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2016年3月17日 (木)

「自然の鉛筆」トルボット

Sizen_talbot

ウィリアム・ヘンリー・フォックス・トルボット 著
赤々社(192p)2015.1.27
4,320円

写真の歴史に興味のある人なら、トルボット(タルボットと表記されることも多い)、あるいは『自然の鉛筆(The Pencil of Nature)』という言葉を目にしたことがあるにちがいない。トルボットは19世紀前半、ニエプスやダゲールとともに写真術を発明した草創期の写真家であり、『自然の鉛筆』とはトルボットが出版した世界最初の写真集のことだ。

1844年から46年にかけて6巻刊行された『自然の鉛筆』には合わせて24点の写真が収められている。写真史の本にはたいていそのなかから、トルボット邸の厩舎の開いた扉と立てかけられた箒の写真が、小さく不鮮明な複写(複写の複写)で使われている。僕自身もそのように写真の黎明期を象徴する資料のひとつとしてこの写真を認識していたにすぎなかった。また彼が考案したカロタイプという写真術の歴史的意義は、ネガ・ポジ法によって一枚のオリジナルから同一のコピー(プリント)を無限につくりだせることにあった。そのような写真術を発明したトルボットと『自然の鉛筆』は、多くの人にとって偉大ではあるが過ぎた歴史のひとこまとして整理されていたと言ってもいいだろう。

本書はその『自然の鉛筆』を日本ではじめて完全なかたちで翻訳したもの。24点の図版は、元トルボット・ミュージアム館長のマイケル・グレイがオリジナル・ネガからつくった印刷データを提供している。それだけでなく、トルボットが写真術の発見について書いた手紙、グレイによる詳細な解説、トルボット・ミュージアムを訪れトルボットの写真術を体験した写真家・畠山直哉のエッセイなどを集め「自然・写真・芸術──『自然の鉛筆』考」と題した、質量ともに付録というより「もう一冊の本」が合本されている。左から開けば横組みの『自然の鉛筆』、右から開けば縦組みの『自然・写真・芸術』と、造本も意欲的(ちなみに奥付は真ん中にある)。これによって僕たちは初めて『自然の鉛筆』という写真集の全貌と、その今日的な意味を知ることができるようになった。

これまでトルボットがカロタイプによって撮影した写真は、ダゲールのダゲレオタイプより画像の解像度が劣るとされてきた。でも20センチ前後×十数センチの図版(密着焼付けなので原寸)はどれも鮮明で、明部暗部の諧調もあり、写真作品としてちゃんと鑑賞できる。「世界最初の写真集」と呼ばれたのには十分な理由があった。

最初の図版はオックスフォード大学クイーンズ・カレッジの建物。古びた石造建築の石のひとつひとつが黒ずみ、割れて剥落しごつごつした凹凸が、そこに流れた時間を感じさせる。脇の道路には隣の教会の尖塔が黒い影を落としている。次の図版はパリの大通りで、二階の開いた窓に光が当たり、道路には並木が影を落とし、辻馬車が客を待っている。アパルトマンの煙突が無数に空に突き出ている。

そうした風景以外にも、室内で陶磁器を陳列した棚、彫刻・絵画などの美術品、書籍の複写、静物、植物の葉(トルボットは植物標本をつくるために写真術に興味を持った)など、(胸像も肖像のひとつと考えれば)後に写真術が対象とするあらゆるものにカメラを向けている。もっとも撮影に時間がかかったので動くものは撮影できないし、この段階で写真術の最大の意味は、人がスケッチしたり絵に描いたりするのと違って、目の前に存在するものの形を正確に再現できることにあった。

『自然の鉛筆』を見て驚いたのは、ものの形を正確に再現するだけでなく、写っているもののマチエールまできちんと描写されている、言葉を変えれば表現として成り立っていることだ。そしてトルボットはそのことに自覚的だった。

図版のひとつに「積み藁」がある。家のかたちに積み上げた巨大な藁の塊を撮影したもので、斜め上から太陽が当たり、藁の一本一本が光を反射している。塊は光に対して正面や側面といった角度に応じて、明暗をなしている。そのざらっとした手ざわりに眼が惹きつけられる。トルボットは図版の一枚一枚に解説をつけていて、「積み藁」についてこう書いている。

「写真術の発見が今後もたらすであろう利点の一つに、それによって画像に多くの微小なディテールを盛り込むことが可能になる、ということがある。そうしたディテールは、描写の真実性と現実性を強めてくれるが、どんな芸術家もそこまでの忠実さで自然を複写(コピー)しようと骨を折ることはないであろう。……これらの細部を、なんら労苦を増すことなく盛り込む手立てが手に入るのは喜ばしいことである。というのも、それらの細部はときに、描写された光景に、予想を超えた豊かな多様性の感覚をもたらすことがあるからである」

「豊かな多様性の感覚」とは、僕たちが優れた写真を見たときに、写真がまぎれもなく現実を切り取ったものでありながら現実を超えたものを感受するときの、あの感覚のことだろう。トルボットは別の図版では、「撮影時にはまったく頭になかった数多くの事物がそこに描き出されている」のを発見し、それを「写真の魅力の一つ」と呼んでいる。また、後のカメラが絞りやシャッター速度を変えることによって得ることになる描写の違いに言及するなど、描写と技術の両面にわたって写真の可能性が予見されている。『自然の鉛筆』は世界初の写真集であるとともに、世界初の写真論であったかもしれない(その方面に詳しくないから断定的なことは言えないが)。

トルボットにそれが可能だったのは、彼が単なる発明家や技術者でなく、イギリス上流階級に属する者としてギリシャの古典に通じ、考古学、植物学、美術史などに広く興味をもつ教養人だったことによるだろう。

ところでライカ以後の精密な工業製品としてのカメラしか手にしたことがない僕らにとって、カメラは機械と認識されている。機械が介在している故に人間の目には映らないものが写ったり、逆に機械が介在しているのに撮影者の意思や感情が写りこむことに写真の面白さ不思議さを感じてきた。『自然の鉛筆』を見て(読んで)興味深かったのは、カメラがレンズのついた暗箱にすぎなかった時代のトルボットには当然ながら機械が介在することへの意識ではなく、いわばカメラの向こうに自然を見ていたことだった。

トルボットは彼が発明した写真術を「フォトジェニック・ドローイング」と呼んでいる。写真とは「感光紙の上に<光>の作用のみによって獲得されたもの」である。カメラ・オブスクラで画像が焦点を結ぶ面にヨウ化銀を塗った感光紙をおくと、ヨウ化銀が光に反応して強く当たった部分が黒く変化し、「光と影の継起ないし多様な取り合わせ」である画像が生ずる。そのようにしてネガ画像が得られるが、カメラや撮影者は「自然の魔法(ナチュラル・マジック)」によって「画像が<自分自身>を作る」ことを少しばかり手助けしているにすぎない。そのことを彼は「本書の図版は<自然>の手によって刻印されたものである」と記している。『自然の鉛筆』というタイトルは、そのことを指している。

いま、写真はトルボット以来のヨウ化銀が光によって黒変する物質的現象から、デジタル情報という非物質的世界へと本質にかかわる変化を遂げようとしている。そんなときに、写真とは自然が自らの手で自らの肖像を描くものであることを示した『自然の鉛筆』を見、読むことは大きな刺激になる。(山崎幸雄)

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