会」が開かれた。文化大革命を彷彿させる情景。批判の対象者を壇上立たせて罵声を浴びせ、徹底的に批判する。そうしなければ、今度は自分が闘争会の対象になってしまう。岸自身も日本人技術者の娘から「満映時代に封建主義的な態度を取った帝国主義者」と吊し上げられそうになったことがある(隣人だったリーダーの一言で難を逃れたが)。

「精簡の記憶は皆にとって辛く、生き残った人は誰しも後ろめたさを胸に抱いている。/だからだろうか。木村荘十二さんも、内田吐夢さんも、自伝の中で中国体験を綴りながらも、この精簡にだけはほとんど触れなかった。背負った傷があまりにも深かったからだと思う」

1年半後、北朝鮮政府から映画技術者がほしいと声がかかり、それをきっかけに、岸たちは旧満映の東北電影製片廠へ復帰することができた。岸はエディターとして、兄はキャメラマンとして何本もの中国映画に参加したが、2人とも中国名をつけられ、クレジットはその中国名になっている。大ヒットして国民的映画となった『白毛女』にも参加したが、岸が編集を担当したことが公になったのはそれから50年後のことだった。

映画編集に従事するだけでなく、岸には内田吐夢監督とともに中国人技術者を育成する仕事が与えられた。内田監督がモンタージュ理論を、岸が編集技術を教えて「今までに味わったことのない充実した日々」を送る。

岸は7人のいずれも女性の弟子を育てた。1980年代に世界を驚かせた中国映画の「第五世代」、陳凱歌は岸の弟子に編集技術を学び、張芸謀は満映養成学校一期生の弟子に当たる。「満映の遺伝子は日本映画界ではなく、中国映画界に残されたと見るべきであろうか」と石井は書いている。

満映の遺伝子は中国に残されたと石井が書くのには別の理由もある。帰国した元満映社員の大半が「アカ」のレッテルを貼られ、映画界に復帰する道を閉ざされたからだ。岸はフリーランスとして独立プロで編集者としての仕事をつづけることで、映画の世界とかかわりを持ちつづけた。映画技術者、創造者としての矜持に満ちた自伝であるとともに、日本映画史の書かれざる一章を記録した貴重な証言であろう。(山崎幸雄)

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