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2016年9月19日 (月)

「黒い本」オルハン・パムク

Kuroi_orhan

オルハン・パムク 著
藤原書店(592p)2016.04.10
3,888円

グーグル・アースでイスタンブールを見る。アジアとヨーロッパにまたがるこの都市のヨーロッパ側、ボスポラス海峡と金角湾の北側に新市街(といっても19世紀の新市街)が広がっている。ニシャンタシュという地名を検索してみる。新市街の中心地、ベイオウル地区やタクシム広場から2キロほど北へ行ったあたりにこの地名がある。広い通りから一本裏へ入ると、ゆるい丘になっているのか、迷路のように曲がりくねった道路の両側にびっしりと茶色い屋根の家が建てこんでいるのが見える。『黒い本』の主人公たちがかつて大家族で住んでいたこのあたりから繁華街のベイオウル、旧市街へ渡るガラタ橋があるカラキョイあたりの路地から路地が本書の舞台になる。

これは2006年にトルコ人として初めてノーベル文学賞を受賞したオルハン・パムクが1990年に書いた長編小説。彼の小説は何冊か翻訳されているが、僕は初めて読んだ。本屋でこの本を手に取ったのは、前からパムクを読んでみたいと思っていたこともあるが、タイトルどおり「黒い」装丁に、狭い石畳の両側にびっしり石造の家が並ぶ路地の、これも暗めの写真に惹かれたから。

全部で36章あるこの小説は、ふたつの世界が交互に描かれる。

奇数の章は現実。弁護士のガーリップは幼馴染みで従妹のリュヤーと結婚している。ある日、リュヤーが忽然と姿を消す。同時に、リュヤーの異母兄でガーリップの従兄ジェラールも行方がわからなくなる。ジェラールは新聞の人気コラムニストで、ガーリップは子供のころからジェラールに深く心酔してきた。ガーリップは、リュヤーを探してイスタンブールの町を歩き回る。姿を消したリュヤーとジェラールは一緒にいるのではないか、という直観におののきながら。

偶数の章は虚構。ジェラールが新聞に書いたコラムという体裁になっている。コラムといっても社会的なものでなく、イスタンブールの町と人々と歴史に材をとったフィクションともノンフィクションともつかない、現実と夢想がないまぜになったもの。例えば、温暖化が進んでボスポラス海峡が干上がる日がくるとして、その光景がこんなふうに描かれる。

「世も末の混沌のなかで露わになる、横倒しになった[オスマン帝国の船会社]<シルケティ・ハイリイェ>時代の船の死骸、ソーダ水の蓋、一面の海月(くらげ)。瞬時に海水がひいた最後の日に陸地に取り残されたアメリカの大西洋横断客船や藻に覆われたイオニアの石柱、その狭間で口腔露わに謎の古代神にすがるケルト人やリキヤ人の骸骨。ムール貝に覆われたビザンツ帝国の宝物、銀やブリキのナイフとフォーク、千年前のワイン樽、ソーダ水の瓶、船主の尖ったガレー船の残骸……」

海が干上がり海底から姿を見せたものたちを列挙しているだけなのだが、ギリシャ・ローマ、ビザンティン帝国、オスマン帝国、現代とつづくイスタンブールの歴史を背景に、世界の終末を思わせる黙示録のような風景が現出している。

ジェラールのコラムはほかにも、ニシャンタシュの主人公たちが住んだアパルトマン近くにある雑貨屋、アラジンの店に置かれた商品の細密描写。西洋人でなくトルコ人を象ったマネキンの製作に命を賭ける親方。中世に弾圧されたイスラム教神秘主義教団の歴史。軍事クーデターの陰謀。モンゴル帝国に花嫁として差し出されたビザンツ帝国の姫の物語。オスマン帝国のパシャ(高官)の首をはねる死刑執行人の話……。それぞれが独立した短編小説として読めるジェラールのコラムは、まるで『千夜一夜物語』みたいだ。

そして読みすすめるうちにガーリップが妻を探す現実とジェラールのコラムは互いに浸透し、入り混じってくる。なかでも面白いのは、ベクタシュ教団という神秘主義の流れを組む団体が陰謀を企てていて、ジェラールはそれに関係し、彼のコラムがそのプロパガンダかもしれないことだ。ジェラールのコラムによれば、イスタンブールの町の煙突やドームや樹木といった風景には「謎」が仕掛けられていて、その予兆を受け取り読み解けば、「全てが地下の別領域の神秘に対し、鍵となり得る」。そうすることによって「世界を様々な謎を秘めた重義的かつ神秘的な場所として認識」することができる。そんなジェラールのコラムを読みながらイスタンブールの町を歩き回るガーリップの目には、このイスタンブールが現在なのか過去なのか、現実なのか幻想なのか判然としなくなってくる。

ジェラールに心服し、彼と一体化したい願望をもつガーリップは、一方で妻と姿を消したかもしれない従兄に複雑な感情を抱いている。しかしジェラールの新しいコラムが新聞社に届かなくなったのを機に、ガーリップは自らがジェラールとして、「ジェラールのコラム」を書きはじめる。

この小説はトルコでベストセラーとなったそうだけど、ここには「自分になれない」不安と「他人になりたい」欲望とが裏腹になるアイデンティティーの危機というサブ・テーマが流れている。それが読者に、これは自分のことだと身近に感じさせるのかもしれない。そして村上春樹の『1Q84』がそうだったように、ガーリップとリュヤーの恋物語でもある。ガーリップとリュヤーは従兄妹で、イスラム圏でいとこ婚はよくあることのようだが、姿を消したジェラールとリュヤーは異母兄妹という近親相姦的な気配もある。

この小説のアイデンティティーの問題は、ガーリップ個人にかかわるだけではない。西洋人でなくトルコ人の姿かたちをしたマネキンにこだわる職人の挿話にもあるように、西欧化、近代化を選択したトルコ人の民族としてのアイデンティティーにもつながってくる。繰り返し呼び出されるイスラム教神秘主義者による陰謀の挿話がその象徴だろう。

第一次世界大戦でオスマン帝国が解体した後、トルコはイスラム圏では初めて政教分離の世俗国家、トルコ共和国を建国した。近代化の大きな流れのなかで「『神秘』思考の喪失」は「世界を単純で、一義的で、神秘性を欠いた場所」にしてしまった。ジェラールのコラムは、神秘思考をたずさえた「救世主(メフディ)」を待望する。姿を消したジェラールに代わってコラムを書くガーリップもまた、「『己となり得ぬあらゆる部族、別の文明を模倣するあらゆる文明、他国の物語に聞き入り幸福に浸るあらゆる国民は』崩壊し消滅し、忘れさられる宿命が待っているのだ」と書きつける。

小説の後半になると、ジェラールになりたいと願うガーリップとジェラールの姿かたちが、読む者には赤版と青版が数ミリずれて印刷されたポートレートみたいに二重映しに見えてくる。同じようにイスタンブールの路地や尖塔(ミナレット)や茶館(カフヴェ)が、目に見えるままのものでなく「憂愁と悲惨」をたたえた歴史や神秘の鍵を秘めたものに見えてくる。イスタンブールという歴史の降り積もった都市を舞台に、その微妙なズレの感覚、世界が二重に見えてくる感覚を味わえるのが、この小説のいちばんの快楽だろう。

先ほど名前を出したけれど、この小説の構造は『1Q84』とちょっと似たところがある。ともに歴史のある時点で西洋化を選択した非キリスト教国の都市として、『1Q84』の東京と『黒い本』のイスタンブールを比べてみるとまた面白い風景が見えてくるかもしれない。(山崎幸雄)

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