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2017年4月25日 (火)

「ジャズメン死亡診断書」 小川隆夫

Jazz_ogawa

小川隆夫 著
シンコーミュージック・エンタテイメント(312p)2017.02.13
2,160円

著者は自ら整形外科医・Jazzジャーナリストと名乗っているように、ジャズ好きと医師という二つの目線を組み合わせながら「ミュージシャンの『死』から見えてくる人生、そして聴こえてくるジャズ」という考え方に基づいて彼らの人生を表現してみせている。具体的には23名のジャズ・ミュージシャンの死亡原因とその経緯を著者の医学的考察を示し、そこから遡って、音楽活動の記録を重ねてプレーヤー達のジャズ人生を振り返ってみるという試みである。このユニークな手法では死亡原因を探り、持病、麻薬中毒、アルコール依存、そして人間関係などメンタルな要素も加えることで、ジャズプレーヤー達の生き様を描き出すという構想を温めてきたとして次のように語っている。

「『音楽はミュージシャンの写し鏡』とよくいわれる。演奏に人柄が反映されていることも少なくない。……マイルス・デイヴィスやブルーノートの創業者であるアルフレッド・ライオンのお墓や墓地からは、その人物のひととなりが見えて来て、さまざまなことを考えさせられた」

私は高校生の頃からライブやLPを介してジャズを楽しんできたが、プレーヤー自身に特段興味を持っていた訳ではないし、彼らの死に関心を寄せることはなかった。例外としては、ジョン・コルトレーンだ。彼の来日公演(1966年)を大学一年生でバイトの金を貯めてサンケイホールに聴きに行ったという経験もあり、その翌年の彼の死は印象深いものだった。コルトレーン死亡とのニュースに接し、「至上の愛」や「マイ フェイバリット シングス」といったLPを静かに聴き直したりしたのは同時代に生きた人間としての感覚だ。1960年以前に死亡したプレーヤー達のジャズは過去の歴史として聞いていたわけだし、1970年に社会人として働き始めた後はジャズに接する時間は少なくなり、プレーヤー達の死に関するニュースに鈍感になっていたというのが実態である。

一方、著者の指摘通り、プレーヤーの人生を知ることで彼らの演奏の理解を深めることが出来るというのも事実だ。それは、ジャズの聞き方の一つの方法ではあるとともに、どちらかと言うと、ジャズ史の一コマとしてプレーヤー達を「俯瞰」できるという意味が大きいと思う。

本書では、死亡時期では1944年に死亡したグレンミラーから1999年に死亡したミッシェル・ペトルチアーニまでが取り上げられており幅広い時代に活躍していたプレーヤー達が網羅されている。章立ての順番は死亡時年齢の若い順にスコット・ラファロの25才から、アルフレッド・ライオンの78才までとなっている。一方、死亡原因では一般的にモダンジャズ・プレーヤーの多くが麻薬中毒やアルコール依存症だったというイメージは強いものだが、本書で取り上げられている人達はどうなのだろうか。残念ながらというか、案の定というか、そうした人達がぞろぞろと出てくる。ただ、最終的な死因はそこから派生した病気や事故、事件、自殺といったものではあるのだが。

各章はプレーヤー毎にまとめられていて、冒頭の頁は生年月日から没年、出生地、死亡地、死因、享年、主な経歴等が死亡診断書風に記載されている。

例えば、リー・モーガン(トランペット)は、1938年7月10日生れ、1972年2月19日死去、出生地はペンシルヴァニア州フィラデルフィア、死亡地はニューヨーク州マンハッタンのペルヴュー・ホスピタル、死因は射殺(出演中のジャズクラブで内縁の妻に発砲される)、享年33才とある。

彼のジャズプレーヤーとしての実績、麻薬、女性といった三つ巴の関係で説明されるという意味では著者の狙い通りの内容である。

リー・モーガンは1959年に日系二世のキコ・モーガン(キコ・ヤマモト)という女性と結婚。1961年にはモーガンの麻薬、貧困、そして不倫が原因で破局したものの、法的には正式な離婚をしていない状態だった。この不倫相手がヘレンという女性で後にモーガンを射殺することになる。

次に音楽活動の歴史をたどる。1956年に18才でディジー・ガレスピーのバンド、1958年にはアート・ブレーキーのバンドに参加して頭角を現していく。しかし、1961年以降徐々にブレーキーに教えられた麻薬に蝕まれていくのだが、結局、麻薬が原因でアート・ブレーキーのバンドから追い出され、ケンタッキー州のレキシントンにある麻薬厚生施設で身体と精神の回復に努めた。この時期、献身的に世話をしたのがヘレンである。

この結果、2年弱で更生を果たし、1963年12月録音の8ビートの曲「ザ サイドワインダー」をレコーディングしている。アルフレッド・ライオンのプロデュースでブルーノートから出されたこのアルバムは大成功を収める。結果、モーガンは大金をせしめたのだが、その金の行先は麻薬だったという。ヘレンはリーに麻薬からの離脱を迫り、モーガンはブロンクスの病院で麻薬の漸減療法(メサドン療法)を受けることになった。しかし、モーガンは妻の口やかましさと治療の苦しさから若い女に逃げることになる。

1972年2月13日モーガンはヘレンに別れを告げた。2月15日からイースト・ヴィレッジにあったジャズクラブ「スラッグス」で出演していたが、18日の1stステージが終ったところでヘレンとモーガンのガールフレンドが鉢合わせをする。モーガンが間に入りもみ合った結果、ヘレンはモーガンを撃ってしまう。病院に搬送されたものの、2月19日午前2時45分に出血多量で絶命する。

リー・モーガンの直接の死因は射殺であるが、根底は麻薬と女。そして、もし「ザ サイドワインダー」がヒットしなければ、彼は再度麻薬に手を出すことはなかったというのも辛いからくりである。

もう一人、チェット・ベイカー(トランペット・ボーカル)の死亡診断書は1929年12月23日生れ、1988年5月13日死亡、出生地オクラホマ州イェール、死亡地オランダ・アムステルダム、死因は転落死、享年58才とある。ベイカーはアムステルダムの安宿で麻薬のバッド・トリップによる自殺と判断された。「私は麻薬をひとに勧めたこともなければ、売ったこともない。自分の稼いだお金で自分の体に打っているだけだ」と語る程、ひどい麻薬中毒だった。それだけに永い間、日本に入国が許可されなかった。彼の最晩年に来日公演が実現したということになる。
1986年の初来日の際に著者はインタビューを行ったこともあり、ベイカーの肉声としての記録が面白い。

 「帰国する日に東京が大雪で飛行場は閉鎖され、彼は帰国することが出来なかった。その夜、ベイカーから電話があり『常備薬が切れてしまった。ペナレノルフィンを処方してほしい』というものだった。僕はピントきた。彼は麻薬の漸減療法を受けているといっていたからだ。……それらは日本では認可されていない。……この2年後ベイカーは自殺している。……ベイカーの演奏(歌もそうだが)でよくいわれるのがリリカルな表現である。リリシズム---彼ほど詩的な表現の巧みなプレーヤーはいない。少し頼りなさげなフレージングに特有なクールなトーンが重なる」

私も「チェット・ベイカーシングス」(1956年)が好きで良く聴いていたが、時として悲し気なボーカルは収録曲の「That Old Feeling」の歌詞にもよく合っていた。しかし、仕事に忙殺されていて、1986年の来日時に彼の演奏を聴くことはなかった。

本書を読んでいると、好きなジャズのプレーヤー達の人生を知りたくもあり、知りたくもなし、というのが本音のところである。それでも、あのジャズプレーヤーがそんな死に方をしたのかという感慨は深い。各プレーヤー達が全力の演奏をしているLPを熱心に聴いていた10代後半から20代前半の頃、自分は何をし、何を考えていたのかと、ふと思い出してしまう読書であった。(内池正名) 

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