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2017年2月18日 (土)

「彼女のひたむきな12カ月」アンヌ・ヴィアゼムスキー

Kanojyono_anne

アンヌ・ヴィアゼムスキー 著
DU BOOKS(332p)2016.7.21
2,592円

神田の東京堂書店で新刊の棚を見ていたとき、文学書のコーナーでアンヌ・ヴィアゼムスキーという名前を目にしてぴんときた。そういえば彼女、女優をやめた後、小説家として有名になったんじゃなかったっけ? 帯にはこうあった。「ゴダールに恋した青春の日々。19歳のアンヌの葛藤と成長を描く、自伝的小説」

学生時代に新宿のアートシアターで見た『中国女』(1967)の一シーンを思い出した。三白眼の大きな目。キュートに尖った唇。肩にかかる茶髪をたくしこんだ中国の人民帽みたいな帽子に、やはり人民服のようなシャツ。赤い毛沢東語録を持って拳を振り上げている。中国文化大革命の紅衛兵に倣った女子学生。実際、このとき19歳のアンヌ・ヴィアゼムスキーはパリ大学ナンテール校で哲学を学ぶ学生だった。

『中国女』はヌーベル・ヴァーグの旗手と言われたジャン=リュック・ゴダールの作品。1960年代に政治的にも映画のスタイルも過激化して政治映画を集団製作する「ジガ・ヴェルトフ集団」を結成する直前に、最後に撮った商業映画だった。

というより、女優としてデヴューした直後のアンヌに一目惚れしたゴダールが、彼女を熱烈に口説き、恋人同士になり、恋人を主演に据えて、二人が同棲するアパートを舞台につくった公私混同映画だった。もともとヌーベル・ヴァーグはフィクションと現実の境目があいまいだから、パリ大学の学生で、パリ5月革命の主役ダニエル・コーン=バンディらアナーキストとつきあいのあったアンヌの日常をそのまま映画に取り込んだとも言える。

アンヌの母方の祖父は大作家のフランソワ・モーリヤック。父は亡命したロシア貴族。フランス特権階級の一員だったアンヌは、女優デビューした夏、大学入学資格試験(バカロレア)の準備もあって、南仏で友人の別荘に滞在していた。そこにジャン=リュック・ゴダールから電話がかかってくる。「明日、会いたいんです。どうすれば会えますか?」

このとき、ゴダール37歳。アンナ・カリーナはすでにゴダールの許を去っていた。アンヌとゴダールは初対面ではなかったが、きちんと話したことはなかった。翌日の正午、ゴダールはパリから南仏の村まで飛んできた。レストランでランチを食べ、村を散歩しながらゴダールはとめどなくしゃべりつづける。レコード店でモーツァルトの四重奏曲を、書店でアンドレ・ブルトンの『ナジャ』を買ってプレゼントする。「私は幸福感につつまれていたし、彼もまた同じだったと思う」。こうして二人は恋人同士になった。

そこからアンヌの疾風怒濤の1年(原題:Une année studieuse)がはじまる。日に何度もの電話。贈りもの攻勢。運転免許も持っていないのにある日、自宅前にフィアットのスポーツカーが贈られている。場末のホテルでの密会。男の気配へのすさまじい嫉妬。自分でアンヌをトリュフォーに見せびらかしておいて、トリュフォーに彼女を盗られてしまうのではないかと嫉妬する。「常軌を逸した長広告」のなかに脈絡なく放り込まれる「謎めいたフレーズ」やシェイクスピアの引用。19歳のアンヌを教育し、命令する高圧的な姿勢。他人をいきなり罵倒するかと思うと、不安から子供のように泣きじゃくる。

──アンヌの描写を読んでいると、首尾一貫した物語を解体し、飛び散った破片がぶつかりあうことで光を発するゴダールの映画は、彼の日常そのものの反映だったんだと気づく。きらめくような才能を持った、でも付きあいづらい男ではある。

幸福に満たされる日々と「檻に入れられた動物」のように感ずる日々の繰り返し。ジェットコースターに乗ったようなゴダールとの恋愛の一方で、アンヌは親からの自立という課題もかかえていた。父が亡くなった後、育ててくれた母親との葛藤がすさまじい。母は娘の恋人であるゴダールを徹底的に嫌悪した。母はアンヌを「ジャン=リュックに金で囲われている」とののしり、「どっちにしても最悪。あんたがあいつの愛人でいるか、うちの婿になるか」と言い放つ。子供にとって親からの自立は、いつの時代、どこの場所でも起こる普遍的な課題だろう。でも近代的な個人意識の揺籃の地ともいえるこの国の上流階級家庭での、親子というより個人対個人のぶつかりあいは、読んでいて息苦しくなるほどだ。結局、アンヌは家を出て、ゴダールと暮らしはじめる。

マルクス・レーニン主義者とつきあいはじめたゴダールは『中国女』を企画し、二人のアパートを舞台に撮影が始まった。一方、「モーリヤックの孫娘とゴダールの関係」がスキャンダルになり、二人はパパラッチに追いかけられる。二人の関係をきちんとしようと、アンヌが祖父のモーリヤックに相談にいくくだりは、この本のハイライトのひとつ。政治的に過激化したゴダールに対し、モーリヤックは保守的な意見の持ち主だった。アンヌは勇気を奮い起こして祖父のところに行くが、彼はさすがに大人だった。

「『おまえの人生だからね。おまえが選べばいい』祖父は言った。……私は彼にお礼を言おうとしたけれど、彼はそれを遮り、とても陽気に、からかうように再び笑って言った。『ジャン=リュック・ゴダールの祖父になれるとは、神のご加護かね!』……その晩、私はこのやりとりをジャン=リュックに会って報告した。……私を家の前で降ろすと、彼はいかにも感動しているふりをして言った。『フランソワ・モーリヤックの孫になれるとは、神のご加護かね!』」

ほかにも、記憶に残る場面がいくつもある。ゴダールが育った村で婚姻届けを出す当日、いたずら好きのゴダールが「妻の苗字のほうが美しい。僕は今日からジャン=リュック・ヴィアゼムスキーと名乗る」と宣言して村長を困らせるシーン。新婚の二人がジャンヌ・モローの南仏の邸宅に招かれた際、ジャンヌが見せる優雅な心遣いと台詞。「彼女が私たちに用意してくれた大きな寝室には、ふたつのベッドが隣り合わせに並んでいた。……『この時期、モール山塊はとても暑くなるの』彼女は説明した。『愛し合ったあと、もうひとつのベッドで涼めたらいいかと思って。どちらかがなかなか寝つけないときもあるでしょうし……』」。

19歳の少女の成長物語であるこの小説は、2012年に発表された。ゴダールとの出会いから四十数年たっている。でも、ゴダールの言葉のひとつひとつや、『中国女』の撮影現場のエピソード、トリュフォー、ベルトルッチら映画人、フランシス・ジャクソンやコーン=バンディといった急進知識人たちの肖像を読んでいると、まるで僕自身もアンヌの傍らにいて(彼女とは同年齢)世界が騒然としていた1960年代のその場に立ち会っているような錯覚におちいる。

別の言い方もできるかもしれない。アンヌとジャン=リュックは6年後に離婚した。アンヌにとってゴダールとの日々は幸せと苦痛が分かちがたく絡みあった咀嚼できない記憶として残り、それを文字にするまでに四十年以上の歳月が必要だったのだ、と。

本書は既に続編が刊行されている。『Un an aprés(一年後)』という題名で、ミシェル・アザナヴィシウス監督によって映画化が決まっているそうだ。一年後というとパリで五月革命が燃えさかるさなか、ゴダールとトリュフォーがカンヌ映画祭に乗りこみ、「学生、労働者に連帯して」映画祭を中止に追い込んだ事件が中心になるのか。次作の翻訳も映画も待ち遠しい。(山崎幸雄)

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