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2016年8月22日 (月)

「戦艦大和ノ最期」吉田 満

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吉田 満 著
講談社(224p)2016.07.09
1,080円

講談社文芸文庫ワイドとして「戦艦大和ノ最期」が2016年7月8日に発行された。「戦艦大和ノ最期」の初版は1952年(昭和27年)に創元社から発行され、その後、決定稿とされた北洋社版が1974年(昭和49年)4月に出版、同年11月にはこの「戦艦大和ノ最期」と「提督伊藤整一の生涯」など、吉田満の4編の作品をまとめた「鎮魂戦艦大和」が講談社から出版されている。今回とりあげる、講談社文庫本ワイドにはこの決定稿「戦艦大和ノ最期」が収められているのに加えて、三つの版の各々に書かれた吉田の「あとがき」、創元社版に載せられた、河上徹太郎、小林秀雄、林房雄、三島由紀夫、吉川英治の「跋文」、講談社版の、江藤淳の「序文」、鶴見俊輔の「解説 戦艦大和ノ最期」、古山富士雄の「作家案内 吉田満」が収められている。

こうした、あとがき、跋文、解説などを発行された時代とともに読むと、文章を書いた人々の戦争体験が当然色濃く反映されているとともに、各版の時代(昭和27年と昭和49年)の社会状況も映されていることが判る。それは読み手である私自身にもいえることで、自分がどんな状況でその本を読んだかで受け止め方も当然異なってくる。私は「戦艦大和ノ最期」を過去二回読んでいる。一度目は父の書架にあった創元社版の「戦艦大和ノ最期」を中学生のときに手にした。

全速で艦首に白波を立てて進む勇壮な大和や、轟沈直前に魚雷を避けるため迂回蛇行している大和の姿を米軍機からとった写真が印象に強く、それらの映像を補完するために読んでいたと思う。戦争という歴史を学ぶというより、兵器としての世界最大の戦艦に対する興味がその読書の基本だった。二度目は大学生の時、学園紛争で騒然とした中で「戦艦大和ノ最期」に接している。吉田が大和艦上で苦闘していたのとほぼ同年齢の人間として、吉田が自らを記録する冷静さと信念を感じながら読んでいたことを思い出す。

「戦艦大和ノ最期」は1945年(昭和20年)3月29日の出撃準備から、4月6日の出撃、7日の轟沈、8日の生還までの記録である。後知恵の理屈付けや自らを正当化しようとしない素直な文章が「戦時文学」という枠を超えて読まれ続けている所以ではないだろうか。3332名の乗員の内、生還できたのは269名でしかない。その内の一人として、9月に両親が疎開していた西多摩に復員した時、父君の知り合いだった吉川英治に勧められて、一日で書き上げたと言われている。

この初稿は昭和21年12月の雑誌「創元」創刊号に掲載が予定されていたが、占領軍の検閲(プレスコード)によって全文削除となり陽の目を見なかったものの、昭和27年の講和条約発効で検閲が廃止となったことから、「戦艦大和ノ最期」として創元社から刊行されたという経緯かある。その後、戦闘詳報が公刊されて、海戦の状況の事実関係が徐々にではあるが明らかになってきたことから、記憶違いといった部分についての訂正を行い、昭和49年に決定稿と称して「戦艦大和ノ最期」が北洋社から刊行されることになる。ただ、一般読者としては、本書を厳密な意味で歴史書として読むわけではない。そうした一言一句の正確性よりも、一人の若者が学徒として戦争に参加した記録を読むということからすると、創元社版と北洋社版ともに不変の価値がそこには存在していると考えてよい。

初版(昭和27年)のあとがきに「戦艦大和ノ最期」を書いた思いが書かれているが、そこにあるのは、世に問うというよりも内省の記録として書かれたことが良く判る。

 「私は戦場に参ずることを強いられたものである。しかも、戦争は学生であった私の生活を全面的に破壊し、終戦の廃墟の中に私を取り残していった。しかし、今私は立ち直らなければならない。単なる愚痴も悔恨も無用である。その第一歩として、自分の偽らざる姿を見つめてみよう。如何に戦ってきたかの跡を、自分自身に照らしてみよう」

また、32年後の北洋社版あとがきでは初版刊行後の戦後社会の風潮を批判的に表現している。
「戦時中の自らの言動の実態を吐き出すのではなく、逆に戦争に係わる一切の物を否定し、自分を戦争の被害者、あるいは密かな反戦家の立場に仕立てることによって戦争との絶縁をはかろうとする風潮が、戦後の長い期間われわれの周囲には支配的であった」

鶴見俊輔の解説(昭和49年)を読むと、戦中の行動の実態に反して掌を返すような戦後の発言をして自己防衛する風潮に対する批判感覚は、「転向」を研究課題とした鶴見俊輔の思いと一致することが判る。しかし、吉田と鶴見はお互いを尊敬・評価しながらも、その思想の根底の相違があることも十分理解していた間柄だ。同年代であるものの戦中にまったく異なった生き様を過ごしたことがその原因だが、例えば、「戦艦大和ノ最期」が文語体で書かれている意味を鶴見は、「吉田は明治以降の高等教育体系の中で『勅語』と同じ文脈で文語体の階律を植え付けられた世代であることの象徴だ」と語っている。

また、「吉田は同時代の欧米思想にふれ、社会科学を学んでいたが、彼の身に着けたものは、日本国家に対する忠誠によって視界をさえぎられた中での世界思想のモザイクであった」という見方をしている。このギャップは、鶴見が問題児で学校を退校させられたものの、経済的に恵まれた環境もあり、アメリカに15才から17才まで留学し、交換船で帰国したという当時の日本人としては異質の教育を受けていること。肺病で徴兵を逃れられると考えていたが、乙種合格となり兵士として召集される危険を避けるため、英語力を生かし軍属としての兵役に自ら手を挙げたという経験を持っている。こうした「転向」経験を持つ一方、世界思想に対する冷静な見方を身に付けたことの強みが自負となり、鶴見の思想は構成されている。

同様に、「季刊芸術」の編集をしていた古山富士雄の吉田満を紹介する文章もまた、戦中のもう一つの生き方を語っている。

「戦争中、軍国政府は『バスに乗り遅れるな』という言葉を国民に流した。……吉田さんは、あの戦争に対して、はたまた国のやり方に対して、もちろん、疑問を持っていなかったわけではない。しかし、何であれ、国策に従うのが国民の義務だと思い、幹部候補生の試験に合格して海軍の将校となり、生還の期待の持ちにくい戦場に運ばれた。吉田さんは素直にバスに乗ったのである。……ところが、私はバスに乗るまいとした人間であった。しかし、結果は乗せられてしまって戦場に運ばれ、反軍・反国策の思いを密かにいだいていたまま、生還した下級兵士である。私のようなものは、戦時中はいわゆる非国民であったのだが、戦後はむしろ正しかったかのように言われる。しかし、私には自分が正しいなどという意識はまったくない。……私はバスに乗った人間が間違っていたなどはみじんも思わない。バスに乗るまいとして、結局乗せられてしまった私もなるようになったまでのことだ。そのことについては誇りも自責もない」

戦中派の人達の苦悩は立場・経験を超えて平等に押し寄せる。
初版の跋文にある林房雄の文章は「戦艦大和ノ最期」の位置付として今の私には大きな警鐘である。

「これは日本の一兵士の手記である。ここに毫末の誇張もなく、虚偽もなく、策略もない。こうして、一つの戦争をまともに生き抜いた者のみが次の戦争を欲しない」

昭和27年のこの文章は、戦後10年に満たない時代であり、多くの人々が戦争の負の要素を身体が覚えていた時代である。本書に登場する著者吉田をはじめ、跋文や解説を書いた作家・評論家たちは全て鬼籍に入ってしまった。時代が変わり、あの戦争を体験した人間はいない。そう考えると、今、「戦艦大和ノ最期」を読む意味とは何なのか。私は今回の読書で父親をかすかに感じとっていたように思う。父は吉田の2才年上で17年に卒業、社会に出て一年後、召集され士官学校に入り少尉任官で終戦を迎えたポツダム中尉である。戦後、同じ職場に復帰したものの、GHQの追放令を実行する「公務適否審査中央委員会」事務局に出向を命じられ2年半を過ごした。

その間に自分の父や伯父たちは無条件パージになっているが、パージによって旧世代が強制的に退場させられ、若い世代が責任ある立場で活躍するチャンスを作ったと言う意味も大きいと思っていた様だ。混乱の戦中・戦後を生きたこの世代は多様な思いを抱きつつ、日本の再建に力を注いできたのだが、父が「公務適合審査中央委員会」に出向したという事実は死後、遺品を整理する中で見つけたメモから知ったことだ。父は自らの体験を語ることの無かったひとだった。

こうした多くの人々の体験や「戦艦大和ノ最期」といった作品をどう世代を超えて伝えて行くのか、その読み方が問われる時代であることを痛感する。(内池正名)

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