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2016年1月21日 (木)

「雨の匂いのする夜に」椎名 誠

Ameno_siina

椎名 誠 著
朝日新聞出版(224p)2015.11.20
2,268円

椎名誠といえば、旅や食に関するエッセイがまず思い浮かぶ。それほど行動派作家としてのイメージが強いこともあり、「雨の匂いのする夜に」というタイトルを目にしたときに、その詩的な感覚と椎名とが結びつかなかった。「基本的に小説を書いて小説類の単行本が多いモノカキ人生だが、この『写真と文章』でつづる本書のようなものが作れるのがぼくには一番嬉しい」と語っているように、基本は「作家が旅をしている」という意識は強く持ちつつも、幅広い表現活動を楽しんでいる様子が見て取れる。日本国内に止まらず世界各国を歩き、そこに住む人々と語り合う時間を大切にしているということだろう。

本書は「アサヒカメラ」に連載されて来た「シーナの写真日記」というコラムで、コンパクトな文章とモノクロームの写真3枚をセットにして各地の旅を日記風にまとめたもの。2009年から2012年に掲載されたもののうち、日本の20ヶ所、アジアの9ヶ所、南米その他13ヶ所の旅が本書では選ばれている。カメラ雑誌として伝統的な「アサヒカメラ」の中でこの「シーナの写真日記」が一番長い連載と聞き、それはそれとして驚くべきことであるが、「旅に出たおりに、ふいに出合ったココロに迫る風景や、自分の記憶能力が殆んどないので写真に記憶を頼むような気持でシャッターを切って来た」との言葉からも判るように、写真が主体の旅行ではないので、事前に被写体や風景を想定していない。たぶん、歩みを止めて写真を撮ることはあっても、来た道を戻って写真をとることは無いと想像する。その意味では、まさに偶然に近い、一期一会の写真が載せられているということだろう。

街道歩きの一人旅をしている評者も道々の写真を撮っているが、まさに自分の記憶の補助であったり、旅の証のような感覚で写真を撮っている。本書では離島、海岸、辺境といった旅が多いのだが、複数の仲間とのキャンプ、八戸市の「種差海岸みちくさトレッキング」イベント、福井県の左義長まつり、密教「真言宗」の聖地高野山、沖縄の島々など多様な文化と地域に密着したなかなか魅力のある旅をしている。こうした旅日記と写真の組み合わせの意味を椎名はこう語っている。

「ぼくの本業は小説家である。だから物語を創ることに慣れている。普通、小説は文章だけで登場人物やその背景を描いていく。その描写力が小説家の腕であり、技となる。ところで、このページは三枚の組写真である。…ありふれた日常で目にする風景を写真に撮ってその背景を語る、というので良いのだが、長く連載をやらせてもらっているうちに、写真の可能性というものに次第に目覚めてきた。写真であることによって、小説よりもよほど真に迫った話として、その出来事を強調することができる。『写真の力』だ…」

椎名の旅は人とのふれあいの表現と地域に根差した文化に焦点を当てた感覚に魅力がある。そこでは単なる物珍しさだけでなく、椎名の感性というか価値観が良く表れている。「種差海岸で出会った人々」と題する、東北の漁村での老漁師夫婦の写真を撮った時の文章は、
「東北の人特有の果てしないハニカミでなかなか老漁師は奥さんのところに来てくれない。…でも話をしながら、口説いてとうとう二人で漁船のところに並んでもらった。老漁師は照れながら何か言った。たぶん、このおっかあと写真撮るなんて50年振りぐらいじゃろが、今日はヒラメとれねえかもしれねえなあ、などということを言ったようだった」

椎名の優しさが良く表れている文章とともにモノクロームの漁師夫妻の写真を見ると、「写真であるが故に文章より真に迫る」というよりも、「文章の細やかな表現を強く補完するもの」として感じられる。このように、人々との触れ合いにおいて写真が一つのチャンスを作っているということは良く判る。第三者にレンズを向けて写真を撮ることは都会ではなかなか難しい時代になってしまったが、椎名の旅のフィールドにおいては依然として「写真の力」の発揮の余地が大きいということであろう。

海外の章では、日本との比較の観点からの新たな発見や指摘が面白い。それは海外の辺境といった極端に文化的・文明的違いのある国だけでなく、辺境には程遠いアメリカ西海岸のサンフランシスコの旅からの印象も自由人らしい椎名の感覚が新鮮だ。濃い霧に浮かび上がって見えるゴールデンゲートブリッジの橋脚と海岸を走る人々の写真とともにこんな文章が続く。

「サンフランシスコでいちばん好きなところはゴールデンゲートブリッジ周辺だ。…ゴールデンゲートパークの先のビーチに行く。ここはびっくりするほど広い海岸で休みの日は沢山の人がやってくるが海にはゴミの類がないのがぼくには驚きだった。もちろん、効果があるんだかないんだかのコンクリートの無粋な波止ブロックなどはどこにもない。…そこから南下して行くと湾曲した対岸が見えてくる。…もうビーチ遊びをしている人は見当たらず、代わって犬を散歩させている人が多くなる。犬は飼い主のまわりを常に意識しながら、全速力でそこらを走り回っている。…たとえ海岸でも犬は紐でつながなければならない。というキマリのある日本から比べると、この国の犬はこの国に住む人間のようにやっぱり自由だ」

ベトナムのモンスーン地帯の町に宿泊した時の話が「雨の匂いのする町」と題されて描かれている。そこには、スコール前の圧倒的な湿度に驚きながら、街を散策する状況が重苦しい気持ちとともに書かれている。タイトルの「雨の匂いのする夜に」という言葉は、「雨の匂いのする町」という言葉に比較するとはるかに深い心理と皮膚感覚が表現されている。例えば、都市の近代的ホテルに宿泊し、洒落たレストレンを渡り歩く旅ではこの感覚は体感できないはずだ。
個人的に言えば、街道歩きの一人旅の途中、山間の宿場町の民宿に宿をとり、一日の疲れを感じながら畳に寝転んで夕食の出来るのを待つ。開け放った窓から入ってくる山からの風が明日の天気の下り坂を示すような「雨の匂い」を感じる。そんな状況を思い出す。言葉から思い起こされる情景は人さまざま、多様であろう。本書のタイトルは旅、特に一人旅の感覚が良く表されているすばらしい言葉だ。このタイトルに出逢えたことで本書の価値はもう一段高まったように思う。 ( 内池正名 )

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