「文学部で読む日本憲法」長谷川 櫂
長谷川 櫂 著
筑摩書房(167p)2016.08.04
842円
俳人として活躍している長谷川櫂がなぜ憲法を語るのかという、そのギャップ感に後押しされて本書を手にした。帯には「その言葉の奥の時代精神を読み解く」とある。長谷川は俳句に接すると、俳句を生み出した日本文化とは何かといった想いに直面すると言う。限られた字数での表現の中に感情や心象を見つけ出して鑑賞するにはその文化と時代認識が必要であるということだろう。また、日本文化について書かれた名作と言われている谷崎純一郎の「陰翳礼賛」を昭和初期の時代精神を読みとるテキストとしているが、第二次大戦の敗戦を踏まえた時代精神を読み解くための最適なテキストは何かと考えた時、最も相応しいものとして「日本国憲法」を選んだと言っている。
通常、日本国憲法を語ろうとすると、条文の解釈や具体的な運用事例などがその中心になると思うのだが、「日本国憲法を文学部で読む」と言っている本書の趣旨は「法律も文学も言葉で書かれており、その言葉の奥に広がる世界を解明しようとする文学の方法で新たなるものが見えてくるのではないか」という挑戦的なもの。このように「言葉」をキーワードにして、「自分の欲望を行動や言葉で正当化する厄介な人間という動物」と「日本国憲法」の共存をどう図ろうとしているのかを探る旅のようなものだ。
「日本国憲法の三原則」といわれている、国民主権(民主主義)、戦争放棄(平和主義)、基本的人権(表現の自由)を取り上げて、前文、各条文を文法的に分解し、使われている言葉の本来の意味を考え、日本国憲法制定時の時代背景を示して、現代的課題を提起するという内容になっている。
「前文は、四つの段落と九つの文から出来ています……この文を読んで、すぐに理解できる人はほとんどいないのではないか。……難文といっていい」
文が長い・旧仮名遣い・漢字が多い・文体が堅苦しいといった観点とともに、複数の文章が合体している点が難文としている理由だが、その中の第一文も、「日本国民」という一つの主語に、五つの述語があるという複雑構造。いずれにしても、憲法全体の文章は複雑な構造であるものの論理的な文章であり、憲法起草者たちの日本語の持つ曖昧さを出来るだけ排除しようとする気持は憲法全体に亘って貫かれているとの見方をしている。
言葉の意味を厳密に考えてみるという例として、「国政は国民の厳粛な信託で成り立つ」という文章で使われている「信託」の意味の危うさをこう説明して見せる。
「信託とは相手を信じて何もかも託するという意味だが……『信じる』は厄介な言葉である。『あなたを信じる』といえばあなたは誠実だという印象を与えるが、じつは『あなたが誠実かどうか判らないが、私はあなたが誠実だと思う』という意味。……つまり、信じるということは逆に不信の表明でもある。もし、相手が本当に誠実なら、『あなたを信じる』とは言わず、『あなたは誠実だ』と言えば良い」
もう一つの例として、戦後の天皇制を成り立たせるために憲法起草者が探し出してきた「象徴」という言葉を長谷川はこうまとめている。
「象徴とは欧米語のシンボルにあたる言葉だが……欧米語のシンボルとは神によって定められたという意味がある。鳩が平和の象徴というとき、それはまず『旧約聖書』に記されていたノアの箱舟の話があって、大洪水のあと最初にオリーブの小枝をくわえて箱舟に戻って来た鳩が平和の象徴となった。このように、キリスト教文化圏ではまず、神があって鳩が平和のシンボルになる。……天皇の象徴としての地位は、欧米のように神という至高の存在に基づくものではなく『日本国民の総意に基づく』というこの文言が憲法前文の『信託』と同様フィクションであることはいうまでもありません」
この様に指摘されると、憲法を読んだことがあると言っても、そう厳密に「象徴」とか「信託」という言葉の意味やバックグラウンドを考えて読んでいなかったことに気付く。ただ、フィクションと言われてしまうと身もふたもなく、厳密な論理で言えば危なげな言い回しということを言いたいのだと思うが、言葉のプロとしてのなかなかユニークな指摘である。
次にそれまで日本に定着していなかった「民主主義」「正当な選挙」といった考え方についての「押
しつけ憲法論」を日本文化の歴史的視点から反論している。取り上げているのは前文の第二文「その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり」という文章である。
これは1863年のリンカーン大統領のゲティスバーグ演説の引用と言われていることもあり、進駐軍の管理下で起草された戦勝国による「押しつけ憲法」だとか、だから自主憲法制定が必要だとの意見の出される理由の一つと言われている文章だ。こうした意見に対してゲティスバーグ演説は民主主義の根幹であると考えれば、そこから学ぶことは問題ないとする。日本文化は常に外国文化の影響を受けてきた歴史であり、古代から江戸後期までは中国の文化、明治以降はヨーロッパとアメリカの文化の影響を受けてきた。すなわち、日本文化とは外国文化の受容・選択・受容を繰り返してきた歴史であり、民主主義を含めて諸外国の持つ文化と法概念の受容は当然という立場である。日本がまさに世界文化から見ると辺境に存在した有利さをとことん強みに変えて、各国文化の良い所取りをして文化を創り上げていったという見方をしている。
「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し……この憲法を定める」という文章で前文は終わる。こうして、しんがりに平和主義をおいて居ることをみると、草案者たちは平和主義をそれだけ重要なものと考えていたと読むのも自然なことであろう。しかし、戦後70年が過ぎ、日本国憲法の平和主義と戦争放棄の精神は現実の世界との折り合いのなかで揺れ続けている。
国民による「日本国憲法」の解釈や受け止め方で「憲法の成熟」を計るとすると、依然として「未熟」な状態と言わざるを得ないという事実に危機感を持ったことから長谷川は本書を書いたと言っている。国民の識字率が民主主義を支える根源であるとすると、世界レベルでみれば日本の識字率の高さから「成熟」に近いはずであるが、その日本でも、「文字を読めても、読まない人(活字離れ)」が多くなっている現実が民主政治のブレを大きくしている、という長谷川の指摘は正しい。
加えて、民主主義ではない人々や国家との関係、例えばイスラム教原理主義の過激派にはどう対処するのか。犯罪者の手記の出版を中止出来なかった出版の自由と被害者との折り合いはどうつけるべきなのか。国政選挙の低投票率や浮動票の多い中で「正当な選挙」をどう担保するのかといった諸課題がある。しかし、その解決策はと問われても即答できないもどかしさが残る。この点について長谷川は市民革命以前の18世紀的な「理性」・「礼節」・「中庸」といった思想が求められているのではないかとするのだが、そこに戻る以前になにかありそうな気がするのだ。もう一度憲法を読み、字面だけでなく、そこから精神を読み取る努力をしてみようかという刺激を得た読書だった。 (内池正名)
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