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2016年11月20日 (日)

「〆切本」 夏目漱石ほか

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夏目漱石ほか 著
左右社(365p)2016.08.30
2,484円

本書は「作品原稿の〆切(締切)」にまつわるアンソロジーである。夏目漱石、田山花袋、泉鏡花といった明治・大正の文豪から堀江敏幸、吉本ばなな、西加奈子といった気鋭作家まで、作家、評論家、漫画家、加えて出版・編集関係者など90名の文章が集められている。物を書いて禄を食んでいる人達だけに「書けない・〆切に追われる」描写は切実で、「作家と編集者との関係」についても仕事と割り切れない複雑な人間関係も見て取れる。

本書を読んでいると作家一人一人の性格に肉薄できた気になるし、作品を通してイメージしていた作家の人物像とのギャップも垣間見えるという点も面白い。それにも増して、〆切に苦しみ、悩み、もがいている作家や編集者たちの姿に同情と共感が残るのはどんな仕事でも時間や日程に追われるからだろう。

私の働いた業界では「Due Date(デュー・デイト)」とか「Dead Line(デッド・ライン)」といったおどろおどろしい言葉が期日管理に使われていたが、「〆切・締切」と同様に字面からしてもあまり心地よい言葉ではないのが妙に共通している。こうした、期限に関する最初の試練は小学校の夏休みの宿題だったというのはまず誰にでも当てはまることだろう。以後、年齢を重ねるごとに時間的な約束こそ信用や信頼の基本だと叩き込まれ、社会人ともなると仕事の上での約束は契約であり、個人が頭を下げれば済む話ではなくなってくる。結局、「人生とは、〆切である」という本書の最後の章につけられたタイトルに納得してしまうのである。

本書の第一章は「書けぬ、どうしても書けぬ」と題して、追い詰められた作家たちの叫びが集められている。原稿が遅れているのを謝るどころか、「日支事変で新聞は満腹でしょうから、閑文字は当分ご不要ではないかと想像いたします……」と言い放つ物理学者で随筆家の寺田寅彦のような人もいれば、対照的に田山花袋は書けないことを奥さんに愚痴り、内田百閒は年末に原稿が間に合わず原稿料が入らないため奥さんを質屋に走らせる。こうなると作家の家族も〆切騒動に巻き込まれて大変なことだ。

サラリーマンの仕事はいざとなれば他の人で代替できる余地があるのに対して、作家は創作活動だけに自分一人でやるしかない。そのため自分自身をドンドン追いつめる結果、筒井康隆は縦20字以上、横を見たらワァッと何十行もある巨大な原稿用紙の夢を見たと書いている。こうなると心の病の一歩手前だ。一方、高橋源一郎の「作家の缶詰」と題された文章はいささか開き直り気味の姿勢の中にユーモアとあやうさが混在している。
 
「じつを言うと、つい先日まで『缶詰』になっていたのである。デビューした時には『生々しい言語感覚』とか『新鮮な作風』とかいわれても、十年もたたないうちに『缶詰』。これでは作家だか果物だかわからない。そうか、だから『ばなな』というペンネームになったのか。吉本ばななが缶詰になったら『ばななの缶詰』だ」

作家と言えばあまり常識的でない人達で、編集者はそうした作家を相手に四苦八苦しているという印象が強いのだが、一方、〆切の問題は出版業界が持っている非常識とミステリー作家の森博嗣は指摘している。彼は、大学での学者生活から作家になった人間だが、「締切に遅れる作家を許容しているのは不合理である。……加えて、彼らは締切遅れの原稿を取る苦労を『美談』のように誇らしげに語る。酔っぱらっているとしか思えない」と手厳しい。

第二章が「敵か味方か編集者」と題している様に、作家と編集者の双方の葛藤で成り立っている業界なのだ。編集者のプロ意識を見せつけるものとして朝日新聞の扇谷正造が坂口安吾に宛てた手紙がある。

「お忙しいところ原稿をいただき真にありがとうございました。……私個人は、たいへん面白い読み物と存じますが、編集者、特に朝日新聞の編集者としては、おおいにチュウチョされる次第でございます。で、今回は原稿をあずからせていただきます。……なお、坂口さんが署名入りの原稿だから、一切の責任は坂口さんにあるという解釈もございますが、私はむしろ、掲載した以上は責任の半分(いや大部分)は編集者が負うべきものと考えております」

この責任感というか、自分と会社を使い分ける自信は何処から来るのだろう。まさに、敵か味方か微妙になってくる。作家からすると〆切を守ったあとに、創作を公にする過程で共同責任者たる編集者が居ると言う意味では、「敵か味方か」ではなく、「仲間」ということなのだろう。

吉村昭や北杜夫のように〆切を守ってきた作家も居る。しかし、吉村は同業者から「小説家の敵」と罵られ、北杜夫は〆切に遅れたことがないと遠藤周作に話したところ、「だから君はいつまでも小作家扱いを受けるのだ。たとえ書けていてもいつまでもできずにいるふりをして、編集者をハラハラさせる。すると、大作家として処遇されるのだ。」とバカにされたと書いている。〆切を守り切れる作家は多数派ではないのだろう。その中で、編集者の為に〆切を守ろうとする村上春樹の文章が気に入った。

「印刷所の植字工さんは誰かの原稿が遅れたりすると徹夜をして活字を拾わなくてはならない。気の毒である。……奥さんがテーブルに夕食を並べて、お父さんの帰りを待っているかもしれないのである。『父ちゃん、まだ帰ってこないね』なんて小学生の子供が言うと、お母さんは『父ちゃんはね、ムラカミハルキっていう人の原稿が遅れたんで、お仕事が遅くなって、それでお家に帰れないんだよ』と説明する。
『ふうん、ムラカミハルキって悪いやつなんだね』「
『そうだね、きっとロクでもない半端な小説書いて、世の中をだまくらかしてるんだろうね』
なんていう会話を想像すると僕はついつい、いたたまれなくなってすぐ原稿を書いてしまうのである」。

作家の仕事は孤独な仕事だ。誰かが変わってやることが出来ない。イメージ的には書斎に籠って深夜まで書き続けたり、ホテルに缶詰になって書き上げるまで家に帰れないという姿が目に浮かぶ。車谷長吉は「村の鍛冶屋」と題する文章で、「しばしも休まず槌うつ響」という歌詞に黙々と小説を書き続ける自分の姿を投影している。そうした地道な努力を前提として、作家と編集者間の表裏一体のせめぎ合いによって新たな作品が創られていく。制約の無い環境で傑作は生まれないと思う。それが「〆切」のある必然だろう。本書は、すべからく人間とは怠惰な動物であることを如実に示している。

それでも彼らの〆切の苦労話を多少とも笑いながら読み続けられるのは、本書に取り上げられた作家たちの感性の柔軟さに裏付けられたユーモアに支えられているのは疑いない。それこそが作家であることの証だと思う。加えて、こうした企画アイデアを具体化して、書籍に仕立上げれば売れると考えた編集者の意欲というかビジネス根性に敬意を表したい。(内池正名)  

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